永井荷風について (original) (raw)

NHKの朗読の世界で、荷風の「ふらんす物語」をやっている。この番組の作品の選び方は、どうも必然性が感じられず、思いつきで選んでいるとしか思えないのだが、今回の荷風も「いったいどういう風の吹き回しで?」と首をひねってしまう。もしかしたら、パリのオリンピックが関係しているのだろうか。

まあそれはそれとして、この荷風という作家だが、いちおう耽美主義ということで、象徴派とは細い縁でつながっている。また彼には「珊瑚集」という訳詩集があって、これが「海潮音」に次ぐ地位を占めているという事実も、彼と象徴派との親近性を強めている。彼自身、己をどう規定していたかは不明だが、アンリ・ド・レニエなどを介して、日本における象徴派としての自覚も、ほんの少しはあったかもしれない。

とはいうものの、このラジオの朗読を聞きながら、荷風という作家はどうも写実派、印象派にとどまっていて、象徴派というにはほど遠いことを感じた。彼の描写はあまりにも表面的、情緒的で、そこに深さというものはない。知性とか理知ではなく、感覚だけで生きているような人間。もっとはっきりいえば、好き嫌いだけで生きているような人間で、とにもかくにも作品としての浅さはどうにもならないような気がする。

ところで、この「ふらんす物語」は昔岩波文庫で読んだことがある。ところが、今回のラジオを聴いても、まったく読んだ記憶が蘇らないのだ。つまり、読んだことをきれいさっぱり忘れているのである。この忘却というのは怖ろしい。なにしろ、前日に聴いた分さえ、翌日には記憶があやふやになっているのだから。

彼の「珊瑚集」については、以前に記事を書いたこともあるのに、今回確認のつもりで取り出して読んでみたら、その大半を忘失していて、ほとんど初読と変らなかった。荷風の著作のこの記憶に残らなさは異常だ。そういえば、代表作といわれる「濹東綺譚」すらまったく筋が思い出せない。

多くの著作と名を残しながら、人々のなかからその作品の記憶だけ消していっているという、なんとも奇妙な作家ではある。