黒 田 国 男 の ブ ロ グ (original) (raw)

突然ですが、次のような感じの英訳を私は思いつきました。

How should I live my life?
If I'd never known your life
That delighted me in my heart
But it sometimes worried me

Even though I'm unhappy, I don't hate my life

I know we don't live our own lives once more again
But I'm willing to sacrifice me for you

Pardon me but I'm close to you
Please keep me every time
I take a great fancy to you
I'm crazy about you

はてさて、これは何という日本の歌謡曲を英訳しようとしたのでしょうか。ちょっと考えてみてください。答えは、ちょっと意外かもしれません。でも、何となく、そんな感じはしているかもしれません。
何となくの思いつきですが、私は『時の流れに身をまかせ』の歌詞をそんなふうに大まかに英訳してみました。まだ、翻訳として抜けている歌詞フレーズはあるものの、とりあえず思いつける部分だけを英訳しました。
実は、それに関して長い間、疑問に思っていることがありました。この曲には、日本語オリジナルの歌詞の他に、中国語バージョンがあります。しかし、英語バージョンを私は聴いたことがありません。
おそらく、英語圏での諸事情によって作られなかった、と考えられます。つまり、欧米などの英語圏においては、その歌詞の内容がよくわからない、あるいは、理解できたとしてもストレートに受け入れられない。すなわち、壁のようなものがあるような気がします。相手を愛することに、消極的かつ受身的な感じのする歌詞のように思われるのです。相手を好きなのに、その気持ちに自主性・主体性が無くて、時に流され人生に流されています。
テレサテンさん歌唱の別の曲で『愛人』という曲があるせいでしょうか、不倫か何かで愛人を待つという『おとなの歌』あるいは『道ならぬ恋』のイメージが強い曲として、私もこれまで思っていました。かつまた、「あなたの色に染められ」てと、その歌詞にあるように、自らの人生を異性の愛人に支配されるイメージがあって、それが英語圏の人々の理解を困難なものにしているようなのです。私もまた、「あなたの色に染められ」という歌詞フレーズをどう翻訳してよいかわからなくて、その英訳をひとまず空欄にしておきました。
それに、「時の流れに身をまかせ」という歌詞内容を英文に直訳すると、恋愛(love)のために自らの人権を放棄してしまうように聞こえます。それでは、この曲の真意が伝わりません。そもそも、恋愛(love)は個人の自由な意志があって成立します。したがって、私は、この曲で語られている恋愛観を、一から考え直してみることにしました。
たとえば、「もしもあなたに逢えずにいたら、私は何をしてたでしょうか?」という冒頭の歌詞の英語訳です。この曲の主人公は、『あなた』と出会ったことによって、一体どんな感情を抱いたのか、ということを疑問に思いました。オリジナルの日本語歌詞では、もちろん、そんなことはくどくどと説明しておりません。不倫か何かの『道ならぬ恋愛』のような、あやふやなシチュエーションを匂わせているだけで、あとは何となく聴く人にわかるだろう、という感じで説明していません。しかし、英語訳では、『あなた』と出会ったことで主人公の心に芽生えた喜怒哀楽をハッキリと表現していないと、「時の流れに身をまかせ」ることも、「あなたの色に染められ」ることも、まず理解できないと思いました。
そして、この曲のタイトル『時の流れに身をまかせ』を、私は”I Don't Hate My Life”としました。ネット上では”I only care about you ”とか”time goes by”とかの英語訳が見つかります。両者とも、この曲の内容に沿った英語訳だと思います。それらに対して、私の翻訳は、意訳しすぎるという批判があるかもしれません。冒頭の歌詞の英語訳の次に、私の頭に浮かんだのが、この「たとえ不幸(うまくいかない人生)であっても、私はそんな人生をイヤにならない」という意味内容の英語訳でした。『時の流れに身をまかせ』るということは、つまるところは、「自身の運命や人生に逆らわないで、むしろそれを受け入れ」て、その上で「自身の恋愛の自由を貫いてゆく」、すなわち、「力強く生きてゆく」ことであると思います。そして、それが、『時の流れに身をまかせ』ることの真意なのです。私の英語訳では、そのような積極的な意味を込めてみました。それならば、英語圏の人たちにも理解して頂けると思い、そのことを意図して、思い切った表現にしてみました。

実は、この曲の歌詞全体の英語訳バージョンを、私なりに完成させています。それを、このブログ記事で近いうちに公開できるとよいと思っています。

初代仮面ライダーがオンエアされていた頃、私は中学一年生でした。6歳下の弟と共に、毎週テレビを観ていました。当初は、子供番組にしては怪奇色の強い感じがしましたが、一文字隼人が本郷猛の代わりに活躍するようになった頃から、ドラマのムードが変わってきました。
そして、カルビーから『仮面ライダースナック』というものが発売されました。私は中学生だったので、一度しか買ったことがありませんでしたが、当時としてはかなり印象的なお菓子でした。私から観ると、桜の花びらが開いた形をして、砂糖水を吹き付けて甘くした『かっぱえびせん』みたいな感じのお菓子でした。その一袋に一枚、『怪人カード』というものが、おまけとして付いていました。カードの表には、テレビで登場した怪人の写真が印刷されていました。その裏には、その怪人に関するプロフィールとかエピソードが書かれていました。仮面ライダーにどうやって倒されたかが詳しく書かれてある場合もありました。私は、その『怪人カード』に興味がなかったので、それを弟にあげました。
当時、その仮面ライダーの『怪人カード』を集めることが、小学生たちに流行っていました。私は中学生だったので、そんな趣味はありませんでしたが、私の弟やその友人たちは、各人がしきりに『仮面ライダースナック』を買って、『怪人カード』を集めていました。自身の持っていない『怪人カード』や重複して持っているものは、友人同士で交換していたようです。時々、仮面ライダー自身の写真とプロフィールを記載したカードも見受けられましたが、ショッカーの怪人のほうが、人気はあったようです。その頃の子供たちの熱狂ぶりは、「『仮面ライダースナック』を買って、『怪人カード』だけを抜きとって、中味のお菓子は捨ててしまう。」とウワサされていたほどでした。
もったいない話かもしれませんが、なぜそれほどまでにショッカーの『怪人カード』に人気があったのか、ということを考えてみましょう。人間を襲うために登場して、仮面ライダーに退治されるショッカーの怪人たちは、バラエティーに富んでいます。その一方で、ほとんど偶然とも言える共通点を持っていました。いずれも、仮面ライダーの必殺技(主に、ライダーキック)をもろに受けて、それが原因で爆発してしまいます。主な視聴者である子供たちは、そのシーンを毎週観ています。怪人は違くても、ライダーキックを受けて爆発するのは、毎週同じなのです。
それをマンネリズムと言ってはそれまでなのですが、このルーティーンが意外と重要でした。どんなに悪い怪人であったとしても、正義の味方の強烈な必殺技で爆発までしてしまうというドラマ設定に、毎週、子供たちの心は揺すぶられていたのです。極悪非道な怪人に嫌悪感を抱くよりも、一連のドラマの流れの中でその悪事を許す方向に、子供心は誘導されます。子供たちが、ショッカーの怪人を本当に怖いと嫌っていたならば、『怪人カード』を集めるなどという行為には決して結びつかなかったと言えましょう。
そのような『怪人カード』を集めて楽しむ行為を現代風に言うならば、『怪人推し』と言えます。もちろん、昭和の仮面ライダーは、勧善懲悪ものでした。正義と悪がはっきりしていて、正義の敵は悪と決まっていました。でも、正義の味方は、悪を懲らしめたとしても、それを抹殺したり虐殺したりはしていません。「罪を憎んで人を憎まず。」の精神が、日本の子供番組には昔から伝統的に生きているのです。だから、視聴者の子供たちにとっては、どんなに悪い怪人であっても、いじめや虐殺により彼らの記憶から消去されるのではなく、むしろその逆を求めるほうが好ましかったと言えるのです。
ところで、平成の仮面ライダーの時代になると、「怪人を必ず悪とみる」こと自体が変わってきました。井上敏樹さんという脚本家は、人間の本質的に嫌な部分を描き、かつ、「仮面ライダーが必ずしも正義の味方であるとはかぎらない。」とし、「同族の争い、すなわち、複数の正義が乱立して互いに戦う。」ことを仮面ライダーの一連のドラマとして描いています。なお、彼のお父さんも、実は、伊上勝さんという脚本家で、私は『仮面の忍者・赤影』とか『ジャイアント・ロボ』とか『仮面ライダー』などの勧善懲悪ものをよくテレビで観ていました。
井上敏樹さんの脚本の中では、『仮面ライダー555』などを観ると、かなり考えさせられました。劇中、オルフェノクという怪人が出てくるのですが、その怪人になってから人間の心を捨てて残虐になってゆく者もいれば、怪人になっても人間の心を失くさず人間を襲うことを自制しようとする者も出てきます。一方、人間の中にも、良い人だけではなく、残虐な気持ちや身勝手さから悪いことをする者が少なくありません。つまり、オルフェノクという怪人は、人間よりも身体能力的に強いものの、精神的には、力に溺れる弱さを人間と同じくらいに持っています。だから、怪人であっても、悪い人間に利用されたり、だまされたりもします。しかも、仮面ライダーに変身できるのは、ほとんどがオルフェノクです。そのオルフェノクの心次第で、仮面ライダーは正義にも悪にも変身するのです。
このように、平成の仮面ライダーシリーズが始まると、『一概に悪とは決めつけられない怪人』が現れて、劇中の世界を複雑化してゆきます。しかし、その一方では、「怪人に感情移入しても、周囲から変に思われない。」という、視聴者側の『怪人推し』が以前よりもやりやすくなったと言えます。あるいは、昭和の仮面ライダーの『怪人カード』の収集から始まった、少年たちの『怪人』への思い入れが、『仮面ライダー555』あたりから映像化してきた感があります。
特に、『仮面ライダー電王』あたりになると、良太郎という主人公に味方する怪人(イマジン)たちが、主人公の体に憑依し、さらにおのおの個性ある仮面ライダーに変身して、悪い怪人たちと戦うという図式になります。本編ドラマのオープニング主題歌の何話かを、その怪人たちを演じている声優さんたちが熱唱しています。初代仮面ライダーのオープニング主題歌が、仮面ライダー役の藤岡弘さん自身が歌われていたことを思い出しますと、これはまたずいぶんと時代が変わったものだな、と思いました。ちなみに、過去に飛んだイマジンを電ライナーで追いかけるためのチケットは、あの『仮面ライダースナック』におまけで付いていた『怪人カード』にフォーマットがよく似ています。それが偶然なのか、故意なのかは、私は知りません。しかし、あの『怪人カード』の頃の少年たちの、いわゆる『怪人推し』がなかったならば、そうした偶然はありえなかったのかもしれません。

現在、小学生の学習指導要領に、英語とコンピュータ・プログラミングが加えられて画期的なことだと広く言われています。しかし、私の考えはちょっと違います。私は、少し前から『東大ナゾトレ』のことを高く評価しています。現行の英語やコンピュータ・プログラミングよりも、その有益性(すなわち、その実用性と面白さの価値とコスパの良さ)が評価されて、いずれは学校教育の学習指導要領に加えられるべきだと一人勝手に信じています。
これまでの私は、小中高大の各学校でいろんな知識を学んできました。その学んだ知識を理解し記憶しているかどうかをテストされて、平均点以上の試験結果になることが多かったと思います。しかし、そんな私には、何時しか、学校で学んでいることに対して、こんな疑問を抱くことが多くなりました。私なりに学んだ知識や情報を、どうやったら現実の日常生活の中で活用できるのか、ということです。そのことが、私には、まったくわかりませんでした。
私の通っていた学校や教室では、そんな根本的なことをまったく教えてくれませんでした。勉強をして様々な知識を覚えることは、学業成績を上げたり、上の学校の試験に受かるためであり、それ以外の役に立つものではないと教えられてきました。つまり、学校を卒業して、最終的に社会に出ると、どれ一つとして役に立たない知識や情報になってしまうわけです。もっとも、次のようにも聞かされていました。すなわち、それまでに多くの知識を覚えていれば、世間では頭がいい人に見られて、やがて日本のエリートになれるなどと、周囲の家族や親せきから吹き込まれていました。
私が『東大ナゾトレ』の存在をテレビの某番組で知ることになったのは、そのような疑問と苦悩の長い時間を経た後の、つい最近のことでした。「予備的な知識がほとんどなくても、わずかな情報や知識を取り込んで、それを論理的に考え分析して、つまり、インプットした情報や知識を活用して、その法則性を見つけて解答に導く。」ということは、人間の科学的思考方法として至極大切なことです。数多くの知識や情報を丸暗記することが大切なのではなく、必要な知識や情報を実生活の場に合わせて活用できることが大切なのです。
そのような思考の応用力を身につけることが重要なことは、学校の先生からしばしば教えられてきました。しかし、それをどうやったら日常生活の中で実現できるのかを教えてもらったことは一度もありませんでした。だから、『東大ナゾトレ』出題者の松丸くんが、そんな私にとっては初めての恩人だったと言えます。
現在、その『ナゾトレ』自体は、未来の学習指導要領とするには、まだまだ体系化(システム化)された知識や情報(あるいは技法)とは言えないかもしれません。しかし、だからこそ、それをテレビから気軽に受けとれる私たち視聴者が、そのやり方を体感的かつ実践的に学んで身につけることに、大きな意味があると言えましょう。「そのようなことを、構えることなく身につけられるなんて、現代の日本人は何て幸せなことなのでしょう。」と、そのように私には思えて仕方がないのです。

ここのところ、Eテレを視聴していて少し気になった番組がありました。『理想的本箱』という番組です。毎回3冊の本が、ある『お悩み』のテーマに沿って選ばれます。そして、それぞれの本の帯に書かれた説明のように、その本の内容を映像化したものが紹介されます。(『映像の帯』と番組内では呼ばれています。)
面白い趣向だなと、私は毎回感心していました。そこで、私もちょっとだけその真似をしてみることにしました。「××ロスに苦しむあなたへ」というテーマで、私も昭和ポップスから3曲ほど選んでみることにしました。YouTube動画検索サイトなどで、映像の帯ならぬ、動画コンテンツの帯で視聴していただくとよいと思います。

『22才の別れ』
サルビアの花』
『眠れぬ夜』

もしかして、この選曲は、私の独断と偏見が強く反映されているかもしれません。かえって、古傷に塩をなすりつける結果となってしまい、非難の嵐となってしまうかもしれません。だから、『理想的本箱』という番組で述べられているのと同様、その曲を実際に選んで聴くかどうかは、あなた次第ということにいたしましょう。

私が、インターネットにつながる(つまり、インターネットにアクセスできる)ネットコンピュータの環境を自身で持つようになったのは、2010年3月頃だったと思います。もともと私は、通信系分野のことは知りませんし興味もありませんでした。ほとんどそっちの分野は専門外でした。だから、インターネット、イーサーネット、イントラネットについて、余り詳しくありませんでした。ただし、2010年頃から使い始めたネットパソコンについては、以下のようなことを知っていました。
そのノートパソコンには、インテル社のAtomプロセッサーという、ノートパソコン向きの内部動作周波数1.6GHzの32ビットCPUが使用されていました。当時としては標準的なノートパソコンのシステム環境ではありましたが、それほど時代遅れの機種でもありませんでした。OSも、ウィンドウズXPからウィンドウズ8.1に手動でアップグレードして、あとはウィンドウズ10まで自動アップデートしていました。また、ハードディスクが壊れたのをきっかけにして、SSD(ソリッドステートドライブ)に切り替えました。すると、OSの立ち上げに30分かかっていたのが、5分で完了するようになりました。また、ノートパソコン上のキーボードやキーパッドが壊れてきたので、USB接続で別のキーボードやマウスを付けて代用していました。
しかし、それでもここ1、2年のうちに、ある理由からネットにつながりにくくなっていました。そのノートパソコン本体の動きを観察していると、ディスクアクセスなどの内部処理が頻繁に起きていて、そのためにネットとのアクセスのタイミングが遅れて、ネットのフリーズやネットとの通信切断がしばしば起るようになってしまいました。なぜならば、OSの自動アップグレードによって、その更新に見合ったCPUチップのより高いスペックが要求されるようになったからです。そこで、ネットパソコン本体全体のグレードアップが必要となりました。地元の家電量販店をいくつか回って、ネットパソコンの内部処理の速いものを探しに行きました。
そのための知識として学んだことは、次のようなものでした。まず、CPUプロセッサー内部動作周波数ですが、最近でもオーバークロックできるものもあるようです。しかし、あまり、オーバークロックに頼るとCPUチップ内部が熱で破壊されてしまいます。また、ネットでの使用は、やや長時間になりがちなのでそれに見合った耐久力が必要です。よって、その内部動作周波数が格段に速いことが即、パソコンシステム全体の処理速度に影響するかというと、そうとも言えないと思いました。次に、32ビットから64ビットへCPU並行処理ビット数を変える必要を考えました。これは、ハードウェアのみならず、ソフトウェアも全く変えなければならない大仕事ですが、ウィンドウズ11以降のOSのアップグレードを将来的に考えるならば、必須のことだと考えました。また、今の世の中的に見ても、32ビット対応のソフトウェアよりも、64ビット対応のソフトウェアのほうが当たり前に速く動くようになってきたため、これを機会に64ビットCPUチップのマシンに変えようと判断しました。
また、それに合わせて、CPUのマルチコアということが条件として外せないことに気づきました。昔、マルチプロセッサーと呼んでいた技術に近いものです。同一チップ内に複数のCPU(コア)を持つものが、現在一般的になっていました。一つのプログラムを複数のCPU(コア)で分担処理するだけでなく、スレッド単位(昔の言い方では、タスク単位あるいはプロセス単位)で分担して同時処理することは、現代のネットOS社会では必須と言えましょう。つまり、昔風に言うと、バックグラウンドでは、ネットとのやりとりと、ディスクアクセスなどのOS的な内部処理をします。そして、フォアグラウンドでは、キーボードやマウスからの『入力』と動画やCG画像などの『出力』を合わせたユーザーインターフェイスが、高速なデータ処理と大容量なデータ処理を必要とします。すると、そのような状況下では、バックグランドで2つ、フォアグランドで2つの都合4つのCPUコアの同時進行が理想的であることがわかります。ソフトウェア的にも、最低でもそれら4つのスレッドが動作すると考えると、よりシンプルに各プログラムが動作して、かつ処理効率もまた良くなると思いました。よって、新しく購入するネットパソコンには、そのようなマルチコアでマルチスレッド対応の条件は外せないと思いました。
以上のような考え方から、新しいネットパソコンを選んで買いました。しかし、それだけに終わらなかったことが、今回のアップグレードの難しい点でした。ウィンドウズ11の動作する最新マシンに必須なのが、ネット通信環境のアップグレードだったのです。これまでは、FOMAのL-05Aというデータ通信端末を使っていましたが、それが3G対応だったために、新しいパソコンシステムでは使えないことがわかりました。そこで、5G・4G対応のルーターを買って、新システムとWiーFi(無線LAN)接続しました。これによって、これまで使っていた通信契約は解約することになりました。3G対応のメールサイト(mopera.net)は、全く使えなくなります。
アプリケーションソフト(あるいは、アプリソフト)的には、メールアドレスに関係しているものを全て更新しました。これまでのメールアドレスでメールが送られてきたところからは、メールが送られてこないようにストップする必要がありました。あるいは、新しいマシンで新しいメールサイトを見つけて、新しいメールアドレスを登録しました。それから、これまで私が利用していた、ログインを必要とするサイトのメールアドレスを、全て新しいメールアドレスに書き直しました。結局、以上のことをするのにそれなりの時間と手間がかかりました。
しかし、これまで利用していた通信システムプランの解約を最後に終えると、私のネット環境は以前よりも格段に使いやすくなりました。特に、ノートパソコンの内部処理がほとんど瞬時に処理されるのを確認して、そう感じられました。それは、私の見立てが間違っていなかったことを証明するものでした。そのような作業を自らの手で進めていくうちに、「パソコンのネット環境だけは、世の中の流れに合わせてアップグレードしていかなくてはいけない。」ということに私は改めて気づかされることとなりました。

先日NHK総合テレビの『チコちゃんに叱られる』を観ていたら、「ささいなことで好きな気持ちが冷めるのはなぜ?」という問題の解答VTRの中で、ちょっと気になるシーンがありました。とは言っても、それは批判ではありません。一瞬唖然として、後で笑ってしまったという、ある意味でキャッチなシーンでした。
若い男性が、洗面所で歯磨き粉のチューブのかわりに辛子のチューブを見つけて、若い女性とちょっと揉(も)めそうになるシーンがありました。それを、何事もなかったかのように円くおさめようとする男性。すると、その彼の見ていないところで、チェッと悔(くや)しそうに舌打ちをする女性。
テレビでその一連のシーンを観ていた私は、何が何だかすぐには理解できませんでした。ちょっと考えてみて、これは男性に対する、女性の意地の悪いイタズラだな、と気がついて、つい私は嬉(うれ)しくなってしまいました。もしも、私が女性だったならば、一度はやってみたいイタズラです。本当はやってはいけない、つまり、禁断の(漢字で『悪戯』と書きますが)イタズラです。
この女性のチェッという舌打ちには、たとえば「何年私とつきあっているのよ。いいかげん、本当のことに気づいたらどうなのよ?」みたいな、男性への冷めた気持ちが見てとれるから、面白いのです。確かに、一般的に男性は、女性の意地の悪さを容易には認めたがらない、言い換えれば、それに目をつぶりがちなものです。でも、女性の側からすると、それはイライラします。男性の見ていないところで、すなわち、かげでチェッと舌打ちする気持ちもよくわかります。
ちなみに、ネット検索上のAI、つまり、ウィンドウズのCOPILOT(コ・パイロット、副操縦士)に「洗面所 からしチューブ いたずら」といきなり聞いてみたところ、たまたま『いたずら』について会話を続けることはできないと丁重な言葉で拒否されました。ネット検索AIのCOPILOTが「何でも聞いてください…」と問いかけてくるものですから、つい私はそのような質問をしてみたわけです。
でも、人間のようには融通が利かないAIとしては、これは正しい反応だと思いました。周知のことですが、COPILOTは、GPT-4というAIを使用しています。そのAIの会話拒否に対して、私は人間としてチェッと舌打ちしました。このように、私のほうがずっと意地の悪い人間なのかもしれません。

最近、学園を舞台としたテレビドラマを観ていて、少し私の心にひっかかるものがありました。その中でも特に、バカリズムさんの脚本でPТAを風刺したドラマ作品を観て、現在の親御さんの気持ちってそんな感じなのかなあ、と思うところがありました。すなわち、児童の保護者は、なるべくPТAの仕事は受け持ちたくないと思っている人が多いということです。
私は、人の子の親になったことがありません。しかも、教職に就いたこともありません。だから、親御さんの気持ちも、学校の先生の気持ちも、本当のところ実感してはいません。確かに私は、H大学時代、教職課程の授業に全部出席して、教育実習にも行きました。けれども、教員採用試験を一度も受けることなく、サラリーマンになる道を自ら選びました。そのような私の生い立ちからして、それに対する見解は、PТAを外野から批判し評価する、いわゆる野次馬的なものにしかならないのかもしれません。それでも、何かの参考にはなることでしょう。だから、ちょっとだけ目を通していただいても、損はないかもしれません。
私が小学校の児童だった頃のPТAはどんな感じだったのかと申しますと、兎に角、すごいというイメージがありました。PТAの会長さんが、学校の近所で小さな病院の医院長をなさっていました。また、二人の小学生の息子さんを持つ、教育熱心なお父さんでした。学校の競泳大会があると、PTA会長の名にかけて、二人の息子さんが必ず一番をとらないといけないような、すごい熱の入れようでした。一緒に泳ぐ相手に、PТA会長の息子さんがいると聞いただけで、ビビる子が少なくありませんでした。このような学校行事があると、権威あるPTA会長さんの機嫌をうかがって、皆が忖度せずにはおれない雰囲気が周囲に満ちておりました。
そしてまた、当時は、PTAの全国組織というものが、某消費者団体なみに幅をきかせていました。後にアニメ『デビルマン』の漫画原作者で有名になられた永井豪さんの、少年雑誌や単行本での連載漫画『ハレンチ学園』が、そのPTA組織によって全国的な有害図書扱いにされました。あるいは、土曜の夜にテレビでやっていた『キイハンター』という番組の女性ヒロインが、悪を倒す格闘中にパンチラを見せるので、教育上、子供に好ましくないからテレビを観せちゃいけない、などという情報発信も、当時のPTAからはなされていました。
このように、中学高校で生徒が自主的に行っている風紀的な役割を、小学校のPTAは担(にな)っておりました。加えて、盛り場のゲームセンターで児童が年長の不良にからまれて誘い込まれる事例もあり、保護者や先生が定期的に見回りをするということもありました。実際に私が知っているPTAは、以上のような感じでした。
最近、私には、もう一つ気になることがあります。生徒や児童に関わる問題が、テレビのニュース情報番組で取り上げられると、決まって専門家さんの口をつく言葉が気になるのです。「子供は、地域(の責任)で育てるべきだ。」という常套手段と呼ぶべく文言です。子供のことで何か社会的事件が起きるたびに、そのような主張が聞かれます。しかし、残念なことに、その後の経緯(けいい)をたどってみると、その時その時の掛け声にしかならないことも多いようです。
野次馬的な私から申せば、Parent(親)とTeacher(教師)のAssociation(会)、すなわち、PTAが地域に根ざして機能していることが、「子供は地域(の人々の協力)で育てるべきだ。」という理念の第一歩なのだと思います。親や先生のしつけの行き過ぎ、その体罰の問題、子供同士のいじめの問題、モンスターペアレントの問題、半グレや不良化から子供たちを守る大人の責任問題、子供の自殺や自傷行為の問題等々、PTAが関わるべき課題は少なくありません。それらの課題あるいは問題は、いずれも学校の先生や教育委員会にすべての責任を負わせて解決できるものではないと思うのです。
人の子の親は、どうしても学校の先生や教育委員会に、その責任のすべてを負わせてはばかりません。どうしても、学校の先生や教育委員会の持つであろう『社会的な権威』にすがりがちです。落ち着いて考えてみればわかりますが、そんな権威など、何処にも存在してはいません。それは、親御さん自身が子供の頃に植え付けられていたある種の幻想にすぎないと思います。
現に、学校の先生にしても、教育委員会にしても、地方公務員の処遇であることを、私たち市民は忘れてはいけません。野次馬的に申すならば、地方公務員が子供たちの規範にならなければならないという、筋や道理など何処にもないのです。誰も異存はないと思いますが、例えば、警察官は、市民社会の治安を守ることが地方公務員としての職務です。それと同様に、教師(学校の先生)は、国の教育カリキュラムで定められた知識や技能を子供たちに教えることが地方公務員としての職務です。それ以外の問題や責任を、学校の先生に押しつけることは、本来はできないはずなのです。『学校の先生』という、庶民が勝手に造り上げた虚像(例えば、一生好きな勉強を職業としてやっていけるなんて幸せなことだ、みたいな庶民の思い込み)が、教師という地方公務員の職務遂行を妨害していることは明らかなのです。
したがって、「子供たちは地域で育てるべきだ。」「子供たちの面倒は地域でみるべきだ。」という考え方は、これからの日本社会のあり方として、見逃せない重要ポイントだと思います。学校の先生が偉いのではなくて、周りの様々な大人が偉いのだと、子供たちに体感して納得してもらえることが大切なのです。そのような地域社会を作っていくために、PTAは重要な役割を実は担っているはずなのです。その意思決定機関のあり方として、現存のPTAは、PTPA(Parent & Teacher & Policeman Association)やPTCA(Parent & Teacher & Counselor Association)などの協議会組織に発展するかもしれません。将来、地方自治体の管轄下で、警察や児童相談所の職員とも連携したそれらの組織が、子供たちの命や人権を守るために機能してくれるといいと思います。野次馬的に考えてみても、地域に根ざした活動を、それらの組織が担ってくれることを将来的に期待してやみません。
(蛇足として、以下の事柄を付け加えておきます。最近まで『ブラックポストマン』というテレビ東京制作のドラマを、地元テレビ局の夜中の放送で観ていました。子供たちの命や人権を守るべきはずの、地方自治体の長、警察の長、医師などの大人たちが、まるで逆のことをして、地域の市民や子供たちを苦しめるというストーリーでした。そこで立ち上がったのが、何の権力も持たない郵便配達員でした。その帽子と制服に『P』のマークが付いていて、警官(Policeman)の代わりに、そのポストマン(Postman)が、その地域社会の悪や不条理に立ち向かって、逆に犯罪者として嫌疑をかけられる、という面白いドラマでした。)