■ (original) (raw)
思春期におけるアイデンティティの拡散の正体、それは自分を世界の中でどう位置付けたらよいのか分からなくなる困惑の状態のことであろう。第二次性徴を皮切りとした周囲との身体的同一性の喪失は、即座に周囲との精神的同一性への懐疑へと結びつく。すなわち、自分と今まで同じだと思えていた周りの他者と自分が同じだと思えなくなるわけだ。そこから人間は再度自分を世界の中に固定するための試行錯誤の段階に入る、この試行錯誤、暗中模索の段階こそが思春期、アイデンティティの拡散および確立の課題の時期であり、ここで改めて自分が無理なく自然に引き受けられる属性、ジャンル、ポジションを再発見するのである。
小学生時代を中心とする児童期と中学高校時代の思春期を隔てる特徴の一つは評価基準の多寡にある。小学生時代は「足が早ければモテる」という言葉に象徴されるように、評価の基準が比較的単純かつ一元的である。しかし中学や高校に進学するや否や、人間の評価基準は一挙に増殖し、社交性やユーモア、ルックス、運動能力、知性などなど、さまざまな角度から人間を評価することを余儀なくされる。小学校から中学に上がるにあたって、不登校が増加したり、あるいはそれまで周囲となんら不自由なく融和できていた人間が途端に居心地の悪さやフラストレーションを抱えるようになるのは、かくの如き評価基準の多元化、およびそれに付随する自らの社会的ポジションの不安定化に根拠を求めることができるであろう。
具体例を挙げてもう少し別のパースペクティブから事態を捉えようとするなら、神戸連続児童殺傷事件の犯人や、旭川女子中学生いじめ事件に関与したメンバーの抱える精神的な闇も、舵取りの方向性を間違えただけで、世間のごくごく一般的な中学生の抱えている葛藤のそれと本質的な部分においては変わらないということだ。ただその表現形があまりにも反社会的反道徳的であっただけ、自らを嗜虐性や倒錯性のレッテルの下でしか社会的に位置付けることのできなかった彼ら彼女らを、擁護するとまではいかないまでも、ある種同情的に認識することはすくなくとも論理的な次元においては可能であるように思う。
容赦のない再帰性と自己言及の連鎖の中でかろうじて自分を再固定できる錨を探す欲望、その欲望の持つ計り知れない黒々とした反動的なエネルギーをここに垣間見ることはそう難しくない、実際的に自分が取り返しのつかない過ちを14〜15歳の時期に犯していたかもしれない、そうしたことをふまえると、ぼくには中学〜高校時代に陰惨な事件の加害者となった人間たちを、それこそ少年法改正を声高に標榜する連中の如く、思考停止的に無条件で叩きのめす気にはどうにもなれないのだ。