父よ、御名があがめられますように。御国がきますように(ルカ11:1~4) (original) (raw)

(今回は、信者の模範となる祈り、についてふれたいと思います)

ルカによる福音書・11章の1~4節より

『また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネ(=キリストの先駆者として洗礼をさずけていたヨハネ)がその弟子たちに教えたように(=祈りのことばを共有していたように)、わたしたちにも祈ることを教えてください」。そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ(=神よ)、御名が(みな=神の神性や本質をふくめたご存在そのものが)あがめられますように(=他のどんなものとも区別して、神を神として聖別する(世から選(よ)り分ける)ことができますように。また神の創造主としての完全性や永遠性をみとめて、あがめることができますように。なおこの祈りは、神がみわざをもってご自身をあらわしてくださり、人々がおのずと神をあがめていけますように、ということでもあります)。御国が(みくに=キリストが王として治める国が)きますように(=いまの世は、アダムが罪をおかして以降、サタンの支配におかれています)。わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください(=わたしたちが生きる上で必要な食べ物をおあたえください。なおここで “食物” と訳されている原語は、アルトンで “パン” という意味です。聖書でのパンは、命のパンといった霊的な意味合いでもちいられることがあります(ヨハネ6:35)。ですので、ここでも “日ごとの霊的な食べ物(糧=かて)をおあたえください” ともうけとれるかと思います。というのも、この体を実際にささえる食べ物は、神の国と義をもとめった結果に、おのずとあたえられるものでもあるからです(マタイ6:33))。わたしたちに負債のある者を(=罪をおかした者を)皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください(=信者になってからも、人は罪をおかしてしまう場合があります。その都度、神にゆるしをもとめることが大切です(ヨハネ一1:9)。また罪人であるわたしたちは、キリストの十字架による恵みで罪をゆるされているのですから、神がわたしたちにしてくださったように、わたしたちも他者をゆるすべきです)。わたしたちを試みに(=この世はサタンに支配されているので、霊において信者を神から引き離し、道をそらさせようとしてきます。こうした誘惑などをふくめた試みに)会わせないでください』」』

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(祈ることは、神とその人の交わりの機会となります。なので上記のものをただ暗記するというよりは、模範(もはん)となる祈りだとうけとめるのがいいと思います。その内容はというと、神がだれからもあがめられるご存在となり、神のご支配のもとでの国がくるように、また日ごとの糧をあたえていただき、罪をゆるしていただき、試みにあわせないように、というように、私たちが神に依(よ)り頼んで(=依存して)、その守りの中にいれられますように、との願いがこめられています。どうか一人でも多くの方が、神を頼りのものとしていけますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

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天の父なる神さま、

わたしは自分が罪人であるのを告白します。

このようなわたしのために、イエスさまが罪をひきうけて、

十字架にかかってくださいました。

そしてお墓にいれられ、三日目に父なる神によって死から復活させられました。

このことを信じるわたしを、これからもみちびいてください。

あなたからのめぐみと、あたえられた永遠のいのちに感謝いたします。

アーメン。