池波正太郎著『牧野富太郎』より(12) (original) (raw)

池波正太郎著『牧野富太郎』より(12)

2023年 05月 18日

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池波正太郎『武士の紋章

新潮文庫の短編集『武士(おとこ)の紋章』に収められている、「牧野富太郎」(初出は「小説倶楽部」昭和32年3月号)の十二回目。

これが、文庫の目次。

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東大助手となって、台湾への植物調査にも従事した富太郎。

しかし、助手の薄給では、書籍購入や標本採集の旅費、学生たちとの飲食など、歯止めのきかない富太郎の出費を賄うことは難しく、寿衛子の苦労は終わることがなかった。

とはいえ、世の中、鬼ばかりではない。

次々と子供が生れ、貧乏生活が続いた。
若い頃は、かなり洒落者だった牧野も、さすがに憔悴して、ギョロギョロと眼ばかり光らせ、無精髭で蒼白い顔を埋め、得意の冗談もあまりいわなくなった。研究の方はと言えば、後年、彼が、よく人に話した言葉の中に、
「不思議なもんでしてねエ。あの苦しい時代が、一番勉強が出けましてねエ。どういうもんか知らんが、ただもう必死に貧乏と斗(たたか)い、研究も進歩を示したもんでした」
と、いうのがある。
とにかく富太郎の貧困ぶりは大学でも有名なものになり、同じ土佐の出身で富太郎の先輩になる、大学の法学部の教授・土方寧(ひじかたやすし)が見兼ねて乗り出し、大学の浜尾総長に富太郎の昇給を願い出た。土方教授に言われるまでもなく浜尾総長も富太郎に同情を寄せていたので、
「大学には牧野ばかりではない大勢の助手もいるのだから、今すぐ昇給というわけにはいかんけれども、では、何か別の仕事を与えて、彼に手当を出すことにしようじゃないか」
二人は相談した。
そして、牧野が、かつて自費出版し、今は亡くなってしまった矢田部教授の圧迫を受けた、これこそ生涯の仕事だと、今もって、富太郎がその出版の希望を燃やしている『大日本植物志』を、大学の費用によって出版し、この責任者として富太郎を登用することになった。
富太郎も、この暖い総長と土方の処置には感激して、
「この総長の為なら、僕は大学の為にも粉骨砕身して、きっとええもんをつくって見せる」
と力んだ。
『大日本植物志』は、大判の、印刷も紙も、かなり立派なものを使用し、富太郎は表紙の題字を聖徳太子の手蹟から集めるというような凝った仕事をして、勿論、内容は、その為に、かねてから用意していした植物の図と解説がたっぷりとあったことだし、一冊、二冊と出版されるうちに、日本はもとよりイギリス、アメリカなどの学界にも大反響を巻き起こしはじめた。
図面には淡(うす)い色彩もほどこされていたし、その頃には富太郎の植物図も、ただ綿密で良く描けていると、いうだけではなく、たとえば菊なら菊、竹なら竹と、それぞれの植物の性格や手ざわりや、一枚の葉の厚さ、硬さ、柔らかさまで、実物を手にとるような迫力さえ生むようになってきていたのである。

土方、そして、浜尾の支援で、富太郎は苦境を脱することができた。

そして、その恩に報いるために、富太郎は、『大日本植物志』の出版にあたり、印刷技術にも、徹底して執着していた。

高知新聞の「シン・マキノ伝」で、『大日本植物志』の植物図も紹介されている。
高知新聞「シン・マキノ伝」の該当記事

「ホテイランの図」をお借りする。

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美しさ、繊細さとともに、品格のようなものを感じるのは、私だけではないと思う。

本書の引用を続ける。

植物図の画家としても富太郎は一流の腕前だといってもよかった。その上、大学でも植物の生き字引を言われた彼の、その眼、その足、その手によって現実に探求しつくした日本の植物への恐るべき蘊蓄(うんちく)があるのだから事実、かゆいところへ手の届きつくすといったような、すばらしい植物図が、見る者を驚かせた。

ようやく富太郎の人生も上向いてきたと思われたのだが、『大日本植物志』は、第四集で廃刊になってしまった。

なぜ、そんなことになったのかは、次回。

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。

by 小言幸兵衛

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