あちたりこちたり (original) (raw)

ジャニーズと歌舞伎界の違いは、何か。

2023年 05月 20日

ジャニーズ問題に続き、猿之助の事件である。

そこで、考えた。

セクハラ、パワハラという共通項はあるにしても、はたして、同様に扱っていいのだろうか、ということ。

一昨日、昨日、拙ブログのずいぶん古い記事のアクセスが増えていた。

2010年7月8日付の、「相撲」は、江戸時代に始まった“興行”であり“芸能”、という題の記事だ。
2010年7月8日のブログ
この記事では、パワハラ、セクハラという言葉は使っていないが、歌舞伎界の閉鎖性を書いたことが、アクセス増に関係しているように思う。

当時、相撲界の不祥事が相次ぎ、NHKが生中継をやめた。

そして、ワイドショーなどでは、ひな壇芸人や有識者なる人たちも、さかんに「相撲界の閉鎖性」を問題視していた。

しかし、私は、そういった論調に疑問を抱いていた。
元々、相撲だって歌舞伎などと同じ“興行”であって、他の世界、たとえばスポーツなどと同列に扱えないだろう、と思っていたからだ。

そんな時、2010年7月7日付けの朝日新聞の、「大相撲は何に負けたのか」という題の特集の中で、小沢昭一さんが、まさに「正論」と言うべきことを語っておられた。

ネットからコピペでなく、新聞を読みながら書き写した内容を再度紹介したい。

神事から始まった相撲は江戸の終わり、両国の回向院で常打ちが行われるようになる。両国というのは、見世物小屋や大道芸が盛んなところです。このころ現在の興行に近い形ができあがりました。
明治になりますと、断髪例でみんな髷を落としました。だけど相撲の世界では、ちょんまげに裸で取っ組み合うなんて文明開化の世に通用しない、てなことは考えない。通用しないことをやってやろうじゃないか、と言ったかどうか分かりませんけど、とにかくそれが許された。そういう伝統芸能の世界。やぐらに登って太鼓をたたいてお客を集めるというのも芝居小屋の流儀でしょう。成り立ち、仕組みが非常に芸能的。どうみても大相撲は芸能、見せ物でスタートしているんです。
芸能の魅力というのは、一般の常識社会と離れたところの、遊びとしての魅力じゃないでしょうか。そんな中世的な価値観をまとった由緒正しい芸能。僕は、そんな魅力の方が自然に受け入れられるんです。
美空ひばりという大歌手がおりました。黒い関係で世間から糾弾されて、テレビ局から出演を拒否された。ただ、彼女には、世間に有無を言わせない圧倒的な芸があった。亡くなって20年になります。そんな価値観が許された最後の時代、そして彼女は最後の由緒正しい芸能人だったんでしょう。
昨今のいろんな問題について、大相撲という興行の本質を知らない方が、スポーツとか国技とかいう観点からいろいろとおっしゃる。今や僕の思う由緒の正しさを認めようという価値観は、ずいぶんと薄くなった。清く正しく、すべからくクリーンで、大相撲は公明なスポーツとして社会の範たれと、みなさん言う。
しかし、翻って考えると、昔から大相撲も歌舞伎も日本の伝統文化はすべて閉じられた社会で磨き上げられ、鍛えられてきたものじゃないですか。閉鎖社会なればこそ、独自に磨き上げられた文化であるのに、今や開かれた社会が素晴らしいんだ、もっと開け、と求められる。大相撲も問題が起こるたんびに少しずつ扉が開いて、一般社会に近づいている。文化としての独自性を考えると、それは良い方向なのか、疑問です。

今読んでも、まったく同感だ。

その時の記事に、私はこんなことを書いていた。

今は後援会と形を変えたが、かつては個人のタニマチが大勢いて、力士を金銭的にも支援していたしいろんな相談に乗ってあげたのだろう。取組みに勝って花道を引きあげる力士の汗ばむ背中に“聖徳太子”を祝儀として貼ってあげるお客さんの姿も、最近は減った。
NHKが、もしタニマチとしての気概を持っているなら、堂々と生中継するか、あるいは毅然とした親の気持に立って興行そのものを中止するよう協会に進言するかの二者択一ではなかろうか。

高等教育を受ける前の子ども時代に体の大きさを見込まれスカウトされ、ただ食べて稽古して寝るだけの毎日を過ごし、三十台にして“年寄り”などと呼ばれ、決して健康的な生活を重ねてはきていないので寿命も長いとは言えない力士という名の芸能人。
タニマチという言葉の語源は、大阪谷町のお医者さんが大の相撲好きで、力士の治療代を取らなかったという説があるらしい。昔の落語家ならこういう人を「旦那」とか「お旦」などと呼んでいただろう。

相撲の訓練は重ねてきても“心の訓練”が不足したまま育った力士や年寄。金と時間をもてあまし度を越した行為をすることなく第二の人生をまっとうに進むためには、指南役として、あらためて本来のタニマチ役や大人の旦那が必要なのかもしれない。そしてファッショ的な報道しかできないマスコミや一般庶民は、小沢さんの指摘するように「由緒正しい芸能」として相撲を見守る姿勢が必要だろう。

この思いは、基本的に今も変わっていない。

相撲も歌舞伎も、他のスポーツや芸能と、同じように考えてはいけないと思う。

閉鎖的であるからこそ、そこに、タニマチ、旦那の存在が大きいのだと思う。

ようやく本題。

では、ジャニーズも、同じような構造なのか。

アイドル芸能界、とでも言う世界と、歌舞伎界とは、違う。

大きな違いは、参入障壁の有無だ。

ジャニーズにしろAKBにしろ、その世界には、あえて言えば、誰でも入ることができる。
“生まれ”は、影響しない。

相撲だって、ある意味、特異な肉体的特性がなければ、その世界に入ることはできない。
誰にでもチャンスがある、という世界ではない。

なかでも、歌舞伎は、大きな参入障壁がある。

歌舞伎は、代々“家”によって継承されてきた。
例外もあるが、基本は、“生まれた家”によって決まる。

あの古今亭志ん朝は歌舞伎役者を夢見たが、父志ん生が「歌舞伎役者は親が役者でないと上に行けないが噺家は扇子一本で偉くなれる」と言って噺家にさせたのは、有名な話。

相撲界と歌舞伎界、そして、今日のアイドル芸能界におけるプレーヤーの数を考えれば、参入の難易度の違いは明らかだろう。

私は、パワハラ、セクハラを擁護するつもりは、毛頭ない。

言いたいことは、参入障壁がないアイドル芸能界と、歌舞伎界とでは、その世界の権威者の暴走を止めるために、違った仕組み、あるいは存在があるはずだ、ということ。

もし、今回の猿之助事件で、誰かが、歌舞伎界の透明化、などを主張するなら、それは違う、と言いたい。

相撲界、歌舞伎界では、その評価基準は明確だ。

もし、相撲で負けてばかりいたら、その力士は次第に存在意義を失う。

歌舞伎の世界で、“大根”(何と食い合わせでも当たらないから)と言われたら、存在感がなくなる。

閉鎖的な二つの伝統的な世界の中で、自らの技や芸を磨くために、厳しい修行がある。

その修行の過程において、師弟間や、座長とお抱え役者の関係に、世間一般には理解できにくい状況があるのは、ある意味、その世界の長年に渡る構造による。

ただ、親方が竹刀で弟子を死ぬほど叩きつけることへの歯止めは必要だ。
度を越した座長による役者いじめにも、歯止めが必要だ。

そこに必要なのは、その世界に通じた旦那の存在なのだと思う。

しかし、今日の、近所の男の子、女の子が、ある日テレビで一夜のうちに人気者になるような芸能の世界は、参入条件がオープンなのだから、そのプロセスも、できるだけオープンであるべきだろう。

特に、パワハラ、セクハラに耐えることが出世の条件であるような構造は、何ら、芸の修行とは関係のないことである。
加えて、その被害者の中心は、十代の子供なのである。

彼ら、彼女たちは、相撲や歌舞伎のような閉鎖的な興行の世界に入るような覚悟など持ち合わせず、ただ、アイドルを夢見ていただけなのだ。

アイドル芸能界におけるパワハラ、セクハラは、ほぼ犯罪と言ってよい。

しかし、海外メディアや週刊誌メディアが、ずいぶん前から、ジャニーズの問題を指摘していながら、テレビなどでは、ほとんどそのことをスルーしてきた。

それは、事務所のタレントを自分たちの番組に出したいから、口をつぐんできた、ということだ。

アイドル芸能界の主戦場(?)は、テレビだ。
言って見れば、テレビは、アイドル芸能界を形成する重要な舞台と言えるだろう。
いわば、テレビは、アイドル芸能界の一部、なのである。

だからこそ、アイドル芸能界の今回の問題は、マス・メディアの中でもテレビの責任が大きい。

芸能人個人の不祥事には敏感に反応し番組を降板させるテレビが、なぜ、事務所トップの不祥事には、目をつぶってきたのか。

政治も芸能も、権力への監視機能を発揮すべきテレビなどのメディアが、権力者に忖度したり、阿っていることが、問題なのである。

くどいようだが、アイドル芸能界の問題は、その活躍の場の中心であるテレビこそが、自浄能力を発揮すべきだと思う。

そして、相撲も歌舞伎の世界でも、親方(歌舞伎界でもこの言葉は使われる)の行き過ぎた行動は、その世界固有の自浄能力で防いできたはずなのだ。

歌舞伎座という活躍の舞台を提供している松竹も、アイドル芸能界のテレビと同じ存在と言えるだろう。

あらためて、松竹を含め、猿之助の周囲に小言を言ってくれるタニマチ、旦那がいなかったことが残念でならない。

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。

by 小言幸兵衛

ファン申請