昭和の東西ヨーロッパ行 182 分断されても線路は続くよ 東西ベルリン ドイツ No.673 (original) (raw)
(隣県の無人産直 いずれも100円 安いと思いきや次に訪れた近くの場所は、、、)
昨年、市の移住・定住支援センターの移住相談は約184件で移住者は29世帯40人。
一方「お試し移住」は57人の利用で移住者は6人だった、へき地県境です。
定住に踏み切れないわけは、「魅力ある雇用がない」「女性の活躍できる場がない」「低賃金」・・・(*広報誌より)。
若者からは「エンターテイメント(娯楽)やコンサート等余暇の選択肢が少ない」と言われそう・・・。
# # #
今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。目的地の
「旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。
9月22日(月)
フランス⇒スイス⇒オーストリアから北上、西ドイツ⇒北欧4か国(デンマーク・スウェーデン・フィンランド・ノルウェー)を経て西ドイツ・東ドイツ経由で西ベルリン(2枚目の地図・↓↓)へ 。
(地図や写真、小文字の文はグーグルマップ/Copilotより)
ハンブルクから南下し、ハノーファー/ハノーバー(地図・↑↑)乗換えで西ベルリンへ。
(当時分かれていた**東西ドイツ**・上の地図と比較してみてください)
西ベルリン滞在2日目は”用足し”がメイン。
まずは隣国**ポーランド**までの切符を画策・・・。
すると、若者が割引を受けられるトランスアルピーノの格安切符は”西ヨーロッパ専用”で、残念ながら”東ヨーロッパ向け格安切符”はないことが判明。
やはり”西側(西ヨーロッパ)”と違い”東側(東ヨーロッパ)”の鉄道切符はばらばらだったのです。
「ウィーン(オーストリア)へ**チェコスロバキア経由で行くなら、西側のみ安くなる**」とは言われましたが・・・・・(*その経路では行かない)。
結局、通常運賃。
しかも、”西側”のように”長距離一筆書きの切符”はダメ!
国が変われば、その都度買わなければいけません。
東ベルリンから**ポーランドの首都ワルシャワ**まで約600㎞弱で53.8マルク・4355円。
(33枚目の便せんメモより)「安いと言えば安いが痛い」
通貨単位はドイツマルクで1DMマルク=約82円(現在はユーロ)
国税庁発表の統計によると、1986年(昭和61年)の平均年収は386万円
35年後、2021年(令和3年)は443万円で約15%上昇(約13%低い↑)
(ベルリンの喫茶店 現在)
加えて、東ベルリンから**ワルシャワ**まで乗れそうなのは夜行列車しかなく、一気に進んでしまう・・・途中の街はあきらめざるをえませんでした。
次に行(おこな)ったのは、小包でパンフレット類を送ること。
料金は3㎏で18マルク・1604円でした(*船便です)。
ユースホステルで会った、**ポーランド**にいた日本人によれば「郵便物がちゃんと届くかわからん」とのことだったので、送るには”西側にいる時”しかない気持ちが働きました。
(地図は「旅するらぷる」第九回その3。ベルリンの壁を巡ります。 | しかないせんべいさんからの引用*どうぞご参照ください)
ベルリンの壁 構築・・・ドイツ分断の象徴 | チューさんの今昔ばなし - 楽天ブログも
次に訪れたのは、日本国総領事館。
当時西ドイツの首都はボンで、東西ベルリンの統一後に日本大使館となる前のことです。
(現在の日本大使館)
(メモより)「手紙を取りに行ったら、親切な人が応対に出た」
当時は立ち寄る予定のあちこちの大使館・領事館を”私書箱”代わりにし、無料で手紙を預かってもらっていたのです。
移動に使った地下鉄は2.2マルク・176円。
時速80/kmしか出ないけれど、”有効時間は90分”。
その間、どこまで乗ってもOK・乗換もOKという便利なものでした。
(現在の地下鉄)
さっそく地下鉄に乗り、この日も市内を囲む他の”壁”へ行ってみました。
そぼ降る雨の中、”火の見やぐら”ならぬ”展望台”に登れば、この日この場所に観光客の姿はなく”向こう/東側(東ベルリン)”が見えました。
そこには、社会主義国にありがちな地味な色のアパートがごく普通に建っていて、こちらとの間に”おおい(目隠し)”のようなものはなし。
地味な色と形のトラム(市電)も西側と同じように走っている・・・。
もちろん歩いている人(地味な服装)もいる・・・。
(33枚目の便せんメモより)「東側を望むことができる西側(西ベルリン)の人々はどういう心境なのだろう」
「自分がもし西側の人間ならば耐えられそうもない」
この地では、体制の違いだけで同じゲルマン民族が同じではない生活を送っている。
(現在の旧東ベルリン 修復された戦前の建物が一部残る)
”壁”巡りの途中、銃殺された”東側”の方を追悼する木製の慰霊碑が二つ。
花が飾られたそのうちの一つは、”1961年生まれ、81年に命なくなる”とは・・・。
この後、3系統の途中に東ベルリンを通る路線のうちの一つに乗ってみました。
どうだったか。
”東側”に駅名はあれど広告のたぐいは一切なく、もちろん人の乗り降りはできない。
工事中のところもあったが、すべて通過。
ただ、一人の駅員か監視員がこちら(列車)を見ていて、不気味さを感じました。
地下部分を走り駅を通過する際、人のいない今や使われなくなった40年前の壁や階段がそのままに・・・。
(メモより)「旅行者の立場ならなんとかなりそうな車窓も、よく地元民は乗っていられるものだ よく住めるものだ 他都市より税金が安いからとはいえ」
あれこれ感慨にふけっていると、突然”西側”の日常(の景色)に引き戻されました。
列車を降り再び西ベルリンの街を歩けば、秋真っ盛りの街路樹はたくさんの栗やどんぐりを路上に落とし・・・。
宿に戻り、FMラジオから英・仏・米駐留軍のために流れる放送を聞きながら、今日一日目の前で起こったことを思い返さずにはいられないバックパッカー。
この日は”東西”に分かれたこの街でしか見られない”景色”を肌で感じ、強烈な印象を心に刻むこととなりました。
(現在のベルリン 旧東側のテレビ塔を望む)
つづく