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お題「一問一答!こどものおもしろ回答を教えて」

娘が小学校時代の話です。勉強ができないのは分かっていました。たまたま見たテストの点数が30点でした。私はさすがにこれはまずいだろう、と思って、「ちゃんと勉強しないとだめだろう」と言いました。すると、真顔になって「何を言っているの、私の下にまだOOちゃんとXXちゃんがいるのよ」と返事をしました。一瞬何を言っているのか分からず、あっけに捕られました。それから先は何も言えず、笑うしかありませんでした。しかしそんな娘でしたが、りっぱに社会人をやっています。

高橋洋一さんの発言が問題になりました。発言を訂正されているようです。私は訂正する必要があるとは思いませんが、後々の誤解、わずらわしさを考えると訂正する方が、無難なんだろうと思いました。「保守の高市さんが首相になるよりも、左派系の石破さんが首相になってよかった。日本保守党はその方がやりやすいだろう。」というようなことだと思います。笑いながらの話で、何も保守系自民党議員をけなしたものではない事が分かるものです。この話を曲解して理解したものと思われます。話を聞くことに余裕がなくなったのか、建前と本音の区別が出来なくなってきているのか分かりませんが、残念なことと私は思います。何故私がこんなことを思うのか。昔々、私が高校生のころ、現代国語が分からなくて参考書を読んでいると、逆説を展開して注意喚起を呼び起こす文章というものがありました。それは、「富士山はきれいな山だから、それを維持するために、入山料を取りましょう。山小屋の便所を使ったら使用料を取りましょう。」というものでした。その当時は山登りにお金を取るとは何事だ、という反応が大きく批判されたそうです。その当時の国民の反応と今の国民の反応は真逆になってしまった感があります。逆説をもって山の自然を守ろうという趣旨が、今ではそのままの問題として提起され、入山料を取る羽目になっています。エベレストでもごみ問題があるそうです。私は富士山に行ったことがありませんが、富士山を大事にしよう、という意識が薄れているようです。山を大事にすることは、自分を大事にすることでもあると私は思います。インターネットが発達して、誰でもが動画をのせ、意見を述べられる時代になりました。そういう事をしてお金を稼ぐこともできるようになりました。お金に換算できるようになったために、失言、失敗、建前、本音を安直にとらえ、拡散させるという事を主導することで、満足を得ているような気がします。私は国語力が落ちてきているように思います。他人を思いやる気持ちが足りなくなってきているように思います。日本本来の伝統が失われてきているように思います。世界的にみれば、日本の伝統的なものは、逆になっています。外国人が日本にやってくるのは、珍しいものがたくさんあるからではなく、日本の伝統に根差した文化、考え方があるからだと思います。珍しいだけでは、その内飽きられます。珍しさに根ざした裏打ちがあるはずです。その郷愁にも似た文化、伝統を味わいに来ているものと推察します。自分の意見が論理的にも、社会的にも正しいと判断される場合でも、たとえ法律的に間違っていなくても、それが絶対的な正解ではない場合もあります。こういうのはなかなか理解されないかもしれません。基準がどこにあるかです。自分にあるのか。他人にあるのか。法律か。社会か。それとも目指す思想にあるのか、です。YouTubeを見ているといろいろな意見が飛び交っています。いろいろな判断があると思いますが、自分基準だけで判断してはいけないと思います。選挙が近づいて来ています。日本をどうしたいのか考える時が来たように思います。

自民党が裏金議員に対して、厳しい対応をしています。公認しない、重複立候補者にしないなど。公認しない人は何となく分かる気がする。重複立候補者にしないのは、いまいちわからない。地元の理解が得られていない人、落ちそうな人、などは、どうやって調べるのだろうか。そもそも落ちそうだから重複立候補者にするものと思っていたが、違っていた。岸破派は、反安倍派潰しに躍起になってきたようである。見ている分には面白い。しかし実際問題となると、中北朝鮮よりでは困る問題である。総裁選挙では、小泉対高市を目論んでいたと思われる。それが石破対高市になったものだから、急遽石破に傾いたものと思う。本命小泉、対抗高市、穴石破の構図ではなかったか。そして裏方、本命菅、対抗麻生、穴岸田、大穴森山のうち麻生を除くものが石破に乗ったようだ。本命の小泉が落ち、本命の菅が意気消沈。岸田が森山の手管を使い菅を引き込んだように思う。対抗高市、麻生は落ちてしまった。岸田の思うつぼにハマってしまったようだ。岸田の突然の辞任に端を発し、次回の総裁を夢見て、候補者乱立による票の分散を図り、小泉、石破の二股保険をかけ臨んだ総裁選は、岸田の思惑通りに事が進んでいるように見える。衆議院選挙戦を熟知している森山が、自民党議席を減らすような重複立候補者を容認しない政策を取るとは思えない。小泉が焚きつけていると思われる。やはり小泉はボンボンのようだ。岸田から言われるままにやっているとしか思われない。岸田は思った以上に権力欲が強い。これは恐らく菅の政治手腕をまねているのだろう。思えば岸田は、誰かの真似ばかりしている。その内実を理解しないまま表面をなぞっているように見える。安倍元首相の外交努力をアメリカにべったり、世界に対しアメリカを頼みにして自由に名を挙げているぐらいに思っていたのだろう。国内では、菅の政治姿勢をまね、石破政権では、露骨に政権主導を発揮してきている。自分が返り咲きしたいために石破政権をコケにしてまで、反安倍派潰しに奔走しているようにしか見えない。政治とは恐ろしい権力闘争劇である。中国の習近平の権力闘争にも引けを取らないかもしれない。今更ノーサイドなどとは口が裂けても言えない。結果がどうなるか楽しみではある。ところで、日本保守党が30名の候補者を発表しました。この中に飯山さんが入っていなかったことで、話題になっていました。何らかの発言があってもよさそうなものだと思っていたところ、双方の言い分がありました。私は、それぞれの人の性分の違いが誤解を生んだものと理解します。会社には、営業部門、製造部門、事務部門が大まかにはあります。営業部門の人は対外関係を大切にし、細かい事は臨機応変に対応しようとします。製造部門の人は、物事を理論的に厳密に解釈し、それに沿った理解の範囲で行動しようとする。事務部門の人は、対外関係、理論的な実証よりも事実を重視する傾向があるように思います。営業が百田さん、製造が飯山さん、事務が有本さんと解釈すれば、それぞれの言い分が見えてくるように私には思えます。私の勝手な解釈です。日本保守党に期待している人が多くいるようですから、自民党を負かす勢力になってほしいものです。石破政権は長く持たないと言われていますが、直近では世界がきな臭くなってきています。日本が早く安定してもらいたいと思います。

自民党総裁選が行われています。小泉、石破、高市さんが有力のように言われています。小泉さんは、問題意識が古いように言われているように思います。夫婦別姓問題では、結婚後旧姓を使っても社会的には何の問題もない、制度になっています。夫婦別姓問題は実務的にはすべてクリアーになっているように思われます。むしろ子どもの名前をどうするのか、という事の方が問題になってきているように思われます。左派勢力による問題拡大路線に乗ったような発言は違和感があるように感じます。禅宗の考案にも名前に捕らわれる話が在ったように、囚われすぎたらダメだと思います。中国では、嫁(婿)に入っても名前が変わらないようです。但し、いつまでもよそ者の家の者のような扱いのようです。ほかの国では、祖父、クリスチャンネームなどを大事にしている国もあるようです。日本における名前は、家を表すのが一般的だと思います。家に縛られる嫁(婿)が、戦後分家して独立し、自由を勝ち取ったかのような状態を思い浮かべているのではないのかと想像します。自由を得た事、それによる苦労も考え合わせると功罪あるように見受けられます。やはり一家独立というのは苦労も多いものです。それでもなお縛られないという自由は大きいものがあるのように思います。名前においても個人を失うような不自由さを感じているのかも知れません。名前が変わるという不自由さを旧姓使用でも構わない、という自由さで許可している国はどれほどあるのだろうか。世界の国は、個人の存在は認めてはいるが、個々の存在は認めていない。個人の意見行動は尊重するが、個々人の意見行動には、代表を表す名前を付ける。残念ながら集まれば何らかの名前を付けざるを得ない。その名前がバラバラでは話にならない。名前だけが問題ならば、旧姓を使えばよいし、極端に言えば結婚しなくてもよい選択もある。サザエさんの家族は、父と娘で名前が違う。だから家族間では名字で呼びあい、社会的には姓で呼び合う。どちらが良いとか悪いとかの話ではないように思います。名前というのは生きている時の区別を表す呼び名にすぎない。セミは虫であり、クマゼミだというのにすぎない。仏教では戒名という名前まで付ける。死んでからは文句も付けられない。今では家名を大事に思っているのは、田舎の地主か、稀な名前の持ち主ぐらいなものだろう。赤ちゃん、仏さんの名前には家族の思いがついていると見た方が良いと思います。それは名前を付ける、変わるというよりも、そうする行為はその国の文化的行為と見た方が良いのではないのか、と思います。それぞれの国には、それぞれの文化があり、それぞれに合ったやり方考え方を尊重するのが、真のグローバリズムではないのかと思います。石破さんは何がしたいのか分からない。岸田さんと同じかもしれない。高市さんは、理路整然と述べられて意見を示しているようです。政治勢力図の関係もあるのでしょうが、どれだけ懐の広さを持っているのか分からない。中国が何故台湾に固執するのか。経済的理由、地政学的な理由、いろいろあるとは思いますが、私は台湾人が漢民族だから、と一つには思います。中国人は漢民族こそが中華思想の本躯であるように思っているのではないのか、と思います。中国の歴史を見ると漢民族の歴史もありますが、周辺国人による統治もあります。台湾人はある意味正当な後継者足りうる存在なのだと思います。その正当性を凌駕したい気持ちがあるのではないのか、と想像します。私の勝手な推察です。中国世界は皇帝官僚と庶民の二分化を形どっており、それ以外を認めない世界観を持っているようです。皇帝に物申すのは、相手が皇帝であらねばならないのであって、部下が意見を言っても聞かない。法律がどうのこうのと言っても無駄なことだと知るべきだと思います。日本人が危険な目に逢っています。日本の首相ははっきりとものを言うべき時期だと思います。

岸田総理が総裁選に出ることを辞めました。結局何をやったのか、何をやりたかったのか分からずじまいに終わるようです。自民党派閥解消とはいったい何だったのだろう。自分の総理続投のための布石ではなかったのではないのか。唐突すぎる不出馬は誰が引導を渡したのだろう。アメリカの大統領がトランプ氏に決まりそうなのも一因であろう。米国民主党べったりの政策を強行してまで行い、米国大使の行動に何も言えず、唯々諾々と政治を行う姿は、ポチと言われても仕方がない。後ろ盾のエマニュエル大使の帰国も影響しているだろう。しかし、私が思うのは、広島での政治資金パーティーの裁判が出たからではないのか、と思う。一応無罪の決着を見たが、これから裁判が長引けばどうなるのか分からない。もしかしたら検察から条件付き脅しをかけられたのではないのかと邪推します。安倍派をつぶす刀で、岸田派までもつぶしてしまった。安倍派幹部を起訴したのに岸田派はおとがめなしにしてしまった。その交換条件が、次はないよ、という事ではなかったのか。検察のお情けで続けてこられたのでは、と思ってしまう。私の地元ではそういう噂が立った議員がいました。私が思うに、安倍元首相の国葬を勝手に決めたのが、岸田首相の全ての政治手腕を物語っているように見える。安倍元首相暗殺でさえ米国の関与が疑われる。その後の岸田首相に投げた発煙筒事件後の行動でさえ怪しい。全て知らされていたのではないのか、とミステリー事件簿のように見てしまう。長崎原爆式典にイスラエルを呼ばなかったことで米国を怒らせたのが原因かもしれない。次期大統領選挙のために何も関与することが出来なかったエマニュエル大使の横暴さだけが目立ち、岸田首相を見限ったのかもしれない。政治の風を見るに敏なエマニュエル大使の行動は、素晴らしいものがある。次期大使も決まっていないのに帰国するという素早い行動である。これで国会解散は無くなってしまった。来年までだらだらと国会は続くだろう。茂木幹事長が喜び、総裁候補一番に躍り出たように思える。麻生さんが押せば次期首相でしょう。それにしても首相の器がだんだん小さくなってきているように思います。岸田首相の政策は何でも中途半端になっている。能登半島地震の処理、LGBTQ問題、外国人移民問題太陽光発電賦課金、少子化対策健康保険料上乗せ、長崎原爆と広島原爆での被害者救済での差別は、当日にとっちめられていた。米国に言われ、その場だけの政策のようにしか思えない。中国習近平氏がどうなっているのか分からない状況になっているようです。米国、中国の中が混沌として来ています。日本だけでもしっかりしてほしいものです。世界に伍していける首相候補が出てほしいものです。人気のない茂木氏。人気だけの小石河。統率力のない高市氏、中国大好き自公明、言うだけ野党、左翼新聞、法律忘れた左翼最高裁判官。次期選挙はどうなるのだろう。

長崎原爆式典にイスラエルを呼ばなかったことが話題になっています。政治問題化しているようですが、まだまだ平和は来ないものだと改めて思い知らされています。原爆式典にはどういう意味があるのだろうか。

①原爆の悲惨さを知ってもらう。

②原爆を例にとり戦争と平和を考えてもらう。

原子爆弾の廃絶を願う。

④世界に対しアッピールする。

①については式典に出席しなくても、資料館などを訪れることにより知ることが出来る。何も原爆投下日に来なくても、関心があるならいける日に行けばよい。政治家が靖国参拝を記念日にするようなものである。非難する方もされる方も政治問題化が好きなだけのように思われる。

②は、原爆という大量破壊兵器がどういうものか、戦争という隠れ蓑がそれを許す結果人はどういう行動を起こすのか。人間の本質はどこにあるのかなどを改めて考えさせる。

③は、原子爆弾は必要か。平和の均衡を保てるのか。大国の抑止力になりうるのか。大国の横暴さを助長するだけではないのか。

④は、原爆を持っている国も持たない国も一様に、改めて人が死ぬという事を、人を殺すという事がどういうことか、目の当たりに知らせる。

ロシアの大使が言っているのも一理あるように聞こえます。日本は先進国の仲間に入っていなければ生きていけないようになっています。そうしなければつぶされます。そういう現実を考えれば、イスラエルを呼ぶべきでしょう。しかしながら、celebrationという言葉には確かに引っかかるものがあります。横暴さが見え隠れします。こういう資本自由主義についていかなくてはならない現実にも嫌気がします。良き米国はどこに行ったのだろうか。

前に宗教の事を言いましたが、神道には血の汚れを嫌う傾向があります。現に戦争をしている国を平和の式典に呼ぶのはどうか、という事を言っておられる方がいました。それも日本人的だと思います。

長崎市長は、県内で国内で政治問題化したくないから呼ばなかったと思いたい。それをわざわざ国際的に政治問題化するような発言はどうだろう。原爆式典に日本国総理大臣が出席し始めたのはいつからだろう。最初からではない。

原爆式典にかこつけて原爆保有あり、なし論まで飛び出している。周りの国が原爆を持っているから、米国の傘頼りではいけない。一方原爆のような非人道的な兵器は持ってはいけない、など。不思議なのは現実を語っているようで、どちらの立場も現実を見ていない。現実の戦争を想定すれば最初から原爆を使うのは得策ではない。ロシアウクライナ戦争を見れば明らかです。日本の場合日本が弱っていたから米国は使ったわけで、途中で使ったならば、恐らく米国も悲惨な目に遭っていただろう。米国のインフラから都市の壊滅まで反撃をくらうだろう。だからもし途中で原爆を使うようならば徹底的に壊滅させるような使い方をするしかない。原爆保有国はそれが分かっているからしないだけである。原爆保有国になりたければ、相手国を立ち直らせないくらいの原爆を保有しないと意味がない。ある意味自殺するようなものです。

私は長崎市長の判断を尊重します。もしイスラエルを呼ぶのであればロシアも呼ぶべきです。原爆保有を論点にするのならそうすべきです。イスラエルを呼ぶ、呼ばないの論点が人によって主題が二転三転しています。それだけ政治問題化しているのでしょうが、たかが市長の判断を重要視するのは、国内が、世界が不安定化している証拠なのかも知れません。平和の式典が台無しのように感じます。

長崎では原爆式典が行われています。原爆被害は長崎で最後にしたいものです。日本全国で戦争の被害は起こっていたと思います。戦争のない世の中になれるよう願います。「あさ8」youtubeを見ていると、長崎原爆式典にイスラエルを呼ばなかったことで、G7の大使が式典の出席を取りやめたことを語っていました。話を聞いていると有本さんは良く分かっているように思いました。長崎原爆式典は、長崎市主催になっています。昔は社会党系、共産党系の団体があり(原水協原水禁)それぞれが言い分を言いながら開催していました。原爆被害者の救済を目的に立ち上げた団体だったと思います。被害者も少なくなり、一本化になりました。元々が野党色系の強い式典だったと思います。最近は式典がイベント化してきているように思います。本来宗教色の出る催し式典だと思いますが、長崎は不思議なところで、キリスト教神道、仏教、儒教など何でもあります。それが返ってよいのかも知れません。しかしながら社会共産主義はあります。長崎市長が、イスラエルに招待状を送らなかったのは、もしかしたらそういう経緯があったものと推察します。下手にもめたくないという配慮があったものと思います。長崎市長イスラエルを招待しなかったことに対し、イスラエルは何か言っているのだろうか。寡聞にして私は知らないが、1ケ月前に判断が出来かねる旨を送っていることを考えるならば、日本人の性質を知っているならば、理解しているものと思われる。G7は自由主義陣営という名の下での欠席と思われる。広島原爆式典に米国大統領を呼んだのは安倍元総理だったのではなかったか。それまでは積極的に参加もせず、今回ばかり文句を言うのは、どうであろうか。政治問題化にしてしまったというのは、外野の言い分のように聞こえる。政治問題にしない努力を、一人長崎市長にかぶせているように思われる。長崎には宗教色が玉虫色です。浦上天主堂諏訪神社隠元禅師、孔子祭などその時その時でお祭りをやっています。しかしながら、社会共産党系対資本自由主義系の対立ともいえる政治問題を未だに起こそうとしているように思われます。イスラエルを呼んで現在起こっているガザ地区問題を聞けばよかったのか。G7の大使に原爆の事を聞けばよかったのか。ウクライナ問題を話題にすればよかったのか。そういう問題を日本のジャーナリストは、果たして聞けるのだろうか。社会共産主義系を薄めてきて、長崎県民式典に持っていこうとする努力に、資本自由主義系の民族主義を注ぐのはいかがなものだろう。世界が二律背反の世界観しか持ちえない世の中になりつつあるように感じます。夏目漱石ではないが、この世が嫌でも、人でなしの国はもっと住みずらいと思います。