☆戦争と平和(8月に思うこと) 前にも書きましたが、ブログ立ち上げの目的戦争体験を語り継ぐ事 ① 昭和20年8月 8日 福岡県 筑紫駅にて 姉の機銃掃射による死 ② 々 8月11日 々 久留米市にて 罹災 ③ 々 8月15日 々 久留米市にて 終戦 始めにこれを残すにあたり、動機を記します。同窓会誌に特集として あの日あの時 私の昭和20年8月15日と言う投稿依頼がありました。はがき2枚に書いた記憶があります。本文のまま・・・★久留米に住んでいた者にとって終戦の時の気持ちは・・・等と言われても・・・ 11日の戦災、続いて終戦。頭の中は混乱しっぱなしでした。今だってどんな気持ちだったかわかりません。ただ11日からの夏休みも防空壕で過ごせる様にと机等を持ち込み電燈を引いてもらっていた矢先、8日の筑紫駅を襲った艦載機によって、学徒動員で西鉄に勤務していた姉が死んだのです。それからが大変、遺体引き取りも、敵機来襲の中を逃げ隠れしながら筑紫のお寺まで、父と隣組の人が受け取りに行かれ、家に着いたのは夜中でした。ローソクも立てられず、線香も短く切っての通夜、11日は3日参りでお寺まで、 帰り着くと家は跡形も無く、気が付いた時は、母は妹を乗せた乳母車・私は、お寺の大布団を抱えていました。それからは、どうせ避難するならと、野宿を決め込み、六反畑で過ごしたのです。終戦まで3・4日間でしたけど、私の一生のうちで一番長かつた日・・・親子寄り添って一生懸命同じ目的、同じ気持ちで過ごした時は無かったと、今は懐かしく顧みて居ります。その両親も今は無く姉とその時の事を、詳しく話して居る事でしょう。可哀相な姉・一度も楽しい思いが出来なかった姉。犠牲者の一人として、何時までも平和な日本が続く事を祈っている事でしょう 1975年8月15日記※後で判ったんですが、筑紫にはお寺は無く犠牲者は川原に安置されて居たそうです。 母は最後までその事は知りませんでした。後記 西日本鉄道70年史(広報室提供) 昭和20年8月8日上り列車乗客20名の内即死8名 下り列車乗客200名の内即死56名負傷者100余名 と言う甚大な被害を受けた。わずか5~6分間の出来事であった。終戦まで後一週間という日の惨劇であると記されています。同窓会誌に載せていただいた記事今読んでも涙が出ます。姉の事、久留米空襲の事又書かせて頂きます。こんな人達が居たと云う事を心に留めて下さったら、有難いです。(憲法記念日と重複してます) by piko4438 | 2006-08-03 16:08 |
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