黒 田 国 男 の ブ ロ グ (original) (raw)
今回は、またまた私の独断と偏見で、ユニークな悪知恵を披露したいと思います。最近テレビなどのニュースを観ていると、色々と小さな疑問が浮かんできます。例えば、先の衆議院選挙で、裏金疑惑や、旧統一教会問題の旧安部派の、自民党国会議員が多く落選したのはなぜだったのか、とか。あるいは、国連から日本へ社会諸制度の法改正を突きつけてきたのはどうしてなのか、とか。さらに、次期アメリカ大統領に当確したトランプ氏はなぜあんなふうなのか、などなど、私の頭の中は、テレビなどのニュース番組やニュース情報番組を観ながら、疑問だらけになっていました。そこで、それらの事象を私なりに整理して、それぞれの背景の何がどうなっているのかを明らかにしたいと考えました。
まず、その前に、人道主義(あるいはヒューマニズム)・資本主義・民主主義の3つの主義の話をしたいと思います。私が中学高校大学で学んだ世界史の知識(主に欧米の歴史)によると、一番古くからあるのは人道主義(あるいはヒューマニズム)でギリシャの時代までさかのぼれます。一方、近代に入って、(フランス革命以来の)民主主義、次に(イギリス産業革命以来の)資本主義と続きます。すなわち、人道主義(ヒューマニズム)よりも、民主主義・資本主義ははるかに新しい主義だと言えましょう。
そもそも、人道主義(ヒューマニズム)はギリシャの奴隷制度の上に乗っかって成り立っていました。ローマ時代に入って、その危機を迎えますが、キリスト教と結びついて中世までを生き長らえます。キリスト教を通じて、ヨーロッパ各地の王政による保護を受けていました。ルネッサンスから近代に向けて、その人道主義(ヒューマニズム)が、王政から民主主義や資本主義の発展に便乗して、現代に至ります。現代の欧米の民主主義が、人道主義(ヒューマニズム)に裏打ちされているのはそのためです。なおかつ、資本主義がそれらを財政面で支えてきたことは言うまでもありません。
そのように考えてみると、人道主義(ヒューマニズム)は、単独では成り立たないという問題点を本質的に抱えていることがわかります。現代では、人道主義(ヒューマニズム)は、民主主義および資本主義の発展をその礎(いしずえ)としています。それらが不安定化してガタガタになれば、現代の人道主義(ヒューマニズム)は成り立ちません。国連が人道主義(ヒューマニズム)的な主張を打ち出しても、世界で起きている戦争や国内紛争を止められなくなっているのはそのためです。
私は、それを『人道主義(ヒューマニズム)の限界と敗北』と呼んでいます。現代の私たちの多くは、人道主義(ヒューマニズム)を世界的に唯一無二で至上主義的なものと、これまでは信じていました。あるいは、そういう考え方に慣らされてきました。しかし、現実はそうではなくて、民主主義的なものや資本主義的なものを軽視あるいは無視しては成り立たない世界に私たちが生存していることがわかります。だから、民主主義的なものや資本主義的なものを、現代の私たちは、もっと勉強しなければ生きていけません。
さて、冒頭に掲げた疑問に戻りましょう。以上のことから一番わかりやすいのは、トランプ氏のことです。彼は、資本主義の王道を行くと、私には思われます。ざっくり言えば、キャピタリスト(capitalist:資本主義者)なのです。そのように考えれば、イーロン・マスク氏が、彼の仲間であることも合点がいきます。また、人道主義(ヒューマニズム)に裏打ちされた欧米の民主主義者たちにとって、彼が好まれない理由もわかります。資本主義的な手法によって、アメリカ合衆国を、世界でNo.1の経済大国にし続けることが彼の信条ではないかと、私ならば推測します。そのためには、人道主義(ヒューマニズム)的なことを犠牲にすることもしばしば起ることでしょう。そんな彼に対しては、情ではなくて損得で話を進めないと、うまくいかないと思います。
さて、次は、先の衆議院選挙でいわゆる裏金議員や旧統一教会問題関係の自民党国会議員が落選して、自民公明の与党の国会衆院議員数が過半数割れしたことについてです。私は、これまでも自民党支持者ではありませんから、「自民党が選挙で大敗して、党執行部が責任をとるべきだ。」という意見をどこからか聞いたとしても、なにがどうなのかよくわかりませんでした。私は、国政選挙というものは、いかなる党がいかなる公約をかかげようが、それらが建前でしかないことを知っています。すなわち、いかなる党においても、その本音は、一人でも多くの党員を国会議員に当選させることだということを知っています。しかし、今回の自民党は、裏金疑惑(あるいは、政治と金の問題)や旧統一教会問題によって、国民の信頼を失いかけていました。それらの問題に何ら手を打たずにいれば、国民の信頼を失い、党は空中分解してしまったかもしれません。野党第1党からすれば、それは棚から牡丹餅ということになりかねません。(意地の悪い私は、今回は野党第1党に比例代表で1票入れました。野党第1党が政策協議をしないで、国会でヤジや批判ばかりしていると、国民の怒りが向くだろうと想像して、1票入れました。)
そう、今回の衆議院選挙は、問題のある自民党議員に国民の審判を下すためにあったのです。もちろん、「自民党執行部がそれを画策して、自らは手を下さずに、選挙という手段で国民に彼らを粛清させたのだ。表向きは選挙で大敗したことで、実はそのような酷いやり方をしたことで、いずれにしても党執行部が責任をとるべきだ。」というような意見も、テレビを観ていた私に少なからず伝わってきました。しかし、自民党執行部がそのようなお膳立てをしたにせよ、選挙で実際に彼らを粛清したのはこの国の『民』の力であったことに変わりはありません。
それに、落選した彼らは、処刑されたわけでも、命を奪われたわけでもありません。民主主義のルールに従って、『民』の審判のもとで、選挙で落選しただけのことです。すなわち、国会議員として国民の前に立つことがふさわしくない、と多くの『民』の投票で判定されただけのことなのです。
そのような政党内粛清のやり方に、何か恐怖をおぼえたのでしょうか。日本が、国連から社会諸制度の法改正を突き付けられるという事態となりました。人道主義(ヒューマニズム)に裏打ちされている欧米の民主主義からすれば、日本人の社会諸制度が遅れているからこそ、そのような多くの党内国会議員の粛清が起きてしまったのだと思われたのでしょう。でも、選挙で落選したからといって、その人の人権や命が奪われたり、脅かされりしたわけではありません。選挙で落選しても、党員として裏方に回って仕事をする人だっていらっしゃるわけですから、個人の自由を奪われるわけでもありません。だから、ニュースの報道をよく観て理解されれば、人道主義(ヒューマニズム)に反したことが、今回の日本の選挙においても行われていないことがわかっていただけると思います。
昨今では、民主主義の形骸化が世界的に指摘されております。けれども、今回の選挙におけるように、ちゃんと民主主義のルールと手続きにのっとってそれが行われていることを、もっとみんなに知ってもらいたい。そして、そのことを世界が評価してくれることを願ってやみません。かつまた、『民』の意思やその力を信じ、正しく怖れてくれる政治家や党員の方々が、この国に一人でも増えてくれることを未来においても期待します。
脱サラして二十年を超える私は、実は、これまでの連休中も働いていました。働きすぎじゃないか、とか、過労死しちゃうぞ、とかと、はたからは批判されそうですが、そうならないことが私自身に課せられた責務でもあります。確かに、この仕事(農業)は、70代や60代の現役で命を落とす方が少なくありません。自然の恵みを利用する代償として、心血を注いでしまうことも多々あります。ですから、サラリーマンの頃のように、一年中フルに働こうとすると、命を落としかねない、とも言えます。心身に無理をして得た代償は、個人として過酷な運命を受け入れなければなりません。
実は、私は、この仕事(農業)が、サラリーマンと同じようには毎月定額の給料を得られないということに、就農直後に気づきました。そして、そのことの不安定さに、愕然としました。しかし、サラリーマンの時のように、絶えず働き続ければ、必ず体や心を壊します。厳しい自然環境と直接向き合って働くとは、そういうことだったのです。
だから、サラリーマンを含む多くの人々と一緒に連休中を休まなくても、働く条件のいい時期にしっかりと働ければいいや、つまり、忙しい時期(農繁期)に働ければいいや、ということになりました。冬場(農閑期)は、田畑や農業資材・ハウス設備のケアをする仕事がありますが、私自身の裁量で連休を作ることができます。そのことを見越して、今のうちに働いておくのです。
この仕事(農業)を持続可能なものにするためには、生活費を何とかやりくりして節約もして、収入の少なさをカバーすることが私には必須です。そしてまた、事故や怪我に気をつけて、心身の健康を維持していくことも重要です。例えそれが守れないとしても、何とかしなければ生きてゆけません。たとえ不本意な終焉を迎えたとしても、どうにもならないのが現在の私自身の立場と言えましょう。
今年は、まだまだ仕事や生活の中で様々な課題を抱えて、忙しい日々を送っています。そんな中で、衆議院選挙の投票日も迫ってきました。「どうしよう。」と思っている人も少なくないと思うので、何かヒントとなることを書いてみました。
毎度のことですが、どの候補者に投票したらいいか、どこの政党に投票したらいいかを考えあぐねている人が少なくないと思います。自分は政治にあまり関心がないから、どうしたらよいかよくわからないという人も多いと思います。成人して、すなわち大人になってから、何でこんな面倒なことに毎回関わらなきゃいけないんだ、と選挙の投票日が近づいてくる度に感じてしまう人も意外と多いのかもしれません。
もしも、そうであるならば、こんなふうに考えてみてはいかがでしょうか。そもそも、これは小中学校のクラスにおける学級委員の選出と、それほど違わないと思うのです。万年不登校だった人は別として、普通は誰しも、学級委員を選出した時の記憶があると思うのです。大まかなイメージとして考えてみても、大人になって投票をすることは、それとそれほど変わらない事実だと、私は思います。
だから、政治がわからないから、とか、政治に関心がないから、といった理由は、本当を言えば、選挙に行かない理由にはなっていません。政治がよくわからなくても、政治にあまり関心がなくても、何らかの関与ができるのが、この選挙という『大人のシステム』だからです。そのことを知らない人が、この国では多すぎます。
現代的に言えば、個人を誹謗中傷せず、口出しや突っ込みが(もちろん匿名で)できる制度といったほうがよいと思います。もちろん、うまくいけばの話ですが、実際は投票してみなきゃわかりません。また各人の匿名性を守るために、実際は誰がどんな影響を与えて関与したかもわかりません。だから、公平に行われる必要があって、そのために面倒くさい手順とルールがあるわけです。
個人の候補者でも政党でもどちらでもそうですが、人間には本音と建前、ウソとホントがあります。どんなにウマい話や理想があっても、それを実行するための財源がなければ『絵にかいた餅』にすぎません。あるいは逆に、現実的なことばかりでは、夢も希望もなくて、たとえ財源があったとしても何も実行されません。そうした本音と建前、ウソとホントを見抜くことが、私たち一人一人に託された社会人(あるいは国民)としての責務なのです。すなわち、有権者は、顧客ではなくて、審査員と言えましょう。
すなわち、私は、個人や政党の候補者その人に、国会議員を任せて大丈夫かどうかの基準で、毎回投票しています。具体的な見返りは求めません。私の選んだ候補者が、当選しても期待外れだった場合は、次回は違う立候補者に投票します。実は、この国の有権者は自らが亡くなるまで、その投票の自由を持ち続けています。引退させられることはありません。だから、いつから投票することに意義があると気づいても(あるいは、遅れて気づいても)、恥ずかしいことではないし、むしろそれは喜ぶべきことです。
つまり、この国の私たち有権者の一人一人は、学級委員の選出の時のことをもう一度思い出してほしいと思うのです。誰も、仲良しや自らに都合の良い人ばかりを選んではいなかったと思います。学業の成績も良いし、この人ならば学級委員を難なくつとめてくれるだろう人に一票を入れてたはずです。あるいは、学級委員のやるべき面倒な仕事を押しつけても大丈夫な人に、言わばサンドバッグになってくれる人に、清き一票を入れてたはずです。このように有権者は、ズルいものです。ズルくなりましょう。
突然ですが、次のような感じの英訳を私は思いつきました。
How should I live my life?
If I'd never known your life
That delighted me in my heart
But it sometimes worried me
Even though I'm unhappy, I don't hate my life
I know we don't live our own lives once more again
But I'm willing to sacrifice me for you
Pardon me but I'm close to you
Please keep me every time
I take a great fancy to you
I'm crazy about you
はてさて、これは何という日本の歌謡曲を英訳しようとしたのでしょうか。ちょっと考えてみてください。答えは、ちょっと意外かもしれません。でも、何となく、そんな感じはしているかもしれません。
何となくの思いつきですが、私は『時の流れに身をまかせ』の歌詞をそんなふうに大まかに英訳してみました。まだ、翻訳として抜けている歌詞フレーズはあるものの、とりあえず思いつける部分だけを英訳しました。
実は、それに関して長い間、疑問に思っていることがありました。この曲には、日本語オリジナルの歌詞の他に、中国語バージョンがあります。しかし、英語バージョンを私は聴いたことがありません。
おそらく、英語圏での諸事情によって作られなかった、と考えられます。つまり、欧米などの英語圏においては、その歌詞の内容がよくわからない、あるいは、理解できたとしてもストレートに受け入れられない。すなわち、壁のようなものがあるような気がします。相手を愛することに、消極的かつ受身的な感じのする歌詞のように思われるのです。相手を好きなのに、その気持ちに自主性・主体性が無くて、時に流され人生に流されています。
テレサテンさん歌唱の別の曲で『愛人』という曲があるせいでしょうか、不倫か何かで愛人を待つという『おとなの歌』あるいは『道ならぬ恋』のイメージが強い曲として、私もこれまで思っていました。かつまた、「あなたの色に染められ」てと、その歌詞にあるように、自らの人生を異性の愛人に支配されるイメージがあって、それが英語圏の人々の理解を困難なものにしているようなのです。私もまた、「あなたの色に染められ」という歌詞フレーズをどう翻訳してよいかわからなくて、その英訳をひとまず空欄にしておきました。
それに、「時の流れに身をまかせ」という歌詞内容を英文に直訳すると、恋愛(love)のために自らの人権を放棄してしまうように聞こえます。それでは、この曲の真意が伝わりません。そもそも、恋愛(love)は個人の自由な意志があって成立します。したがって、私は、この曲で語られている恋愛観を、一から考え直してみることにしました。
たとえば、「もしもあなたに逢えずにいたら、私は何をしてたでしょうか?」という冒頭の歌詞の英語訳です。この曲の主人公は、『あなた』と出会ったことによって、一体どんな感情を抱いたのか、ということを疑問に思いました。オリジナルの日本語歌詞では、もちろん、そんなことはくどくどと説明しておりません。不倫か何かの『道ならぬ恋愛』のような、あやふやなシチュエーションを匂わせているだけで、あとは何となく聴く人にわかるだろう、という感じで説明していません。しかし、英語訳では、『あなた』と出会ったことで主人公の心に芽生えた喜怒哀楽をハッキリと表現していないと、「時の流れに身をまかせ」ることも、「あなたの色に染められ」ることも、まず理解できないと思いました。
そして、この曲のタイトル『時の流れに身をまかせ』を、私は”I Don't Hate My Life”としました。ネット上では”I only care about you ”とか”time goes by”とかの英語訳が見つかります。両者とも、この曲の内容に沿った英語訳だと思います。それらに対して、私の翻訳は、意訳しすぎるという批判があるかもしれません。冒頭の歌詞の英語訳の次に、私の頭に浮かんだのが、この「たとえ不幸(うまくいかない人生)であっても、私はそんな人生をイヤにならない」という意味内容の英語訳でした。『時の流れに身をまかせ』るということは、つまるところは、「自身の運命や人生に逆らわないで、むしろそれを受け入れ」て、その上で「自身の恋愛の自由を貫いてゆく」、すなわち、「力強く生きてゆく」ことであると思います。そして、それが、『時の流れに身をまかせ』ることの真意なのです。私の英語訳では、そのような積極的な意味を込めてみました。それならば、英語圏の人たちにも理解して頂けると思い、そのことを意図して、思い切った表現にしてみました。
実は、この曲の歌詞全体の英語訳バージョンを、私なりに完成させています。それを、このブログ記事で近いうちに公開できるとよいと思っています。
初代仮面ライダーがオンエアされていた頃、私は中学一年生でした。6歳下の弟と共に、毎週テレビを観ていました。当初は、子供番組にしては怪奇色の強い感じがしましたが、一文字隼人が本郷猛の代わりに活躍するようになった頃から、ドラマのムードが変わってきました。
そして、カルビーから『仮面ライダースナック』というものが発売されました。私は中学生だったので、一度しか買ったことがありませんでしたが、当時としてはかなり印象的なお菓子でした。私から観ると、桜の花びらが開いた形をして、砂糖水を吹き付けて甘くした『かっぱえびせん』みたいな感じのお菓子でした。その一袋に一枚、『怪人カード』というものが、おまけとして付いていました。カードの表には、テレビで登場した怪人の写真が印刷されていました。その裏には、その怪人に関するプロフィールとかエピソードが書かれていました。仮面ライダーにどうやって倒されたかが詳しく書かれてある場合もありました。私は、その『怪人カード』に興味がなかったので、それを弟にあげました。
当時、その仮面ライダーの『怪人カード』を集めることが、小学生たちに流行っていました。私は中学生だったので、そんな趣味はありませんでしたが、私の弟やその友人たちは、各人がしきりに『仮面ライダースナック』を買って、『怪人カード』を集めていました。自身の持っていない『怪人カード』や重複して持っているものは、友人同士で交換していたようです。時々、仮面ライダー自身の写真とプロフィールを記載したカードも見受けられましたが、ショッカーの怪人のほうが、人気はあったようです。その頃の子供たちの熱狂ぶりは、「『仮面ライダースナック』を買って、『怪人カード』だけを抜きとって、中味のお菓子は捨ててしまう。」とウワサされていたほどでした。
もったいない話かもしれませんが、なぜそれほどまでにショッカーの『怪人カード』に人気があったのか、ということを考えてみましょう。人間を襲うために登場して、仮面ライダーに退治されるショッカーの怪人たちは、バラエティーに富んでいます。その一方で、ほとんど偶然とも言える共通点を持っていました。いずれも、仮面ライダーの必殺技(主に、ライダーキック)をもろに受けて、それが原因で爆発してしまいます。主な視聴者である子供たちは、そのシーンを毎週観ています。怪人は違くても、ライダーキックを受けて爆発するのは、毎週同じなのです。
それをマンネリズムと言ってはそれまでなのですが、このルーティーンが意外と重要でした。どんなに悪い怪人であったとしても、正義の味方の強烈な必殺技で爆発までしてしまうというドラマ設定に、毎週、子供たちの心は揺すぶられていたのです。極悪非道な怪人に嫌悪感を抱くよりも、一連のドラマの流れの中でその悪事を許す方向に、子供心は誘導されます。子供たちが、ショッカーの怪人を本当に怖いと嫌っていたならば、『怪人カード』を集めるなどという行為には決して結びつかなかったと言えましょう。
そのような『怪人カード』を集めて楽しむ行為を現代風に言うならば、『怪人推し』と言えます。もちろん、昭和の仮面ライダーは、勧善懲悪ものでした。正義と悪がはっきりしていて、正義の敵は悪と決まっていました。でも、正義の味方は、悪を懲らしめたとしても、それを抹殺したり虐殺したりはしていません。「罪を憎んで人を憎まず。」の精神が、日本の子供番組には昔から伝統的に生きているのです。だから、視聴者の子供たちにとっては、どんなに悪い怪人であっても、いじめや虐殺により彼らの記憶から消去されるのではなく、むしろその逆を求めるほうが好ましかったと言えるのです。
ところで、平成の仮面ライダーの時代になると、「怪人を必ず悪とみる」こと自体が変わってきました。井上敏樹さんという脚本家は、人間の本質的に嫌な部分を描き、かつ、「仮面ライダーが必ずしも正義の味方であるとはかぎらない。」とし、「同族の争い、すなわち、複数の正義が乱立して互いに戦う。」ことを仮面ライダーの一連のドラマとして描いています。なお、彼のお父さんも、実は、伊上勝さんという脚本家で、私は『仮面の忍者・赤影』とか『ジャイアント・ロボ』とか『仮面ライダー』などの勧善懲悪ものをよくテレビで観ていました。
井上敏樹さんの脚本の中では、『仮面ライダー555』などを観ると、かなり考えさせられました。劇中、オルフェノクという怪人が出てくるのですが、その怪人になってから人間の心を捨てて残虐になってゆく者もいれば、怪人になっても人間の心を失くさず人間を襲うことを自制しようとする者も出てきます。一方、人間の中にも、良い人だけではなく、残虐な気持ちや身勝手さから悪いことをする者が少なくありません。つまり、オルフェノクという怪人は、人間よりも身体能力的に強いものの、精神的には、力に溺れる弱さを人間と同じくらいに持っています。だから、怪人であっても、悪い人間に利用されたり、だまされたりもします。しかも、仮面ライダーに変身できるのは、ほとんどがオルフェノクです。そのオルフェノクの心次第で、仮面ライダーは正義にも悪にも変身するのです。
このように、平成の仮面ライダーシリーズが始まると、『一概に悪とは決めつけられない怪人』が現れて、劇中の世界を複雑化してゆきます。しかし、その一方では、「怪人に感情移入しても、周囲から変に思われない。」という、視聴者側の『怪人推し』が以前よりもやりやすくなったと言えます。あるいは、昭和の仮面ライダーの『怪人カード』の収集から始まった、少年たちの『怪人』への思い入れが、『仮面ライダー555』あたりから映像化してきた感があります。
特に、『仮面ライダー電王』あたりになると、良太郎という主人公に味方する怪人(イマジン)たちが、主人公の体に憑依し、さらにおのおの個性ある仮面ライダーに変身して、悪い怪人たちと戦うという図式になります。本編ドラマのオープニング主題歌の何話かを、その怪人たちを演じている声優さんたちが熱唱しています。初代仮面ライダーのオープニング主題歌が、仮面ライダー役の藤岡弘さん自身が歌われていたことを思い出しますと、これはまたずいぶんと時代が変わったものだな、と思いました。ちなみに、過去に飛んだイマジンを電ライナーで追いかけるためのチケットは、あの『仮面ライダースナック』におまけで付いていた『怪人カード』にフォーマットがよく似ています。それが偶然なのか、故意なのかは、私は知りません。しかし、あの『怪人カード』の頃の少年たちの、いわゆる『怪人推し』がなかったならば、そうした偶然はありえなかったのかもしれません。
現在、小学生の学習指導要領に、英語とコンピュータ・プログラミングが加えられて画期的なことだと広く言われています。しかし、私の考えはちょっと違います。私は、少し前から『東大ナゾトレ』のことを高く評価しています。現行の英語やコンピュータ・プログラミングよりも、その有益性(すなわち、その実用性と面白さの価値とコスパの良さ)が評価されて、いずれは学校教育の学習指導要領に加えられるべきだと一人勝手に信じています。
これまでの私は、小中高大の各学校でいろんな知識を学んできました。その学んだ知識を理解し記憶しているかどうかをテストされて、平均点以上の試験結果になることが多かったと思います。しかし、そんな私には、何時しか、学校で学んでいることに対して、こんな疑問を抱くことが多くなりました。私なりに学んだ知識や情報を、どうやったら現実の日常生活の中で活用できるのか、ということです。そのことが、私には、まったくわかりませんでした。
私の通っていた学校や教室では、そんな根本的なことをまったく教えてくれませんでした。勉強をして様々な知識を覚えることは、学業成績を上げたり、上の学校の試験に受かるためであり、それ以外の役に立つものではないと教えられてきました。つまり、学校を卒業して、最終的に社会に出ると、どれ一つとして役に立たない知識や情報になってしまうわけです。もっとも、次のようにも聞かされていました。すなわち、それまでに多くの知識を覚えていれば、世間では頭がいい人に見られて、やがて日本のエリートになれるなどと、周囲の家族や親せきから吹き込まれていました。
私が『東大ナゾトレ』の存在をテレビの某番組で知ることになったのは、そのような疑問と苦悩の長い時間を経た後の、つい最近のことでした。「予備的な知識がほとんどなくても、わずかな情報や知識を取り込んで、それを論理的に考え分析して、つまり、インプットした情報や知識を活用して、その法則性を見つけて解答に導く。」ということは、人間の科学的思考方法として至極大切なことです。数多くの知識や情報を丸暗記することが大切なのではなく、必要な知識や情報を実生活の場に合わせて活用できることが大切なのです。
そのような思考の応用力を身につけることが重要なことは、学校の先生からしばしば教えられてきました。しかし、それをどうやったら日常生活の中で実現できるのかを教えてもらったことは一度もありませんでした。だから、『東大ナゾトレ』出題者の松丸くんが、そんな私にとっては初めての恩人だったと言えます。
現在、その『ナゾトレ』自体は、未来の学習指導要領とするには、まだまだ体系化(システム化)された知識や情報(あるいは技法)とは言えないかもしれません。しかし、だからこそ、それをテレビから気軽に受けとれる私たち視聴者が、そのやり方を体感的かつ実践的に学んで身につけることに、大きな意味があると言えましょう。「そのようなことを、構えることなく身につけられるなんて、現代の日本人は何て幸せなことなのでしょう。」と、そのように私には思えて仕方がないのです。
ここのところ、Eテレを視聴していて少し気になった番組がありました。『理想的本箱』という番組です。毎回3冊の本が、ある『お悩み』のテーマに沿って選ばれます。そして、それぞれの本の帯に書かれた説明のように、その本の内容を映像化したものが紹介されます。(『映像の帯』と番組内では呼ばれています。)
面白い趣向だなと、私は毎回感心していました。そこで、私もちょっとだけその真似をしてみることにしました。「××ロスに苦しむあなたへ」というテーマで、私も昭和ポップスから3曲ほど選んでみることにしました。YouTube動画検索サイトなどで、映像の帯ならぬ、動画コンテンツの帯で視聴していただくとよいと思います。
『22才の別れ』
『サルビアの花』
『眠れぬ夜』
もしかして、この選曲は、私の独断と偏見が強く反映されているかもしれません。かえって、古傷に塩をなすりつける結果となってしまい、非難の嵐となってしまうかもしれません。だから、『理想的本箱』という番組で述べられているのと同様、その曲を実際に選んで聴くかどうかは、あなた次第ということにいたしましょう。