ぱせりの本の森 (original) (raw)

わんぱく時代 (講談社文芸文庫 さE 7)

新宮第一尋常小学校三年生に、隣町の小学校から、周囲から一目置かれるような暴れん坊が転校してきた。もとからいたガキ大将は、この転校生の存在がおもしろくない。
ひとつの学校に二人のガキ大将がいて、双方の因縁が日ごとしこっていくことに危機感を持った「僕」は、敵対関係を遊び絡みの明るい勝負ごとに替えたい、と学友たちと相談する。
かくして、東軍西軍に分かれた戰さごっこが始まる。
毎日の放課後。子どもらが夕飯や家の仕事に帰るまでのほんの二時間ほど。野山を擁する町じゅうを舞台にして、何日も何か月も、さらに年をまたいで続く夢中でのびやかな遊びからは、数々の痛快な名場面が生まれた。

「自叙伝的傾向を持った虚構談」と作者はあとがきに書いているが、舞台も年も、「僕」の家族、起こった出来事も、巻末の年譜に一致する。
物語のなかで、進む道は分かれても「僕」とその後ずっと友情を温め続けた、かの転校生にも、モデルがいたのだろうか。

明治三十年代、尋常小学校三年生だった「僕」は高等小学校へ、それから町の中学に進級して文学を志す。東京に出て、文学者たちと交流をもちながら慶應義塾へ進学。
そして、知己の人々が巻き込まれる大逆事件が起こる。
幸徳秋水ら思想家が天皇暗殺を計画した、として24名が死刑、無期懲役に課せられたのだった。
この大逆事件について、後年の振り返っての考察は、鬼気迫るようだ。誰かがこしらえた、よくできたストーリーは、案外穴だらけ、ぼろだらけで、ちょっとつつけばすぐにほつれていくことに気づかされる。

親や家の事情、意向により、才能をもちながら夢を断念せずにはいられなかった幼友だち(ことにそれが女であればなおさら)が、誰かを恨んだり羨んだりするでもなく、我が身に出来得る限り懸命に道を切り開こうとしている姿が印象に残っている。

夢中で遊び、遊び切るためにだけ頭を使った日々は、あとからふりかえってみれば、なんて甘美で、輝かしかったことだろう。

最後に掲載されていた詩『少年時代』に、物語が巻き戻されていくよう。
「野ゆき山ゆき海べゆき……」