053|『檸檬』梶井基次郎|新潮社(新潮文庫)|小説あるいは文学の完成系 (original) (raw)
『檸檬』梶井基次郎|新潮社(新潮文庫)|2024.09.25 読了
本との思い出を忘れないよう備忘録も兼ねて、このブログを書いてきたのだけれど、過去の記事を読み返しては「何か足りねえんだよなぁ」とずっと思っていた。そして、この前、ようやくある本を手に取って思い当たった。
「そうだよ、足りなかったのは『檸檬』だよ!」
はたから聞くとまるでビタミンCの話をしているかのようにしか思えないが、あいにくビタミンCは毎日サプリで摂っている。大丈夫だ。
何が大丈夫なのかはさておき、こうやってくだらない話をしながら思い出たちを紡ぎ、ようやくこのブログの記事も50を超え、ここに来てついにミッシングピースを嵌め込む時が来たのである。まあ、何の話をしているのかはわからないけれど、やっぱり「読書」をテーマにしているからには『檸檬』は必要であると思う。ぼくが思うに、『檸檬』は小説(あるいは文学と言ってもいいが)の完成系であるからだ。
『檸檬』というと、ぼくの経験上、誰もが知っているイメージである。純文好きはもちろん、エンタメ小説好きの人もミステリーやSFばっかり読む人も、普段本を読まない人も、みんなl、「ああ、あの檸檬を置く話でしょ」という答えが返ってくる。それほどに有名なのはやはり『檸檬』が小説という表現の形の極地に到達しているからだと思う。
あのシーンはとても印象的である。ぼくが最初に『檸檬』を手にしたのも、奇しくも日本橋の丸善であった。京都と東京という違いはあれど、何か惹かれるものがあったのだと思っている。もう20年近くも前のことだ。梶井基次郎も夭折の人であり、その鋭敏な感性に惹かれるものがあったのだろう。
『檸檬』に描かれるあの印象的なシーンは、今読んでも瑞々しいままである。主人公の衝動的な行動に決して意味を残さずに、最後にはあのレモンの鮮やかな色だけを余韻の中に残すのだ。もし、そこまでを全て意図してやっているのだとしたら、梶井基次郎はとんでもない化け物である。いや、きっと全て意図しているだろう。写真で残っている彼の鋭い眼光を見れば、そんな気もしてくる。
表題作の『檸檬』は小品とも呼べるべきたかだか数ページの作品だ。しかし、その印象が強すぎて、いつも『檸檬』ばかりが取り上げられるのだけれど、そのほかにも『桜の樹の下には』や『Kの昇天』などの素晴らしい作品も本書には収められている。
夭折だから、という言葉は安易に使いたくはないのだけれども、自分の死期を悟っていたからこそ透明で美しい、瑞々しい感性を持っていたのではないかと思ってしまう。自分の人生と等価にして差し出したものだったとすれば、それは鬼の歩く道でもあるが、作家とは元来そういうものだ。『檸檬』を読み返すたびにそんなこと思う。