くっすのWeb文章 (original) (raw)

リーダーシップをテーマの1つとする団体にて、組織のミッション・ビジョン・バリュー・パーパス(以下、MVVP*1とも表記します)を考えています。しかし、どのようなMVVPを設定すると良いのか、なかなか難しいです。

そこで、私が個人として取り組んでいる「男性における精神的な成熟」の活動を1つの事業であると見なして、MVVPを考えることにしました。規模としてはこちらの方が明らかに小さいので、その分、簡単に完成形を描くことができます。今後に変化していく可能性はあるとはいえ、「ひとまずの完成形」をつくることには意義があると考えました。ここで取り組んでいるテーマが何であるかを伝えやすくなりますし、前述の団体でMVVPを考える時にもきっと役立つからです。

「男性における精神的な成熟」のMVVP

ミッション: ・「男性における精神的な成熟」を得たい人に理解と方法を共有する ・成員が男性としての精神的な成熟を達成する

ビジョン: ・男性同士で会話をすることが、現在の女性同士が会話をするのと同じくらいに当たり前となっている世の中

バリュー: ・男性の問題を男性が解決する ・多様な男性らしさを認める ・男性以外の存在(女性など)を尊重する

パーパス: ・男性の精神的な成熟が実現されるのを促進する ・「男性における精神的な成熟」という捉え方が重要であると示す

ここでのMVVPの定義

MVVPのここでの定義は、佐宗邦威『理念経営2.0』と小杉俊哉『リーダーのように組織で働く』を参考にしつつ、独自に考えたものです。

ミッションの定義: ・成員または組織がその活動および事業によって達成すること ・内部的な使命 ・内部的にそれをやらなければならないのはなぜか

ビジョンの定義: ・その活動および事業によって近い未来に実現される像および在り方

バリューの定義: ・成員または組織がその活動および事業をやるにあたって重要視する原則 ・成員同士および成員と組織との関係において守るべきこと

パーパスの定義: ・成員または組織が社会と世界において果たす役割 ・外部的な存在意義 ・外部的に成員または組織が存在しなければならないのはなぜか

MVVPのそれぞれについての説明

以下、ミッション・ビジョン・バリュー・パーパスのそれぞれについて説明を加えます。

ミッション

ミッション: ・「男性における精神的な成熟」を得たい人に理解と方法を共有する ・成員が男性としての精神的な成熟を達成する

ミッションの定義: ・成員または組織がその活動および事業によって達成すること ・内部的な使命 ・内部的にそれをやらなければならないのはなぜか

ミッションは、やはり「使命」であると考えました。
自分(自分たち)は何をやるのか。
および、自分(自分たち)はなぜそれをやるのか。
ここでは、「なぜやるのか」という理由のうち、特に内部的な要因を重視した定義としました。内側から湧き起こってくる感情または意思、といったイメージです。

何をやるのか、という観点では、
・「男性における精神的な成熟」を得たい人に理解と方法を共有する
となります。
「男性仁おける精神的な成熟」が何であるかを共有する。そして、それをどのように達成するのかも共有する。これらを、望む人に宛てて活動をおこなう。このようになります。

なぜやるのか、という観点では、
・成員が男性としての精神的な成熟を達成する
となります。
これは、やはり、私がそれを強く望んでいるから、ということが最も大きな理由です。もし、この活動が組織的におこなわれるのでしたら、同じような望みを持つ人が成員となっている可能性が高いです。

ビジョン

ビジョン: ・男性同士で会話をすることが、現在の女性同士が会話をするのと同じくらいに当たり前となっている世の中

ビジョンの定義: ・その活動および事業によって近い未来に実現される像および在り方

ビジョンは「像」です。視覚的に画像または映像によって思い描けるもの、と捉えます。数値的な達成目標とは区別をします。

そのビジョンにあたるものとして、
・男性同士で会話をすることが、現在の女性同士が会話をするのと同じくらいに当たり前となっている世の中
を設定しました。

これまでの記事で何度か言及してきましたように、男性同士の関係性は、本来はもっと重要なのではないか、と私は考えています。それを踏まえて、「女性同士がよく会話をするのは自然と捉えられている。男性同士も、それくらいよく会話をするのが実は自然なのではないか。だから、そうなっている像を描いて、そのような在り方を実現させよう」と考えました。「男性が会話する量と女性の会話する量に差があるのは、脳の構造の違いによるものだ。生物学的な差異なのだ」という主張もあり得ますが、ここでは、それとは異なる捉え方をしたいです。なお、「男性同士の会話」という要素に加えて、「年長の男性が若い男性の人生をサポートするのが自然となっていること」「男性が人生の危機にある時に他の男性がサポートするのが自然となっていること」という要素も想像の近いものとして考えています。上記では、特に像が描きやすいものとして、「男性同士の会話」という在り方を選びました。

バリュー

バリュー: ・男性の問題を男性が解決する ・多様な男性らしさを認める ・男性以外の存在(女性など)を尊重する

バリューの定義: ・成員または組織がその活動および事業をやるにあたって重要視する原則 ・成員同士および成員と組織との関係において守るべきこと

バリューは「重要視する原則」「守るべきこと」としました。
活動および事業をやるにあたって、何を原則とするか、何を守るべきか。
成員同士の関係、および、成員と組織との関係において、何を原則とするか、何を守るべきか。
このようなことです。

活動および事業における初めの原則として
・男性の問題を男性が解決する
を想定しました。
男性の本当の苦しみは男性にしか理解できないものである、と私は考えます。それならば、その問題を解決する主体は男性である。その問題を解決したい時に頼るべき相手は男性である。このようなポリシーを表明するものです。まさに原則ですね。

次に挙げたバリューは
・多様な男性らしさを認める
というものです。
これは、私としては想像の部分が大きい要素ではあります。しかし、やはり「男性らしさ」が何かとは、そもそも難しい問題であると言えます。何が男性らしさであって、何が男性らしさではないのか。それを明確に区別する基準または線引きは、永遠に見つからないのではないか。もしそうであるならば、活動および事業をやるにあたり、男性らしさは多様であることを前提とした方が良いでしょう。また、成員が複数いる場合には、それぞれの男性らしさの捉え方は多様になると思われます。多様な男性らしさを認めるということは、原則であり、守るべきことだと言えます。

最後に
・男性以外の存在(女性など)を尊重する
を考えました。
男性が男性の精神的な成熟のために活動をおこなう。これが、本テーマが事業となっていると想定した場合の、端的な事業説明の1つです。その活動にあたっては、男性を尊重することが必要となります。そして、男性以外の存在も尊重することも重要です。これは原則となるべきですし、守るべきことともなるべきです。男性を尊重するという目的のために、男性以外の存在への尊重をやめるべき理由は無いでしょう。男性が精神的に成熟するという目的のために、男性以外の存在が精神的に成熟するのをやめてもらう理由も、やはり無いでしょう。自分(自分たち)も尊重するし、自分たちとは異なる人たちも尊重をする。この考え方が重要である。そのように捉えています。

パーパス

パーパス: ・男性の精神的な成熟が実現されるのを促進する ・「男性における精神的な成熟」という捉え方が重要であると示す

パーパスの定義: ・成員または組織が社会と世界において果たす役割 ・外部的な存在意義 ・外部的に成員または組織が存在しなければならないのはなぜか

パーパスは、「なぜ存在するのか」を外部的に捉えたもの、と考えました。「なぜやるのか」という点では、ミッションと似ていると私には感じられました。さらに言うと、パーパスとミッションはどう違うのか、うまくわかりませんでした。ここでは、自分なりに定義をしたもので良しとする、と捉えて、「パーパスは外部的な観点を重視したもの」「ミッションは内部的な観点を重視したもの」と区分けをしました。そのようにシンプルに捉えて、MVVPの「ひとまずの完成形」をつくることを優先させました。

作成したパーパスの1つ目は
・男性の精神的な成熟が実現されるのを促進する
です。
このテーマが事業としておこなわれたことによって、「この事業が存在していたから、男性の精神的な成熟が大いに達成されることになった」と捉えられている、という状態を想定しています。外部的な観点から、「この事業が存在していたから、このことが充分に実現された」と思われている、ということです。また、上記の文では、最後は「促進する」という述語を用いました。これは、「男性における精神的な成熟」を実現させる組織・団体・個人は、他にも存在する可能性があるからです。本事業でなければ「男性における精神的な成熟」(または、それに近いこと)を実現できない、というわけではありません。その点を踏まえて、上記のパーパスの文では「促進する」という言葉を使いました。

2つ目は
・「男性における精神的な成熟」という捉え方が重要であると示す
としました。
このテーマが事業としておこなわれている場合、事業として存在しているという事実が、「男性における精神的な成熟」という捉え方が重要であると示す根拠となります。事業として存在しているのは、それが外部的に求められているから。そのように推論できるでしょう*2。ある事業が存在しているという事実が、その事業に一定のニーズがあることを示している。したがって、その事業の基本前提としている捉え方は重要である可能性が示唆される。このように考えられます。

まとめ

以上、「男性における精神的な成熟」というテーマを1つの事業であると見なして作成した、ミッション・ビジョン・バリュー・パーパス(MVVP)をそれぞれに見てきました。初めにも書いた通り、今回の目的は「ひとまずの完成形」をつくることです。私としては、一通りの説明を完成できたことで、誰かに説明する時に役に立つだろうと思います。そして、別団体にてMVVPを作成する際にも役に立つと良いなと考えています。「ひとまずの完成形」であっても、文として表現したことで、「自分としては当然と思っていたが、他の人にとっては当然ではなかったこと」を明らかにできる可能性があります。そういう効果もあると良いなと思います。「ひとまずの完成形」とは、例えるなら、建築物をつくる時の模型みたいなものですね。今後、何かの機会に、本記事を活用したいです。

お読み下さり、ありがとうございました

男らしさとは何か。
今回、私なりに考えてみて、4つの男らしさの要素を考えてみました。
何らかの根拠があるわけではなく、今後、考え方が変わることもあるかもしれません。そのため、現時点の2024年10月に考えたことの記録、という位置づけといたします。
そして、最後に「男らしさとは何かについて再確認すること」について書いています。

男らしさの4つの要素の想定

男らしさの要素として、以下の4つを想定しました。

この4つだけが男らしさの全てとは考えていません。
差し当たり4つくらい挙げれば良いかなと考えて、この4つとしました。
以下、それぞれについて記述します。

思考

考えることです。
男性は考えること、特に論理的に考えることが得意、と捉えています。

論理的に考えることは、何も無いところから、ブロックを組み立てて構造物をつくるようなものです。どのブロックの上にどのブロックを乗せられるか。構造として安定させるために、それぞれのブロックがどのような位置関係にあると良いのか。部分的に入れ換えが必要な時、どの部分から換えるべきか、どの部分なら換えても良いのか。論理的に考えることは、このようなイメージで捉えられるでしょう。

これに加えて、既存の仕組みおよび構造を理解するのも長けている、ということも挙げられます。直接に見えているものの観察を元に、直接は見えない仕組みおよび構造にまで理解を拡張することができる。その時に必要なプロセスは、「Aがこうなっているから、Bはこうなっている」「Cがこうなっていると仮定すると、Dがこうであることを上手く説明できる」といった推論です。これはまさに論理です。そして、このように論理を用いておこなわれる行為は思考である、と言えます。

目標達成

どこかへたどり着くこと、求める状態を実現することです。
ゴールにたどり着いたり、ゴールを実現すること、とも言えます。

目標達成は、どこに行きたいのか、どのような状態を実現したいのかを想像することから始まります。それから、なぜそれをやるのかという理由付けや、関わる人にとってどのような影響があるのかを明確化していくことになります。

そのような大きな視点での明確化が完了したら、達成までの過程に何が必要となるのかを決めていくこととなります。ゴールが明確になった後は、今いる場所とゴールとの位置関係を見極め、どのようにそのゴールまで到達すると良いかの検討が必要です。ゴールへと至る過程はどのような順序となっているか、そこで何が起こると思われるか。確実性が高いのはどの部分で、不確実性が高いのはどの部分か。どの部分は代替と交換が可能か。どの部分は、代替も交換も不可能なのか。これらの検討が必要です。

計画が決まったら、実行をします。実行をするにあたり、予定通りにできているのかの管理が必要です。その時にも、全てが予定通りにいくわけではないので、どれほどの相違を許容できるのかを判断しなければなりません。予定より遅れている場合も有り得ますが、予定よりも上手くいっている場合にも、計画の修正が必要となります。また、当初の計画で想定していた手順またはルートにて進めない場合、その見直しが必要となります。実行段階でのこのような1つ1つの行動を経ながら、目標達成へと向かっていきます。

そして、目標達成には、困難を乗り越えることも含まれます。男らしさの要素の1つに目標達成を想定することは、男らしさには困難を乗り越えることも含まれている、と捉えらえます。目標達成する過程で困難を乗り越える経験をした時には、より成熟することができます。今回の記事では触れられませんが、「男性における精神的な成熟」というテーマからすると、この点は詳しく考えてみたいです。

堅固

「かたい」という二字の漢字によって成り立っている言葉です。「つよさ」に近い印象として捉えています。

こわれにくくて、しっかりしていて安定している。丈夫である。一貫した気持ちを保っている。外的な脅威に対しても動じない、潰されない、負けない。このような人は、きっと、「頼りがいのある人」でしょう。このような人が近くにいて、自分を守ってくれているとしたら、安心して過ごせるはずです。不測の事態が起こった時にも、この人なら安定した気持ちを保っていて、動じることはない。そう思えることは、心の安定を保てる大事な理由となるはずです。

1つ前の目標達成の項目で書いた「困難を乗り越えること」についても、この堅固は重要な役割を持っています。困難に遭遇した時に、立ち向かうことが必要です。もちろん、本当に困難な状況では、心が折れたり、自信を失ったり、感情に翻弄されることもあるでしょう。それでも、立ち直ることができて、困難を乗り越えられる時には、確かな意思を持ち、乗り越えられると強く信じている状態です。その時には、きっと堅固という要素が存在している。そのように言えるでしょう。

未来を思いやる

未来に生きる人々を思いやること、未来の世の中を思いやることです。

敢えて、これを男らしさの要素として含めたいです。男らしさはこうであってほしいな、という私の願望も込めています。
着想のヒントとなったのは、スティーブ・ビダルフの「男性にとっての真の仕事」の記述です*1

未来を思いやるとは、自分がいなくなった後のことまで考えるというこどです。まだ見ぬ子孫の代がよく生きられるように、今、何が必要なのかを考えること。そして、もちろん、そのために適切な行動を起こすこと。後の世代の人々が、私たちの時代、私たちの世代のことを振り返った時に、良い祖先だったと思えるように過ごすこと。このように想定できます。

男らしさという観点では、普段はこの発想はないと思います。しかし、ここでは、この「未来を思いやる」という要素を「現在はほとんど失われてしまっている男らしさ」と捉えたいです。つまり、男らしさの要素として「未来を思いやる」は過去には想定されていたが、現代では見られなくなってしまっている。言わば、「取り戻すべき男らしさ」である、ということです。こちらは、マスキュリニティの文脈とは少し違った話となりますが、前述のビダルフの例もありますし、何らかの関係性があると私は捉えたいです。こちらについては、機会があるときに再度の検討をしたいです。

それぞれに対応する要素

以上、男らしさの要素として、「思考」「目標達成」「堅固」「未来を思いやる」の4つを見てきました。

この4要素について、それぞれ、対になる要素が存在していると私は考えました。次の通りです。

思考 ー 感情

思考の対となるのは感情です。
これは、心理学でも良く言われることですし、日常用語としても自然なことですね。

感情に関することが得意であるとは、自分と他者のその時の状態を深く知ることができる、ということでしょう。そして、状態を深く知ることで、適切な対応をすることもやりやすい、ということも示唆します。自分に対しても他者に対しても、その時の状態、つまり「今」の状態に対しての感覚が豊かである、と捉えられます。自分に対しても、他者に対しても、その人のその時の状態を重要視できる、とも言えます。

目標達成 ー 維持

目標達成の対となるのは維持です。

目標達成は何らかの別の状態へと意思を持って移行することです。しかし、何らかの良い移行をするためには、何らかの変わらない部分が存在しているはずです。その「変わらない部分」を良い状態にするのは、維持、でしょう。良い目標達成をするためには、良い維持がなされている必要がある。良い維持がなされているからこそ、良い目標達成ができるようになる。そのような関係性が想定できます。

堅固 ー 柔軟

堅固の対となるのは柔軟です。
こちらも、二字の漢字によって成り立っている語で、どちらも「やわらかい」です。

柔軟とは、周りに合わせられること、周りの状態に合わせて変化できることです。人と人との関係では、周りの状況に合わせたり、変化したりすることが重要となる場面があります。その状況では、自分が合わせたり変化をすることによって、自分と他者との関係性をより良くすることができる。そういう時に適切な行動を取るための要素は、柔軟ではないでしょうか。

未来を思いやる ー 今を生きる

「未来を思いやる」の対は「今を生きる」です。

未来を思いやることは大事です。そして、今を生きることも大事です。
未来を良くすることを考えるのであれば、今をよく生きることも考えることが必要です。未来の人々は、その時点で「今を生きる」をしていることになります。それならば、未来を思いやるに当たっては、今の自分がどのように「今を生きる」をしているのか、考えなければならない。そして「今を生きる」がよくできていなければ、未来を思いやったとしても、その未来が実現できなくなる可能性を高めてしまいます。例えて言うなら、未来を思いやるのは向かっている先の地平線に何があるのかを考えることで、今を生きるのは歩いている足下と自分自身を考えることです。未来を思いやることを充分にやるためには、今を生きることも充分にできていなければなりません。そして、今を生きるのを充分に実現するためには、未来を思いやることも必要となってくるでしょう。両者について、そのように捉えたいです。

要素が対応することについて

以上、想定する男らしさの4要素について、それぞれに対応するであろう4要素を見てきました。
「『思考』と『感情』」「『目標達成』と『維持』」「『堅固』と『柔軟』」「『未来を思いやる』と『今を生きる』」です。

このことについて、やはり、
「『男らしさ』に対応する要素とは『女らしさ』なのかな?」
ということは考えました。

ただし、ここではその点には立ち入りません。

私としては、「男性における精神的な成熟」というテーマに取り組むにあたり、「男性たちが、自分たち男性における精神的な成熟を考えて、それを実現する」ということを前提として考えています。その考えを中心に据えたいので、男性である私が、女性の特徴はこうであるだろう、と言及するのは避けたいです。

ここで私が主張したいことは、

ということです。

言い換えるなら、
「男らしさは大事である。男らしさと並列される他の特徴も大事である」
となるでしょうか。

まとめに代えて:男らしさとは何かについて再確認をしたい

男らしさとは何かについて再確認をしたい。
これが、今回、この記事を書いた理由の1つです。

私にとって、現在の男らしさの問題は、
「男らしさの何らかの部分が失われていること」
であると思われます。

英語圏の著者が書いた文献にて、「少年が大人の男性になるためのイニシエーションが現代社会に存在していないことは、問題である」という指摘がなされています。そのことについて、その記述を引用しながらいくつか記事を書いてきました。

「少年が大人の男性になるためのイニシエーション」が存在していないことにより、現代の男性は精神的に成熟することが非常に困難になっている。それによって起こることは、「本人にとっても周囲にとっても重要である男らしさを充分に身につけられないこと」ではないか。これが私の問題意識です。

確かに、今では不要となった男らしさの要素にこだわるのは、よろしいことではありません。しかし、そのことから、「男らしさの要素は全てが古くて時代遅れのものだから、全て置いていくべきである」という結論は導けないでしょう。「一部の男らしさは不要である」ということは、飽くまで「特定の一部の男らしさ」について言及しているのみです。「(他の)一部の男らしさは必要である」という主張は、当然、成り立ち得ます。

これは、旅人のリュックサックの中身みたいなものだと私は考えています。長い旅をする中で、リュックサックの中身の見直しが必要な時があるはずです。その時にすることは、まず、何があるのかを確認することです。それから、これから何があるのかを予測します。それから、何を置いていくか、何を持っていくか、何を手に入れるのか、を考えていきます。旅をする中で、そのような確認と取捨選択が必要な時が訪れるのでしょう。さすがに、「リュックサックそのものを置いていく」という選択は有効とは思えません。旅における安全性を脅かすことにもなりかねません。旅をするという目的が果たせなくなる可能性すらも生じてきます。

男らしさとは何かを再確認することが必要です。
男らしさということの中身には、何か含まれているのか。まず、ここから考えることを始めたいです。

男らしさの中身をもう一度、見直してみる。
不必要になった男らしさは置いていく。
これからも必要な男らしさは持っていく。
そして、今後に必要になる男らしさは手に入れる。

シンプルではありますが、やはり、この観点が重要ではないでしょうか。
中身に何が入っているか検討することなしに、男らしさの全てを置いていってしまう、という発想に私は賛同できません。
男らしさの中には、きっと大切なもの、重要なものが含まれているはずです。
そして、今は無くても、今後に必要となる男らしさの要素が存在しているはずです。

だから、男らしさとは何かについて再確認をしたい。
私はこのように考えます。

お読み下さり、ありがとうございました。

「男性にとってintimacyは女性との性的関係とは限らない」という文章を見つけました。
intimacyは、そもそも異性の性的関係を示唆する語だと聞いていたので、「そうとは限らない」という発想について興味深いと感じました。
そして、男性同士の関係の重要性について、また考えてみました。

引用

引用は以下の書籍からです。

Reinventing Masculinity: The Liberating Power of Compassion and Connection (English Edition)

https://www.bkconnection.com/books/title/Reinventing-Masculinity

118-119ページより。訳は投稿者による。
(intimacyは「親密な関係性」と訳しています。)

Intimacy with another person is one of life's most precious gifts. Yet, so many men fear, avoid, or hold back expressions of intimacy, or they depend upon sex to be the primary way to express it. When intimacy is narrowly defined, important emotional relationships will become truncated. And yet intimacy can be furthered with just a little time and effort. Intimacy is a man hugging his spouse and whispering, "I love you," or a father getting down on the floor to play with his children. And when men share inner conflicts or confusions with other men, that's intimacy too.
他者との親密な関係性は人生で受け取れる最も大切な贈り物の1つです。しかし、多くの男性は親密な関係性にて起こるやり取りを恐れたり、避けたり、ためらったりしてしまいます。または、セックスが親密な関係性のための唯一の方法であると捉えてしまうがちです。親密な関係性が狭い意味だけに限定されると、重要な感情のつながり合いが見逃されてしまいます。しかし、少しの時間と労力をかけるだけで、他の状況でも親密さを実現することができます。親密な関係性とは、男性が配偶者を抱きしめて「愛している」とささやくこと、または父親が床に腰を下ろして子どもと遊ぶことでも成り立ちます。そして、男性が心の中の葛藤や戸惑いを他の男性と分かち合うこと。これも親密な関係性です。

intimacyという語に対して抱いていた印象

もともと、intimacyに関連する形容詞であるintimateという単語は迂闊に使うとよろしくない、と聞いていました。

「仲が良い」「親しい」というだけではなくて「性的関係がある」ということを暗に示す語であるから、使い時は注意した方が良いですよ。
そういう意図は無いと示したい場合は、closeを使った方が無難ですよ。
そのような説明を聞いたことがありました。

英辞郎 on the WEBでも、確かに、婉曲表現として用いられることの説明と、【注意】という表記が見られます。

2.〔性的な〕関係を持った、懇ろになった◆婉曲表現として用いられる。◆【注意】性的関係を連想させる場合がある。◆米国では通例、性的な関係の婉曲表現として、男女の間柄についてのみ使われる。
・We used to be very intimate. : 私たちは以前とても深いお付き合いをしてました。

intimateに関連する語であるintimacyについても、同じであろうと考えていました。
性的関係を連想させる言葉であるから、同性との関係にはあまり使われない語である。
それに、同性との関係にこの言葉を使うと差し障りがある可能性があるので、そもそも使わない方が賢明である。
そのように捉えていました。

男性にとってintimacyは女性との性的関係とは限らない

上記の引用部分を元に考えると、英辞郎の語の説明はアメリカでの語の使われ方に即している、と捉えて良いでしょう。
アメリカでも、通常は、intimacyは異性との性的関係を示唆する語である。

しかし。
それを踏まえた上で上記の引用では、intimacyを狭い意味だけに限定しない方が良い、と主張しています。

上記の引用では、intimacyに含まれるものの例として、以下の3つが挙げられています。

1つ目は異性関係(主に)での他の例、2つ目は親子関係、そして、3つ目は男性同士の関係です。

男性同士の関係の重要さ

引用元の"Reinventing Masculinity"では男性同士のセルフヘルプグループの例がよく出てくるので、やはり、上記の例の3つ目の「男性が心の中の葛藤や戸惑いを他の男性と分かち合うこと」に注目をしたいです。

男性が自身の問題を解決したい時に、男性同士の関係が重要である。
この点を、やはり考えたいです。

intimacyの関係性、つまり親密な関係性とは女性との性的関係だけを指すのではない。
性的関係だけを指すのではないことはもちろん、女性との関係でしか得られないわけでもない。
男性同士の関係でも、親密さを持つことは可能である。

もっと、男性同士の関係に目を向けよう。
男性同士で問題を解決することを志向しよう。
危機的状況にこそ、男性は男性に助けを求めよう。

この分野の本を読んでいると、このような考え方が繰り返し現れてきます。

典型的な男性同士の会話というと、大声で陽気に騒いだり、楽しく笑い合ったり、持っている知識について披露し合ったりする、というやり取りを想像します。

それに加えて、感情をオープンに表現して、お互いに相手を尊重し合いながら、共感を持って共に時間を過ごす、そういう対話も可能であるはずです。

感情を言葉で表現することは、習得できるものです。
相手の感情に共感をしたり、受容したりすることも習得できるものです。
そして、そのような対話の場をつくることも習得できるものです。

これは、外国語を習得するようなもので、すぐにできるものではありません。
継続して、繰り返して、少しずつできるようになるものです。
時間はかかります。根気が必要です。

それでも、「習得できる」ということは、「いつかはできるようになる」ということを意味します。

そう考えると、男性が自身の問題に向き合いたい時に、本当は男性同士の関係性をもっと頼れるはずである。
すぐには実現できなくても、きっと、必ず、お互いを助け合える関係性を築くことができる。
今、男性を取り巻いている問題にいくつかは、男性同士の親密な関係性(intimacy)を実現することによって、解決することができる。

私にはこのように思われます。

もちろん、女性との性的関係を求めてはいけない、というわけではありません。
女性との性的関係は、やはり重要だ。
そう捉えても良いでしょう。

それを踏まえつつ、「親密な関係性はそれだけしかない」と思い込まない方が良い、ということですね。

男性同士でも、心の底から感情を共有する対話、全身で相手との共感を持てる対話、魂を癒やす対話はきっと可能です。
身近なところでも、そういう場がもっとあったら良いな、と思います。

最後に、同書から、もう一箇所の引用をして締め括ります。

Men Mentoring Men(メン・メンターリング・メン)という、男性の集まりでの出来事です。
3年以上にわたり、15~20人からなる男性のグループが2週間に1回のペースで集まっていました。
参加者の多くは、他の参加者の男性に対して、私的な課題または最重要な課題を安心した気持ちで打ち明けられていました。

以下は、その後に続く箇所です。

"Reinventing Masculinity" 124-125ページより。訳は投稿者による。

Then, one member described how he'd followed the group's advice and how the suggestion had helped resolve a particularly difficult issue in his life. He said, "I want you all to know how much you guys mean to me and how helpful you have been. I want to thank you and I lo... lo... you. I mean I... I---" Then another man said, "love you." Everyone smiled. The first man said, "Yes, I love you." The men knew this was not a romantic love but a "philia" love---a brotherly love comprised of appreciation, gratitude, compassion, and connection.
それから、参加者の1人が、他の参加者からのアドバイスをどのように取り入れたか、他の参加者からの提案が自分の困難な問題を解決するのにどれほど役立ったかを説明しました。その参加者は言いました。「皆さんに知っていただきたいんです。皆さんがどれだけ私にとって大切であったか。どれだけ私を助けてくれたか。皆さんに感謝をしています。そして、私は、皆さんを…あ…あい、その…つまり…あい、あい…」そこで他の参加者が言いました。「アイ・ラブ・ユー、ですね。」全員が笑顔になりました。ずっと話していた参加者が続けました。「そうです。アイ・ラブ・ユー、皆さんを愛しています。」参加者たちは、これはロマンティックな恋愛感情ではなく、友情関係からくる親愛感情―承認と感謝と思いやり、つながりで成り立つ兄弟的な親愛感情―であることをわかっていました。

お読み下さり、ありがとうございました。

最近の記事を書くために、グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』を読んでいたら、こちらでも男性のイニシエーションに関する記述があるのを見つけました。
そちらの箇所を読みながら、「男性における精神的な成熟」というテーマについて改めて考えてみました。

男らしさの終焉

男らしさの終焉 | 動く出版社 フィルムアート社

以下、どちらも171ページより。

より原始的な社会では、荒野に出て行ったり、あばら家に住むといった成人の儀式が習慣化している場合もある。私はイングランド中部の息子たちに、足に蔓を巻いて塔からダイブするというバヌアツで行われている儀式は勧めないが、男性の混乱した心を安定させる儀式のようなプログラムがあれば、とてもメリットがあると思うことがある。

大人へのある種の儀式的な移行が現代の少年に有益だと考えているのは、私だけではない。私は世界のさまざまな場所で、荒野に出て困難や苦痛を伴う試練が行われているのを目にした。これらも効果的かもしれないが、現代的で都会的で男女平等の社会に備えるための儀式が若者に必要だと思わずにはいられない。あらゆる儀式は本質的に、心の強さを見極め、祝福するものである。アマゾンのサトレ・マウェ族の通過儀礼は、凶悪なサシハリアリが大量に入った手袋を十分間はめて痛みに耐えるというものだが、これはティンダーや主夫やサービス経済の時代の男性には向いていない。

本ブログにて、これまでの記事でスティーブ・ビダルフ、Connor Beatonが男性のイニシエーションの重要性を述べていることについて書きました。
今回、グレイソン・ペリーも、同様な主張をしているとわかりました。
(ちなみに、スティーブ・ビダルフはオーストラリアの人で、Connor Beatonはカナダの人で、グレイソン・ペリーはイギリスの人です。)

痛みを意図的に引き起こすのは現代社会には合わない

さて、上記のペリーの引用ですが、2つ目の引用の最後の、アマゾンのサトレ・マウェ族の通過儀礼の例は、なかなか強烈な印象を残します。

少年が大人の男性になるためのイニシエーション(通過儀礼)に関しての説明は、このような、痛みを意図的に引き起こすという部分が強調される気がします。
確かに、その部分だけ見たら、このような風習は現代社会に取り入れてはいけない、と感じられます。
この部分だけを見ていても、男性のイニシエーションの本質は理解できないと思われます。上記のペリーの文章においても、主張の方向性は同じと言えます。

現代的な男性のイニシエーションの在り方について

となると、少年が大人の男性になるためのイニシエーションの現代的な在り方はどのようなものか、という問いを考えるべきですね。

今の時点でまず思い付くのは、旅や留学をすることです。
もう少し具体的に言うと、バックパッカーとして外国に行くことであったり、ワーキングホリデーに行くこと、などでしょうか。スペインのカミーノ・デ・コンポステーラのような巡礼路を行くことも挙げられるかもしれません。

これらは、親元や地元から離れて、自分だけで判断して責任も自分で負うことを意味しています。
確かに、旅や留学と言うと、新卒の就職活動の自己PRでも良く見られる内容だった気がしています。

その他、自分だけで判断して責任も自分で負うという点では、寮生活や一人暮らしをする、ということも挙げられます。

もちろん、これらが大人になるための行動になり得るというのは、男性に限った話ではないですね。

改めて「男性における精神的な成熟」について

私は、「男性における精神的な成熟」ということそのものを考えるべきと思い、このようなテーマ設定をいたしました。

ペリーも主張しているように、男性のイニシエーションを何らかの形で現代に取り入れることも重要と思います。
それと共に、そのようなイニシエーションは「少年が大人の男性になること」が目的である、という点にも注目したいです。
このようなイニシエーションが現代に無いことは、「どうしたら少年は大人の男性になるのか」を考えることが軽んじられているからだ、という推測が成り立ちます。
または、「少年はある程度の年齢になったら大人の男性になるものだ」と想定されているのかもしれません。

このような考え方が一般的であるために、必要な支援が適切に得られず、現代の男性は困窮しているのではないか。
自分自身の力では大人の男性になることは不可能なのに、大人の男性になっていて当然だと思われていて戸惑っているのではないか。
周囲からの想定と、自身の実際の成熟度合いとのギャップに、苦しみを抱えているのではないか。
私にはそのように感じられます。

本質的な問いとは、「少年はどのようにしたら大人の男性になるのか」あるいは「大人の男性がさらに成熟していくには何が必要なのか」ということなのでしょう。
これらを含めたテーマに取り組むことが必要だと私は考えました。

そこで私が設定したテーマが「男性における精神的な成熟」です。

このテーマは、自分が明らかにしたいと感じていて、かつ、世の中において重要であることの様々な要素を包含できています。

少年が大人の男性になるためのイニシエーションは、「男性における精神的な成熟」にとって確かな位置を占めています。
それと共に、このような劇的な出来事だけではなく、その他の日常的なことにも目を向けたいです。家族との関係、友人との関係、異性との関係、男性と仕事との関係、などです。
これらも含めて考えることで、男性のイニシエーションについても、その本来の意味が明らかになると考えています。

お読み下さり、ありがとうございました。

私は、「男らしさから降りよう」という呼びかけがあまり好きではありません。
それは、おそらく、「そもそも男らしさとは何か」という前提条件の共有を抜きにしたままで、「とにかくやめよう」と語られることが多いから。私はそのように捉えています。

せめて、「こういう男らしさは手離そう」「こういう男らしさは保持しよう」という場合分けをしないと、良い議論にならないだろう、とは思うのですが。

「男らしさから降りよう」と主張する時には、「男らしさとはこういうものである。だから、男らしさから降りた方が良い」というように、理由と共に意見を述べた方が良いのではないか。それが、良い議論のために必要なことではないでしょうか。

私と男らしさ

私は、競争心はたいして持っていません。それに、スポーツに集中して取り組んだこともこれまでにありませんし、筋肉をたくさんつけたいとも思わないです。人を撲ったのは、小学生の時が確か最後です。身体的な優位性を持ちたいという欲求は、あまり無いと思います。

最近はあまり観ていないですが、一時期はミュージカルが好きでした。
大学生の時に、音楽活動・教育活動をおこなうアメリカのNPO団体が日本での活動をする時に、会場でのボランティアに参加をしていました。その時には、ミュージカル作品をベースにしたパフォーマンスもおこなわれていました。
一度、その団体の大学生向けのワークショップに参加をした時には、男性が40人くらい、女性が180人くらい、という内訳となっていました。
かといって、女性の気持ちがよくわかる、というわけでもありません。

自分が持っている知識をひけらかして、自分の優位性を確認しようとする、という傾向はあります。「自分はこれを知っている。君はそれを知らない。だから、自分の方が上だ」ということをやりたがる、ということですね。
ただし、こういう「知識をひけらかす」というやり方はあまり良くないと今では感じています。ですので、最近は、「自分はこれを知っている」と言う時には、そのように言う必要性があるのかどうかに注意しながら話すようにしています。

様々な男らしさ

「男らしさから降りよう」という時に、「男らしさが何であるのかは既知である」という前提があるとしたら、それはおそらく身体的優位性だとか、暴力性なのだろう、と私は感じます。

「『身体的優位性および暴力性を持たなければいけない」という思い込みから自由になろう」という考え方には、私は同意をします。
もし、「男らしさから降りよう」という呼びかけがそういう意味であるならば、私は、それに同意できます。

しかし、私の場合、「人を撲ったのは、小学生の時が確か最後」ですので、「『身体的優位性および暴力性を持たなければいけない」という思い込みから自由になろう」と言われても、いまいち自分に響いてきません。

私の場合、「知識をひけらかす」という行為をすることが、「男らしさが良くない在り方で現れている」という状態であると言えます。私に対しての呼びかけをするとしたら、「『相手よりも多くのことを正確に知っていなければいけない』という思い込みから自由になろう」となるでしょうか。
前述の通り、相手が知らないことを自分が知っていて、そのことについて話す時には、必要なことだけを言うよう注意しながら話すようにしています。この点に関しては、まだ道半ば、だと考えています。

というわけで、私としては、
「『身体的優位性および暴力性を持たなければいけない」という思い込みから自由になろう」
という呼びかけは自分事には思えないです。

しかし、
「『相手よりも多くのことを正確に知っていなければいけない』という思い込みから自由になろう」
という呼びかけは自分事に感じられます。

「男らしさから降りよう」ということを伝えるだけでは、このようなニュアンスまで表現するのは難しいと思います。

なので、
「男性にもいろんな人がいます。だから男らしさもいろいろあります。まず『男らしさ』が何であるのかという前提から話を始めるべきではないですか」
という発想が基本だと思えるのです。

「男らしさとは優しさである」という発想

ここで引用をします。
前回の記事と同じく、グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』からです。

男らしさの終焉

男らしさの終焉 | 動く出版社 フィルムアート社

191ページより。

私は、オールドスクールの男性が代表するすべてと別れようと言っている訳ではない。心理療法士のジェリー・ハイドに「男らしさとは何ですか?」と質問したら、彼はためらうことなく「優しさ」と答えた。奇妙な答えかもしれないが、穏やかな男性の優しさは非常に男性的なのである。穏やかな男性は、何かを押しつぶす力を肉体的にも感情的にも備えていても、それは使わずに愛と優しさを選ぶ強さがあるのだ。男性的な優しさは率直だ。これは「男の子は単純な生き物」というしつけの結果かもしれない。男性的な思いやりとは、肩を抱く静かで頼もしい腕である。心の優しい男は「岩」であり、その内向的な優れた資質は世に知らされていない。漫画の男らしさの芝居がかった派手さが、それを脇に追いやっているのだ。

「男らしさとは優しさである」

なかなか無い発想です。
しかし、考えてみる意義があると思います。

もし、「男らしさとは優しさである」という仮定をしたら、どういうことが言えるか。

それは、現代に男性にとっての問題は、(「男らしさの呪縛に囚われていること」ではなく)「本当の男らしさを充分に持てていないこと」である、ということではないでしょうか。

男性たちは、本当の男らしさを知ることができていなくて、追い求めているのは偽物の男らしさでしかない。
男性たちが本当に自分たちに向き合うためには、本当の男らしさをもっと持つべきである。

こう考えると、「男らしさは基本的には良いものである」と思えてきます。
そこには希望が感じられます。私はそれを信じたいです。

「男らしさとは優しさである」という前提を持って考えてみたいです。

「男らしさとは優しさである」と仮定をしたら、「男らしさから降りよう」という文は、「優しさから降りよう」という意味となってしまいます。

あるいは、『男らしさの終焉』からの表現で置き換えるなら、
「『何かを押しつぶす力を肉体的にも感情的にも備えていても、それは使わずに愛と優しさを選ぶ強さ』から降りよう」
「『肩を抱く静かで頼もしい腕に象徴されるような男性的な思いやり』から降りよう」
ということにもなってしまいます。

これは、良くないことでしょう。

「男らしさとは何か」

まず、ここから考え始めても良いのではないでしょうか。

私は、男らしさの在り方の中には、保持するべき要素もあるし、もっと求めるべき要素もあると信じています。
優しさは、そのうちの1つとなるかもしれません。

お読み下さり、ありがとうございました。

前回の記事でvulnerability(バルネラビリティ)の意味を辞書で引いたことについて書きました。
その記事にて、グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』での記述についても言及するつもりでした。しかし、こちらは翻訳版があり、別の記事として書いた方が良さそうでしたので、本記事にて書かせていただきます。

グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』でのvulnerability(バルネラビリティ)

男らしさの終焉

男らしさの終焉 | 動く出版社 フィルムアート社

166ページより*1

ソーシャルワークの研究者であるブレネー・ブラウンは、TEDで「傷つく心の力」という素晴らしいトークを行った。グーグルで「傷つく心(vulnerability)」を検索すると、最初のページに彼女が表示される。ブラウンによると、最も充実した人間関係をうまく築いているのは、心が傷つくリスクを冒し、自分の弱さと失敗、つまり自分の弱さの根底にあるものをさらけ出せる人だという。他人に自分を開いているのだ。

166ページより。

このような人たちには、ありのままの自分を見せる勇気がある。私たちが他者と良好な関係を築くには、本当の自分でいなくてはいけない。自分の感情をよく理解し、その感情が伝わる態度をとる必要があるのだ。

169~170ページより。

傷つきやすさの重要性は強調してもしきれない。男性の未来に幸福が訪れるかどうかは、傷つきやすさの扱い方にかかっているのだ。傷つきやすさのイメージと感情のイメージを変えよう。傷つきやすい男性は変ではない。彼は傷つくことに開かれているが、愛することにも開かれている。健全な心だと思う。怒りや、不安や悲しみを押しとどめない人間は、より喜びを感じ、より親密な関係をつくることができるのである。

男性にとってvulnerability(バルネラビリティ)の可能性を感じさせる文章

良い文章だな、と私は感じました。
男性にとってvulnerability(バルネラビリティ)が「どのように重要なのか」「なぜ重要なのか」を説明する際の材料として適していると言えます。

特に私が注目したいのは、大きく以下の2点です。

ここは、本ブログの前回の記事と同じように、vulnerability(バルネラビリティ)を「勇気」と関連付けています。

ありのままの自分をさらけ出すことには、リスクが伴います。
相手がそれを受け容れてくれるかもしれないし、逆に拒絶をしたり、その弱さにつけ込んで攻撃的な態度を取ってくるかもしれません。
しかし、自分の弱さを見せられる人は、結果がわからないとしても、敢えて「自分の弱さを見せる選択」ができる人、ということになります。

そういう人たちが持っている心の特徴を何と呼ぶか。
それは、「勇気」ではないでしょうか。

私は、前回の記事を書くにあたって辞書を引いた時に、自分の弱さを他人に見せるようにしよう、と感じました。
そして、今回、上記のペリーの文章を読んで、その思いをさらに強くすることとなりました。

こちらは、vulnerability(バルネラビリティ)に対してペリーの見解を示している箇所と言えるでしょう。

ここで、上記の1文目の「傷つきやすさ」を「vulnerability(バルネラビリティ)」に置き換えると、以下となります。

vulnerability(バルネラビリティ)は非常に重要であり、男性の未来に幸福が訪れるかどうかはその扱い方にかかっている

そして、男性がvulnerability(バルネラビリティ)を適切に持つことは、愛することに開かれるということを意味する。

vulnerability(バルネラビリティ)について、是非とも、もっと深く考えた方が良いですね。

そして、もちろん、「vulnerability(バルネラビリティ)が大事だ」と言うだけではなく、実際に「他人に弱さを見せる」「自分の弱さを認める」を行動として実行することが重要です。

この点に関しては、リーダーシップの発揮と同じことでしょう。
「リーダーシップについて理解する」ことと「リーダーシップを身につける」こととは違う。
このことは、リーダーシップについて話したり聞いたりする過程で、何度も耳にしてきました。

vulnerability(バルネラビリティ)について理解する」ことと「vulnerability(バルネラビリティ)を身につける」こととは違う。

グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』の書籍について

www.filmart.co.jp

著者のグレイソン・ペリーはアーティストです。
その他、テレビ番組の司会者も担当しているようです。
文章を読んでいて、ウィットに富むというか、時々にシニカルな表現を織り交ぜてくる、ということが印象に残りました。

出版者には詳しくはないのですが、アーティストが書いた本だからフィリムアート社から翻訳が出されたのかな、と感じられました。
本の中身にもペリーが描いたイラストが掲載されていて、「アーティストが書いた本」の良さがとても醸し出されています。
なお、訳者の小磯洋光さんは、文学の翻訳をされている方のようです。

こちらの書籍は、マスキュリニティや男性論の分野の他の書籍とは少し違った雰囲気が感じられました。
それは、著者がアーティストであり、その特徴が生かされているから、ということが理由なのだと私は捉えています。

お読み下さり、どうもありがとうございました。

マスキュリニティの文脈にてvulnerability(バルネラビリティ)の概念を見かけることが良くあります。
カタカナ語が用いられているということは、やはり、訳しづらい言葉なのかな。
と思っていましたが、辞書を引いてみたらとても良い表現が見つかりました。
vulnerability(バルネラビリティ)とは、つまりは、「勇気」と「精神的強さ」です。

マスキュリニティの文脈における「バルネラビリティ」

マスキュリニティ関係の以下の文献で、バルネラビリティについての以下の記述を見つけています。

Edward M. Adams & Ed Frauenheim, "Reinventing Masculinity"
119ページ。訳は投稿者による。

Intimacy necessitates emotional vulnerability.
他者と親密な関係を持つためには感情についてバルネラビリティを持つことが必要です。

Steve Biddulph, "Raising Boys in the 21st Century"
70ページ。訳は投稿者による。

Emotional openness, including being able to cry, is healthy for boys and men. Vulnerability is the key to good mental health, because without it we can't be close to other or grow and learn.
泣いても良いのだと認めることも含めて、感情表現に対してオープンであることは、少年にとっても男性にとっても心理的に望ましいことです。また、バルネラビリティは心の健康にとって重要です。バルネラビリティを持っていないと、他者と親密になることも、成長することも、学ぶことも、不可能となってしまいます。

どちらの文献でも、バルネラビリティは重要であると主張されています。

vulnerability(バルネラビリティ)を辞書で引いてみた

"vulnerability"を「英辞郎 on the WEB」で調べると、以下のような結果が出ます。

1.脆弱性、もろさ、傷つきやすさ◆不可算◆【形】vulnerable
2.〔人・物の保護・防御における〕弱点◆可算
3.《心理学》〔他人に正直に自分の〕弱さを見せる[さらけ出す]勇気[精神的強さ]、〔自分と向き合って自分の〕弱さを認める勇気◆不可算

実は、調べる前は「1」の「脆弱性、もろさ、傷つきやすさ」しか出てこないかと思っていました。

しかし、「3」の心理学のタームも出てきています。

vulnerability(バルネラビリティ)とは「勇気」であり「精神的強さ」である

上記の「3」の訳から作れる文例のうち、私は以下に注目をしたいです。

vulnerability(バルネラビリティ)については、「弱さを見せる」「弱さを認める」ということに焦点が当たりやすいと私は感じています。
しかし、上記の文例の通り、「弱さを見せる」「弱さを認める」という修飾語が受けている名詞は、「勇気」と「精神的強さ」です。

vulnerability(バルネラビリティ)とは「勇気」であり「精神的強さ」である

前述の引用に調べた訳を当てはめてみる

前述の引用では、カタカナ語で「バルネラビリティ」という表記を用いました。
しかし、「英辞郎 on the WEB」での訳語がとても良いので、その訳語を用いて先ほどの引用(および訳文)に当てはめてみました。
(変更部分はアンダーラインを付記)

Edward M. Adams & Ed Frauenheim, "Reinventing Masculinity"
119ページ。訳は投稿者による。

Intimacy necessitates emotional vulnerability.
他者と親密な関係を持つためには感情について弱さを見せる精神的強さを持つことが必要です。

Steve Biddulph, "Raising Boys in the 21st Century"
70ページ。訳は投稿者による。

Emotional openness, including being able to cry, is healthy for boys and men. Vulnerability is the key to good mental health, because without it we can't be close to other or grow and learn.
泣いても良いのだと認めることも含めて、感情表現に対してオープンであることは、少年にとっても男性にとっても心理的に望ましいことです。また、弱さを認める勇気は心の健康にとって重要です。弱さを認める勇気を持っていないと、他者と親密になることも、成長することも、学ぶことも、不可能となってしまいます。

カタカタ語を使わずとも意味を充分に伝えられるようになった、と私には感じられます。

つまりは「男性の皆さん、もっと『勇気』と『精神的強さ』を持とう」である

マスキュリニティに関して、時々、

ということが言われている、と感じられます。

確かに、一部の男らしさは現代では通用しなくなっているので、きっと、脱いで置いていった方がよいです。
さらに、一部のマスキュリニティはトクシック(有害)になり得るので、その部分は手離した方が良いです。

しかし、男らしさも、マスキュリニティも、全てを捨てたり手離したりするべきではない。

今回、vulnerability(バルネラビリティ)を辞書で引いてみて、改めてそのように感じました。

「勇気」も「精神的強さ」も、これまでの(そして、これからの)男らしさ、およびマスキュリニティに深く結びついていると言えるから、です。

「今、男性にとってバルネラビリティが重要だ」
ということは、つまりは、
「男性の皆さん、もっとバルネラビリティを持とう」
ということを意味している。

そして、
「男性の皆さん、もっとバルネラビリティを持とう」
ということは、つまりは
「男性の皆さん、もっと『勇気』と『精神的強さ』を持とう」
ということを意味している。

その「勇気」と「精神的強さ」を達成するために、「弱さを見せる」「弱さを認める」が必要である。
このような論理です。

「弱さ」は最終目的ではなく、飽くまでも手段である。
本当の目的とは、「勇気」と「精神的強さ」である。

そのことを踏まえて、男らしさとマスキュリニティを見直そう。
そういったことを、バルネラビリティが重要だと提示することで示唆している。

私は、そのように考えました。

というより、そのように捉えたらよいと思いませんか?

「男性の皆さん、もっとバルネラビリティを持とう」
と言うことによって、
「男性の皆さん、もっと『勇気』と『精神的強さ』を持とう」
と伝える。

私自身も含めて、男性の皆さんにそのように声を掛けたいです。

お読み下さり、どうもありがとうございました。