自転車の補助輪 (original) (raw)

前稿で自転車のことに少し触れたので、自転車のことを書きます。
私の自転車は当初、補助輪が付いていました。恐らく昭和48年(1973)か49年、春日部市立大場小学校1年生か2年生の頃だったと思います。
子供用の自転車はナショナル製の18インチ(確か)。ハンドル前に籠(確か)、前後輪に銀色の泥除けが付いてました。

当初は倒れないために後輪の両サイドに補助輪を付けていました。細い金属棒の先に15センチぐらいの小さな車輪が付いたものです。しかし、走らせていると、この補助輪が次第に後方へ上へ上へと上がっていきました。
例えば、9街区を出て、近隣公園へ入ろうとすると、道路から歩道へ上がる際に段差があります。この段差に補助輪が当たり、上がり下りする度に補助輪の位置がどんどん上がるわけです。このことは当時も補助輪の位置が変わる原因として、子供心に認識していました。
しまいには補助輪の棒が水平に近いところまで上がってしまい、補助輪としての意味を全くなさなくなりました。一度、手で元の位置に戻しましたが、少しするとまた上がってしまいました。しかし、私は自転車で転倒することはありませんでした。つまり実質的には補助輪なしで乗っていたのと同じことでした。
とうとうある日、恐らく母親の意向もあったのだと思いますが、お飾りとなった補助輪を取ってもらうために自転車店に行くことになりました。とてもよく晴れ上がった日のことです。確か日差しがまぶしかった記憶があります。初夏の頃だったのかもしれません。

緑の矢印が武里商店街。赤い矢印のテナントに確か自転車店がありました。店名は忘れましたが、ここで補助輪を取ってもらいました(昭和50年〈1975〉撮影の国土地理院航空写真から拡大して引用)

武里商店街通りから1本1街区寄りの道路、即ち宮前商店街(香取神社沿いの商店街)にある自転車店へ母親と弟と行きました。その時、同じ9-12に住んでいた幼なじみの友達のK君もいたような気がします。一緒に店で補助輪を取ってもらったように思います。
帰りに自転車を乗り出す時に、言葉にすると(乗れるかな)と少し不安を覚えましたが、それは杞憂に終わりました。
乗り出すと倒れることもなく、普通に乗ることができました。人の心とは複雑なもので、乗れた時は(やっぱり乗れた)と感じたものでした。

よくドラマなどで自転車に乗れない子供の自転車練習シーンで、後ろの荷台を親が支え、子供が転倒しては乗り、また転倒してはペダルをこいで、ついに乗れるようになる場面があります。しかし、私の場合、勝手に補助輪が上に上がっていったことで、そうした経験をしないで済みました。だから自転車の特訓場面を見るたびに(なんで乗れないのだろう)と思ったものでした。
自転車に乗る子供は一気に行動範囲が広くなります。だけど、私は団地の外に出ることがあまりありませんでした。幼馴染みのK君に連れられ、元荒川を見に行ったぐらいです。

9街区のトンネル公園の周りには芝生の中に山脈のように低い築山の連なりがありましたが、そのアップダウンを自転車で走るのが好きでした。
別稿で御紹介しましたが、この自転車はもう少ししてから、バイクに追突されて壊れてしまいました。それ以降しばらくは自転車に乗ることがありませんでした。
群馬県桐生市へ引っ越した後もしばらくは自転車なしの生活をしていましたが、桐生(群馬県含め)では自転車(大人になると自動車)がないと、とても不便であり、ほどなく買ってもらいました。

補助輪が取れて、まぶしい日差しを受けて自転車を乗り出した時の記憶は今も覚えています。武里団地に住んでいた頃の、懐かしい遠い遠い少年時代の記憶です。