増野鼓雪と天啓 (original) (raw)
私が教校を持たして頂いてから、毎期々々生徒が殖えます。今期も十四日に三千名卒業したのですが、あの学校へ三千名も入れると云うのは実際乱暴であります。次期には四千名も入れることになっていますが、これは尚更乱暴であります。私の心持としては実際さう思うのであります。然しそれについては、教祖四十年祭を節として、私は天理教の上に、一つの打撃を与へられることがあるかも知れないと思うているのであります。それは何かと云へば、誰でも教校へ入学すると云う訳にはいかなくなって、小学校を出てから中学校を卒業せなければならぬことになるのではないこと思うのであります。故に今は無理をしてでも、教師を作って置かなければならない時であります。それで今の中に教校生を、多く入れることが必要であります。私は今別科生が多く出ると云うことは、神様がこの準備をせられているのではなかろうかと思うのであります。これは私の想像ですが、六かしくなることだけでは確かであります。教校へ入学する時季であるからと云って、出来るだけ入れているのであります。
こう云う理由でありますから、教校生を殖すのは今日の急務でありまして、此の際此の教会も是非これを実行しなければならぬのであります。総ての、ものを作るには人物が必要であります。神様のお言葉にも用木が要ると仰せられてあります。用木とは人間であります。この道をはじめたのも人数があって出来たのであります。用木を拵えると云うことは、それは道の発展の原動力を作ることであります。然るに此の教会の現在はと云いますと、そのうちに、どうかなるだろうと思うているらしい様に見えるのであります。
人数が多ければお道が盛大になるのであって、教会も教師も人数を集めなければなりません。先づ道具人数を集めて、然る様に建築にとりかゝるのが普通であります。それで教師たる用木の多少は、直ちに教会の成長に関する問題であります。故に今の様に五百人位の卒業生でどうなりますか、二百の教会として四百五百の別科卒業生でどうなりませうか、まあどうなるだろう位ではいかないのであります。
私は今日は教校から来ていますので、会長に関することは避けたいのであります。然し、私は教校に居るのであるからと云うのではなく、道のため、此の教会のためを思ふ上から云うのでありますから、どうかその積りで別科生をウンと出して頂きたいのであります。
NEW★ 立教187年春季大祭記念 高井家資料(更新中)
神さまの一番お嫌いな心使いとは(高井家資料より抜粋)
神様は「うそ」と「ついしょう」大きらい、欲に高慢、これきらい、と仰しゃる。
八つの埃(ほし、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、こうまん、よく)よりも、「うそ」と「ついしょう」は、おきらいである。
うそとついしょうの元因は、やはり、自分かわい、吾身かわい、と云う欲の心から起こって来る。自分と云うものを、よう捨てきらないからである。
かねて父から(猶吉)「この道は、良い事をしておこられる、悪口を云われる、と思うて通れば、間違いないのや」と聞かされた。言いわけをしたり、心にもない事を云うたり、中心、誠心なくて「おじょうず」を云うたり、あるいは、うそを云うたり、これ皆、吾身かわい、と云う心から有る。故に日々は神様をめどうとして、神様におもたれして、通らせて頂く、人は知らなくても、神様がご存知じじゃ、人間思案するといらん、お歌にも
めい/\のハがみしやんハいらんもの
神がそれ/\みわけするぞや
吾身を忘れ、人間思案を捨てて、日々つとめはけむのが一番理に適うと思う
★十柱の神々の守護の理と御心を知るとが大開運と健康増大に直結する。
⇒十柱の神の守護の理と八つのほこり
★【門外不出資料】
教祖140年祭、三年千日記念
★大正時代の別席講話
(国々所処の手本となることが用木の目指す心得)
信心というは日々の心の勤めを言う。拝む事にあらず。心の勤めというは身の勤めその勤めは日々家業大事道正直が一の勤め、内々睦まじく互い互いの孝心の理が第一。二つ一つの理をめん/\が心の理に治めて、何時/\までも変らんよう。世界から見て感心、聞いて感心する様に運ぶが第一の信心という。 この世の元々真実の両親は天の月日様なり。世界中の人間は皆親の子、一列は皆兄弟なり。身の内は神の貸物、心で日々思うだけの理が我が物であるから、皆々互いに、しんの心から誠をつくして親切に助け合いをして暮せば、しんの兄弟というなり。
★天の理
★大平良平資料集
★神の古記
★このやしきもとのかみ/\でてるから
にんげんはじめもとのいんねん⇒第八号欠損しているお筆先の意味とは
★**教主政従の時代 大平 隆平**
★お金と信仰について 百万のものを持ってくるより一厘の心を受けとる。(中山みきの神言集より)
☆やまと探訪☆
NEW★月日神社
☆お筆先第6号52番 伊弉諾と伊弉冊は一の神 これ天照皇の大神宮の解釈
★10月26日秋の大祭記念→十柱の神の御心と御守護
※元の神、実の神々と出会う処→ふるのさとへ!
この意味から、本部で倍加運動を云うことを打ち出されたことは、深く悟らねばならぬことであります。そしてどこまでも本部を信じてやらなければなりません。
大体ヂッとしていると云うことは、神様を疑っているのであるから、何でも地場の理に添って働かねばならないのであります。地場から何と云はれても、それを頼りにして行かなければなりません。神様の仰せ通りに働くから芽が出て来るのであります。
例へば私が皆さんに無理なことを云って、それを皆さんが聞いて下さると、又私も皆さん方の無理を聞かねばならないことになります。要するに、私等は神様の無理を聞いて、神様に無理を聞いて頂かねばならないのであります。その無理をどこまで聞いたか、どこまで聞いて貰へるかと云ふのが問題であります。
私の教会はそんな訳には行きません。と云っている様なことでは、神様はチットも働いて下さらないのであります。神様が働いて下さらぬから、少しも利益がないのであります。地場から流された事は、直ぐそれに取り係らねばならないに、それに直ぐやらなかっただけ、疑っているのであって二ケ年半も遅れたと云ふことは、神様に何とも申訳ないとことあると思ひます。神様の仰せ通りにさへすれば、たとへ下手でも神が後を引いて下さるのであります。親の言葉に反くと、後で聞いてくれない様になります。ですから、その際神様の御心に従って、出来るだけこの春に働いて頂かねばならぬのでのあります。
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神様は「うそ」と「ついしょう」大きらい、欲に高慢、これきらい、と仰しゃる。
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うそとついしょうの元因は、やはり、自分かわい、吾身かわい、と云う欲の心から起こって来る。自分と云うものを、よう捨てきらないからである。
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信心というは日々の心の勤めを言う。拝む事にあらず。心の勤めというは身の勤めその勤めは日々家業大事道正直が一の勤め、内々睦まじく互い互いの孝心の理が第一。二つ一つの理をめん/\が心の理に治めて、何時/\までも変らんよう。世界から見て感心、聞いて感心する様に運ぶが第一の信心という。 この世の元々真実の両親は天の月日様なり。世界中の人間は皆親の子、一列は皆兄弟なり。身の内は神の貸物、心で日々思うだけの理が我が物であるから、皆々互いに、しんの心から誠をつくして親切に助け合いをして暮せば、しんの兄弟というなり。
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私は絶対になにもしなと云はないが、他教会に比べると、ヂッとし過ぎている様に思はれるのであります。それで私は何とか言って怒るのでありすが、私の思ふのなどは丁度二階から眼薬の様なもので、薩張り効果がありません。それであんまり怒ると、鬼門やと避けて来なくなるのであります。皆利口になったのであります。
だが一体此の教会はどうするのだろうと、私は家でいつも思っていのでありますが、これは私がかりではなく、若い人達の間にもこれではどうもならんと思って居ることが、私の心にうつってきているのであります。実際教会の役員は老人であるから、若いものが確かりやって貰はなければならん。
今の此の教会としては教祖四十年祭だけではなく、普請もあります。又詰所移転もせなければならないと云う風に、いろ/\のことが重なって居るが、それに年寄りはヂッとして落付いて居るから、若い物はヂッとして居られぬ様になって来たのであります。教会にいて朝から晩まで火鉢にかじりついて、信徒の話していては何にも判らない。またたまにお地場にかへって来ても、それは大した変遷でるか終に阿房らしくなって働けない様になるのであります。しかしこれを見ていた部内の若い者としては、遂に堪へきれなくなって動き出さそうとしているののでありますが、実は私はこれを待ちに待っていのでのあります。まだ四十年祭までには二年半もありますから、この機会に二ケ年遅れたことを深く思案して、それを取りかへさなければならないのであります。
そこで今度の教会は此の目的のためにやられたのでありと思ひます。ですから皆が二ケ年半遅れたことを取り戻す気になって、全速力を出せば余計早く出来るのであります。私の教会は近頃大分都合よくなっています。それで皆が少し安心しているから、何とかせねば、と思っていますが、遅れたと思へば取り返すことが出来るのでありますから、今こを十分の働きをして頂かねばならない時であります。教祖四十年祭に対して、今は丁度春から夏にかけて時候の様なもので、四五月頃の旬であります。植木でも春はどん/\伸びて行きます。梅雨の時候に挿木でも芽が出ます。今が一番つき良い時でありますから、私の教会でも今が根の出来る旬であるから、と言ってやらして居ります。少し無理してやれと言っておりますが、それは根が出るという自信があらであります。一昨年とひ昨年といひ随分無理もしたが、旬がよいので不思議に、前からある教会より、後からの教会の方が良くなっている所があるのであります。
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八つの埃(ほし、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、こうまん、よく)よりも、「うそ」と「ついしょう」は、おきらいである。
うそとついしょうの元因は、やはり、自分かわい、吾身かわい、と云う欲の心から起こって来る。自分と云うものを、よう捨てきらないからである。
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そでこ私は今日まで思っていたことを、忌憚なく話したいと思ひますから、その積もり聞いて頂きたいのであります。或は皆様の内に怒られる方があるからも分りませんが、それは致し方がないと思ひます。
今日まで当教会の役員さが私の所へ来られても、日々結構であると云った人は一人もないのであります。誰がこうとか、彼がどうとか、皆不足ばかり云って来られたのであります。それで私はこの様なことではならんと、常に心にかゝっていたのであります。私の父もそう云っていました。外の教会が盛になってもそう思はぬが、此の教会は自分の出た教会であるから、気にかゝって仕方がないと。それで部内の教会長等が来ると、ツイ叱る様になって来るのであります。併し叱られると云うことは、一面結構なことであります。他の教会がたとへ盛でなくても「いや御盛で・・・・」と、お世辞を云って居ります。けれども、なんでも盛にせねばならぬ、盛になって貰はねばならぬと思ふと、盛であってもまだ/\そんなことでは云ひます。そう云はれる方が結構なのであります。
私の父がその積りで怒ったのであると思ひますが、神様が遣らうと云ってもいらぬと云うものは仕方がないと云はれた様に、以前の人は皆逃げて居たのであります。そして日に遅れ月に遅れ年に遅れて、遂にはお地場との理が、だんだん切れて来たら、勝手な心を使ひ放題という風になっていたのであります。これは初代会長としても、どれ程嘆かれて居るか判らないと思ひます。又現会長の心を、どの位傷めているか判らないのであります。
現会長は御養子であるから、大変遠慮をせられていることと思ひますが、それで前の役員たちは我儘をして居たのであろうと思ひます。この頃はそう云ふことはないでしょうが、一時はあったのであります。
そこで一昨年本部から教祖四十年祭を打ち出されて、現に二ケ半も経過したと云うことは取りかへしの付かないことであります。その間に此の教会は何をせられたか、全く何もせないとは申しませんが、全天理教から云へば非常に遅れているのであります。他教会は倍加運動を功を奏し、今年一ぱいで大方完成する所もあります。所で教内ではこんな噂があります。此の教会とある教会とはよく似た教会だ。此の教会ともう一つの教会は支那の様な教会だと云っています。それは大きいばっかりで何も働きがないと云うことであるらしいのです。しかし私はこれを善意に解釈して、それは泰然自若としているのであると思ひますが、或は泰然自若として腰が抜けているのではなかろうかと思はれます。
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神様は「うそ」と「ついしょう」大きらい、欲に高慢、これきらい、と仰しゃる。
八つの埃(ほし、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、こうまん、よく)よりも、「うそ」と「ついしょう」は、おきらいである。
うそとついしょうの元因は、やはり、自分かわい、吾身かわい、と云う欲の心から起こって来る。自分と云うものを、よう捨てきらないからである。
かねて父から(猶吉)「この道は、良い事をしておこられる、悪口を云われる、と思うて通れば、間違いないのや」と聞かされた。言いわけをしたり、心にもない事を云うたり、中心、誠心なくて「おじょうず」を云うたり、あるいは、うそを云うたり、これ皆、吾身かわい、と云う心から有る。故に日々は神様をめどうとして、神様におもたれして、通らせて頂く、人は知らなくても、神様がご存知じじゃ、人間思案するといらん、お歌にも
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今日は沢山お集りの様でありますが、この教会が出来てから、この様な盛会を見たことは、未だかつてなかったと思ひます。皆様も喜んで居られたことと思ひます。これは確かに当大教会の発展すべき旬が向いて来たのであります。又今日現会長の令息が支部長に立たれて、一場のお話をせられたと云うことは、この発会式をして意義あらしめるものでありまして、寔に喜びに堪へない所であります。私は令息が早く成人せられて、当教会長として立たれることを、心持ちに待っているのであるが、皆様も同じ心で待ってをられることと思ひます。その令息が、今日立場を明らかにして立たれたと云うことは大変喜ばしいことであります。然かもそれが会長の令息というのみでなく、初代会長の生れ更りとして、茲に深い意義があるのであります。現管長様が秀司先生の生れ更りであると同様、令息は初代会長の生れ更りあるから、こゝに深い神様の思惑があることと思ひます。
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神様は「うそ」と「ついしょう」大きらい、欲に高慢、これきらい、と仰しゃる。
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信仰と云うものは、私が今更申し上げる迄もなく、日に新たなる力を作るものでなければならないのであります。然るに斯くの如く疲労の色を現はし始めたと云うことは、新たなる力を作るべき信仰が無くなりかけたことでありまして信仰の堕落を物語っているのであります。即ち信仰が、時や人は事情なに負けて、それ等を支配すべき身でありながら、それ等のもに却って支配られていると云う形になったのであります。これを信仰に堕落でないと、どうして云い得られますか。
しかし、こうした節の出現しと云うことは、これは物を完成すると上の当然の道程として止むを得ないことでありますが、若しこれに私等が負けて居る様であれば、今後、更に一層困難な事情が現れぬとも限らないのであります。その苦労艱難に打ち勝って通ことが到底出来ないのであります。お道は「節から芽が出る」と神様も仰せ下さってあるように、その芽を出して頂くべき節は際会しても、現在これは負けている位ならば、その時に至って、決してその節を通り越して、立派な芽を出して頂くことは出来ないのであります。この意味から申しましても、私等は現在現れている此の節に敗けているのであります。
又他の方面からこれを観ますと、この節は神様が私等人間に、真実心を要求せらるゝ餘り、与へられたところの大きな試練でると、見ることが出来るのであります。
私等人間は、神様のお言葉にもあります様に「事上なければ精神定まらん」ものであります。何かを神様によって与えられなければ、精神が一つに定まらないものでありあすから、神様は私等に真実の精神を定めさすために、この大きな節を与へになったのであって、それに堪へ得るかた堪へ得ないかを、試練されているのであります。この意味を申しましても、私等はこの際、緊禅一番かゝる大節を突破さして頂くだけの覚悟を決めなければならないのであります。そうして、都合よくこの試練に堪へ忍ことが出来たとき、始めて四十年祭は精神的に立派なものとなって、私等の眼前に横はるのであります。
所で信徒教徒または教師に至るまで、この神様の試練に堪へ忍ばしめ、真実心をひき起す様に指導るすのが、教会長として義務であります。また大きな意味から云って、教会長としての使命を果たす所以でもありますから、教会長たるものは、先刻からもお話した様に、この内容充実を図るために、教会長自ら教会長であることを自覚して、今後僅かしかない二ヶ年の間を出来るだけ奮闘努力して、四十年祭の時に至って十分満足の出来得るだけの道を、只今からお通り下さらんことを望むのであります。
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神様は「うそ」と「ついしょう」大きらい、欲に高慢、これきらい、と仰しゃる。
八つの埃(ほし、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、こうまん、よく)よりも、「うそ」と「ついしょう」は、おきらいである。
うそとついしょうの元因は、やはり、自分かわい、吾身かわい、と云う欲の心から起こって来る。自分と云うものを、よう捨てきらないからである。
かねて父から(猶吉)「この道は、良い事をしておこられる、悪口を云われる、と思うて通れば、間違いないのや」と聞かされた。言いわけをしたり、心にもない事を云うたり、中心、誠心なくて「おじょうず」を云うたり、あるいは、うそを云うたり、これ皆、吾身かわい、と云う心から有る。故に日々は神様をめどうとして、神様におもたれして、通らせて頂く、人は知らなくても、神様がご存知じじゃ、人間思案するといらん、お歌にも
めい/\のハがみしやんハいらんもの
神がそれ/\みわけするぞや
吾身を忘れ、人間思案を捨てて、日々つとめはけむのが一番理に適うと思う
★十柱の神々の守護の理と御心を知るとが大開運と健康増大に直結する。
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信心というは日々の心の勤めを言う。拝む事にあらず。心の勤めというは身の勤めその勤めは日々家業大事道正直が一の勤め、内々睦まじく互い互いの孝心の理が第一。二つ一つの理をめん/\が心の理に治めて、何時/\までも変らんよう。世界から見て感心、聞いて感心する様に運ぶが第一の信心という。 この世の元々真実の両親は天の月日様なり。世界中の人間は皆親の子、一列は皆兄弟なり。身の内は神の貸物、心で日々思うだけの理が我が物であるから、皆々互いに、しんの心から誠をつくして親切に助け合いをして暮せば、しんの兄弟というなり。
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この転換期に当たって各教会と見てみますに、一般に過去三ヶ年の活動によって、稍疲労してをる様な傾が見受けられるのであります。これは現在における、天理教一般の教勢の如く、考へられているのでありますが、これは何がためであるかと云へば、云うまでもなく教会長の精神に疲労から来て居るのであります。
そこで、何故教会長の精神が疲労したのであるか、いまその原因を考へて見ますに、その一つは、過去三ヶ年間四十年祭のために努力して、神様に尽したと云う自負の心からであります。もう一つは、今回関東地方の震災によって現れた、大きな節であります。そこへ今一つは、四十年祭まで、まだこれから二ヶ年あると云う、その依頼心であります。この三つのものが大なる原因となって、教会長自身の精神を疲労させ、又延いては教会なり一般教勢なりの疲労の色を与えて居るように思わるのであります。教会長自身が、こうした色々の原因があろうとも、それに負けなければよいのでありますが、既にそれに囚われている以上、自然その結果として、かくの如き疲労を導いて来るのは、明かであります。しかしこれは実に本教として、悲しむべき傾向にあり、御教祖に対して申し訳ないことであります。
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神様は「うそ」と「ついしょう」大きらい、欲に高慢、これきらい、と仰しゃる。
八つの埃(ほし、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、こうまん、よく)よりも、「うそ」と「ついしょう」は、おきらいである。
うそとついしょうの元因は、やはり、自分かわい、吾身かわい、と云う欲の心から起こって来る。自分と云うものを、よう捨てきらないからである。
かねて父から(猶吉)「この道は、良い事をしておこられる、悪口を云われる、と思うて通れば、間違いないのや」と聞かされた。言いわけをしたり、心にもない事を云うたり、中心、誠心なくて「おじょうず」を云うたり、あるいは、うそを云うたり、これ皆、吾身かわい、と云う心から有る。故に日々は神様をめどうとして、神様におもたれして、通らせて頂く、人は知らなくても、神様がご存知じじゃ、人間思案するといらん、お歌にも
めい/\のハがみしやんハいらんもの
神がそれ/\みわけするぞや
吾身を忘れ、人間思案を捨てて、日々つとめはけむのが一番理に適うと思う
★十柱の神々の守護の理と御心を知るとが大開運と健康増大に直結する。
⇒十柱の神の守護の理と八つのほこり
★【門外不出資料】
教祖140年祭、三年千日記念
★大正時代の別席講話
(国々所処の手本となることが用木の目指す心得)
信心というは日々の心の勤めを言う。拝む事にあらず。心の勤めというは身の勤めその勤めは日々家業大事道正直が一の勤め、内々睦まじく互い互いの孝心の理が第一。二つ一つの理をめん/\が心の理に治めて、何時/\までも変らんよう。世界から見て感心、聞いて感心する様に運ぶが第一の信心という。 この世の元々真実の両親は天の月日様なり。世界中の人間は皆親の子、一列は皆兄弟なり。身の内は神の貸物、心で日々思うだけの理が我が物であるから、皆々互いに、しんの心から誠をつくして親切に助け合いをして暮せば、しんの兄弟というなり。
★天の理
★大平良平資料集
★神の古記
★このやしきもとのかみ/\でてるから
にんげんはじめもとのいんねん⇒第八号欠損しているお筆先の意味とは
★**教主政従の時代 大平 隆平**
★お金と信仰について 百万のものを持ってくるより一厘の心を受けとる。(中山みきの神言集より)
☆やまと探訪☆
NEW★月日神社
☆お筆先第6号52番 伊弉諾と伊弉冊は一の神 これ天照皇の大神宮の解釈
★10月26日秋の大祭記念→十柱の神の御心と御守護
※元の神、実の神々と出会う処→ふるのさとへ!
こう考へて来ますと、教会長がその使命を自覚しうるということは、一面にこの何でもという心を呼び起こすことでもあり、又一面手本雛形となって通って行くことであります。又それでこそ、成程の人や成程の理やと云われて、神様に受取って頂く道が出来るのであります。教会長の使命の自覚と云うことは、これをおいて他に何もないのであります。
実際の上から申しましても、教会長の信仰、及び思想と云うものは、必ず教会に反映するものであります。教会に理屈家の多いと云うことは、その教会長が理屈家であと云うことの反映であります。又教会に活気がないと云うことは、その教会長の精神の如何にあるのであります。従って信徒の出来る出来ん、また熱心不熱心と云うことも、これは会長の精神一つの理のよるものであります。あの人はは熱心だと謂われるような信徒は、必ず至誠なる会長の心から生まれと申してもよいのであります。
以上の様な点から考へまして、今後教会の内容を充実するには、先づ教会長自身が、教会の統治者としての責任を完うすることから出来て来るのであります。先程から申しました様に、内容の充実に向はなければならぬ今日の転機に際しまして、先づ何よりも、教会長自身の使命の自覚、即ち教会長たる責務を完ウすることから始めなければならぬと考へるのであります。
NEW★ 立教187年春季大祭記念 高井家資料(更新中)
神さまの一番お嫌いな心使いとは(高井家資料より抜粋)
神様は「うそ」と「ついしょう」大きらい、欲に高慢、これきらい、と仰しゃる。
八つの埃(ほし、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、こうまん、よく)よりも、「うそ」と「ついしょう」は、おきらいである。
うそとついしょうの元因は、やはり、自分かわい、吾身かわい、と云う欲の心から起こって来る。自分と云うものを、よう捨てきらないからである。
かねて父から(猶吉)「この道は、良い事をしておこられる、悪口を云われる、と思うて通れば、間違いないのや」と聞かされた。言いわけをしたり、心にもない事を云うたり、中心、誠心なくて「おじょうず」を云うたり、あるいは、うそを云うたり、これ皆、吾身かわい、と云う心から有る。故に日々は神様をめどうとして、神様におもたれして、通らせて頂く、人は知らなくても、神様がご存知じじゃ、人間思案するといらん、お歌にも
めい/\のハがみしやんハいらんもの
神がそれ/\みわけするぞや
吾身を忘れ、人間思案を捨てて、日々つとめはけむのが一番理に適うと思う
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信心というは日々の心の勤めを言う。拝む事にあらず。心の勤めというは身の勤めその勤めは日々家業大事道正直が一の勤め、内々睦まじく互い互いの孝心の理が第一。二つ一つの理をめん/\が心の理に治めて、何時/\までも変らんよう。世界から見て感心、聞いて感心する様に運ぶが第一の信心という。 この世の元々真実の両親は天の月日様なり。世界中の人間は皆親の子、一列は皆兄弟なり。身の内は神の貸物、心で日々思うだけの理が我が物であるから、皆々互いに、しんの心から誠をつくして親切に助け合いをして暮せば、しんの兄弟というなり。
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※元の神、実の神々と出会う処→ふるのさとへ!
所でかの如き自覚は、何に基礎をおいて構成されるか云へば、それは申すまでもなく、一教会の統治者である所の教会長の自覚に俟たねばなりません。
御承知の如く教会長と云うものは、信徒教徒また教師などの信仰を指導し誘導して、これを保育養成して行くのでありますから、万人の師表とならなけれあばならぬものであります。それで神様も、それを土地所の手本雛形とも仰せられているのでのありますが、その手本であり雛形である教会長は、先づ万事の先に立って自ら自覚して、然る後に誘導して行かなければならぬのであります。これを言葉を換へて云へば、一教会の信仰心の向上は、即ち教会長の自覚して始めて成し遂げられるのであります。一教会長としての信仰の目標は何かと云へば、それは教会長のの精神でありますから、教会長の精神一つによっては、その教会全体の精神を、生かすことも殺すことも出来るのでありまして、これは大きい小さいに拘わらず同じことであります。教会が大きければ大きいだけに、その部下の教会全体を生かすことも殺すことも、上級の教会長の心一つであります。又小さければ小さいなりに、役員信徒一般の精神の死活如何は、一にかゝって教会長のの精神如何にあるのであります。
こう云う意味の上から考へまして、その教会一般の精神、延いて各人の自覚を促すには、どうしても先づ教会長自身から、真剣の自覚してかゝらなければならぬと云うことが、又その責務の大なることが、お判りになったことだろうと思います。
そこで教会長自身の自覚でありますが、これはその教会長の使命の自覚と云うことであります。言を換へて云へば、神様からその教会長に許された理の自覚と云うことであります。一体神様は、教会長と云う理を何処に許して居られるのかと云いますと、これは人間に許して居られるのでないのであります。何故ならば、御本席御在世時代に、担任の変更を願い出た所、それをどう云うてお許しになって居るかと申しますと「なんでもどうでもと云う心にゆるしおこう」と仰せになって、お許しになっていたことが多いのであります。即ち何でも云う教会長の心に、理を許して居られのであります。従ってその教会長に、なんでもと云う心がなかったならば、当然その人は教会長としての理もなければ、また価値も失って終っているのであります。
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うそとついしょうの元因は、やはり、自分かわい、吾身かわい、と云う欲の心から起こって来る。自分と云うものを、よう捨てきらないからである。
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教会は五割或はそれ以上の急激な事をもって、短時日の間に発達して来たのであります。しかしこの傾向がいつまでも続くものではありません。ある時期になれば、これを内面的に、内容の充実を図らねばならない時に出会うのであります。そうして現在は、正にその転換期であると私は思うのであります。
四十年祭までには、余す所わづか二ヶ年であります。この歳月は旬の理から申しましても、また教務の実際の上から申しましても、本教の内容を充実しなければならい重要な時期であります。只今はその転換すべき旬であると思うのであります。
そうしますと、その内容の充実とはどいう云うことであるかと云うことであります。先ほどからも申しました様に、本教は過去の短い年限の間に、急減な発達を遂げたのでありますから、従って急増された教会などの数多いであろうと思うのであります。これは実際において、止むを得なかったことでありますが、それがために、自然その内容の点になると貧弱なものも出来ましたので、その貧弱な内容をこれから充実させなければならぬのであります。
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神様は「うそ」と「ついしょう」大きらい、欲に高慢、これきらい、と仰しゃる。
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信心というは日々の心の勤めを言う。拝む事にあらず。心の勤めというは身の勤めその勤めは日々家業大事道正直が一の勤め、内々睦まじく互い互いの孝心の理が第一。二つ一つの理をめん/\が心の理に治めて、何時/\までも変らんよう。世界から見て感心、聞いて感心する様に運ぶが第一の信心という。 この世の元々真実の両親は天の月日様なり。世界中の人間は皆親の子、一列は皆兄弟なり。身の内は神の貸物、心で日々思うだけの理が我が物であるから、皆々互いに、しんの心から誠をつくして親切に助け合いをして暮せば、しんの兄弟というなり。
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四十年が提唱さられましてから、本教の教内は俄かに活気を呈し、未だかって見なかったところの、緊張味を現して来たのであります。何処から云い出されたのか、兎に角倍加運動と云う声と共に、教会及び教師の数の増加は、約五割と云う驚くべき倍加率を示しているのであります。こんなことは未だかってなかった現象であります。
これからなほ四十年祭までには、どれだけの率に増進して行くかは、疑問でありますが、併し一歩退いてこれを考えて見ますと、果たして何処までこの傾向が延長されるか、無制限にのばされるどうかと云うことは、問題であります。例へ申しますと、人間にしましても子供の間はズン/\身丈が延びるのであります。この調子で行けば、どれだけ身丈の高い人間になるだろかと心配される位に成長して行きます。所が、それがある年限まで到達しますと、ピッタリ身丈の延びる方は止まって、その代りに身体の諸器官の方が発達して来るのであります。俗に云うばあが出来て来るのであります。
ものの発達する経路は、凡そ同じ順序を踏むものでありまして、樹木なら樹木に致しましても、その木が若木である間は、ズン/\丈も高くなって行くのでありますが、ある所まで来ると、今度は幹が太くなったり、枝が張ったり、葉が繁ったりして来るのであります。
人間でも草木でも同じことで、始め外面的に発達して行くのでありますが、ある時期からは、それが内面的に発達して行きます。言葉を換へて云へば、内容を充実して行くのでありまして、本教の発達の経路も亦この軌を出ないのであります。
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神様は「うそ」と「ついしょう」大きらい、欲に高慢、これきらい、と仰しゃる。
八つの埃(ほし、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、こうまん、よく)よりも、「うそ」と「ついしょう」は、おきらいである。
うそとついしょうの元因は、やはり、自分かわい、吾身かわい、と云う欲の心から起こって来る。自分と云うものを、よう捨てきらないからである。
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所が芽を出すだけ出させ、枝を張るだけ張らせると、それは野育ちになってしまうから、今度は鋏でもって摘まれるのであります。鋏で摘まれた植木は傍から見れば恰好がよいが、木自身のなって思へば、矢張り摘まれるのは苦しいことであります。教会でもこの摘まれたものが落伍すのであります。この神様のお摘みになる鋏は何であるかと云へば、これが生活問題であります。
この生活問題が、四十年祭がすむと、すぐにお互の所を見舞って来るのでありますが、そうなれば、ホト/\、困らなければならぬことが出来てくる。お助けは上らぬ、食うには困ってしまと云う様に、信仰が生活のために敗けると云う人は、この神様の御試練に会って落伍してしまうのであります。
不忠実なものと、忠実なものとが、これで振い分けられるのであります。生活を信仰によって解決し得た人だけが、これで振い分けられるのであります。生活を信仰によって解決し得た人だけが、あとに残されることになるのであります。そう云う人だけが、本当にお道を通って行けば、五十年祭には結構な理を見せて頂くことが出来るのであります。
こうして考へと来ると、近く将来に現れてくる天理教全般の問題は、どうしても生活問題であると思うのであります。これを切り抜けて通り越してしまうには、何処までも各人の信仰を向上させて置かなければならぬのであります。このことは、直ぐ当面しなければならない問題であるから、今からよく考へて、今の間に信仰によって生活を解決し去るだけの信念を養うて置いて貰いたいのであります。いざと云う時になっても、平気で通り越せるだけの自信を今から作って置いて貰はねばならぬのであります。
これは天理教自身の問題でありばかりではなく、世界全体が、何れこうした問題のために苦しまねばならない日が来るに違いないのでありますから、その時真実から教理によって、救済するのが私等の使命であります。病気を助けるだけが道ではありません。それには教理を世界に向って説く前に、先づこちらから実行してかゝらねばなりません。生活の脅かされているものには、それは出来ないことであります。導かんとすれば、先づ通って置かなければならないのであります。ほんとうに世界を助けるには、生活問題を信仰によって解決せねばならぬということを考へと置かねばなりません。
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うそとついしょうの元因は、やはり、自分かわい、吾身かわい、と云う欲の心から起こって来る。自分と云うものを、よう捨てきらないからである。
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吾身を忘れ、人間思案を捨てて、日々つとめはけむのが一番理に適うと思う
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信心というは日々の心の勤めを言う。拝む事にあらず。心の勤めというは身の勤めその勤めは日々家業大事道正直が一の勤め、内々睦まじく互い互いの孝心の理が第一。二つ一つの理をめん/\が心の理に治めて、何時/\までも変らんよう。世界から見て感心、聞いて感心する様に運ぶが第一の信心という。 この世の元々真実の両親は天の月日様なり。世界中の人間は皆親の子、一列は皆兄弟なり。身の内は神の貸物、心で日々思うだけの理が我が物であるから、皆々互いに、しんの心から誠をつくして親切に助け合いをして暮せば、しんの兄弟というなり。
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私等の信仰がまだ堅固でない間は、どうしても生活するかと云うことが、大層大きな問題となって私等の心を悩ますのであります。教会で内職したりするのは、お道から云へば殆どなっていない。その人達は、義理から何かで神様を祀っていると云うだけのことで、決して信仰に生きていると言うことは出来ないのであります。信仰と云うものは人間の病気を解決するばかりではなく、生活も解決するものではなくてはならぬのであります。そうなれば人生というものにある大きな安心がついて来ます。病気を助けて貰う位のことならば、安心は出来ないが、生活を安心して続けて行くことが出来るまでになって来れば、その信仰は人生を真実に救済してくれるものである。と云うことが出来るのであります。実際そこまで進んで来なければ本当とは云へないのであります。
皆さんにしても、お助けに出て行く人もあるでしょうが、お助けに出て行って食へなくなれば、その人とって大問題である。しかしその時信仰をもって解決して行くことが出来ず、心を倒してしまうようでは、信仰があると云うことは出来ないのであります。
こうして考へて来ると、一個人の上にあると同じ様に、天理教全体の上にも必ずこの問題が起きてくるに相違ないのであります。四十年祭までは、石にかじり付いてでも、お道を盛んにせなければならぬと覚悟を決めているから、どんな難儀苦労が見えて来ても、その中を切り抜けて行くことが出来るが、四十年祭が済んでやれ/\と思う日になったらどうするであろうか。世間では不景気で弱っている。天理教もその影響を受けて苦しむと云う日になって来ると、そこに生活問題が現れて来るのであります。
その時になると、信仰の弱いものは、又内職でもして行かなければ、やって行けない様になって来るのであります。がお互いにそこを切り抜けて通らなければならぬ。そこをよう通り越さない様な人は落伍者であります。これでは天理教は叶わん、神様も有難いが、今日暮しが出来てこそ神様である。食って行けなければ神様も何もあったものではない。一つ商売でも始めなければ死んでしまう。と云う様になっては、もうお終いであります。神様も結構だが、人間は食わねば死んでしまうのだから、先づ食うことを安全にしてからと云うことになれば、信仰は生活の為に敗けたことになってしまうのであります。お道を看板にかけて、商売を内職にして行く様になれば、信仰も何もないのでありあます。
そこで何故こういうことが現れてくるかと云いますと、この春から夏にかけて草木は新芽を吹き出します。枝から枝が出、芽から芽が出て、木はどんどん大きくなって行きます。所が山や野で育った木ならばよいのですが、庭に植えた木ならばそんなことはして置かない。新芽が出揃うてしまうと、今度は枝振りを直すために枝を摘む。そうして木の形をよくするのであります。
今、お道は四十年祭という声をかけられて、恰も草木が春に出会った様に、どし/\新芽を出しかけているのであります。丁度春の様に、やればやる程、お道が栄え、理が出てくる様に神様がして下さるのであります。延びる時期でありますから、倍加運動など無理な話だと思っていたが出来て来ている。四十年祭を待たずとも、今年中には出来てしまうかも知れない。神様はそうして今は延びたいだけ、延びさせて下さるのであります。
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神様は「うそ」と「ついしょう」大きらい、欲に高慢、これきらい、と仰しゃる。
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うそとついしょうの元因は、やはり、自分かわい、吾身かわい、と云う欲の心から起こって来る。自分と云うものを、よう捨てきらないからである。
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★大正時代の別席講話
(国々所処の手本となることが用木の目指す心得)
信心というは日々の心の勤めを言う。拝む事にあらず。心の勤めというは身の勤めその勤めは日々家業大事道正直が一の勤め、内々睦まじく互い互いの孝心の理が第一。二つ一つの理をめん/\が心の理に治めて、何時/\までも変らんよう。世界から見て感心、聞いて感心する様に運ぶが第一の信心という。 この世の元々真実の両親は天の月日様なり。世界中の人間は皆親の子、一列は皆兄弟なり。身の内は神の貸物、心で日々思うだけの理が我が物であるから、皆々互いに、しんの心から誠をつくして親切に助け合いをして暮せば、しんの兄弟というなり。
★天の理
★大平良平資料集
★神の古記
★このやしきもとのかみ/\でてるから
にんげんはじめもとのいんねん⇒第八号欠損しているお筆先の意味とは
★**教主政従の時代 大平 隆平**
★お金と信仰について 百万のものを持ってくるより一厘の心を受けとる。(中山みきの神言集より)
☆やまと探訪☆
NEW★月日神社
☆お筆先第6号52番 伊弉諾と伊弉冊は一の神 これ天照皇の大神宮の解釈
★10月26日秋の大祭記念→十柱の神の御心と御守護
※元の神、実の神々と出会う処→ふるのさとへ!
こうして考へて来ると、御教祖の年祭毎にお道は不景気の影響を受けて来ていますが、今度は四十年祭であります。こゝ暫く前までには好景気が続いて、四十年祭を前に控へた今年になってから、こう不景気風が吹きかけて来たのであります。それで私は、四十年祭時分には景気の悪いどん底だと思うのでありますが、そと時お道の者は、どう通るであろうか。その瀬戸際になってから、お道のものがどんな態度を執るかと云うことは、今からお互に考へて置かねばならないことであろうと思うのであります。
世の中の苦しいことは、考へて見ると色々あります。病気などは、その中でも直接からだに影響して来るものでありますが、次に人間の苦しい思いをするものは貧乏することがであります。世界ではよく「四百四病のその中で、貧ほど辛いものはない」と云うことを言いますが、本当の貧しさを知らないものは、本当の苦労の解らない者であります。お道を真面目に通っていれば食うことに困る様なことはないが、然し貧のために苦しむ位の心は、決めて置かねばならぬだろう思います。人間の精神と云うものは、貧のために苦しんだ時には、存外弱いものであります。
楽に楽しく暮らして行ける間は強いものですが、明日食う米が案じられると云う様な生活をして居ると、非常に心は弱い。世界の人で、病になる人は沢山ありますが、その元は皆心からであります。心が苦しみ、心が案じるのであります。貧が元となって病を起こし、身を滅ぼす人がこの世の中には沢山あります。貧ほど辛いものはないと云うことは、よく考へて見れば本当でるかも知れません。
所で、私等はお互いにお道につかして貰っているが、お道では病を助けて下さると云うことは十分心得している。けれども貧乏を助けて下さると云うことは聞いたことがない。天理教に這入れば、貧乏をすると昔から世間の人が云っていることがあるが、天理教に這入って金持ちになったと云う人は聞かない。
しかし事実貧乏をしたならば、苦しまねばならないものであったら、前にも云った様に、皆死んで居なければならないことになる。行く先を考へれば不安で仕様がないが、信仰と云うものは、只人間の病気を助けるだけのものではない。信仰を持っていれば、凡てのことが、助かると云うところまで、進まなければならないのであります。
NEW★ 立教187年春季大祭記念 高井家資料(更新中)
神さまの一番お嫌いな心使いとは(高井家資料より抜粋)
神様は「うそ」と「ついしょう」大きらい、欲に高慢、これきらい、と仰しゃる。
八つの埃(ほし、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、こうまん、よく)よりも、「うそ」と「ついしょう」は、おきらいである。
うそとついしょうの元因は、やはり、自分かわい、吾身かわい、と云う欲の心から起こって来る。自分と云うものを、よう捨てきらないからである。
かねて父から(猶吉)「この道は、良い事をしておこられる、悪口を云われる、と思うて通れば、間違いないのや」と聞かされた。言いわけをしたり、心にもない事を云うたり、中心、誠心なくて「おじょうず」を云うたり、あるいは、うそを云うたり、これ皆、吾身かわい、と云う心から有る。故に日々は神様をめどうとして、神様におもたれして、通らせて頂く、人は知らなくても、神様がご存知じじゃ、人間思案するといらん、お歌にも
めい/\のハがみしやんハいらんもの
神がそれ/\みわけするぞや
吾身を忘れ、人間思案を捨てて、日々つとめはけむのが一番理に適うと思う
★十柱の神々の守護の理と御心を知るとが大開運と健康増大に直結する。
⇒十柱の神の守護の理と八つのほこり
★【門外不出資料】
教祖140年祭、三年千日記念
★大正時代の別席講話
(国々所処の手本となることが用木の目指す心得)
信心というは日々の心の勤めを言う。拝む事にあらず。心の勤めというは身の勤めその勤めは日々家業大事道正直が一の勤め、内々睦まじく互い互いの孝心の理が第一。二つ一つの理をめん/\が心の理に治めて、何時/\までも変らんよう。世界から見て感心、聞いて感心する様に運ぶが第一の信心という。 この世の元々真実の両親は天の月日様なり。世界中の人間は皆親の子、一列は皆兄弟なり。身の内は神の貸物、心で日々思うだけの理が我が物であるから、皆々互いに、しんの心から誠をつくして親切に助け合いをして暮せば、しんの兄弟というなり。
★天の理
★大平良平資料集
★神の古記
★このやしきもとのかみ/\でてるから
にんげんはじめもとのいんねん⇒第八号欠損しているお筆先の意味とは
★**教主政従の時代 大平 隆平**
★お金と信仰について 百万のものを持ってくるより一厘の心を受けとる。(中山みきの神言集より)
☆やまと探訪☆
NEW★月日神社
☆お筆先第6号52番 伊弉諾と伊弉冊は一の神 これ天照皇の大神宮の解釈
★10月26日秋の大祭記念→十柱の神の御心と御守護
※元の神、実の神々と出会う処→ふるのさとへ!
今までに時々話を聞いて見るのに、教会で内職をしている所が沢山あったが、こゝ一二年來殆どそんな教会はなくなったと云うことであります。今から十年程前には、教会はやっているものの、食うに困って内職をやっていた様な教会かくあったのであります。これから考へて見ても、こゝ五六年来欧州大戦の影響を受けて、世界と共に教会もよくって来たと考へられるのであります。今度はその反対に、世界の景気につれて教会が悪くなって来たと云うことは、天理教の将来に如何なる結果を及ぼすかでりましょうか。教会がわるくなられば、その教会に従っている信徒や役員が困るに決まっています。そう云う風に考へて見ますと、世界の景気が悪くなったと云うことを対岸の火災視していることは出来ない訳であります。必ず多少とも関係は出来て来るに決まっています。天理教の歴史の上から考へても、そうなって来ると云うことが云へるのであります。古い時の事は解らないが、私が知っている所から申し上げるならば、明治廿七八年頃には日清戦争に勝って、二億からの金が入って来て大変に景気よかった。するとその後が非常に景気が悪くなって、それがために凡ての教会が財政上非常な困難に陥って、丁度教祖十年祭を行う時には、本部に金が少しもなくて困られたことがありました。次に第二回の時には、日露戦争の後のことであります。戦争に勝って日本の景気はいやが上によくなって、あらゆる投資的事業が盛んに起りましたが、その後間もなく不況時代に陥って、教祖廿年祭の時には、本部では廿年祭という節と世界の節とが立合って大変困られたことがあります。けれども本部が困ったと云う様なことを云ひ出してはならと云うことでありましたから、このことについては、部下の人々はあまり聞いて居られないかも知れません。次に三十年祭の時でありますが、その時は餘り大した問題は起こらずに済みましたが、矢張り景気は良い方ではなかった。私はその時分に大阪に居ましたが、大きな家があちらにもこちらにも貸家になっていたことを覚えています。朝日新聞で借家調べをやったことがあったが、目抜きの大通りにさへ、ドシ/\貸家が出来たという位の不景気な時でありました。
NEW★ 立教187年春季大祭記念 高井家資料(更新中)
神さまの一番お嫌いな心使いとは(高井家資料より抜粋)
神様は「うそ」と「ついしょう」大きらい、欲に高慢、これきらい、と仰しゃる。
八つの埃(ほし、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、こうまん、よく)よりも、「うそ」と「ついしょう」は、おきらいである。
うそとついしょうの元因は、やはり、自分かわい、吾身かわい、と云う欲の心から起こって来る。自分と云うものを、よう捨てきらないからである。
かねて父から(猶吉)「この道は、良い事をしておこられる、悪口を云われる、と思うて通れば、間違いないのや」と聞かされた。言いわけをしたり、心にもない事を云うたり、中心、誠心なくて「おじょうず」を云うたり、あるいは、うそを云うたり、これ皆、吾身かわい、と云う心から有る。故に日々は神様をめどうとして、神様におもたれして、通らせて頂く、人は知らなくても、神様がご存知じじゃ、人間思案するといらん、お歌にも
めい/\のハがみしやんハいらんもの
神がそれ/\みわけするぞや
吾身を忘れ、人間思案を捨てて、日々つとめはけむのが一番理に適うと思う
★十柱の神々の守護の理と御心を知るとが大開運と健康増大に直結する。
⇒十柱の神の守護の理と八つのほこり
★【門外不出資料】
教祖140年祭、三年千日記念
★大正時代の別席講話
(国々所処の手本となることが用木の目指す心得)
信心というは日々の心の勤めを言う。拝む事にあらず。心の勤めというは身の勤めその勤めは日々家業大事道正直が一の勤め、内々睦まじく互い互いの孝心の理が第一。二つ一つの理をめん/\が心の理に治めて、何時/\までも変らんよう。世界から見て感心、聞いて感心する様に運ぶが第一の信心という。 この世の元々真実の両親は天の月日様なり。世界中の人間は皆親の子、一列は皆兄弟なり。身の内は神の貸物、心で日々思うだけの理が我が物であるから、皆々互いに、しんの心から誠をつくして親切に助け合いをして暮せば、しんの兄弟というなり。
★天の理
★大平良平資料集
★神の古記
★このやしきもとのかみ/\でてるから
にんげんはじめもとのいんねん⇒第八号欠損しているお筆先の意味とは
★**教主政従の時代 大平 隆平**
★お金と信仰について 百万のものを持ってくるより一厘の心を受けとる。(中山みきの神言集より)
☆やまと探訪☆
NEW★月日神社
☆お筆先第6号52番 伊弉諾と伊弉冊は一の神 これ天照皇の大神宮の解釈
★10月26日秋の大祭記念→十柱の神の御心と御守護
※元の神、実の神々と出会う処→ふるのさとへ!