「伊能忠敬界隈」批判から徒歩を考察する (original) (raw)

伊能忠敬界隈」という謎の呼称が最近はやっているようだが、今回私はこれにもの申したい。

まず、「伊能忠敬界隈」というのが一体何を指しているのかという話だが、私の認識においては「ただ長い距離を歩いている人たちの界隈」というものである。私からの批判は2点あり、1つ目に「伊能忠敬」という人名を使うことの妥当性と、2つ目に「界隈」として成立させる事への批判である。

1つ目に「伊能忠敬」を使っていることに対してである。そもそも「伊能忠敬」をごくかいつまんで説明するとすれば、測量という目的のもと幕府の支援を得て全国各地を歩き回った人物である。私はこの伊能忠敬という人物を単に「長い距離歩き回った人間の表象」として用いるにはあまりに伊能忠敬への敬意が欠けているのではないかと思わざるを得ない。たかが「趣味」としてしか長い距離を歩かないような私たちにとって、伊能忠敬のように幕府から重責や学者としての使命のもと、「測量」という高尚な目的の下歩き続けた伊能忠敬を比べることは、歩きの目的からして全く釣り合わないと考える。

話が逸れるが、仮に何かしらの人名を付けたいのであれば、これも失礼ではあると思うが、「行基」が適当ではないかと思う。理由としては(個人的に行基が好きというのもあるが、)「伊能忠敬界隈」の歩きに近い歩きというのはおそらく哲学者の歩きや僧侶の歩きではないかと思うからである。「伊能忠敬界隈」が歩きに何を覚えているのか定かではないが、歩き(というよりも散歩)に含まれる「気晴らし」や「思いにふける」という要素が一番近いのではないかなと思う。「哲学者の道」という道があったり、「お遍路」といった徒歩に含まれるある種の修行的な精神というのは「伊能忠敬界隈」の方々も何かしら通ずるものがあるのではないか。

次に、「界隈」というグループ化への批判である。まずもって、私は「伊能忠敬界隈」のような呼称などを使って何か目立とうとする姿勢に対して批判的である。なぜなら、これは「歩きの目的化」に他ならないと思うからである。「伊能忠敬界隈」や他の例を挙げると「異常徒歩」というような長い距離を歩く人たちの呼称というのは、明らかにその中に「逆張り」と「数値化による自慢」というのがあるのではないかと思う。「○○km歩いた」「歩数は○○歩!」というような歩きの数値化というのは歩行者同士の比較や他者に対する自慢を誘発する。また、現代は他の交通手段が発達しているからこそ、公共交通機関を使わない逆張り」の手段としての歩きが出てきてしまっているように思われる。現代において徒歩というのが逆張りなのは自明だが、あくまでも徒歩という逆張りを手段として何か世界を捉え直すというような営みは(私もしているが)結構だと思う。ただ、単に逆張ることが目的として、その手段として歩きを使うというのは私には何が楽しいのかよく分からない。これと同じように、SNSでの投稿を通じて承認欲求を満たそうという目的を含んだ上で「○○km歩く!」と意気込む人たちも、何が楽しくて歩いているのかよく分からない。

私がここで言いたいのは、歩くこと自体の目的化というのは徒歩の魅力を大きく損なうということだ。例えば、「歩くこと」自体を最適化しようとすると夏の場合基本的に夜に歩くことが望ましい。だが、それが本当に徒歩という営みをする上で良いのかということは疑問に付されるべきである。基本的に日中しか歩かない私だが、一回山手線一周で夜歩いたことがある。だが、やはり夜歩くのは外も暗くて景色もよく見えず、町も眠ったままで、昼よりも何が面白いのかよく分からなかった。おそらく「夜に活動すること」自体が「逆張り」の一環なのでもあると思うのだが、私としてははっきり言って夜よりも昼歩いた方が単純に楽しいと思う。

伊能忠敬含め、公共交通機関が発達する以前の人々にとって歩くことは目的などではなく、それこそ「交通手段」だったと思う。私は歩くことはあくまでも手段だからこそ、その中に人それぞれの楽しみ方や想いというものが生まれてくるのだと感じている。現代は「ウォーキング」といった形で歩くこと自体を目的化するようになっているほか、交通手段としての徒歩というのも「歩いている間に音楽やポッドキャストを聞く」ことを通じて目的化されつつあるのではないかと思っている。特に後者に関して、私は聞かなくても自分で歌えばいいのにな、とか思っている。その方が私たちの頭の中の自由度は格段に上昇するだろうに。

結論を言えば、「スキマ時間」と称してあらゆる時間が目的化される現代において、目的化されない徒歩、手段としての徒歩という営みを私たちは大切にしていかなければならないのではないかと考えている。

2024年10月4日 IKI