出生前診断 (original) (raw)

おなかにいる子に障害や問題があるかどうかを調べられる出生前診断というのがあって、受けるのか受けないのかは妊娠したカップルが必ず通る問題だ。

うちは出生前診断はしなかった。

妊娠する前は、出生前診断はするかもな〜と思っていた。でもいざできますよとなって話を聞いたら、的中率はそんなに高くない。NIPTは99%の確率でわかるようだけど、目ん玉飛び出るくらいの値段がする。お金をかけたって本当のところは生まなきゃわかんなくて、結果が出たって外れてる可能性もある。

夫にどうする?と聞いたら「障害があってもどうせ堕さないし、自分たちの子だからたぶん大丈夫でしょ、やらなくていいんじゃない」とさらりと言ってのけた。私はこの言葉にすごく感動した。どんな子でも堕さない。自分たちなら大丈夫。そんな強さをこんな軽さで言える夫となら、本当に大丈夫だ。私は「そうだね」とだけ返して、何にも悩むこともなく、出生前診断のことは忘れた。

でももし検査して、もし障害があったら、どうしただろう。

結局産んだと思うのだ。

妊娠してから今日に至るまで、経験してみないとわからないことがたくさんあった。妊娠にまつわるイベントのあれやこれやが意外とドラマチックではなかったこと。思ってたほど子どもができた実感がわかないこと。それにも関わらず自分の中で「赤ちゃん」に対する思いが芽生えて、妊娠前とは全く違う考え方をするようになったこと。優先席は全然譲られないことも、胎動が「わっ動いた!」という感じではなくてぐねぐねぐねぐね延々と動くことも、経験して初めて知った。

障害をもった子の子育てが大変なのは火を見るより明らかだ。でもどう大変なのか、どれくらい大変なのか、それは生まれた子に接して、実際に経験してみないとわからない。わからないのに、拒否する理由になるだろうか。命と代えてまで。

独身で反出生主義の友人は「もし子どもに障害があったら絶対後悔するから、私は妊娠しない」と言っていた。妊活を始めるまで私もその気持ちはすごくよくわかって、責任を負えるかどうかわからないのに産む可能性のある行動をしてもいいのだろうか、という疑問は常にあった。でも今「障害があったらどうするの?」と聞かれて出た言葉は、「どうするも何も、存在しているんだから育てるしかなくない?」「後悔して過去に戻れるならいいけど、結局戻れないならどうにもならないじゃない」だった。

この言葉は、もし本当に障害児を育てることになったらすぐに撤回するだろうと思う。つらい、投げ出したい、こんなことなら…と全てを後悔する瞬間がきっとある。でも今は、その起こるかもしれない可能性を天秤にかけても、夫と子どものいる生活をしてみたい。夫との子どもを諦める理由にするには、あまりにも未知すぎる。

こんな言葉を自分が言うなんて、思っていなかった。妊娠前はこんなことを言う人はすごく無責任で、考えなしで、計画性がないと感じていた。でも今は、そんなことを言ってしまう自分が以前よりとても強くなったように、頼もしく感じる。考えてもどうにもならない問題を、引き受けて乗り越えることにしたのだ。引き受けて乗り越えてしまうくらい、この子を切望したのだ。

いったいどんな子が生まれてくるんだろう。

どんな子でも、私たちの子どもだ。