『この村にとどまる』 マルコ・パルツァーノ (original) (raw)

この村にとどまる (新潮クレスト・ブックス)

イタリア、オーストリア、スイスの三か国が国境を接する南チロル地方。クロン村はレジア湖畔の美しい村だ。
ドイツ語圏だったこの村は、イタリアのファシスト政権により、ドイツ語を禁じられて、イタリア語を強制される。
その後、ナチスに制圧されて、ヒトラーの移住政策のもと、村は分断される。
レジア湖にダムを作るという、三十年越しの計画は、何度も頓挫したあと、やっと平和を取り戻したように見えた戦後に復活、強引に進められ、村は湖の底に沈むのだ。

どこまで史実で、どこからフィクションなんだろう。
暴力、迫害、弾圧の激しさに怒りや悔しさがつきあがってくるが、語りは、ほとんど平和、といっていいほどに静かだ。

この物語は、老女トリーナによる「あなた」への語りかけ(書簡)だ。
「あなた」というのは、トリーナの最愛の娘マリカ。どこで生きているのかもわからない娘は、わずか10歳の頃に、ヒトラーの移住計画に自ら志願して、両親のもとから姿を消したのだ。
トリーナと夫のエーリヒは互いに、ほとんど娘の話はしない。たとえ最愛の夫婦であっても言葉にして分ちあえないほどに、娘の存在と思いがけない喪失はそれぞれのなかで大きかったし、消化することもできなかったのだ。

母語を奪われること、(ダム計画により)生活・人生を奪われること、二つとも、本質的なところはきっと同じ。
トリーナとエーリヒ夫妻には、奪われた娘の存在と重なる。

押し付けられたイタリア語を必死で習得したトリーナと、最後までドイツ語にとどまった農夫エーリヒ。
どこか他所に行ってみたいと思っていたトリーナと、ずっとこの村で暮らそうと決意していたエーリヒ。
二人、真逆の方向を向いているようで、そうではなかった。光と影が個別では存在できないようなものか。
それが、言葉には意味があるのか、ないのか、という問いかけの答えなのかもしれない。

次々に揺さぶられ、奪われ、そうなればなるほどに、からだの外に溶けだしていくものがある一方、内側に残り、硬く澄んでいくものがある。
残るものは、表紙の写真、人造湖のまんなかに突き出るようにして残った鐘楼のようだ。言葉にならない言葉が沈黙の中で結晶していくようだ。