呪われた祭典 (original) (raw)

オリンピックが始まっていますが、見ている方はいらっしゃいますか?

2年前にパリに行ったとき、Hôtel de villeにそのモニュメントが飾ってありました。

そんなに歓迎ムードという感じはしなかった。

私はいつからか、オリンピックに興味がなくなりました。高校生くらいまでは、それこそテレビに齧り付いて見ていましたが、まったく無邪気なものだと今では思います。

オリンピックは、選手はともかく、国威発揚と経済力誇示のためのイベントでしかないでしょう。

まがいなりにも「平和の祭典」と銘打っているにもかかわらず、軍事侵攻をしたロシアとその同盟国ベラルーシは、国としての参加を許されないのに、同様のイスラエルは普通に許可されているというダブルスタンダード。そもそも、いわゆる「大国」間の国別の競争になっている時点で、「平和」でもなんでもないでしょう。オリンピックこそが次なる戦争を煽っているのです。

先に選手はともかくと言いましたが、私は自国の選手たちにも全く魅力を感じません。なぜ「国旗」を掲げるのが当たり前になっているのですか?

私は、個人的には国旗も国歌も最終的にいらないと思っている人間ですが、とはいえ、他国の事情に首を突っ込む気は毛頭ありません。開催国のフランスのように、「自由・平等・友愛」というフランス革命由来の理想を、たとえ建前でも国旗に託したものもあります。サッカーのフランスの出る試合で、観客席が国旗でいっぱいになるのはかなり辟易して心配になるほどですが。

しかしながら、日本国の「国旗」=日章旗は異なります。これはより「戦闘的な」旭日旗と同様、アジア・太平洋戦争以前から使われ、敗戦してもなお用いられている大日本帝国の呪いのシンボルです。日帝は、侵略した東アジアの国々、町という町でこの旗を掲げました。第二次大戦の同盟国ドイツ、イタリアは当然ファシズムの象徴としての国旗は廃止しています。

99年に「国旗・国歌法」で「日の丸・君が代」が日本国の「国旗」と「国歌」ということになってしまいましたが、これによって今では何の逡巡もなく使われるようになりました。

この恥や良心のなさ。

選手も知らないでは済まされないのです。仮にあなたが選手だとして、それを知り、良心に問うてもなお、この旗に代表される者として、オリンピックに出たいと思いますか?

現に、以前、スペインのバスク自治州の選手たちが「スペイン代表」として出場することを拒否したことがあります。別の例では、ジェラール・ピケというバルセロナに所属していた元サッカー選手は、「スペイン代表」として国際大会に出場はしながらも、試合前の国歌が流される場面ではいつも顔を下げて、敬意を表さない意思表示をしていました。

状況や歴史が異なるとはいえ、私は彼らの態度には少なからず共感します。つまり、何を代表するかということになると思います。

現行の日本国の「国旗・国歌」を代表するということは、人間としての良心の無さ、歴史の無知を代表するものです。これらを代表するということは、同様の「国民」を団結させる点で「平和」に反することになります。