konti53のブログ (original) (raw)

私は要支援1で毎週介護施設まで自転車で通っています。年齢は他の利用者から20歳は若くなる。そこで自分の20年後を考えざるをえない。本当にいろいろな利用者さんがいる。まだしっかり前を向いている方もある。一方で自分がなぜここにいるのかわからないで来ている方もいる。スタッフが目まぐるしく動いて利用者さんたちを少しでも「動く」ように「刺激」し続けている。機能回復訓練や懐メロが流れ、順番に入浴してリフレッシュしている。

私はこの後デイサービスを楽しみしている。カラオケになるといつも一番手です歌っている。

我が家では妻が要介護1だが、週に一回、半日の通所だが一つも楽しくない。いわゆるなぜ自分がそこにいるのか納得できていない。しかし、半日であれ妻が家からいなくなることは家族にとっては休息の時間なのだ。そうでなければ妻は娘の部屋へ入り浸り、娘にちょっかいを出すので娘が困っている。

「自分は認知症になるんだ」と開き直っている。

現役時代の妻は役所の事務も受付の対応も評判が良かった。しかし、精神障害を発症して以降、自分から回復しようとする意欲が見られない。

本当にこれからどうなるかわからない。

子どもたちも自立にはまだまだたくさんの訓練が必要だ。

その前に20年後に私も妻も生きているかもわからない。少なくとも私のリスクは大きい。その時、この家を維持しているのは困難で子どもたちは施設に行くしかないだろう。その準備がどこまですすむか。

振り返った自分はといえばいつでも人工透析に向けて手術・入院が待っているけれど、就労と両立していくことが必要だ。すでに夜間透析の準備はしている。

私は障害を持っているので「特別福祉乗車券」を利用して地下鉄に乗っています。今朝、普通に改札を通ると駅員さんから「期限が切れてますよ」と言われてすぐに新しいものと取り替えて改札口を通りました。

我が家では「秋の女王」女郎蜘蛛が巣を貼っていますが例年より大きな巣はありません。柿の実もいつもならもっと赤くなった鳥たちが狙ってきますが今年は柿の実がまだ赤くなってきていません。

なんか季節感がズレていないかと私はかんじています。

それでもあくまでも地球温暖化を一向に認めようとしないトランプ氏が大統領になった時、地球沸騰化は間違いなく進みます。アメリカ国民の良心に委ねられていると思うと釈然としません。京都議定書からどれだけの時間を世界は浪費してしまったのでしょう。

地球そのものの危機が一アメリカ国民の党利党略に委ねられているとすると怒りまで感じます。

それはイスラエルの残虐な行動やロシアの行動を止められない国際社会、トップの政治家たちの責任は大きいのではないのでしょうか。

日本でも裏金議員をめぐって対処がコロコロと変わっています。それでも世論は変わらないことに驚きます。

何か間違ってませんか?

「はて?」と声に出せる人はいないのでしょうか。

もう45年前、母は身体障害者として毎日苦しい生活をしていた。そんなところへある宗教団体が「お気持ちを察します」と接近してきた。母は言われるがままこれは効き目がありますを購入し続けた。そして妹にも手を伸ばしていった。私は彼らにとっては難敵と見られていたようだ。それでも私にも青年部の集まりがありますから参加してみませんかと声をかけてきた。私はそれに乗ってみた彼らがどういう思考回路をしているのか試してやろうと思っていた。その話の中で選挙運動である政党を支援しましょう。話が進んで行った。

私は質問した。「あなた方はこの政党を支援されるのですか?」その時の答えが「仏縁です」というものだった。まず憲法の「政教分離」の原則に明らかに反している。これが彼らの実態であることを理解した。

それからもうずいぶん時代を経ている。その政党は今は政権与党側にいる。「生活者のために」と防衛費の増額に賛成している。その宗教団体の婦人部が集票マシンとして活躍している。

私は社会科の授業でなぜ日本国憲法でなぜ「政教分離」が生まれたのかを話している。ところがある時、私の高校時代の同級生からその政党への投票を呼びかける電話をもらった。私はキッパリ答えた後、連絡は絶えた。

まだ日本の憲法教育はまだ道半ばであることがわかる。

私にとって校長命令のバドミントン部顧問は最初はとても苦戦しました。前任の顧問が体育の女性の先生で本当に素晴らしい運動神経で育て上げた生徒たちです。そこへ高校バレーピンチサーバー要員しか経験のない私はどんな練習があるかもわからないまま生徒の言われるがままでした。2年生の冬の大会で県2位だったのに3年生で区大会で全滅。の学年には相手にもされないどころか、グランドで引きずり回されるという屈辱を味わいました。自分の中学時代のテニス部の1年の時には「先輩」が練習を見に来て、腹筋背筋を強制させられました。2年になって顧問が替わってそれまで凸凹だったコートの土を入れ替えたり、警察学校のコートを借りて先生自らサーブを打ち続けてくれました。高校のバレー部も屋外コートはかつての米軍の建築物が埋まっていて、それが地面から顔を出していて学校の体操服はすぐにすりきれて胸に雑巾を縫い付けていました。ちょうどミュンヘン五輪直後だったので入部者はたくさんいたのですが、夏までに残ったのはわずか4人足らずでした。私は背も低いし、その割にレシーブもサーブの下手でした。ただ身長と関係ないプレーとしてサーブがありました。いろいろと研究して打ち方、コース、変化を変えて打つことで先輩のコートにサーブを打ち続けました。

娘が「3月生まれ友の会」と他の家族3人を笑います。4月生まれと3月生まれでは1年の差があります。私は幼稚園バスを待つときも「としおちゃん」扱いでした。小学校高学年になってサッカーの授業の時、ふと気が付いたのは他の人と同じようにボールを追いかけたらだめだ。コートラインぎりぎりを走ってパスをもらってセンタリングすればいいということがわかってクラスのAチームに入れてもらいました。

バドミントン部の練習について保護者からお手紙が来て「やってはいけないトレーニング」がまとめられていました。その一つにうさぎ跳びがありました。同じ区内にチームの一人でも負けるとチーム全員でコート1週うさぎ跳びをさせている学校がありました。私はそういうことに動揺しなくなりました。

次の学校へ転勤してとってもラッキーなことがありました。バス1本で「全国2位」の学校があったのです。とにかくコバンザメのようにくっついて歩いていろいろと聞き出すことができました。その中でその学校は平日の体育館を優先して使わせてもらって休日は遠征していました。私はこれを利用しました。休日の体育館を確保するために平日の体育館使用を減らしました。そして最低でも月1回は「全国2位」の学校に来てもらう。そしてその学校と試合をしたい強豪校も連絡をとって合同で練習試合を重ねました。「全国2位」のチームは攻撃を徹底していました。「打て、打て」と声が響き渡りました。少しでもレシーブで逃げようものなら「天ぷら!」と怒鳴られましたt。

そんな中でも貴重だったのは別に全国クラスのチームの顧問の先生から「チャイナステップ」を指導されました。これがこの後の顧問人生を変えることになりました。

全国までいくには基本は足作りだと学びました。これは次の学校に転勤したとたん部員全員に「チャイナステップ」の練習を職員室前でやって驚かれました。

私のチームはすぐには強くはなりませんでしたが着実に伸びていきました。しかし、一度せっかくシードをもらった団体や個人が総崩れした年は強化部長から「もうコンちゃんのチームはシードしない」と反省会で怒られました。ところがその次の年、第1ダブルスが傑出していました。そこに動きの速いシングルスが伸びきました。第二ダブルスは背の高い二人をそろえました。実はとても動きの良い生徒もいたのでしたが、あえてその子はスーパーサブに回しました。いつも第二ダブルス勝負で競り負け続けました。その中で二人は1点の重みを身に着けていきました。3年生の神奈川オープンでは第1ダブルスで負けても、シングルス、第二ダブルスと逆転で他県チームにも勝ちました。

夏の大会。団体は第二ダブルス勝負までいきましたが、惜敗して団体は4位で関東大会に届きませんでした。ところが前日の団体戦で負けてしまったシングルスが同じ対戦相手に勝ってそのまま勝ち上がり決勝まで進み、関東大会出場を決めました。しかし、個人戦を待つ控室で対戦相手の1年生から屈辱的な言葉をかけられたうえ、負けてしました。その時私は対戦相手の1年生を睨みながら2年後をみていろ。と思ってました。実は私のチームには中学校からラケットを握ったにもかかわらず「超」のつく1年生たちがそろっていたからです。

関東大会から帰ってきて徹底した足作りに徹しました。すぐに頭角をあらわして県合宿に選ばれました。ちょうどこの生徒たちが高校3年生になった時に神奈川国体が来るこことなっていてそのために育成の選抜でした。3年夏の大会で思うような成績ではありませんでいたが、高校の先生方の評価は非常に高かったです。

そんな実績を持って転勤して前任の顧問の先生とは全く練習も変わり、1年目の3年生はかわいそうでした。コートから「わからない、わからない」と私に訴える表情が辛かったです。そして私の練習方法を身体に身に沁み込ませるための合宿を組みました。特にAチームのノックは厳しかったです。Bチームの保護者が来て「なんで先生は全体の生徒を見てくれないのですか」と詰め寄られました。結局、3年生最後まで残ったのは7名。中には小太りで本人は気にしていたと思いますが、あえて「痩せたらいけない。お前のチームにいいところはそのチームを明るくしてくれることと突進力なんだ」と伝えて夏の大会で団体県大会出場を果たしました。そのあともバドミントン部の練習は休みなく続き、7年目、男子たちにかなりの素材がそろいました。残念ながらその1年間で転勤になってしまいました。

次の転勤先の校長面接で「県大会優勝」の言葉が出ました。着任式直後3年の保護者に囲まれ「この子達関東大会まで行けなかったら進路がないんです」と迫られ、夜連でOBたちが私を見て「金剛地先生が来たから大丈夫だ」という始末。まったく優勝請負人としての転勤でした。しかし、チームの現実は厳しく3年生が3人いるだけであとは新入生待ちの状態でスタートしました。校内の練習は徹底的な足作り。そして休日は県男子№1チームとパターン練習を繰り返していました。勝負は大会2日目シード校との1戦にすべてを賭けました。そして県大会準優勝、関東大会出場を果たしましたが、このころから私の精神に変調が起きていました。ただ関東大会後の強化合宿でバドミントンの基本的な運動理論を学ぶことができました。

1年で転勤した先にはインターハイ出場経験ののある顧問がAチーム。私はBチームを担当しました。体に不調を抱えながら今まで蓄えてきた理論を活かしてBチームを育てました。せっかく頑張ってきましたが、残念なことに夏の大会の時は休職中でした。

次の転勤先ではラダーやミニハードルなどを利用した細かい動きから練習を立ち上げチャイナステップを一人前にしていきました。上半身の運動の理論もまとまってきましたが、選手の体格がほとんど150cm以下です。それでもきちんとしたフォームが固まってきました。どこのコースを狙ってつぎにどこで待つか、しっかり自分たちだけで試合ができるようにまでしましたが、私が倒れました。転勤せざるを得ない状態でした。そして翌年の退職につながります。

先日、強化部長・専門部長と活躍をされた先生と話をする機会がりました。私から「実は先生みたいなノックがいつも目標であこがれていました」と話すと「そんなこと言っていつも勝っていたのはコンちゃんだろ」と笑われました。同じバドミントンという競技を通じて競い合ってきましたが、とてもうれしい誉め言葉でした。

文化祭のオープニングで吹奏楽部をバックに「大きな玉ねぎの下で」を歌った。

実は吹奏楽部から金剛地先生はこの歌を知っているか聞かれたので知っているよ。爆風スランプのコンサートも見に行っているよ。と話しました。その中でもサンプラザ中野が最後に締める曲がこれでした。そしてこの曲には私の淡い思い出が重なる歌でした。

実は中学校から高校にかけて、長野県の女の子と文通を続けていた。当時でいうペンフレンドで中2から高校卒業までお互いに手紙のやりとりが続きました。それぞれの家庭事情でそれ以上の発展はできませんでした。しかし、一回大好きだというグループのコンサートのチケットを手に入れて彼女を待ちました。しかし彼女は来ませんでした。まったく同じシチュエーションのこの曲には思い入れがあって、本当は何人かの先生方で分担して歌う予定だったのが、結局は私が「ペンフレンドの…」と歌い出したら、気持ちが溢れ出てとまらなくなり、最後まで歌い切ってしまった。この曲が文化祭のオープニング曲としてふさわしかったかどうかは別にして校長から今年の文化祭はこの曲でまとまったものになったとほめてもらいました。

三谷幸喜ドラマの初期の名作に「王様のレストラン」があります。うらぶれてしまったフレンチ料理店のオーナーとなった主人公が父の親友である「伝説のギャルソン(松本幸四郎:当時)」を探し出して店を立て直していく物語でアメリカの大学の経営学の教科書までなったドラマです。店の改革は一歩ずつ進んでいきました。しかし、第9話で「伝説のギャルソン」は梶原善さん演ずるパティシエにダメ出しをします。周りが着実に進歩していく中で自分の遅れを感じていたパティシエは店のワインセラーに閉じこもります。ここからいろいろ一騒動あるのですが、それはさておき「伝説のギャルソン」はデザートの大切さを訴えます。どれだけのシェフが素晴らしい料理を出しても、最後に出されるデザート次第でその料理のどのように締めくくられるかが決まってくる。デザートの重要性を訴えます。そして「伝説のギャルソン」が姿を消します。第10話で5年後、オーナーは再び「伝説のギャルソン」を見つけ出します。一人一人がまるでテストを受けていくように進行していきます。そして最後にデザートの出番です。一口食べた後、パティシエが呼ばれます。厳しい意見が続きます。そのたびにパティシエ(梶原善)は暗い顔になっていきます。しかし、最後に一言「その発想は素晴らしい!」と言われ、全員で大喜びします。そして「伝説のギャルソン」も店に戻ることとなり、さらに店は大繁盛することになります。

私はこれは人生にも当たるかな、と思っています。人生のデザートが素晴らしいものになれば、そこまでいろいろなことがあったとしても許されるものになるのではないでしょうか。

私の人生で今はとても厳しい局面にいます。毎日毎日が苦しく「忘れてしまいたい時間」が今の私には必要です。どんなにやさしい言葉をかけられたとしても実際にこの苦しさを忘れることは、難しいです。なぜならどんなにSOSを出していてもみんな自分の生活があります。

私は今、一人で母屋から別の「離れ」で暮らしています。気楽そうに見えます。好きな時にピアノを弾いたり音楽を楽しんだり…。でも違います。娘が言いにくそうに「家庭内別居だね」という通りです。これからいかに立て直していい人生に戻せるか。悩みながら毎日を暮らしています。

精神を病んでしまった私が自分でリハビリをすると決意したのにリハビリ施設ではなかなか納得できずスタッフを困らせました。幸いリハビリ施設での利用者との間でうまく仲間入りできました。でもふりかえってみると自分ができなかったことがたくさんありました。さらに年齢の差、障害の違い、今まで生きてきた過程で形成された価値観の違いにスタッフのところに行って大泣きしたこともありました。

それでもスタッフは私に旅行の企画の担当させてくれました。当日は思わず交通渋滞で予定通り旅行にはなりませんでした。しかし、スタッフは「金剛地さん。週1回、あなたの好きにプログラムを作ってみて」と勧めてきました。年齢の差、障害の違い、今まで生きてきた過程で形成された価値観の違いを越えたプログラム作りに私はそれまで蓄積した「楽しい授業」を活かすことにしました。そして6月2日が近づくと「開港の日」特集で最後は「横浜市歌」でまとめました。

確かにプログラム作りは大変でいたが、いままでやってみたかったことを発揮できました。

あわせてリハビリ施設の生活を広報誌にまとめて配布しました。

私がリハビリ施設を「卒業」をすることになると「もう来ないの?つまんない」というのが最高のはなむけの言葉でした。

思い返してみればお椀をきれいに洗うのに合格をもらうのに1か月かかった私から見ればとても思い出深い日々でいした。