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長州より発信 2023-09-14T09:22:57+09:00 kfujiken2 山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします Excite Blog 清流錦川に架かる五連のアーチが美しい日本三名橋 http://kfujiken2.exblog.jp/29693058/ 2023-09-14T09:06:00+09:00 2023-09-14T09:22:57+09:00 2023-09-14T09:06:45+09:00 kfujiken2 未分類

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1673年、岩国第三代藩主の吉川広嘉が錦帯橋を架けましたが、残念ながらすぐに流失しました。
しかし改良を加えて翌年再建された錦帯橋は、1950年9月にキジア台風による洪水で流失するまで276年の間、架替えを繰り返しながら威容を保ちました。流失後、鉄筋コンクリートで再建という意見もありましたが、市民の強い要望により、1953年に再度、木造の錦帯橋として再建されました。
平成13年度(2001)から平成15年度(2004)にかけて、劣化した木造部分を架け替える「平成の架替事業」を行い2004年3月、装いを新たに完成し、訪れる人を魅了し続けています。

今年で創建350年となる岩国市の錦帯橋は、歴代の「橋守(橋を守る大工)」により敷板の修繕が進められている。
創建以来、受け継がれてきた架橋・加工技術ですが、それは大工の個人的な経験によるところが大きくあります。昔から大工の世界では図面や文章に書き表せないことを、言葉で伝える「口伝」という方法が採られています。江戸時代はもちろん、現在においても変わりはありません。
材木への墨付けの作業や、加工に際しての細工の一つ一つに、「木を観る」技術が不可欠なのです。しかし、これを習得するのは容易ではありません。先輩から教えを受け、多くの経験を積んで得ることのできる「口伝」による技なのです。錦帯橋の架替がこれまで定期的に行われてきた背景には、このような大工技術の伝承がありました。

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]]> 下松に存在する天王森古墳と宮原古墳 http://kfujiken2.exblog.jp/29687262/ 2023-09-06T13:34:00+09:00 2023-09-06T13:49:23+09:00 2023-09-06T13:34:56+09:00 kfujiken2 歴史

《弥生時代》
日本列島に本格的な農耕文化が根付いた時代を「弥生時代」と言います。縄文時代に主流だった狩猟や木の実採集から、稲作を始めとする農耕へと食料調達法が変化したことで、集落単位での大規模な共同生活が定着しました。
弥生時代後期には戦乱の時代へと突入し、「邪馬台国」(やまたいこく)において女王「卑弥呼」(ひみこ)が登場。やがて日本は、統一国家へと至る道を歩み始めました。

《古墳時代》
「邪馬台国」を治めた「卑弥呼」が没した頃から、権力者の多くは「古墳」と呼ばれる大型墳墓を築くようになりました。3世紀半ばになると古墳の築造はさらに活発化。日本列島各地に巨大な「前方後円墳」が次々と築造され、いわゆる「古墳時代」が到来しました。しかし、当時の日本の国力を考えれば、巨大古墳の造営は国を挙げての一大事業です。国力の多くを注いでまで古墳と言う名のシンボルを造り続けた背景には、いったいどのような理由が隠されていたのでしょうか。

【宮原古墳】
末武川右岸の和田丘陵台地にある円形墳で、昭和四十七年に調査された宮原遺跡の南にある。
巨石で築造された羨道(せんどう)、玄室(げんしつ)などをもつ古墳時代後期の片袖(かたそで)横穴式石室墳で、
大正年間調査され石棺、馬具類、須恵器(すえき)が出しました。

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◆ 羨道(せんどう)・・・古墳の横穴式石室(墳丘側面から出入りする構造の石室)や横穴墓など横穴系埋葬施設において、
棺を納めて遺体を安置する主室ともいうべき玄室(げんしつ)と外部とを結ぶトンネル状の墓道的部分をさし、
入口は一般に羨門と呼ばれる。

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◆ 玄室(げんしつ)・・・、横穴式石室や横穴の死者を埋葬する墓室をいう。
◆ 宮原遺跡は弥生時代前期後半・後期後半、古墳時代後期の複合遺跡です。2つの環濠集落からなり、
木葉文のない弥生土器が数多く出土しました。

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田布施の後井(ごい)古墳・国森古墳や柳井市の茶臼山古墳・平生の神花山古墳は女帝の墓と言われていますが、下松市洲鼻にあった宮の洲古墳や宮原古墳は、豪族の首長墓とあるが被葬者は誰?皇帝だったか女帝だったか分からない・・・
つまり埋葬者が男だったか女だったか分からないということです。

【天王森古墳】
瀬戸内海に臨み天然の良港に恵まれた下松、海を見下ろす小高い丘にある「天王森(てんのうもり)古墳」の周囲から “山口県初”のものを含む数多くの形象埴輪(はにわ)などが出土したことが発表されました。その形象埴輪とは、大刀形(たちがた)埴輪や、巫女(みこ)、力士をかたどったものなど。特に大刀形埴輪は、西日本では東日本に比べて出土例が少なく、しかも非常に良い状態で出土。さらにヤマト王権との極めて強い結び付きも浮上したことから、大きな注目を集めています。
天王森古墳は前方後円墳で、前方後円墳とは、ヤマト王権との強い結び付きがあった地方の首長らに特有の古墳の形です。従来、天王森古墳についてはその形態などから6世紀前半に造られた、この地域の首長墓の一つと考えられてきました。埴輪は古墳を飾り、荘厳に見せるもの。埴輪も時代によって変遷することから、天王森古墳は今回出土の埴輪の特徴などからも、6世紀前半に造られたことが確かめられました。
天王森古墳の特徴として、武器・武具を模した形象埴輪が多いことがあります。中でも大刀形(たちがた)埴輪1体は、復元した全長が約120センチメートルにもなる大型品。しかも、細部から全体まで、継体(けいたい)大王(天皇)の陵墓と推定されている「今城塚古墳(大阪府高槻市)」の大刀形埴輪とよく似ていることが分かりました。そのことから天王森古墳に眠る人物は「当時の王権に埴輪づくりの工人を派遣してもらえるほどの実力をもった有力人物」だった可能性が浮かび上ってきたのです。同時に、武器・武具の埴輪が多いことは「被葬者の生前の軍功」を反映した可能性もあるとも示されました。

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山本琴谷と津和野藩の絵師たち http://kfujiken2.exblog.jp/29681699/ 2023-08-30T09:35:00+09:00 2023-08-30T09:35:20+09:00 2023-08-30T09:35:20+09:00 kfujiken2 歴史

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山本琹谷(やまもときんこく)は、幕末から明治初めにかけて活躍した、津和野出身の文人画家です。渡辺崋山(わたなべかざん)に学んだ後、江戸を拠点に諸国をめぐって各地の文化人と交流し、数々の作品を遺した一方、津和野藩の絵師として藩の御殿を飾る障壁画の制作にも携わりました。最晩年の明治6年(1873)には、ウィーン万国博覧会にも出品しました。中国の故事に基づいた人物画を得意としたほか、華麗な花鳥画、壮大な山水画、交際した文化人の肖像画なども描きました。

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⚫ 山本琹谷(やまもときんこく)

⚫ 多胡逸斎(たご いっさい)

⚫ 岡野洞山美高(おかのとうざん よしたか)

⚫ 岡野洞淵益清(おかのとうえんますきよ)

⚫ 岡野洞山陳盖(おかのとうざんちんがい)

⚫ 大島松溪(おおしま しょうけい)

⚫ 三浦紫畹(みうら しえん)

⚫ 三浦楚畹(みうらそえん)

⚫ 斎川芳畹(さいがわほうえん)

⚫ 亀井茲親(かめいこれちか)

⚫ 亀井矩貞(かめいのりさだ)

⚫ 亀井矩賢(かめいのりかた)
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木津川口の戦い http://kfujiken2.exblog.jp/29668914/ 2023-08-19T12:52:00+09:00 2023-08-19T13:09:58+09:00 2023-08-19T12:52:55+09:00 kfujiken2 歴史 織田水軍VS毛利水軍の珍しい海上戦です

「第一次木津川口の戦い」は、織田水軍VS毛利水軍の本願寺への援助物資を食い止めるための戦いで、両者が海上で激突します。本願寺顕如は、天正4年(1576年)5月に信長との天王寺砦の戦いに敗れて、石山本願寺を信長軍に包囲されます。
しかし顕如はまだまだ諦めず、毛利輝元へ兵糧や武器などの援助を求める。援助を求められた毛利輝元は、堂々と信長の正面から援助物資を木津川口から毛利水軍、小早川水軍、村上水軍を合わせた毛利連合水軍は約800隻もの大船団を送り込む。信長水軍300隻と毛利水軍800隻の戦いだった。織田軍は撤退するしかなく、毛利水軍は本願寺への兵糧・武器・弾薬の補給は成功となりました。
村上水軍は「焙烙(ほうろく)」と呼ばれる火薬を詰めた爆弾を投げ込み、「火矢(火を付けた矢)」を巧みに使い信長の船団を焼き払い、海戦を有利に進めます。

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「第二次木津川口の戦い」は、織田信長は第一次木津川口の戦いで毛利水軍・村上水軍の使用する焙烙火矢の前に大敗したため、志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍した九鬼水軍を率いた九鬼 嘉隆に命じ、大筒・大鉄砲を装備し、焙烙が効かない鉄甲船6隻を伊勢国で建造させた。そのサイズは縦22メートル・横12メートルあったとされ、当時としては空前絶後の巨大さと防御力を持っていた。織田軍の6隻の鉄甲船に搭載された大筒・大鉄砲の火力の前に毛利水軍・村上水軍600隻は惨敗した。この海戦の結果、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は滞るようになり、石山本願寺の士気も低下した。この戦いから2年の後に顕如は織田信長に降伏し、石山本願寺は織田信長に明け渡されることとなる。

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]]> 坂本龍馬と函館の関係 http://kfujiken2.exblog.jp/29664127/ 2023-08-12T17:36:00+09:00 2023-08-12T17:36:40+09:00 2023-08-12T17:36:40+09:00 kfujiken2 歴史

なぜ函館に??? 亀山社中(後の海援隊)の創設、船中八策の策定、大政奉還の実現などを成し遂げた坂本龍馬は、生涯蝦夷地への夢を持ち続けていました。「蝦夷地に新国を開くこと。これはたとえ一人でもやり遂げる覚悟だ。」と手紙に書き残し、死の直前にも蝦夷のことを気にかける様子を手紙に残しています。暗殺によってその夢は叶いませんでしたが、遺志を引き継いだ養子である姉の子供の高松太郎(後の坂本直)が明治新政府の役人として五稜郭の箱館奉行所赴任し、その子孫たちも北海道に代々住み続けているそうです。

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★ 以下は養子縁組や同じような名前があり非常に複雑です。そこで簡単に名前と関係性を列挙しておきます。

① 坂本直(1842-1898)・・・龍馬の姉・千鶴の息子の高松太郎だが、後に龍馬の養嗣子となる。
② 坂本直寛(1853-1911)・・・坂本直の弟で龍馬の甥。坂本家5代目当主で北光社創設メンバー。
③ 坂本直衛・・・坂本直の息子。独身で若くして死去。
④ 坂本直行(1906-1982)・・・坂本直寛の孫で坂本家8代目当主。山岳画家。

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長州藩士出身森 寛斎 http://kfujiken2.exblog.jp/29660068/ 2023-08-07T08:31:00+09:00 2023-08-07T09:30:04+09:00 2023-08-07T08:31:17+09:00 kfujiken2 歴史

幕末の争乱時には長州藩の密偵として活躍するも、維新後は画家一筋に、温和で情趣的な画風で「明治の応挙」と評された。

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「人体的異人図」

品川弥二郎らにペリーの肖像を描くように言われて描いた

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森 寛斎は、江戸時代末期~明治初期の画家。本名は石田公粛,字は子容,号は寛斎ほか。森狙仙、森徹山、森一鳳・寛斎と続く森派の絵師。天保6 (1835) 年大坂に出て,円山応挙門下の森徹山に師事,技量を認められ師の養子となった。さらに京都に出て,衰えつつあった円山派の振興に尽すとともに,勤王の志士として国事にも奔走。幕末の政情不安が起こると、長州人の寛斎も火中へ飛び込んでいく。絵師としての身分や表向き徹山の実子だったのを隠れ蓑に、自宅を勤王志士たちの密会の場にしたという。

伊 勢 物 語

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龍 虎 図

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毛利元就の初陣 http://kfujiken2.exblog.jp/29655899/ 2023-08-01T14:22:00+09:00 2023-08-01T14:26:07+09:00 2023-08-01T14:22:01+09:00 kfujiken2 歴史

中国の覇者として知られる戦国武将・毛利元就ですが、意外と歴史の表舞台に登場するのは遅かったことをご存知でしょうか。元就の名の初見は、永正14年(1517)の有田中井手(ありたなかいで)の戦い(有田合戦とも)でした。時に元就21歳、これが初陣でした。武将の多くが元服後の十代半ばごろに初陣を果たすことを思うと、意外と遅いと思うかもしれません。しかし、元就はこの初陣でしっかり役割を果たし、見事名声を得たのです。
当時、中国地方は代々守護の家系である大内氏と、出雲守護代から戦国武将へ転身した勢力・尼子氏がせめぎ合っていました。両者のはざまに位置する安芸の国人領主であった毛利氏は、常に大内と尼子の力関係を見ながら今日はこっちにつくか、明日はどっちか……と生き延びるためにあっちへこっちへと情勢を見て動かねばならず、身の振り方はとても難しい時代でした。

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「西の桶狭間」とも呼ばれるこの戦い、どのような戦だったのか、まずは発端から見ていきましょう。

安芸・武田元繁軍 の約5000騎の大軍と毛利元就、吉川氏連合軍1000騎との間で、「有田合戦」が行われた。
この戦い、圧倒的な大軍を少数で破った戦いとして、織田信長と今川義元の戦い「桶狭間の戦い」になぞらえることがあります。元就にとってももちろん今後の躍進に一役買った勝利であることは間違いないのですが、実は元就が全軍の指揮をとっていたわけではありませんでした。

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清末藩 http://kfujiken2.exblog.jp/29650308/ 2023-07-25T07:14:00+09:00 2023-07-25T07:14:27+09:00 2023-07-25T07:14:27+09:00 kfujiken2 歴史

清末藩(1万石)は、長門国に存在した藩で、藩庁は清末陣屋(現在の山口県下関市清末)にありました。長州藩の一支藩にして、承応2年(1653)毛利元知より廃藩置県に至まで、8代218年の歴史を重ねていた。清末藩士の名簿禄(清末藩御家中分限帳)には清末氏の名はない。藩名と同じ名字が許されないのは当然だが、清末藩成立以前の中世にも清末名の名田も見当たらないようである。長州藩の支藩である長府藩のさらに支藩であり、長州藩の孫藩にあたる。長府新田藩(ちょうふしんでんはん)とも称する。全国でも孫藩があるのは珍しいです。
藩主は毛利家、始祖は長府藩初代藩主毛利秀元(毛利元就の孫)の三男・毛利元知である。長府藩と知行地が交雑しているが、石高はおよそ1万石であった。承応2年(1653年)、毛利元知が、甥に当たる長府藩主毛利綱元から1万石の分知を受けて立藩した。

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【清末藩邸跡】

東部中学校が建っている付近を陣屋といい、毛利藩主の館のあったところです。承応2年(1653年)から幕末まで8代の藩政の中心でしたが、明治4年(1871年)の廃藩置県にともない、明治6年(1873年)に建物も土地も競売処分されました。民間に買い取られましたが、大戦中に軍用に接収され、戦後学校用地として下関市に払い下げられ、昭和22年(1947年)現在の東部中学校が開校しました。

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銀の歴史 http://kfujiken2.exblog.jp/29645864/ 2023-07-20T09:33:00+09:00 2023-07-20T10:36:31+09:00 2023-07-20T09:33:46+09:00 kfujiken2 歴史 金より銀の方が高価だった時代があったことをご存じですか?
もともと、金が紀元前6,000~4,000年頃に発見され、その少し後になって銀が発見されたそうです。
当時、技術的に銀は金よりも純度の高いものを手にするのが難しかったため、純度の高い銀は非常に貴重でした。金の2.5倍の価値があったとも言われています。ヨーロッパでも中世、銀は貴重で、なんと金に銀メッキをすることもあったそうです!現代では考えられないですね。日本に銀が伝わったのは紀元前1~2世紀頃と考えられており、日本で初めて銀山が発見されたのは7世紀になってからでした。日本の銀生産量はどんどん増え、17世紀には世界における約3分の1の銀が日本で産出されていたそうです。また、銀の精錬技術がますます高まって多くの銀が生産できるようになることで、いつしか銀は金の30分1~60分の1程度の価値・価格となり「貴重なもの」ではなくなっていました。ですが、1988年にアメリカで「クロムハーツ」が設立されて、4年後にアクセサリーデザインの大きな賞を獲得したことで一気に有名になり、ファッション界でシルバージュエリーが大きく注目されるようになりました。その波は日本にも押し寄せ、この頃から日本でも銀を「貴金属」とみなすようになってきました。

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【世界遺産・石見銀山】
石見銀山は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山。上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めたとされる。大森銀山とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山とも呼ばれた。
〘銀山の坑道 ・間歩(まぶ)〙

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◆ 石見銀山銀山争奪戦
見銀山が発見された1527年は、日本は地方の武将たちが同盟や対立を絶え間なく繰り返す戦国時代でした。石見銀山では、周防国南部(現在の山口県)に本拠を置く大内氏が最初に鉱山の支配権を握りました。大内氏は各地に城などの要塞を次々と築き、敵対勢力から富の山を守りました。 こうした要塞には、鉱山の主要要塞である山吹城、鉱山と温泉津港の間の道路を守っていた矢滝と矢筈の双子の砦、北西の海岸への要路を見下ろす石見城など、十数カ所の拠点がありました。1530年代から1540年代にかけては、小笠原氏や尼子氏が侵攻を繰り返し、大内氏がこれを撃退するなど、激しい戦いが繰り広げられました。石見銀山での大内氏の支配は、1550年代に安芸国(現在の広島県)の強力な毛利氏がその影響力を北に広げたときに崩れ始めました。1562年には毛利元就(1497-1571)率いる軍勢がこの地を完全に支配し、さらに要塞化を進め、沖泊港の外に水軍基地を設置して、沖泊港からの銀の輸送と温泉津への補給路を守りました。1600年の関ヶ原の戦いで徳川氏に敗れるまで、毛利氏は、ほぼ40年間銀山を支配していました。その後、石見銀山は徳川氏に占領され、毛利氏は本州西端の長州に封じ込められ、銀山をめぐる戦いは終焉を迎えました。徳川家康は先頭に立って天下統一を目指し、1603年には江戸幕府を樹立、1867年まで日本を統治しました。

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月山富田城(がっさんとだじょう)は戦国時代、山陰地方の最大勢力を誇った尼子氏(あまごし)が本拠とした山城です。全国有数の堅城として知られていますが、とりわけ難攻不落ぶりを発揮した戦いが、4ヵ国を有した大大名「大内義隆」(おおうちよしたか)を迎え撃った「第一次月山富田城の戦い」です。中国地方では群を抜く勢力を誇っていた大内氏だけに、山陰地方の豪族は次々に傘下に入り、月山富田城へ着く頃には約45,000もの兵力に膨らんでいました。対する尼子氏は約15,000人。まともに戦っても勝ち目がないと考えた「尼子晴久」(あまごはるひさ)は、月山富田城に籠城し、持久戦に持ち込む作戦で迎え撃ちました。標高約184mの月山に築かれた月山富田城は、約170年間にわたって尼子氏の居城として君臨した中世城郭です。三方を険しい崖に囲まれた要害であり、その堅城ぶりから「天空の城」の異名まで有していました。城への出入口は3ヵ所しかなく、侵入してきた敵を山腹の山中御殿で殲滅できるように設計されています。毛利軍は2万5000の大軍を動員して三方から月山富田城に攻め寄せます。しかし、この城はかつて大内義隆の大軍でも落とせなかった難攻不落の要害でありました。約2年に及ぶ籠城戦(第二次月山富田城の戦い)の末、ようやく陥落させたという経緯があります。通常の力攻めで陥落させることが難しいと判断した毛利元就は、攻略を急がずに兵糧攻めに切り替えます。元就は、尼子氏の支城を次々と攻略すると、月山富田城への物資輸送の拠点である白鹿城も落とし、宍道湖を介した補給線を断ちました。さらに中海なら十神山城(とかみやまじょう)を経て月山冨田城へ至る補給線も遮断し、城を孤立させます。
そのうえで月山富田城内の尼子の重臣たちに調略を仕掛けていきました。

◆ なぜ銀山が欲しかったか
当時中国(明)では北方から遊牧民が侵入してきたため、軍事金として銀の需要がありました。 それまでは銅を貨幣としていましたが、海外に流出しすぎて国内では枯渇していました。そこで紙幣にしましたが、紙幣は信用がなく、やがてインフレが起きて紙くず同然となりました。 そして役人は銀を貨幣とし、税も銀で納付することになったため、中国では銀の爆発的な需要が起こりました。
国内での銀流通が盛んになると、戦国大名は軍事金として銀を用いるようになり、石見銀山は周辺の戦国大名の標的となりました。初め周防国の大内氏が銀山を支配していましたが、大内氏が滅びた後、 出雲の尼子氏と安芸(広島)の毛利氏の取り合いになり、1562年毛利氏が銀山を手中におさめました。1590年豊臣秀吉が全国を統一してからは、毛利氏は豊臣氏の大名として中国地方を支配し、銀を豊臣氏へ納めます。

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線状降水帯 http://kfujiken2.exblog.jp/29632813/ 2023-07-14T10:35:00+09:00 2023-07-14T11:17:56+09:00 2023-07-14T10:35:22+09:00 kfujiken2 未分類 日本で起きた集中豪雨のうち、台風によるものを除いて、約3分の2が線状降水帯によるものであるとの調査もある。気象庁では、警報や注意報、天気予報等で用いる予報用語に指定していないが、報道発表資料や予報解説資料で用いる解説用語としている。
1990年代から日本の集中豪雨発生時に線状の降水域がしばしばみられることが指摘されていたが、この用語が頻繁に用いられるようになったのは、2014年(平成26)8月の豪雨による広島市の土砂災害以降である。
気象庁の気象研究所の分析によると、ここ45年間の中で、線状降水帯による豪雨の頻度は、約2倍に増加しているといいます。 また特に6~7月の梅雨の時期は、4倍近くも増加しています。 この原因といわれているのが、地球温暖化。

◆ 線状降水帯とは : 次々と発生する発達した雨雲(積乱雲)が列をなした、組織化した積乱雲群によって、数時間にわたってほぼ同じ場所を通過または停滞することで作り出される、線状に伸びる長さ50~300km程度、幅20~50km程度の強い降水をともなう雨域

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◆ 線状降水帯が発生しやすい場所

1 ・3時間積算降水量80mm以上の領域が線状(長軸・短軸比が2.5以上)
2・1.の領域内の3時間積算降水量の最大値が100mm以上
3・5時間以上ほぼ同じ位置に停滞
4・強雨域の面積は635平方km以上、12,500平方km未満

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◆ 発生しやすい4条件として

① 「雲の元となる暖かく湿った空気の流入(湿舌)」
② 「その空気が山や冷たい前線とぶつかるなどして上昇(地形効果や風の収束)」
③ 「積乱雲を生みやすい不安定な大気状況(低いSSI)」
④ 「積乱雲を流しては生む一定方向の風」が挙げられている。

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徳山藩が宮洲屋からの借財 http://kfujiken2.exblog.jp/29626346/ 2023-07-09T15:42:00+09:00 2023-07-09T15:47:45+09:00 2023-07-09T15:42:46+09:00 kfujiken2 歴史

何の変哲もない町ですが、その昔、大きな星が「松」の木に降りてきて七日七夜輝いたという降星伝説を名前の由来に持つ下松市。
町の沿岸部は漁業をやり、中間部は希少な荘園が多かったそうですから農業が殆どで、山間部は農業と林業を営んでいたのではないかと思います。海運業・酒造業などを家業としていた磯部家が、どう言う経緯で塩田業に関わりを持ったかは分かりませんが東豊井村の地の開作に着手し宮洲開作を築立したことから、下松市の発展が始まります。

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下松市の発展は、磯部家の塩田事業に始まり、矢嶋家の後継に続き久原房之助が日立製作所笠戸事業所の礎を築き、笠戸島船渠株式会社・日本石油下松製油所・東洋鋼鈑下松事業所の誘致の成功から、今日があるのではないでしょうか?

大正時代から工業都市として発展し、現在では周南工業地域の中核として、鉄道車両や船舶などの輸送関係から鉄鋼、半導体製造に係るハイテク産業まで、幅広い製造業のまちとして様々な「ものづくり」が行われています。

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暫定的ですが宮洲屋から借用したことなどが記されている。これらの記事からだけでも宮洲屋が徳山藩の財政維持に非常に大きくかかわっていたことが理解できる。宮洲屋の長者ぶりは、周防においてだけでなく、広く西日本一帯に知れわたっていたようで、一八一七年(文化一四)に刊行された長者番付にも、周防でただ一人磯部義助が西方前頭十八枚目に名を連ねている。これほどの長者であれば、徳山藩がその財政再建を宮洲屋の財力に依存したのも当然で、徳山藩では、幕末における藩札発行やその他の資金ぐりを宮洲屋の融資に頼ることが多かった。そして、藩財政との関係に過剰に力を入れたことが、宮洲屋が維新直後に急速に経営不振に陥り、塩田を手放す最大の要因となったのであった。

「磯部家文書」には、一八〇三年(享和三)と一四年(文化十一)に徳山藩藩主が宮洲屋の邸宅「覧海軒」を度々訪れていたようです。
記録に残っている磯部家よりの徳山藩の借財は、
一七九六年(寛政八)銀六〇貫目
約1,250,000円×60貫=75,000,000円
一八〇二年(享和二)に銀八〇貫目
約1,250,000円×80貫=100,000,000円(1億円)
三二年(天保三)銀二〇〇貫目
約1,250,000円×200貫=250,000,000円(2億5,000万円)
六八年(明治元)に金二〇〇〇両
100 ,000円×2000両=200,000,000円(2億円)
六九年金三〇〇〇両
100,000円×3000両=300,000,000円(3億円)

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江戸時代と現在では、生活のしかたも、人々の使っていた品物の種類も、物価状況も違うので、お金の価値を単純に比べることはできません。米価から換算した1両の価値は、江戸時代の各時期において差があり、初期の頃で10万円、中~後期で3~5万円、幕末頃は3~4千円になる。

銀一貫は現代で約1,250,000円 江戸時代中後期において、金一両は銀貨六〇匁に相当。 金一両は現代で約75,000円。
銀1匁=2166円、1文=32.5円ということになります。
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富永有燐 http://kfujiken2.exblog.jp/29622547/ 2023-07-04T18:06:00+09:00 2023-07-04T18:13:22+09:00 2023-07-04T18:06:09+09:00 kfujiken2 歴史 明治時代の教育家

1821(文政4 )年、吉敷郡陶村(現 山口市)で萩藩士の家に生まれました。幼少の頃に天然痘にかかり右目を失明する。9歳で長州藩藩校・明倫館に入り、13歳で藩世子(藩主嫡男)に『大学』に講じた。成人後、小姓を務めるが、他人と打ち解けなかったために、同僚・親族らに憎まれ、嘉永5年(1852年)に冤罪で見島に流され、嘉永6年(1853年)には萩野山獄に移された。その野山獄に、海外への密航に失敗した吉田松陰が入ってきて親しくなり、安政4年(1859年)の出獄後は松陰の松下村塾で講師を務めた。安政の大獄で松陰が捕らえられると、吉敷郡に帰って秋穂二島村(現在の山口市)にて定基塾を開いて尊王論を説いた。
長州が幕府軍と戦った第2次長州征討(四境戦争)では、鋭武隊を率いて石州・芸州口で幕府軍と交戦した。だが、明治維新後の開国政策への不満から、大楽源太郎とともに脱隊騒動を起こして敗北、各地を逃亡した。明治10年(1877年)に逮捕されて、2年後大審院において有罪判決を受けて国事犯として石川島監獄に収容される。明治17年(1884年)に特赦により釈放され、明治19年(1886年)に熊毛郡城南村(現在の山口県田布施町)に住む実妹の元に身を寄せて帰来塾を開いて後進の指導にあたった。
小説家・国木田独歩の『富岡先生』は有隣をモデルにしたものです。

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長篠の戦い http://kfujiken2.exblog.jp/29613904/ 2023-06-28T12:21:00+09:00 2023-06-28T12:51:36+09:00 2023-06-28T12:21:37+09:00 kfujiken2 歴史

天正3年5月21日、三河国長篠城をめぐって、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で行われた戦い。長篠設楽(ヶ)原の戦い(ながしの したら(が)はらのたたかい)とも呼ばれます。織田軍が新戦法・鉄砲三段撃ちを行った話で有名です。
信長は、小川・連吾川を堀に見立てて斜面をつくります。そこに三重のもの土塁を築き、さらに馬防柵を設置し柵の手前にさかも木を並べ、野戦城を造り武田軍を迎え撃つ作戦をとる。

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● 三段撃ち

織田・徳川連合軍が準備した鉄砲の数は前述した通り、3,000挺であったことが通説になっています。三段撃ちでは鉄砲隊を1,000人ずつ3列に分け、撃ち終わった1列目が後方に回り、弾込めなどの準備を行っている間に2列目が発射。その後、1列目と同様に2列目が後方に下がり、3列目が前に出て弾を発射します。その間に発射準備を完了した1列目が、3列目と入れ替わって再び最前列に出るのが、鉄砲の三段撃ちの基本的な手順でした。このような撃ち方を採用することにより、織田・徳川連合軍は、戦場での時間ロスを約3分の1にまで削減できたのです。

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● 馬防柵(ばぼうさく)

戦国時代に織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼が戦った長篠・設楽原の戦い(ながしの したらはらのたたかい)。この戦いはたくさんの火縄銃を使ったということが有名ですが、勝敗の決め手となったのは馬防柵でした。設楽原の中央を流れる連吾川沿いに全長2キロメートル、三重で作られていました。この材料である丸太を岐阜や岡崎から連合軍の兵一人一人が1本ずつ運んできたと伝えられています。この馬防柵のおかげで、連合軍の鉄砲隊は安心して火縄銃を撃つことができ、一方、武田軍は連合軍の陣地になかなか侵入できませんでした。

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]]> 奇跡の生還 http://kfujiken2.exblog.jp/29608882/ 2023-06-22T14:42:00+09:00 2023-06-22T14:42:41+09:00 2023-06-22T14:42:41+09:00 kfujiken2 未分類

子供といっても13歳(中学1年生)を頭に9歳(小学3年生)幼児(4)と乳幼児(1)の4人で40日間 どうやって生き延びた?
すごいという一言では済まないですね。奇跡が奇跡を呼んで、そのまた奇跡ですね。普通に考えて大人がジャングルで何も持っていない状態で1、2日だけでも生き延びることは大変です。

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南米コロンビアで5月初旬、小型機がジャングルに墜落し搭乗していた13歳の長女レスリーちゃんと妹ソレクニー(9)、弟ティエン(4)妹クリスティン(1)の先住民のきょうだい4人が、約40日後の9日に無事発見された。4人が発見されたのは墜落現場から約5キロ・メートルの場所。栄養失調と脱水症状で衰弱していたが、命に別条はなかったという。ジャガーや毒ヘビなど危険な動物も生息するジャングルで、子供たちだけでどうやって生き延びたのか? 何を食べて空腹をしのいでいたのか?子どもたちは積み荷のキャッサバ粉やパッションフルーツなどの野生の果物や種を食べ、飢えをしのいだ。長女で13歳のレスリーさんは、食べられる果物や水のある場所、雨をよける仮設小屋の作り方など、祖父母らに教わった先住民ウィトト族の知恵を生かしたという。子供とは言っても多くの日本の子供達のようにテレビを見たりゲームで遊んだりして過ごすのではなく、彼らは常にジャングルの中で遊び自然と触れ合いながら生活しているため、森の中にいることには慣れているのです。そして自然崇拝している先住民は野草などの知識も豊富。どの植物なら食べられるのか、何に触ってはダメなのかなど、先祖代々受け継いできた知識を持っていることが今回彼らの命を繋いだ大きな鍵となったのでしょう。

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吉野ケ里遺跡 http://kfujiken2.exblog.jp/29601191/ 2023-06-17T10:07:00+09:00 2023-06-17T10:28:49+09:00 2023-06-17T10:07:42+09:00 kfujiken2 歴史 「謎のエリア」1800年ぶり

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◆ ミステリアスな女性、邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)

佐賀県は弥生時代の大規模な環濠(かんごう)集落跡で知られる国指定特別史跡「吉野ケ里遺跡」(同県神埼市・吉野ケ里町)で4月に見つかったと発表した。弥生時代後期後半~終末期(2世紀後半~3世紀中ごろ)のものの可能性が高い石棺墓(せっかんぼ)の石蓋(いしぶた)を開き、内部の調査を始めた。墓は未盗掘で、約1800年ぶりにその姿が明らかになりそうだ。

4枚の石蓋を重機を使って順番に開く作業を進めたが、内部は大量の土で埋まっていた。今後は内部の土を取り除く作業を進め、副葬品の有無などを調べる。石棺墓は遺跡中央付近にある日吉神社跡地の「謎のエリア」と呼ばれる場所にあり、4月に表土を掘削中、石蓋4枚が見つかった。4枚は1列に並んでおり、全長約2・3メートル、最大幅約65センチ、最大厚さ約18センチ。

石棺墓を埋める際に掘られた穴(墓坑(ぼこう))は長さ約3・2メートル、幅約1・7メートルあり、一般的な墓坑(長さ2メートル程度)より規模が大きい。石蓋には、死者を封じ込めるとされる「×」や「キ」に似た線が多数刻まれていた。見晴らしの良い丘陵頂部に単独で埋葬されていることなどから、有力者の墳墓の可能性が高いとみられている。
石棺墓は弥生時代後期後半から古墳時代初頭(2世紀後半~3世紀末)にみられ、邪馬台国があったとされる時代と重なる。同遺跡では弥生中期の王の墓は発見されているが、弥生後期の有力者の墓は見つかっておらず、「副葬品が出れば、有力者だといえる一つの論拠になる」(県文化課)と期待が持たれている。

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● 【邪馬台国】

2世紀 - 3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合(邪馬台国連合)の都があったとされている。
中国の『三国志』における「魏志倭人伝」では、卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとされている。
倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで卑弥呼という巫女を王に共立することによって混乱が収まり、邪馬台国連合が成立した。弟が彼女を補佐して国を治めておる魏志倭人伝の記載によれば、倭国では2世紀の終わり頃から大きな争乱が続き、なかなか治まりませんでした。そこで各国は話し合い、邪馬台国の女王であった「卑弥呼」(ひみこ)を共通の王に立て、ようやく争乱が治まります。戦乱が治まったことで、邪馬台国を中心とする30余りの小国による連合政権が誕生。239年(中国暦で景初3年)、卑弥呼は魏の皇帝に使いを送り、お返しとして「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号と金印を贈られました。これは魏の皇帝が、邪馬台国の卑弥呼を倭の国王として正式に認めたということを意味するものです。またこのとき、卑弥呼は魏から100枚の銅鏡を贈られたことも記録されています。
実は邪馬台国といえる場所は、どこかわかっていません。『魏志倭人伝』の中には邪馬台国までの距離と方角と日数がきちんと書かれているのですが、それをたどっていくと、日本列島を飛び越えてしまいます。このため「九州にあったのではないか?」「畿内(きない・近畿地方)にあったのではないか?」とさまざまな議論を呼んでいるのです。
ただ『魏志倭人伝』には「宮室、城柵、樓觀(きゅうしつ、じょうさく、ろうかん)があった」という記載があり、これが揃っているのは現在佐賀県の『吉野ヶ里遺跡』(よしのがいせき)だけなので、邪馬台国が九州地方にあったという説の根拠の一つになっています。『吉野ヶ里遺跡』がある佐賀県吉野ヶ里町は、豊富な自然と歴史に育まれたところです。弥生時代の代表的な遺跡である『吉野ヶ里遺跡』はもちろん、日本のお茶栽培発祥の地として約800年前の茶畑が残されています。

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● 【卑弥呼】

王様というと男性を思い浮かべる人も多いでしょう。しかし歴史上、女性の王・女王はたくさんいました。
実は日本でも女性が国を治めていた時代があります。聖徳太子の時代には、女性が天皇になり、男性(聖徳太子)がそれを補佐していましたし、源頼朝死後、鎌倉幕府を実質動かしていたのは、頼朝の妻だった北条政子でした。このように、日本の歴史の中にもたびたび権力を持った女性が出てきますそんな日本の歴史の中で、最も古い女王とされているのが、邪馬台国の卑弥呼です。

卑弥呼は今から約1800年前の弥生時代に活躍した、日本の女王です。邪馬台国で、鬼道(きどう)と呼ばれるまじないを使って、政治を行っていたといわれています。卑弥呼が女王になる前、日本は男性の王が治めていました。しかし、その後長い間内乱が続き、その結果、王にまつりあげられたのが卑弥呼です。卑弥呼といえば有名なものが「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号と金印です。当時の中国では魏・呉・蜀(ぎ・ご・しょく)の三国に分かれて中国の覇権を争っている最中でした。有名な『三国志』の時代です。卑弥呼は三国の中で最も大きな勢力を持っていた魏に使者を送り「親魏倭王」の称号と金印を与えられます。つまり「魏が認めた倭(日本)の王」ということです。卑弥呼はあまり人前に出ることがなく、弟が政治を補佐していたといわれています。結婚はしておらず、食事を運ぶ男が1人、仕えていたとされます。卑弥呼が亡くなると、大きな墓が作られました。その後は男性の王が即位し、また争いが起こりましたが、卑弥呼の一族の娘を王にすることで落ち着きました。

実は卑弥呼は日本の歴史書には一切書かれていません。卑弥呼のことが書かれているのは、中国の歴史書『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)だけです。正確に言うと『魏志倭人伝』という歴史書はありません。『魏志倭人伝』とは、ある歴史書の一部のことです。そしてその歴史書が『三国志』です。歴史書の『三国志』は国ごとにまとめられており、魏の国を書いたものが『魏書』、呉のことを書いたものが『呉書』、蜀のことを書いたものが『蜀書』と呼ばれています。卑弥呼が登場するのは、この中の『魏志倭人伝』で、倭人(わじん・日本人)のことを書いた部分です。卑弥呼が魏に使者を送り「親魏倭王」の称号と金印を賜ったことや、邪馬台国という国に都をおいて政治をしていたことなどは、この『魏志倭人伝』の倭人の条の中に書かれています。
人は日本の歴史について調べるとき「日本のことはやはり日本の文献で」と、思い込んでしまいがちです。しかし日本の書物に一切書かれていない卑弥呼のことが、隣国の中国の書物で詳細に書かれているのです。

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