これからの人生のためのメモ53 (original) (raw)

寄付はしないと決めている。若干の後ろめたさはあるが、こればっかりは仕方ないと感じている。街頭で「◯◯さんの未来のために」何か違う。「パレスチナの平和のために」何か違う。「犬猫を救うために」違う。何かが違う。1000円寄付をする。この1000円は、自分が汗水を流して稼いだ1000円。この1000円を渡すことに、あまり価値を見出せない。

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寄付をして、それで改善されるという社会の中に自分が入っているイメージが湧かないのかもしれない、と思った。自分が社会に帰属しているという感覚をそもそも持っていない?希薄?なので、寄付をすることが巡り巡って自分に返ってくるということをどうしても信じられないでいるのかもしれない。例えば、本当はあるNGOの一員でありたいが、そこへ自分の時間、体のリソースを割けないから、お金という手段で代替的に参画するという考え方もある。でも、そうした考えもあまりしっくりこない。?しっくりこないのだろうか。というか、別にそうまでしてその集団に属したいと自分が思えない、ということだろうか。感覚はわかる。わかるが、その領域まで達していると感じさせてくれるような出会いが自分にはないのかもしれない。

帰属する感覚があるから寄付をするのか、寄付をすることで帰属していく感覚を得られるのか。よく分からないが、見返りを期待している部分は確かにある。1000円でクレーンゲーム11回、それは何も得られないかもしれないが、確かに「何かを消費した」というある種の爽快感を得ることはできる。1000円で新書1冊、得られるものは極めて抽象的なものかもしれないが、確かに「1000円を使った」という感覚を得ることができる。寄付はどうか。やったことがないからよく分からないが、あまりそういった感覚は得られないのではないか。街頭寄付などそうだろう。恵まれない子供達に、と言って、そこに寄付をしたとして、彼らのその先というのは私にとっては全く分からない。リターンがない。どれだけ私が毎回1000円の寄付をしたとして、広告では恵まれない子どもたちのドアップが延々と映し出されている。「あなたの協力が必要です」。協力して、この広告は無くなるのだろうか。YouTubeで広告が邪魔だから課金するのと同じような感覚で、恵まれない子どものドアップを見たくないから寄付をする。だとすると、YouTubeのそれに比べればこれは遥かに分かりづらいし、おそらく消えることもない。ますますインセンティブは遠のいていく。

神社、お寺。お賽銭を入れなくなって随分経つ。あれが坊主のベンツに化けていくと思ったらとてもお金を入れたいとは思わなくなった。「坊主が原付でETCを強行突破」みたいな面白いニュースが流れてくる方がよほど自分にとって良い消費のタネになった。

社会に帰属する感覚が得られない。向こうにあるものが自分と同じ社会に属しているという感覚がない。別世界の住人。別世界の住人に、そう易々と自分の努力の結晶を渡してたまるか、と、そんな気持ちなのか。あるいは、つけ込まれるかもしれないという恐怖なのか。福祉の多くは、そうした関係性に対して無自覚であることが多い。

福祉。福祉は自己決定論者だと感じることが度々ある。とてもキリスト教的な考え方が根付いている。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に通じるものが、現代日本の福祉にも息づいている。自己と神との関係性。神だけが我々の上にいて、だからこそ我々は対等な関係性を抱いている。究極的には神との関係性でしかあり得ない。その感覚を持ち得ない私にとって、現代日本の福祉とは極めて個人主義的に映る。支援を受けるのも、受けないのも、個人意思。尊重。個人の意思を尊重する。聞こえはいいが、本当にそうなのだろうか。あれは結局のところ、プロテスタンティズムの中で築き上げていった「関係性」に対する、一種の贖罪的な行動ではないのか。最後の審判において対等であることを目指した結果、現世において対等ではなくなってしまっているという矛盾に対する贖罪。

「恵まれていない」などと誰が決めたのか。それは自分だ。人のことを無意識にジャッジしている。そうではない。でも、そこに対して「恵まれていない」と感じることすら否定してしまったとき、そこにあるのは深く、深く決定的な断絶ではないのか。キリスト教ならば、そこで初めて神の存在に救われるのかもしれないが、かつて神ですら対等であった私たちにとって、その断絶の先に何があるかと問われれば、何もないのではないか。「何もない」ことを知っているからこそ、我々はつながることに意味を求めるのではないか。そこにカタルシスはない。自分が弱いと知る瞬間にこそ感動があるという言説は、体感的にはわかる。そうなんだろうか。

他者の社会。他者の侵襲に私はひどく怯えている。どこかに決定づけられることを怖がっている。そうなのかもしれない。ただ怯えているだけ。そうなのかもしれない。

何度も言ってるけれど、西洋という運動体の、支配することに関する本気度の違いはよく意識すべき。こんな島国で殿様ぶったり裏金がとかというのとぜんぜん違う。

— 千葉雅也 Masaya Chiba (@masayachiba) 2024年9月11日

細かいことは分からないが、「支配することに関する本気度の違い」というのは、他者との断絶から生まれているのではないか。神によって断絶していることによって、他者を知ることが困難になっている。他者を理解するために神という色眼鏡を必ず使ってしまうから、それが確信とはなり得ない。困難な他者に対して邪推をする。恐れが支配につながる。違うか。現代の私たちは、神が他者であると気がつき始めているということなのか。