私の引き出し (original) (raw)

栗原俊雄さんの本を読んでいたら、東京大空襲の死者を仮埋葬し、再度掘り起こす作業に関わった人たちの座談会が小冊子になっていることを知った。それがこの冊子である。
この小冊子を何とか読めないものかと、各区の図書館の在庫を調べて見たら、千代田図書館にあった。(ちなみに墨田図書館にもあった)
それで出かけて行き、座談会の部分だけをコピーして来た。

この座談会は当時仮埋葬、本葬に関わった東京都公園緑地部関係者が、当時を振り返っている。ただ司会者がしっかりしていないので、出席者がそれぞれ勝手なことを言い、まとまりがない。
それでも当時の模様を知ることが出来る個所がいくつもあったので書き出してみる。

公園緑地部(課)は東京に空襲が必ず来ると考えていた。空襲があれば当然死者も沢山でることになる。そこでどのくらいの犠牲者が出るのか、東部軍司令部に問い合わせた。ベルリンの空襲では二万人の死者が出たことから、その程度犠牲者が出ると東部軍司令部は予測していた。そこで東京では空襲死者用の棺桶を一万個作るために、井ノ頭公園太い杉を伐採して、用意したという。
東京に最初に空襲があったのは昭和17年4月17日で、この時は大した被害もなかったが、以降被害が大きくなる。最初の内は仮埋葬などということは考えてもいなかったが、そのうち死者の数が多すぎて、公園、都の所有地だけでは足らなくなり、民間の寺院境内を含め総数70個所に仮埋葬されることとなった。

錦糸町駅から錦糸公園の方をみると、焼けぼっくり(い)が積んである。ハテなと思って公園へ行ってみて驚いた。これが皆な死骸なんです。

一番多く埋葬したのが江東区の錦糸公園だったかと思います。

川の中の死体は浮いていて、顔をみると生きているようで、頬が赤くて触ってみたい様でした。そんなのがズラッと並んでいました。

消防隊のボートにのり、鳶口を使って引きあげていました。

もう死体が一杯で、死体のヒザやカカトの骨が残っていて、歩いて踏むと、コツンコツンと音がする、という有様でした。

菊川橋を渡るまで気が付かなかったんだが、沢山の死体の上に木場で焼け残った材木を敷いて道板にしているのを知らずに渡ってゆき、橋の途中で気がついて驚いたことがあった。

しかし仮埋葬はあくまでも仮である。いつまでもそのままにしておけない。遺体を掘り出して火葬しなければならない。それでなくとも仮埋葬地に本格的な墓石が建ち始めてしまい、上野公園の東園などでは立派な御影石の墓が建ったという。また民有地や寺院などからも勝手に仮埋葬して、と苦情が来て、仮埋葬地の遺体の掘り起こしは急務であったようだ。
ちなみに都内戦災死者総計(昭和27年5月1日現在・公園緑地課)では十万四千九百八体となっていて、この数字が東京大空襲の死者数の一番正確に近いものとしている。
遺体掘り起こしの為に集められた人夫は焼酎が貰えるというので集まったらしいが、

線香を現場でみんなで燃やしたんですが、臭くて。

とにかくあの半腐れの死体の臭さといったら・・・・・、我々はあれをコンビーフといってました。半腐れの肉片はまさに缶詰のコンビーフそっくりでしたからね。

死人の膏はひどいもので、手を洗ってもおちない。手袋をはめていても。膏が毛穴にあがってくるのです。ベーコンのようになっている死体の肉は・・・・。

省線(国電)に乗ると、プンとにおう。アア人夫が乗っているな、と気づく。頭の毛にはポマードもつけられない。屍臭がポマードの油にまで染みこんでしまう。それくらいヒドイものでした。

合葬屍体は大きな穴をひとつ掘ってそん中にパーッと納れたんで、丁度沢庵漬とおなじですから、一番下の方など湯気が出ているンです。腐って一緒になってしまっているので、一体づつ別けなければ、何体あるのかわからないわけです。

また掘り起こした遺体を入れるための棺桶を作るために井ノ頭公園の木が更に伐採され、その数、全部で二千何百本で、残った方が少なかったという。そして掘り上げられた遺体は瑞江などの火葬場に運ばれた。
それで改葬された所は全部きれいになったかというと、昭和三十年代にはまだあちこちから骨が出たと言うし、

公園の野球場などで滑り込みをやるとケガをすることがある・・・・・。

それは、全部収容できなかった骨の一部が残っていたのに引っかかったので。隅田公園などに行ってみると、骨の一部が土からのぞいていたのを見ました。

3月10日の大空襲は多くの犠牲者をだすことになったが、以降空襲面積が広がった割には犠牲者が少なかったという。
どういうことかと言うと、3月10日までは、火事になった逃げずにまず火を消せという防火訓練をしていた。そのまま逃げると、お前ら火を消してから逃げろ、戻って火を消せ、といわれて戻りそのまま帰って来なかった。その教訓があって3月10日以降は犠牲者が少なくなったわけだ。

財団法人 東京都慰霊協会著『戦災殃死者改葬事業始末記』(1985/08/01発売)