社不の掲示板 (original) (raw)

子供社会は理不尽で、外見至上主義が当たり前である。

それは大人社会も変わらないことかもしれない。

だが、陰湿な大人社会とは違って、とても簡潔にわかりやすく教えてくれるのだ。

「気に入らねえ奴はしゃしゃり出るな」と。

そんな子供社会で経験したことを紹介しようと思う。

理不尽すぎる洗礼

3歳になった頃、私は学期の途中から幼稚園に通い始めた。

初日は楽しかった。

先生が皆んなのところへ連れていってくれて、一緒に遊具なんかで遊んだ。

でも、翌日からボッチになった。

初めての仲間はずれに、かなり戸惑った。

一人で遊ぶと言う概念が無かった私は、遊んでくれる誰かを探してクラスの中をぐるぐる回った。

しかし、あからさまにそっぽを向かれてしまう。

まるで壁に話しかけている様な感覚だった。

何故ボッチになってしまったのか分からなかった。

顔?話し方?立ち振る舞い?いまだに答えはわからないのだ。

だが一つ明確なのは、私は誰からも気に入られなかった。

一人取り残された自分を哀れみの視線が突き刺した。

この時は知る由もなかった。

初めて感じたその視線は、今後成人するまで痛いほど経験することになる、人生の代表的トラウマになることを。

これが、入園したばかりの私に起こった理不尽な洗礼である。

そして洗礼はまだまだ続き、ボッチの理由が”ブス”であることを知ることになるのだ。

しつこいブスはいらない

母の車で幼稚園へ行き、幼稚園の入り口で駄駄を捏ねる。

「大丈夫楽しいから」

そうなだめられて、置いていかれる。

「あぁ。駄々をこねても無駄だ。ここに置いていかれることに変わりはないんだ。」

悟った私は、ここで友達を作ることを決心した。

その日から誰一人知らない未知の空間で「仲間に入れて」と、果敢に声をかけた。

幼稚園に通う女の子がよくする遊びといえば何だろうか?

答えは「家族ごっこ」又の名を「おままごと」である。

例外なく私も沢山の家族ごっこに参加してきた身である。

というより、懇願して「参加させていただいた」という言い方が正しいかもしれない。

私は理由もなく、仲間外れの常連だったのだ。

家族ごっこを始める流れになって、私が仲間にして欲しくて近づくと

「え〜ナルミちゃんはヤダ。ダメだよ」

と、結構強い口調で跳ね返されていた。

他にも、「この指と〜まれ!」の、その指をなかなかキャッチさせてもらえなかったりしたものだ。

どうしても家族ごっこがしたかった私は、

「〇〇ちゃん〇〇ちゃん〇〇ちゃん〇〇ちゃん」

「お願いお願いお願いお願いお願いお願いお願い」

と、相手が怯むまで一点張りを続けた。

そうやってようやく与えてもらった役が、大体ペットか寝たきりの老人であった。

セリフがあまり無く、アドリブも許されない役。

つまりいないほうがいい人間にはうってつけの役だ。

なお、父親一人に対し母親三人ほどの一夫多妻制だが、老人もペットも私だけである

仲間はずれの私と、カースト1位の幼馴染

3歳、4歳と仲間外れに耐えながら、近所の女の子に救われることになる。

入園前から近所ということでよく遊んでいたいずれ幼馴染になる女の子だ。(以下Aちゃん)

入園早々、光の速さでクラスの権力を手にしたのだ。

私は彼女と仲良しだったため、空気から右腕ポジにつくことができた。

でも、彼女と仲がいいから仲間はずれされにくくなっただけで、根本的な人気はなかっただろう。

幼稚園の中では、私はAちゃんの隣にいるようでいない人だった。

そして、今後彼女とは中学まで同じ学校で過ごすことになる。

クラスの女子のほとんどが、彼女の取り巻きになり、まるで新興宗教である。

そして、彼女と遊ぶときは一列にならなければならない。

一列になり、移り変わり遊具で遊ぶ後ろをついて回るのだ。

たまに分断したりすることはあったが、卒園まで彼女が実権を握っていた。

そのため彼女が入園して以来仲間外れにはあまりならなかったのだが、幼稚園時代のエピソードは彼女の存在が大きすぎて他に何も覚えていない。

彼女は立ち回りがうまかった。

クレヨンしんちゃん野原しんのすけみたいな人だった。

いつもAちゃんの周りには人がいて、遊ぼう遊ぼうと誘ってくれる人がいて。

いつも私は、人気者を追いかける側で。

私だって人気になりたい。でもなんでだろう誰も寄ってこない。

だから、一人でいいから、私に構っていて欲しい。知らんぷりしないで。

そんな独占欲と承認欲求が知らぬ間に私の心の中に影を潜めていたのだ。

そうやって、体感100年以上の孤独の戦いが終わり、幼稚園児時代の友達と共に小学校に入学する。

小学生時代は次回にしようと思うが、少しネタバレするならば、

先生が不登校になるの巻

サイコもヤンキーも爆誕するの巻。

またなんか、仲間外れにされちゃったの巻。

である。

じゃあまた次回の記事でお会いしましょう。

「男は奢って当たり前だ」

なんて言葉を「蛙化」の次によく耳にするのだ。

そんなとうの昔に答えの出ている話を、延々とメディアなんかで取り上げられてるのを見ると、まーだ騒いでいる人がいるのかと呆れるものだ。

というわけで、デートとは無縁な女ですけれども、この話題についてちょうど私も考えを言語化したいなと思っていたので、こちらでまとめさせていただきます。

※注意

こんな考えもあるのかぁ程度で読んでもらえると助かります。

目次

結論:男性が奢った方が良いのか?

答えはNO

ただ、意中の相手を落としたいとなったら、答えは少し変わってくる。

個人的にだが、割り勘だとしてもマイナスにはならないし、プラスにもならない。

ただ、奢ってもらえるのならそりゃあ、プラスに働くわけだ。

つまり、好意を持たれる可能性は高くなる。

だが、あえて割り勘にすることによって、それでも受け入れてくれる謙虚な女性を見つけることもできるだろう。

つまり、奢りたいなら奢る。割り勘なら割り勘。

そこにどんな事情があろうと割り勘に口を出す女性は、人としてのモラルを忘れているのだろう。

今日のためにお洒落してきたんだから奢ってよ

奢り奢られ論争で必ず目にする意見「今日のためにお洒落してきたんだから男性が払うべき」

「いーや頼んでないね」

これが大半の男性の意見だと想定する。

そして私も同意である。

相手によく見られたいから、自分の勝手でお洒落したんじゃないか。

それに、男性側だってそうだろう。

よく見られたいからヘアセットして服も選んで…だよね???

大前提、無意識的に不快に感じない程度の身なりは両者共にしているはずだ。

と、ここで女性達のターン『かかっている金額が違う』召喚!!!

そこで私は思った。

そのお洒落は、今日”だけ”のためですか?

もしそうならば、その日着た服、ネイル、小物達、ぜーんぶもう使わないのでしょう?

だって今日”だけ”のためのお洒落だから。

だが、ほとんどの女性は次の日も同じネイルだし、またいつか同じ服を着て、あの日のバッグを片手に友人と遊ぶだろう。

そう考えると、お洒落にかかった費用は男性のデートの日以外の日にも分散されるのではないか?

そしてその時あなたは、その友人に「お洒落してきたんだから奢ってよ」と言うのだろうか?

奢って欲しい女性は男性に無駄な期待をしている

奢って欲しい側の女性はなんとなく「蛙化」を経験する女性に通ずるところがある気がする。

共通点としては、男性という生き物を美化して見過ぎている点だ。

蛙化現象では、片思いの時期は王子様に見えていたが、付き合ったら蛙に見えてしまった。

とかうんたらかんたら言って冷める女性がいるが、それは遠くにいた相手を美化しすぎた結果だし、男性はこういうものだという美化されたテンプレートを無意識に作り上げていたからかもしれない。

奢られスタンスの女性もそうで、世の中に何億通りの考え方があるにもかかわらず、スマートに奢ってくれる男性像たった1通りだけを期待してしまうのだ。

奢って欲しいのならばそれなりの対価を払うべきだ

世の中には「男が奢って当たり前」その願望を表に出すことによって、どれだけ自分の価値が下がっているのか、奢るに値しない人間に成り下がっているのかを自覚していない人があまりにもいるようだ。

奢って欲しいのならば、奢らせて欲しいと思える人間になるべきではないか?

奢るという行為は、私の解釈では前向きな気持ちを表す行為なのだ。

例えば、その人に対して感謝をしているとか、応援の気持ちとか、お詫びを兼ねてとか。

それなのに、ただマッチングアプリで出会っただけ、楽しめるような話題を提供するでもなく男性にリードされ、女王気取りの女さんが相手に対して、何を施したというのだろうか。

相手が気持ちよく話せる話題提供、聞き役になる、大皿の料理を取り分けるなど、払いたいと思わせるチャンスはいくらでもあるはずだ。

たとえそれでも、割り勘になることがあるだろう。

その後関係を続けるかどうかは自由だ。

しかし、そこで奢るべきだなんてゴネると、やはり払う価値のない女性だった…となるだろう。

かりにもし、男性側が奢ってくれたとしよう。

そこで、それが当たり前かのような反応をする女性と、割り勘のつもりでいた謙虚な女性。

どちらが人として魅力的に映るだろうか?

究極、奢られたい女性と割り勘でいい女性、それは自立しているかどうかの分かれ道でもあるのだ…

誘った側が払うべき?

この論争に対して、YouTubeで妙に納得したコメントがあった。

「男女問わずなんだったら、同性同士でも誘った側が出すってことになるけど、それはなくない?」

確かに。同性の友達と食事する時は貸しがない限り割り勘の記憶しかない…。

男女平等を謳うこの世の中、誘いをOKしたのなら、自分で責任を持って払うべきだ。

ここまで読み進めてくださった読者様、ありがとうございます。

デートと無縁の癖にほざくな的な気持ちになりかねない文章だったとは思いますが、最後に私だったらこういうマインドセットをするな〜程度の解決策を提示して終わりにします。

最後:平和的な解決策

女性側は、期待しすぎるべからず

→相手の一生懸命稼いだお金で食事ができることを当たり前と思うのはやめよう。それから、割り勘スタンスをできるだけ受け入れた方が、心の平和につながるのではなかろうか。

男性側は、割り勘のスタンスで問題はないが、配慮が必要な場合もある

→例えば、相談を聞いてもらったとか、わがままを聞いてもらったとか。

感謝の気持ちを少し多めに出すなりして表現すると、相手も嬉しいのではないだろうか。

それから明らかに食べる量が男性側が多い場合も配慮が必要だ。

これがデートとは無縁の女の考えた平和的解決策である。

世の中のたくさんの意見を参考にしながら、自分の納得いく考えを導き出してみたのだが、実際に私もデートしてみないとわからない部分もあるため、今後考えが変わる可能性もある。

では次があれば次の記事で会いましょう。