kyara-oの日記 (original) (raw)
味覚は古い記憶を思い起こさせることがあるが、いつ、どこで。ひょっとすると、生まれる以前であるかもしれない。まっ、云ってみれば、〈トンデモ系〉の、妄想に結びつくことでも、…。
今日のランチはインドネシア料理だった。
甘酸っぱい味付けは、タイと同じかな。
ジャワ島に、1パーセント居るという「ズンダ民族」は、もともと中国の揚子江付近に広く居た少数派だ。彼らが、漢民族に追いやられて南へ、南へ、とうとう大陸からも追いやられてインドネシアのジャワ島に至った、のかな。
彼らの伝えた味があの甘酸っぱさ、かな。
さて、店にあった地図を見ていて、ジャワ島の位置を考えて、かつて次男家族が赴任していた地であることを思い出した。
余計なことだった。
ズンダランド地図
地図を見ていて発見したことは、民族構成だ。少数派として1%がジャワ島に居るというズンダ族のことをお話ししよう。彼らは、我々のような東方アジア族とは異なっている。南方アジア族の特徴をたくさん持っている人々だ。
特に、形質人類学として、歯に特徴がある。
詳しく述べると、下顎大臼歯の溝が「Y」字型ではなく「+」型をしている。視れば直ぐに分かる。
ところで、白川静によると、漢字の「南」といいう字は、楽器の象形文字である。私は中国の雲南省の麗江へ行った時のことを思い出していた。納西族の博物館で、見た楽器だ。金属製の太鼓が「南」なのだった。
太鼓の音のする方向を、「南」という字に充てたというのが、白川説らしい。
その後、彼らは中国からどんどん南方へ、納西族がそうあるように、南へ、山の上の方へと追いやられた。
白川は、かく仰っていたような気がするが、詳細は、きちんと文献に当たって欲しい。
24Nov05
思えば実に七年ぶりにここ「はてなブロぐーkyaraoの部屋」へ書いている。
その間何も書いていないかと言えば、媒体が変化していて、もっぱらLINEに宛てている。だから知り合いに向けて発信している、つまり私信のレベルだということ。広く大勢の読者にむけて発信するという「ブログ」本来の姿にあって、程遠いと言わねばならない。ただし、「ブログに本来があった」として、だが。
このことがなかったのだ。
これはブロードバンドに向けて言葉を発するという姿勢が失せて、小さく内輪向けにブツブツというだけなのだ。このことがどういう心境によってそうなったのかということを詳しく分析したわけじゃない。このところそうなってしまっていたということだ。
これは、昨年の十月に、オフィスを閉じたということと、深く関わっているかもしれない。オフィスをやっているときには、この五、六年分け合って滞っていたが、「院長ブログ」で広く意見を公表していた。多い時には一百万人が見た記事もあったのだ。
先にも言ったが、もう一度繰り返す。去年の秋に半世紀に亘ってやってきたオフィスを閉じた。そのことが内向きに自分を変えていたかも知れない。そのことに差し当たって罪科があるわけではない。だが、かつての職業人としての公的性格という思重い荷を降ろしたことは間違いない。それはそれで随分楽をさせてもらった。
そろそろ、お昼寝から目覚めてもいいかもしれない。
24Oct291530
核燃料デブリは、いずこ。
これは誰もが知りたがっている最大の関心事だ。
これを探るべく、探査がなされている。
カメラ付きのロボットも、その一端を明かしたいと勉めている。
カメラが一月末に、福島原発第2号炉に投入された。
そして、新聞は
「(その映像が)デブリを捉えている」
といっているのだが、そんなに都合良く、溶け落ちたデブリが映っだのだろうか。
核燃料の燃え滓かどうか、むしろ燃え盛っている高温の核燃料がそこにはない。
むしろ虚ろにみえる大きな孔が映っていた。
だから、その孔の先に燃料はドロドロにとけておちてしまった、、、
のではないかと思える。
デブリがその先に映ってくるというか、映像化されることが、未だ不明だと思う。
溶け落ちた核燃料は、未だ強烈な核反応を引き起こしている筈だ。
それに、地下深くチャイナシンドロームで溶けて居るのでは。
さらに、潜っていってしまっているのじゃなかろうか。
デブリの取り出しは、現世のこととはとても思えない。
未来に引き延ばされた負の遺産なのだ。
この世のありとあらゆる事象の、すべての「分かり難さ」
このことは、ここから発している。
17Feb06
純粋言語についての続きである。
読んでる本が面白いと、前号で書いた。ものが語りかける世界である。というと、人が語りかけることを受け止めるということは日常普段にあるとして、「もの」がとなると、難しい。それが、何の話しか分けがわからない、ということになるだろうか。
震災のときの体験は人々の言葉を奪ったまま、自体だけが静かに深く潜航している。
そして、福島では、不気味さが余震という形で語り続けている。もう五年もたっているというのにだ。
さて、知り合いが、ベンヤミンを読んでそれらについて語ったことを本にした。そういったときに例の震災が起きて、身の震えるような体験をしたそうなので、それが本を作るときに大きなモチーフになったようなのだ。
その後、夢にまででてきて、波や家や車が、未だに語り出す。あのときの光景を前にしたとき、ことばを失ったとかいう体験をしたわけだ。
そして、その後話し出したものが、みなとるに足りないものとなって、無惨に転がっていろところも経た。
探せば、かの震災に関しての、膨大な書類が作成されただろうが、よくもまあ、恥ずかしいことばを並べ立てたものだ。沈黙していてよかった、とこのごろつくづく思わされるのだ。
16Dec15
瀬尾育生の『純粋言語論』を読んだ。
「純粋言語」とは、とてもおどろしいものいいである。本書の後付けをみると、震災の一年後に刊行されている。わたしは、あれをみて身震いした。その後の福島を追うにつけ、それで心がざっくりと刳れてことばを失うほどである。宜なるかなというところか。
さて、純粋言語とは、ベンヤミンの語る概念であり、それを瀬尾が敷衍して語るところである。そのモチーフを、わたしは震災の影響なのではないか、と思っているのである。すなわち、純粋言語とは、人がコトバを口にするという、いってみればそれ自体凡庸な出来事ではなく、ものが、まさに語りはじめるということである。
そういうことで、瀬尾のいうところによれば、『ランプも山々も狐も私たちに向かって語っている』ということである。そのことは、こう読める。すなわち、まさに波や家や車が語りかけてきたあの光景をいっているのではないだろうか。あの光景のまえで、わたしはコトバを失った。
失ったまま、あえて語り出すことばが、ことごとく軽く流れ去ってしまう。いわば波の上の出来事でしかない。語ったり、歌ったり、感動を呼びかけるコトバや歌もみな、空しく塵芥となって、波の上を流されていく。
16Nov28
いままた『最後の親鸞』に興味をかき立てられる。
広く団塊の一員と目される世代にわたしは属しているのだろうか。
日頃私の帰属はどこにもない、と、自負している自分であれば、団塊の仲間に属するなどということは、まさに恥でしかない。それでも、この世代が、高齢化社会の賭場口に立っているとするならば、これから社会はどこへ向かうのか、われわれは今後どうなるのか。そのことを考えないわけはいかない。
そんなとき『最後の親鸞』は語りかけてくる。
もう一度親鸞の言葉に身を寄せてみたい。
姜尚中の『悪の力』を買ってきて読んでいる。この本は、近頃起きた殺人事件の数々から書き起こしている。それにしても戦慄すべき恐ろしい事件の数々である。このなかから悪を取り出して考察するのであるが、驚くべき事件で、人々を震え上がらせた。
そこから人間に潜む、悪の根源を極めようとする。だが、それはなかなか困難なことなのである。
さて、姜尚中は、第一章の終わりでマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を引いて、いう。「精神のない専門人、心情のない享楽人、この無(ニヒル)のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」というように引くことで締めている。そして、第3章で、資本主義とその害毒を語るが、ここはなかなか読み辛い。