黒 田 国 男 の ブ ロ グ (original) (raw)

少子化による日本の若者の人口減少問題に、解決の決定打が何もない今日この頃ではありますが、最近の私個人にとってはうれしいニュースがありました。65歳を直前にして、やっと老齢年金をいただける資格を得られることとなりました。ここ1,2年のうちに、めっきり心と体が衰えてきましたので、そのありがたさは計り知れません。これまでの私は、「年金制度はもうすぐなくなる。」というデマを数限りなく聞かされてきました。そのことを信じないで真面目に年金保険料を納め続けてきて本当に良かったと思います。
これまでの私の半生を振り返ると、東京で会社勤めをしていましたが、そのひねくれた性格から、社会保険の手薄い小さな会社に転職したり、正社員から契約社員になる道を選んだりしました。そのあたりから企業年金から国民年金の保険料納付となりました。さらに悪いことは、会社勤めを完全にやめて(つまり、脱サラして)農業を始めてしまったことです。
だから、若い頃からちゃんとした企業で勤め上げてきた正社員や地方公務員の方々よりも、老齢年金として支給される金額がはるかに低いのです。今になって考えてみると、若い頃にそのようなことを知っていたならば、どんなことがあっても教員採用試験を受けようと頑張ったでしょうし、会社員になっても何があろうと無謀な転職だけはしなかったことでしょう。また、就農して己(おのれ)の生活水準を落とすなどということは決して無かったと言えましょう。
しかしながら、これもまた全ては後の祭りです。どうにもなりません。いずれ別の記事で書きますが、農業は利潤追求を目的としてはいけない側面があります。ここでは簡単に書いておきますが、商品価格をつり上げて消費者のほとんどが買えない農産物を作ることは、ほとんど刑事犯罪に近いことです。そのような結果として、国民(特に都会の人々)を餓死させることは、人命を奪うことに等しい行為であり、農家は絶対にやってはいけないことなのです。
だから、私の場合、農業収入(あるいは農業所得)が低くても、鎌(かま)や鍬(くわ)などを振り回して、暴れることはいたしません。文句ひとつ言わずに農業活動を続けていきます。これから受け取る老齢年金で生活費をまかなおうと計画しています。そう遠くない将来に私自身の人生が終わりを告げるまで、そのペースが持続できればいいと考えています。
ところで、最近テレビのニュースで日本人の出生数がさらに減ったということを知りました。このままいくと、老人(年金受給者)一人を支える働く世代(年金納付者)の数が、さらに減って大変なこととなると聞いています。この社会保障費を工面(くめん)するために、どこか他から税金を持って来なければならないのか、という議論もあります。つまり、その根本には、日本人の出生数の減少による少子化の問題があるとされ、まず婚姻数を増やし、さらに子育て支援に力を入れないといけない、とされています。
ところで、(生きてさえいれば)近々年金をもらえるようになる私には全く別の考えがあります。私は、未婚で子孫がいません。ある意味で兵役免除の形だと納得して、その哀しみを抑えています。けれども、それは、日本の少子化の元凶を作っているわけであり、本来あるべき姿ではありません。そこで、提案なのですが、「出生した子供を成人するまで育てて、社会で働いて一人前に稼げるようにした」そんな親御さんには、老齢年金でもらえる金額を『かさ増し』する制度を追加してはどうか、ということです。そうした一人前に働ける若者を育てることを、従来の個人の自由な選択から、国家の一大プロジェクト的な、あるいは、社会的な貢献と位置付けてはどうでしょうか、という案です。その場合の『親御さん』は、一般の男女夫婦でも、シングルマザーやシングルファザーでもかまわないとします。私のように老人になりつつある者は、結婚や子育てをする能力が、もはやありません。だから、若い人々あるいは働く子育て世代への、そのような『年金へのかさ増し』があるのと無いのとでは、結婚や子育てに対する意識がだいぶ違うものとなることでしょう。
従来、老齢年金というと老人の生活を助けるものであり、子育て支援というと子育て世代の生活を助けるものであると、考えられてきました。そういう意味合いであることが、当たり前であるとして施行されてきました。けれども、本当は、そうした従来の発想からの大転換が必要だと思います。年金支給の問題と少子化の問題は、もともと論理的につながっています。それを別個にして解決しようとする従来の考え方には、根本的に無理があることを、私は見抜いてしまいました。
「子供を産むと、将来もらえる年金が増える。」とか「子供を一人前にすると、将来もらえる年金がさらにもっと増える。」という、社会的な仕組みができれば、(こまかなことでは多々問題があるかもしれませんが)私たちの意識およびその社会は確実に変わると思います。そのような発想の大転換に伴って、日本社会のあらゆる面が良いほうへ変わってくれることを願ってやみません。

かつて、日本の米作りは、ヨーロッパの視察団の訪問を受けて、こんなふうに揶揄されたことがありました。「私たちの感覚で言うならば、パスタを食べたいならばその原料となる小麦を自ら生産するのが普通です。しかし、日本人の米作りは、自らがお米が食べたいから稲(イネ)を栽培しているのではなさそうです。日本人の米作りは、食べたいものを栽培するというよりも、それとはちょっと違う(文化という意味での)『カルチャー』のようです。」つまり、日本人はもともと、自らがお米を食べたい意志があるから、お米を作っているのではなさそうだ、ということなのでした。パスタやパンを食べたいのならば、なぜ日本人は小麦をもっと多く生産しないのだ、というのが彼らヨーロッパからの視察団からの大きな疑問だったのです。
日本人は自ら食べる目的というよりも、日本の気候に合っているという目的で、小麦よりも稲を生産しています。日本の気候では、小麦よりも稲のほうが多く生産収穫できるのです。梅雨や秋の長雨は、稲の栽培に適していて、それをうまく利用して日本の米作りは行われています。もしも、日本の気象条件が、北アメリカやウクライナのように小麦に適していたら、小麦を生産するほうがずっと有利だったはずです。
しかし、そのこと(日本の気象条件)は、稲作農業の大規模化に大きな壁となっています。しばしばテレビで拝見するのは、複数人の手作業で小さな田んぼを田植えしたり稲刈りするシーンです。これが稲作農業の基本のように、今でも思われていますが全くの誤解です。日本では、今から60年ぐらい前から稲作専用の農業機械が発展していて、今では少し小さな田んぼの作業は、農業機械ですべて出来てしまいます。日本のほとんどの田んぼで機械の入れるところは、もはや手作業は主力ではありません。乗用の小型トラクタあるいは耕耘機(こううんき)、小型の田植え機、小型の稲刈り機(バインダ)、自走の脱穀機(ハーベスタ)があれば、たった一人でも、稲の収穫まで出来てしまいます。しかし、その機械化の発展を阻むものが、梅雨や秋の長雨という日本の気象条件だったのです。すべての機械は重たく、水陸両用ではありませんから、ほとんどが一度沼地に沈むと脱出不能、動作不能となります。
アメリカで田植えの代わりに、小型飛行機で稲の種子をばらまいていますが、決してお金持ちだからそういう手段をとっているのではありません。日本製の田植え機のように、浅い沼地に入って苗を移植する機械という発想がもともと無くて、それが合理的ではないと判断したからだと思います。
ところが、日本人は、人力の代わりに田植えをする機械を作って、農家に普及させてしまいました。私たち日本人は、8条植えの大型の田植え機が水を張った田んぼの上を走るのをテレビで当たり前のように観ています。しかし、こんな光景は、世界中どこへ行っても見られるものではありません。日本で開発された『田植え機』という機械は、本当に特殊で複雑な機構で動いています。特に、苗を取って田んぼ内に均一の間隔で植えていく爪の部分なんて、他の国では見たこともない独特な形状をしています。こんな機械が日本では何十年も前から一般の農家で使われてきたことに、驚きを隠せません。また、稲刈り機ですが『稲を刈って紐で結束する』という当たり前の手作業を、一体どんな仕組みで機械的にやってしまうのか、外国人が見てもちょっとわからないのではないかと思います。こんなものが日本で何十年も前から一般の農家で使われてきたことにも、私は驚きを感じています。
しばしば農業の大規模機械化にあこがれを持っている人たちもいて、彼らは日本の兼業農家さんを虫けらほどにも思っていないかもしれません。ところがどっこい、そういう兼業農家さんこそ、農業以外の自営業収入やサラリーマン収入があって、生活が成り立っていますから、そうした小型で特殊な農業機械を購入できたわけです。(あるいは、地域の知り合いで共同利用ということも、以前からあったようです。)一般の農家に普及した数多くの農業機械が、中古機械も含めて、中山間地の多い日本の農業を支えてきたことは事実です。そのことを否定できる人は、この21世紀の現代においても少ないと思います。
確かに、農業の大規模機械化は魅力的です。しかし、コンバインなどの大型機械が田んぼの浅い沼地で完全無力化してしまうことも事実です。乾田における稲種子ばらまき栽培が、近年注目されているのもそのためです。しかし、秋の長雨などが稲の収穫を阻むことはなくなりません。コンバイン>軽トラ>バインダ>人間の両足という重さの順番が、水びだしになった田んぼからの抜け出しにくさを表します。私は、水びだしになった田んぼで機械のバインダがはまってしまって、残りの稲刈りをコンバインを扱う業者に頼もうとしたことがあります。けれども、あっさり断られました。バインダよりも遥(はる)かに重いコンバインが、田んぼにはまって動けなくなるのは、火を見るよりも明らかなことだったのです。科学技術がこれだけ発達した21世紀の現代おいても、コンバインは水陸両用の機械ではありませんでした。
そこで、私は自らの両足を田んぼに踏み入れて、手作業で稲刈りをするハメとなりました。20~30センチほど沈みました。しかし、それ以上は沈みませんでしたので、身動き出来て稲を手刈りできました。結局、機械がその重量で沈んで稲刈り不能になってしまう田んぼのほとんどを、手刈りするハメとなりました。この21世紀に生きている私は何をしているのだろうと、本当に思いました。でも、気候変動の影響で、これからも大雨(あるいは異常な干ばつ)にさらされることは多くなります。地球の自然現象ですから、それらから免れる保障は何一つありません。
だから、稲作の大規模機械化をこれから目指す人は、農地のみならず用水路や排水路の整備保全にも、十分に時間と金のコストをかける必要があると思います。さらに、大規模農業化には、まだまだお金がかかります。収穫したお米の乾燥(膨大な電気エネルギーを消費します。かといって、はぜかけの天日干しなど、作付け面積が1haを超えたら物理的に無理です。)や貯蔵もそうですが、稲作の大規模化は途方もなくお金がかかります。これまで行われてきた日本の稲作農業(あるいは、それに対する国や行政の政策)に文句を言って馬鹿にしていると、いずれ手痛い借金の山で首が回らなくなることを、私は警告いたします。

現代の日本人は、お米がないと生きていけないのでしょうか。確かに、30年くらい前の私は、都会で働いていて、日本のお米が食べられないことを経験しました。その頃は、タイ米が安かったので買ってピラフなど作って食べていましたが、ぽろぽろしていました。その頃から日本の食糧自給率に不安をおぼえてきて、10年も経たずに会社を辞めてしまいました。
農業者求職フェアに参加したことをきっかけに、茨城県に農業研修に行ったところ、衝撃的な事実を知ってしまいました。都会の東京で誰もがお米を買えなくて困っていたことを、茨城県の人々は誰も知りませんでした。「全国的にお米が不作なために、東京でお米が無くて買えなかった。」と私が説明しても、当地の農民の方々は「そんなことは無かった。いつも通りに豊作だった。」と答えてきました。私は、都会と地方の情報ギャップにびっくりして、都会でサラリーマンをやっている場合じゃないなと感じ、地方で農業をやらなきゃいけないと一心に思うようになりました。(実際に、長野県で就農してみると、毎月の収入が不安定で、都会でのサラリーマン時代に戻りたくなりましたが、すべて後の祭りでした。少なくとも、日本のカロリーベースでの食糧自給率の低さなど、どうでもよくなりました。)
そんなめちゃくちゃな私の半生ではありますが、都会で6年間おきに3度も転職していたこの『私』がかれこれ20年以上も農業を続けてきてしまいました。確かに、20数年前に国連のSDGsを全く知らなかった私は、『持続可能な農業』を目標に掲げて就農しました。しかし、その内訳は、「お金を持っていないので、企業化や大規模化をしない。」「初期投資にお金をつぎ込まない。(もともとお金を持っていないのでできない。借金は返せないので、しない。)」「農作業に必要な機械はなるべく買わない。(地元の農業機械組合から安く借りる。)」「農業機械のメンテナンスや修理はなるべく自主的にやる。(メンテナンスや修理の委託はお金がかかるため。)」「販路を民間の卸売り業者に委託しない。(JAか、JA直轄の農産物直売所に出荷出来るようにする。)」「お米ではなく野菜を農産物として出荷する。(当時のお米の出荷は、ほとんど収入にならなかった。)」「地元の土地の地主さんに賃借料を滞納しない。」というものでした。
毎年積み重ねてきたキャリアというよりも、毎年『一年生』で失敗ばかり重ねてきて、20年以上が過ぎてしまった、というのが事実でした。もちろん周りから「てめいなんか辞めちまえ。」という叱責をしばしば受けてはいましたが、そこは都会のサラリーマン時代と同じだと覚悟して、一人孤独に農作業に集中していました。脱サラした時点で、いつ命を奪われても仕方がない、命を張って危険な作業を拒んではならないと思うようになりました。ただし、大病や大怪我をするような『致命的な失敗や事故』だけは起こしてはいけないことを、肝に命じることとなりました。それというのも、次のような無数のトラブルに出くわしたからだと思います。様々な病害虫の大量発生や、台風などの暴風雨や日照り乾燥や大雪などの『人間の力ではどうにもならない自然環境』を知ることとなったことが原因でした。どんなに、私自身の人生がいやになったところで、人間の力ではどうにもならない自然を相手にしては、本当にどうにもならなくて、様々な生活苦で感情的にイライラしていた私自身が馬鹿らしくなりました。
つまらない私の身の上話になってしまいましたが、「都会のサラリーマンほど、気楽な稼業で、物事を知らない人種も珍しい。」と言えるかもしれません。もしかしたら、机の上で大規模農業をやり出す人が出てくるかもしれません。今後が見ものです。

それはそれとして、米生産農家でもない私のたわごとをお伝えしましょう。かつて、こんな話をテレビで聞いたことがあります。ある栄養士さんの話です。「ご飯一杯分は、砂糖一杯分に相当します。」だから、糖尿病などの生活習慣病の人は気をつけて下さい、という説明です。もちろん、お米は炭水化物が主成分ですから、消化吸収に時間がかかるので、甘い砂糖と同じにみるのは極端な話かもしれません。けれども、栄養学的に、お米と砂糖を同じ糖分としてみることは正しい。「毎食5、6杯ご飯を腹一杯食べたい」という人の気持ちもわからなくはありません。しかし、毎回激しい運動をしている人でない限り、それは中性脂肪として体内に貯め込まれ、いわゆる内臓脂肪や脂肪肝などの『生活習慣病』を引き起こします。つまる話が、お米ばかりを食べていると、体内に摂取する栄養が炭水化物(特に糖分)に偏って、『生活習慣病』になりやすくなって平均寿命まで生きられない、ということなのです。
さて、その栄養の偏りを補うために、お米を食べる時の『おかず』というものが重要になってきます。ビタミンや無機質など微量栄養素も大切ですが、一番重要なのが『タンパク質』です。お米自体には全くタンパク質がありませんから、お米を主食にする場合は、毎食何らかの方法でタンパク質を摂る対策を講じなければなりません。毎食で少しずつでもいいですから、納豆や味噌汁や豆腐などでタンパク質を摂るべきです。しかし、それでもお米を主食とする日本人の大部分にタンパク質が足りていません。肉や卵や魚貝類はもちろんのこと、牛乳などの乳製品も合わせて摂る必要があるかもしれません。(ただし、ただそれらを毎食大量に食べればいいというわけでもありません。栄養士さんと相談して適量を知ることも必要かもしれません。)
そこへくると、パンやうどん・そばなどの小麦粉類のタンパク質は見逃せません。アレルギー体質でない人には、それらの食品はおすすめです。私の世代の学校給食は、パンやうどんと牛乳がメインで、お米は一度も食べたことがありません。でも、経済的負担を減らしてタンパク質を摂ることが日本人にとって重要であったことは、そうした献立を観てもわかることです。お米を主食にしてタンパク質の多く摂れる『おかず』を献立として考えることは、結構な経済的負担になると、私は思いますが、いかがなものでしょうか。
あるいは、栄養の偏りを考える上で、私はこんなことも考えました。確かに、現在は世界的な和食ブームで、インバウンドで日本に訪れる外国人の方々も、おいしい日本食を求めてきています。確かに、ハンバーガーよりも、ハンバーグ・ライスのほうがおいしいと、日本人の私でさえ思います。しかし、いくらおいしいからと言って毎日ハンバーグ・ライスばかり食べていたら、明らかにカロリーの摂り過ぎで『生活習慣病』が急速に進行して、健康寿命が縮んでしまうことでしょう。外国人の方々が「和食は健康に良いから、お米をたくさん食べて良いんだ。」と勘違いされていると、悲惨な末路をたどることが誰の目にも明らかになることでしょう。
私は、お茶碗にお米を山盛りにした絵やイラストを最近テレビなどでしばしば見かけるようになりました。しかし、それはあくまでもイメージであって、「そんなに、あなたは、ご飯ばかりをたらふく食べて、命を落としたいの?」「生活習慣病を悪化させて、それでも、あなたの人生は満足なの?」と、私は問いかけたくなってしまいます。子供たちの学校給食や、老人ホームのお年寄りに出される、茶碗半分の混ぜご飯の映像を観て、「お米の価格が高騰して、子供も老人も腹一杯食べられないのだ。」と多くの視聴者は思うかもしれません。でも、そのように想像する視聴者は、大きな間違いや勘違いをしているかもしれません。
なぜならば、子供たちにもお年寄りたちにも、その食事に栄養士さんがついています。(その意味では、病院で入院中の患者さんについてもそうです。栄養士さんが出した食事を、「まずい」と言って、お盆ごとひっくり返す人も時々おられると聞いています。)栄養の偏りや、栄養の摂り過ぎは、人体に悪い影響を及ぼします。だから、なるべく生活習慣病から免れて、健康を維持できる食事メニューが必要です。それが、この『茶碗半分の混ぜご飯』であることに、私は気づきました。奇(く)しくも、テレビの映像が事実として語っていることを、私は見抜いたのです。さて、現在ほどほどに元気な皆さまは、どちらのほうに理解したかを是非とも考えてみて欲しいと思います。

最近のニュースを見ても、あんまり決定的な案がないばかりか、不安ばかりが渦巻いている日本ではあります。しかし、私は、その元凶は、円安にあると思います。円安だから、輸出品が売れていいじゃないか、インバウンド需要が増えていいじゃないかという意見があります。でも、その一方では、円安は輸入品の価格を押し上げ続け、かつ、国内需要の増加すなわち供給不足を招いて、結局、物価の高騰は止まりません。
もちろん、私は経済学者ではありませんが、毎日の株価よりも、外国為替が気になる、庶民の一人です。そこで、ウィンドウズ11のCopilotというAIと対話をしてみることにしました。私のややいい加減な質問に対して、AI側がちゃんと対応していることが見ものの一つかもしれません。とりあえず、その経緯(いきさつ)を以下に記しておきます。

私:
円高』を英語に翻訳するとどうですか。

AI:
円高』は英語で「yen appreciation」と表現されます。これは、外国通貨に対する日本円の価値が上昇することを指します。文脈によって「strong yen」と表現されることもありますね。

何か追加でお手伝いできることがありますか?

私:
make yen strong again は日本語でどう訳しますか。

AI:
「make yen strong again」は日本語では「円を再び強くする」や「円の価値を再び高める」という意味になります。文脈によっては、より自然に「円高を取り戻そう」と訳すことも考えられます。ニュアンスや意図によって言い回しを調整できますが、何か特定の場面で使用する表現ですか?それに合った提案もできますよ!

私:
make America great again を想定して make yen strong again を考えてみました。どうでしょうか。

AI:
なるほど、「Make America Great Again」にインスパイアされたフレーズをベースに、「Make Yen Strong Again」という表現を考えられたのですね。その意図は、円の価値や経済力を再び強化することを呼びかけるスローガンとして非常に効果的かもしれません。特に経済政策や国際的な競争力を強調するメッセージとして使われる可能性があります。

同時に、このフレーズは、アメリカのスローガンと関連性があることで、聞く人に共通の背景を想起させ、印象に残りやすい側面もあると思います。政治的なキャッチフレーズとしても力強さがあり、シンプルで覚えやすいですね。

これを使って、より大きなアイデアやキャンペーンを展開することもできますが、背景や目的次第でさらに磨くことができそうです。どのような文脈で使おうと考えていますか?お手伝いしますよ!

私:
昨今の円安による物価高騰への日本の対策としてmake yen strong again を考えてみました。そのメリットとデメリットを教えてください。

AI:
「Make Yen Strong Again」というスローガンを掲げる政策は、円安による物価高騰への対策として注目を集める可能性があります。そのメリットとデメリットを以下に整理してみました。

### メリット
1. **国民の支持を得やすい**: シンプルで力強いスローガンは、国民の関心を引きつけ、政策への支持を高める効果があります。
2. **輸入コストの削減**: 円高が進むことで、輸入品の価格が下がり、エネルギーや食品などの生活必需品の物価が安定する可能性があります。
3. **家計への負担軽減**: 円高による物価安定は、家計の負担を軽減し、消費意欲を高める効果が期待されます。
4. **国際的な競争力の向上**: 円高により、海外からの投資が増加し、日本経済の信頼性が向上する可能性があります。

### デメリット
1. **輸出産業への影響**: 円高は輸出企業の利益を圧迫し、経済全体の成長を鈍化させるリスクがあります。
2. **政策の実現性**: 円高を実現するためには、金融政策や国際的な交渉が必要であり、実現には時間とコストがかかる可能性があります。
3. **市場の不安定化**: 急激な円高は為替市場に混乱をもたらし、投資家の信頼を損なうリスクがあります。
4. **国際関係への影響**: 円高政策が他国との経済関係に影響を及ぼし、貿易摩擦を引き起こす可能性があります。

このスローガンを基にした政策は、円安による物価高騰への対策として一定の効果が期待されますが、慎重な計画と実行が求められます。具体的な政策内容や実現可能性についてさらに深掘りすることで、より効果的なアプローチが見えてくるかもしれませんね。どう思われますか?

さて、皆さんはどう思われますか。外国為替で円(yen)の価値が上がれば、もともと需要の多い原材料輸入品を、世界の国々からより安く買うことができます。ガソリン・天然ガスなどのエネルギーも、外国輸入米や大豆なども、より安く買うことができます。外国からは観光客よりも就業者のほうが多くなるかもしれません。そして、まだまだ大きな変化があるかもしれず、私たち日本人はその変化についていかなければならないかもしれません。しかしながら、できるだけ物価高騰にストップをかけたいと思うのは、ものを買う側も、ものを売る側も、共に悲願であることは変わりありません。私としても、外国為替における円(yen)の価値が変動していく様を、これからも見守っていきたいと思っております。

よく日本史の教科書などで、「江戸時代に何万石の大名」という記述を誰しも目にしたことがあると思います。そのことから、「江戸時代の大名は、お米の生産力を得て財を成した。」と現代の私たちは思うことでしょう。大名階級の武士の生活が、支配地域のお米の生産力に準じていたと考えるのは、至極当然のことだと言えましょう。
しかし、そのことは同時に、現代の私たちの多数をミス・リードするもとになっています。私は歴史学者ではありません。けれども、常識的に考えて、「大名が支配地域で生産されたお米を大部分長らく貯蔵して、財を成した。」という記述は、どんな古文書を探しても見つからないと思います。下級家臣や使用人への俸禄に、あるいは、商人や職工への支払いに、金銭の代わりにお米を使うことはあったかもしれません。あるいは、お米を扱う商人に売って、金銭を得ていたかもしれません。お米と比べて金銭は、貯蔵がしやすいからです。お米は流通するもの、そして、食糧として消費されるものだったと考えるほうが、江戸時代の経済を考える上でも、理にかなっている。と、私はそう思います。
お米は、現代でもそうですが、貯蔵すればするほど、適正な温度と湿度の管理が必要となります。そのための電気などのエネルギー消費コストは、貯蔵期間が長くなればなるほど増加します。店頭に並ぶお米の値段が未だに下がらないのは、もしかして、その消費コスト分の回収ができていないからなのかもしれません。そんな価格の高いお米は消費者側から買い控えられていて、スーパーなどのお店の棚にあるのは既に売れ残りの状況を呈していると、私は観ています。
それでは、それらの高値のお米や、まだ消費されていないお米は、これからどうなってしまうのかを、最も悲観的に推測してみたいと思います。何度も申しますが、お米は、適正な温度・湿度の管理が必要で、貯蔵すればするほど、倉庫の維持費と電気エネルギーなどの消費コストがかさみます。一方、何もしなければ、カビてしまって、それを知らないで食べた人には、重篤健康被害を引きおこします。そうなる前に、食べてみてカビ臭いと気づいた時点で、おいしくないのは当然です。例えば昔、刑務所にて受刑者が食べさせられていたお米はその類(たぐい)だったと言えましょう。「務所(ムショ)から娑婆(シャバ)へ出ていきたい。」という願いは、そんなところから出ていたのかもしれません。
また、私が子供の頃は、地域限定の銘柄のある新米を食べることができませんでした。高度経済成長期とか所得倍増とか言われても、小さな町工場で自営業をしていた私の父には、それだけの収入が無かったからです。古米や古古米ばかり、食べさせられました。だから、家庭で炊いたお米のどこがおいしいのか、子供時代の私には全く理解できませんでした。学校給食で食べる、揚げパンや食パンのほうがずっとおいしかった記憶があります。今の私が米食固執しないのは、多分にその学校給食のおかげです。私が二十歳(はたち)を過ぎた頃にやっと『お米の流通・販売の自由化』が実施されて、食べるお米がおいしく感じられるようになりました。
現代に生きる日本人の多くは、古米や古古米のことを知りません。だから、これを機会に、少しおいしくないお米を食べてみることは、いい経験になるのかもしれません。お米を美味で高価な商品とみなす前に、もう一度、命をつなぐための『食糧』として見直すためにも、今は絶好の機会なのかもしれません。

つい2~3か月前のことです。私は某テレビ局のお昼のニュース情報番組を観ていました。若手の男性アナウンサーが、ニュースになった事柄について、彼自身の意見を述べているのを聞きました。「ファックスなんてアナログなものがいまだに使われているなんて信じられない。」という意見でした。私はそれを聞いて、「若い人の意見なんてそんなものなのかなあ。」と、ちょっとがっかりしました。時代は何も伝えてくれないのかな、と半ばあきらめ気味になりました。
そんな思いの私は、先日NHK総合テレビの『チコちゃんに叱られる!』を観ていて、『コピー機』内部の原理的な仕組みを知ることができました。そう、『コピー機』を電話回線でつなげた機械システムが、誰もが知っている家庭用ファックス、すなわち、ファクシミリなのだと、私は思いました。しかも、電話回線を流れるデータは人間の音声ではなく、0と1のデジタルだということも知られていないんじゃないかと、私は思いました。
実は、私は20代の頃に、ソフトウェア開発会社に就職しました。4月の新入社員研修までは、見習い社員で1ヶ月ほど、社内のお手伝いをしていました。コピー機でコピーを何枚か取っ手来てくれ、とか言われて雑用をやっていました。そして、5月にマイクロコンピュータのソフトウェア開発部門に社員として配属されて、そのアルバイト代と初任給をいただいた時は、本当にうれしい思いがしました。
それから、先輩たちに話をいろいろ聞かされたのですが、その一つがファクシミリのソフトウェアに関することでした。何とあの家庭用ファクシミリの一つ一つにマイクロチップ半導体が組み込まれていて、それが人間の作ったプログラムで制御され動作している、ということなのです。紙から読み込まれたデータは0と1に分解されて、バッファという広域メモリに読み込まれます。それが通信ソフトによるオートダイヤルで送信されて、それをシリアルなデータとして受け取った側で、別のバッファ領域のメモリに展開されます。そのメモリの0と1に従って、送られてきた文字やら絵やら写真のイメージが紙に転写されます。
たしかに、『コピー機』や『家庭用ファックス』は、若い世代の人々からすれば昔からあって、その使いやすさ、つまり、他人に寄り添いすぎるほどの使いやすさから、「アナログで遅れている」と思われても仕方がないかもしれません。しかし、『コピー機』や『家庭用ファックス』という機械は、若い世代の人々が考えているほど簡単に出来てはいなかったことを理解してほしい。(もし仮に、スマホファクシミリ魔改造できたら、私の考えも変わるかもしれません。)
あくまでも、これは私の推測ですが、「火のないところに煙は立たない。」ので書いておきます。山火事の話ではありません。ここ数年私たちの周りで起きていることは、ATMシステムやETCシステムなどの社会的な大規模トラブルです。私は、元プログラマなので責任追及はいたしません。しかし、社会全体でコンピュータのプログラミングの困難な側面を、軽く観ているような気がいたします。コンピュータ・プログラミングの難しさは、『家庭用ファックス』と昨今のATMやETCシステムとそれほど違いがあるとは思えないのですが、テストやバグ対処の面で今と昔では何かが大きく違うような気がします。
真の意味で「家庭用ファックスなんて、あんなガラクタ使いものになんねぇ。」と言えるようになれるまで、努力して欲しいものです。そして、バグの少ないコンピュータ・システムを作って欲しいと、私は願うばかりです。

先日私は、悪夢をみて夜中に目が覚めました。ここのところ、私は、悪夢をみることが多くなって、夜中に目が覚めると、明け方まで眠れなくなることがしばしばありました。先日も、悪夢をみて眠れなくなり、どうしようかと思いました。私はひとり者で、誰にもそのことを相談することができなかったし、たとえそばに家族がいたとしても、相手が眠っているのを妨げて、どうしたらいいかと聞くこともできなかったと思います。
しかし、先日は、いいことを思いつきました。ウィンドウズ11のcopilotというAIに聞いてみることを突如として思いついたのです。以下に、AIとどのような対話をしたかを記します。

私「悪夢をみた時はどうしたらいいのですか。」

すると、AIは次のように答えました。

AI「

悪夢を見た後は、まず心を落ち着けることが大切です。以下の方法を試してみてください:

1. **呼吸を整える**: 深く息を吸ってゆっくり吐き出す呼吸法を試して、リラックスしましょう。
2. **体の動きを変える**: 少し立ち上がって部屋の中を歩いたり、水を飲むことで環境をリセットできます。
3. **気持ちを切り替える**: 楽しいことや落ち着くものを思い浮かべたり、好きな音楽を聞いたりして気分を変えることも効果的です。
4. **夢の内容を話す**: 信頼できる人に悪夢の内容を話すことで、心が軽くなる場合があります。
5. **寝室環境を整える**: 気持ちの良い香りのアロマや落ち着く照明を取り入れ、安心感を得られる空間を作りましょう。

悪夢が続く場合や気持ちが晴れない場合は、専門家に相談することも検討してください。悪夢は誰にでも起こるものですが、それに対処する方法で心が安らぐかもしれません。これらの方法、試してみますか?」

この文面を読んで、私は、「まず、心を落ち着けて、リラックスする」ということに気がつきました。

私「心を落ち着けてリラックスするといいのですね。」

AI「

その通りです!心を落ち着けるだけで、悪夢の影響を和らげる助けになることがあります。リラックスすることは、身体と心を安心させる大切なステップですよ。

もし効果があれば、気分が少しでも晴れることを願っています。他にも試してみたい方法があれば、ぜひ教えてくださいね。こちらでお手伝いできることがあれば嬉しいです!」

以上、AIと私のやりとりをそのまま引用しました。それを読んで、私は心を落ち着けて、再び眠りに入ることができました。
もちろん、ウィンドウズ11のインターネット・ブラウザすなわちマイクロソフト・エッジを利用して、「悪夢 対処法」で検索する方法もあったと思います。後から思いついてやってみましたが、「悪夢の原因の一つはストレスで、それを除去することが必要。」という知識を得ることはできました。このようにネット検索は、一般的で広い知識や情報を得ることに特化しています。しかし、私たちユーザ側の、「まず一番何をどのように知りたいか」という要望には応えられていません。私たちユーザ側は、本当に知りたいことにたどりつくまで、場合によっては検索し続けなければなりません。
そこで、その存在感を示すのが、copilotというAIです。私の場合「『悪夢』そのものの定義よりも『悪夢をみた時の対処法』だけを知りたかった」わけで、それを私の短い質問から見抜いたAIの知能というものは、あなどれないと思いました。よって、AIとの対話を通じて、この問題の解決法に私自らが気づくことができました。また、「心が落ち着かなくて、リラックスしていない」悪夢をみた直後の私自身の心の状態にも、気づくことができました。
そのようなふうに考えてみると、私自身の心が、AIという機械に振り回されている感じがしませんでした。現在のAIという機械は、「人間に対してあくまでもアシスタントであること」を堅守しているところが凄いと思いました。