はみだしもの雑記〈やわらぎ 〉 (original) (raw)

また通知が行ってしまった皆様、ごめんなさい。

僕のiPhoneはポケットの中で勝手に起動して、勝手に作業してしまう事がありまして、、

このブログに関しては前回に続き二度目です。

下書きや、メモが公開されちゃうのは恥ずかしい。。

他にも勝手にYouTubeの自分のライブラリを空けてしまったり、Yahooを開いている事はしょっちゅうありますが、自転車に乗ってスーパーに着くまでの間に、起動からブログをアップするまでの作業をこなしてしまうとは・・・

いつの間にSEはAIを搭載したのだろうか?

と思うくらい、タッチパネルが過敏症になっています。

前回の記事では実際に時代の変遷が体験出来ることから、今まで話すだけではピンと来なかった事も腑に落ち、一部の人達は自然音に挑戦しているようだ。

その為にはまず、自然の音の性質と我々の音の体験はどう関係しているのか?と言う事を見つけなければならない。

体験は「からだ」がそこに無ければ信用出来ない。この「からだ」がどんな体験の事を指すのか?が難関で、その一つ目の課題に取り組んでいる人達から、いくつか体験が寄せられた。

一つ目は、自分の感覚が楽譜に移って、それから自分の方に入ってくる。その後は入った流れを追いかければ良いと言うもの。

このステップに入っている人は増えてきた。

楽譜の見方もいろいろあるけど、基本は「からだ」が出れば良い。

例えばある人は空間を二重の時間差で集注する事により、作曲家の身体を体験する。

本人曰く、「バッハは手がめっちゃ大きくなる。そして結構ムックリしてる。すごく純粋で無私で弾く感じ、身体から指先が繋がってる。

ブラームスは超ビール腹っぽい。背中はこんな感じで・・・

パガニーニは視点がすごく高いとこから見下ろしてる。

クライスラーは・・」

と言うように、たった一時間の間に六人程試して録音を送ってくれた。

録音で再現するのは難しいけど、それでも聴いてみるとそれぞれの特徴も、前回話した時代性も微かに聴こえる。

中でもハマりがよかったと本人が語るモーツァルトは、弾いているうちに演奏者が消えてモーツァルトの感覚が運動し始める瞬間がある。

こうした体験は、練習中身に覚えのある方もいると思う。

人の感受性は身体にあらわれる。
その身体が良い感覚だな〜と思って楽譜になっているのだから、楽譜には本人の感受性が出てくる。
それを拾うと、拾った人の身体は作曲家の体験に変化して、曲の表現したい感覚の元が生まれている。

後は身体感覚のまま、自動書記のように弾けば良い。ただ、そこには訓練の習熟度が反映するから、初めは思ったより上手くは無い。

それに作曲家がヴァイオリンが上手かったとは限らないのと、時代的に身体上の運動感覚が大雑把な方向に変化している縛りがある。

この課題は実は10年以上前から話していたのだけど、当時は体験方法が分からなくて、取り組んだ人は足を中心に全体の気の流れ、速度のパターン分析を作曲家毎に行った。

それに乗って弾くことが出来るのだけど、ともかく楽譜からこの様な体験を汲み取る事は出来る。

つまり、演奏者は深く楽譜を洞察する鑑賞者でなければならない。

次の問題。

モーツァルトに同化した彼女の音は、やはり胸の奥に向けての運動がメインになってしまっている。

胸領域は使うけど、18世紀中頃までのヴァイオリニストを聴いた時、楽器が腹にあるのは、おそらくモーツァルト時代の〈腹に楽器を置いて弾いていた〉年代の記憶があったからだろう。

当時は肩に楽器を置いている今のスタイルでは無かったので、その面影を背負ったアウアーやヨアヒム等は楽器の影を腹においている。

であれば、その音もモーツァルトの時代に近いものだったろう。

折角の発見を利用して上手く弾くためには、アウアーのように楽器の影も運動も胸の下に納める必要がある。

そこで次に構え方と調弦の手順を変えていく。当時の音程は当然現代とは異なる。

その日の報告では、

「バッハの時代にビブラートはなかったってことか??と思ったけど、あるにはあって、楽器を手首で支えてたから今のとはだいぶん違う。

バッハは指の感覚が違いすぎて、一般技術的には昨日の方がよく弾けていたけど、今日のは面白さが少し出た感じがする。神様に曲作ってた時代と言うけれど、本当に何か真っ直ぐな気持ちの持ち主な感じがする。」と言う体験。

そして「モーツァルトはビブラートかかるけど、大切な音にだけアクセントで強調するみたいな感じにかかるなあと思っていたら、モーツァルトが、〈すべての音にビブラートをかけるのではなく神が選んだ音にのみかかるべき〉と言う言葉を残していた⚡️ モーツァルトは私が感じたそのままの言葉を残していて、これは本人からレッスン受けてるようなものだと思う。」

との事。

その録音は、素朴で身体の中を通っていく。

これだけでもカザルスやギトリスの音楽に似た、ある要素が生まれている。

それから三日間山に篭って自然の音を聴き続けてきました!と言う猛者も出てきた(笑

昔の音を再現するにも、自然な音がどんな音か?自分達の音と何が違うのか?

それから、不自然な身体にどう自然を見出すのか?

そこから、楽器の自然もそれぞれ人によって作られたわけだから、扱い方の違いはある。

いろいろな問題があるけど、山籠りの成果?笑なのか

「身体の無数の隙間に音は通り抜けるんですね」と体験を話してくれた。

本人が言う通り、隙間に通れば体形は兎も角、見た目がスッキリと清潔で綺麗に見える。

それを続けてくれたら三日間の経験も生きてくるだろう。

こちらも楽譜の見方はすぐに体験し始めた。

「憑依」と言うと怖いようだけど、日常に体験している事はままある事で、その身体を調べてみれば、たまたまこのタイミングだったのね、と言うある特定の焦点なことが多い。

体験としては、背骨も姿も変わるし筋肉の質感から、重心位置、顔つきまで変化する。

あるいは気の質感や流れ方、速度が写し取れるパターンもあり、同調の仕方はそれぞれが違うと言っていい。

また、今回は楽譜だけど、例えば土器や陶器も、絵画や書、写真でもお墓でも、場所によっては神社でもそれはおこる。

ただ、それはからだの体験である事、精神は影響されていない事、和花を観た時に感じる何かと同じ程度に受け取れていることが大切で「からだ」にはいつも静けさがあるのは条件である。

僕らからみると、その時に「ガス🟰邪気」の印が出ていない事、熱がない事が大事。

ちょっと横道にそれるけど、この仕事が長いといろんな人が来る。その中に「狐憑き」や、「物の怪」の類いもある。

本当にあるんだな〜と感心したけど、内観なんてさせてくれやしない。

可愛い顔した女の子が、突然目を吊り上げて「手出しをするんじゃない!」と脅しをくれる。

ものすご眼で睨んできた途端に激しく頭痛が始まる。

相手の身体から能面が自分の顔面に飛び込んでくる・・・などなど

それには、まぁ「目には眼を」で方法を講じるけれど、女性の中にはそうした自己放棄に快感のある子もいる。一種性欲の変形現象の様なものだけど、キッカケと縁が切れるのは難しい。

それらは要するに「感情と言う精神が生んだガス」だからダメな例だけど、楽譜から曲を読み取るのはそれらとは違う。

剣術の型や、太極拳ですら、その型に集注すると創始者の体軸や感覚が外側からやって来る事がある。

能や音楽、舞踊、茶の湯の型も、誰かが作ったものには、そこに強い集注感があればあるほど、伝達する何かを持っている。

その何かに気がつくには、いろんな体験が必要だし、早く結果の出る人も、ある程度の蓄積があって一気に繋がる人もいる、タイミングも過程も人それぞれ違う。

この様な文化の根幹を担う人間の現象には、身体と意識から解放された視点への気づきがあればいい。

それはいつも「発見」のタイミングになる。

演奏者と作曲家の間にある現象と並行して、演奏者と観客の間にも大きな問題がある。

「現代はなんでも三流じゃ無いと一般ウケしませんね、」とある友人が言っていたけど、そこが技芸の世界の難しいところ。

天才は勝ち負けのスポーツなら、井上尚弥や、大谷翔平みたいに認められるけど、技芸の世界は相手の感性がついてこないと、100均やユニクロが良い、と言う価値観のラインに乗ったものが勝者となる。産業革命世界線にある現代がそうなるのは当たり前なんだけど。

となると、才能を見つける為にも鑑定する能力が必要になる。

鑑定と言えば青山二郎

数年前に貸したまま忘れていた青山二郎の単行本を、海外にいる子が読み始めましたと連絡が来た。

驚いた事に、青山二郎の本を開くと全くオケで弾けなくなる、と言う。

どうも、青山のクセが強力過ぎて、この日本語が欠片でも身体に残ると弾けないらしい。

白州正子、小林秀雄の師匠であり、中原中也宇野千代、秦秀雄など、多くの美を求める人士が集った鑑定家青山二郎の美の世界は異彩を放っていた。

だいたい嫁さんがあの竹原はんだったのだから、もう意味がわからない虎の穴、すごい時代だ。

青山二郎を一時期読み漁っていたけど、なんだかんだで人が持ち帰り、今は一冊も残っていない。

ただ一冊、彼を追憶する森孝一編集「陶に遊び美を極める・青山二郎の素顔」と言う彼の交友録まで綴った文集だけが手元に残っていた。

この本の中で、河上徹太郎今日出海宇野千代、梅崎春正らが青山二郎を偲ぶ文章を寄せている。

中には面白いところもあって、小林秀雄の寄せた文章に、とある鉄斎の画を季刊誌の2号に載せることにした出来事があった。

ところが号が出来上がって改めてその画を観ると贋作じゃないかと言う気持ちになり、鉄斎論を掲載した青山二郎に、もう一度見てくれ、と持っていく。

しかし彼は笑って承知しない。

心中納まらぬ小林は宝塚にある鉄斎の大蒐集を観に行く。朝から晩まで四日間である。更にはその足で富岡家に寄り、更に2日見続け、数点持ち帰った出来事で回想を結んでいる。

大岡昇平もこの出来事を取り上げていて、小林は持ち帰った鉄斎を青山二郎に見せる。

鴨居から一幅垂らすと、青山はたんびに「いけねぇ」といった。

便所で顔を合わせた小林は大岡に「おれもいけねぇと思ったんだが、念の為あいつにいわしてやったんだ」と舌を出した。

想像すると可笑しくて仕方ないのだけど、この本の目次の次に次の言葉があった。

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美を鑑賞する天才青山二郎は「長次郎は茶を犠牲にしてでも茶人になってみたかったのだ。これが鑑賞家の芸術である」と書いている。

何となくは分かるけど、、僕なら自分で茶碗を作る。

鉄斎なら齢90を越えてからの作品を買えるなら何とかして欲しい。

それがダメなんだけど。。貧乏人には鑑賞家の眼は育たない。

さて、ここからは些かマニアックな研究で、協力者がもっと必要なのだけど、少し今週の鑑賞法をメモしておく。

毎日同じ曲を違う人と聴いてみれば、毎日違って聴こえる。

もっと言えば聴いてる人の身体集注の違いに同調して聴いてみると、聴いている音が違っている。

例えば「奥の音」だけを聴く場合。

偶数系の重心位置で裏の身体にすると本人は身体の中で聴いていて、奇数系だと外に聴こえる感覚がある。

多くは五月の表の時期になると、裏に入れば音は外になる。

裏も表も、時間循環があるけれど、これは重心を取って表裏を固定すれば回転するが、回転にも順逆がある。

演奏者はそれぞれ気の流れの違いに応じて聴く場所が固定されがちだけど、そこには少なからず現代的な擦弦音に対する感受性の拒絶がある。

身体感覚が弾く為に必要な重心点は選ぶ必要があり、それは聴く側も同じ・・・・・

前回の続きを書こうかと思っています。

演奏者ならたぶんこう思った筈です。

「自然な音ってどうすりゃええねん!」

或いは

「自然な音なんか興味ないわい!」

何人かの人と一緒に演奏を聴いていると、相手によって聴いている音は違っていると言う事が分かります。

それはやはり、本人が自分で演奏している音の特徴を表しています。

つまり、聴けるようにしか弾けないし、皆んな聴く能力が違って、同じ音でも現実はそれぞれが違う音を聴いているのです。

それは客観的な評価が成り立たないと言う事を意味します。

最近では、コロナの三年間片耳が聴こえてない人が多かったのですが、ほとんどの人は無自覚なまま演奏したり、聴きに行ったりして、酷いことになってるなぁと思っていました。

運動と言うものは耳の運動能力も含めて、外部空間との関係で成り立つ部分があります。

整体の世界では、空間が歪む記憶は「ナンバ」に関係している事が分かるのですが、これは内部空間から観た外側、運動領域の時間的な「たわみ」と言っても良いでしょう。

この運動空間を現実に擦り合わせておかないと、音の良し悪しも分からないのです。

その客観的評価は、聴く側の身体にも現れます。

カザルスを聴いた人の背中に聴いた場所を探していくと、胸椎五番になります。

そこで、次にベンゲーロフを聴かせるとやはり胸椎五番にある。

だけど、ベンゲーロフを聴いたあと五番を観ると、脊椎一側と言うのですが、背骨の際のいつくもの細い繊維が癒着しています。

そこで再びカザルスを聴かせると、あっという間に癒着が溶けていく。

これを所謂、捌けた音、癒着する音と言っているわけです。

だけど、これは背中が「からだ」としての感覚を持っていればの話です。

背中は自分の直観や情感を無視して、合理的な精神活動で生活すると、精神を反映するものになってきます。

身体が精神世界になっている人の場合、本人がいくら上手な演奏が出来ていても、音楽に身体が反応しているわけではなく、精神状態を演奏していることになります。

その場合、リアリティーは必要無い。

最も、世の中あらゆる分野でリアルな身体を失っている、つまり自然を失っていて、それがスタンダードなのが近代と言えるでしょう。

芸術や文化のリアルは「からだ」にあるけど、精神の拡大は「からだ」を排除する方向にあるのです。

精神の探究は、身体を精神の自由に使おうとするからですが、それだと18世紀の音楽は分からなくなってきます。

捌けるだけなら、近代にもハシッドとか、コーガンとか何人も優れた奏者がいます。

ただ、ここでカザルスが凄いのは、前時代のアウアーのように、人気(ひとけ)が無い事、

例えば彼の演奏を聴きながら、意図的に情景を思い浮かべても、人間が空想出来ない事が分かるでしょう。

つまり、彼らは意識を演奏に介入させていない事に気がつくはずです。

例えば発音する際に一音一音「今」を分割しながら発音しますが、それは流れの中にあって自然発生になるべきもので、いちいち区切ったり流れを細かく止めるわけではありません。

むしろ一音の「今」を何分割して聴いているか?認識する意識が薄ければ薄いほど現実に追いつきます。それはビブラート時によく分かるでしょう。

〈意識は気韻より遅いのです。〉

流れがどこから、いつから来ているのかを見つけるには、過去に生まれた音は消えているのか?感じてみるのも良いでしょう。

胸椎五番と言っても、一側、二側、三側と集注の場所がどこにあるかで、神経系なのか?運動系なのか?内臓系なのか大雑把に分かれてきます。

だけど集注があるのはヴァイオリンの場合?三側に寄ってくる。

また、音楽に関係ない人でも演奏を聴けば三側に集注感が生まれています。

そこで三側の気の行方を追いかけます。

すると、だいたいお腹の胸椎五番と仙椎四番辺りに流れ、そこから二種類の感覚に分裂しています。そこらへんはあの手この手を考えます。邪魔なのは「私」を主張しているところで、先ずはこれを処理しますが。。。

去年ブログに書いて、その後下書きに戻した記事に次の文章がありました。

「九月半ばの夕方六時は、明かりを消した部屋に薄く夕陽と共に、虫の音が聞こえる。

その虫の音の後ろに豪徳寺の鐘の音が、ボ〜ン ボ〜ンと聴こえてくる。

その鐘の音が消えると、部屋はすーっと目の前の事物となり、私の輪郭が戻ってくる。

途端に虫の音は耳にうるさく、隣の部屋のエアコンの音も蛇口の音も大きくなって、自分の煩わしさが目の前に広がってくる。

お寺の鐘の音を誰が発明したのかは知らないけれど、夕方の鐘の音は人々の集注を惹き込み、虫の音も我が身の境と共に季節のしみじみとした響きに溶け込んでくる。

鐘が終わると、秋の夕暮れと溶け合ったような感覚は消えていき、長い月日、人々が家路に着いたであろう記憶の集積か、帰る場所もないのに、帰りたくなる感覚が我が身の哀れを感じさせる。

たぶん日本全国のどこでも、夕暮れの鐘の音にはそんな時間を作るちからがある。

鐘の音との合奏が虫たちの声を深いところに導いて、私と夕暮れとの境を消してくれると一日の仕事も終わりの合図。

うーむ、この鐘の音も整体だなぁ〜」

まぁ、文章の出来は置いといて、ここでは虫の音は私の外に聞こえていたのに、鐘の音が響くと、響き自体が全体の空間を形成し、個々の音も事物もその中の一部となってしまう、言わば歪形化された自然が発生している事を意味しています。

音楽も同じ事で、芸術や文化といったものは、自然に人の手を加える事で、新たな自然に、人が佳いなと感じられる世界を創出する事にあるのです。

この力を失えば、弱っちくなってしまった人々は、都市化で武装し地球を破壊していく事になっていきます。

「いにしえの身体と造化の技」の続きになると思うのだけど、今回は音楽的に観た身体について、少し書いておこうと思います。

ある人が「なんで悪い事してないのに、こんな身体があちこち痛くなるの!」とぼやいていました。

「痛みの原因が知りたいって言うのなら、基本的にこう考えてみて。

自分の身体は遺伝子と言うけれど、ご先祖様達の生活の記憶、何を食べてきたか、どんな労働をしていたか、どんな生活環境に適応しようとしてきたか?と言う記憶で出来ているよね。

その〈身体〉が〇〇さんみたいな、一日中お菓子をボリボリ食べて、テレビ見て砂糖や小麦、添加物だらけの食事とってたら腹立つでしょ?

て言うか、対応出来ないでしょう。

例えば今が江戸時代の記憶の身体なら、食べ過ぎに運動不足で、そりゃ身体としてはやめとくれーって叫ぶよね?

江戸時代の人は鎌倉時代の身体で、怠けるなーって怒られてたかもしれないけど、現代は身体の時代設定と生活が違いすぎるから、薬でその差が埋まると思わない方が良いよ。

一時凌ぎは負債が貯まるし、副作用の無い薬もない。

勿論、問題はそれだけじゃなく、触るものも着るものもほとんどプラスチック。家も石油製品。それが平気にならないと生活出来ない感性の低下が問題だけど。」

ちょっとキツイ言葉に聞こえるかも知れないけど、歳を取れば誰でも身体に不具合は起きてくる。

過去の怪我や薬で誤魔化して来た負債も、身体をどう扱ってきたか、生活全般も形になってくる。

運動をしていたら良かったかと言うと、部分的に良く動いていた場所があったとして、しばらく放置すると負債はそこに流れ込む。

しかし、それらを含めて大元の仕組みを敢えて指摘するなら、やはり記憶と言えるだろう。

僕たちは昔の身体で生きているけど、その身体は常に時代に翻弄されている。

うちに来る人達と様々なヴァイオリン名手の録音を聴いてるうちに、ある時代以前の音は、聴き方を見失う傾向がある事に気がついた。

見失う傾向は、どう弾いているのか想像もつかなくなると言う事で、自動的に自分達のヴァイオリンとは別のものと認識するらしい。

そこには直面すべき問題がある。

水槽の循環機によって濾過され、水面に落ちる水の音を聴く時、水が落下し水面を叩く自然な音を聴く。

同時に様々なヴァイオリン奏者の演奏を聴き比べてみる。

すると人間が原初の時代に楽器を持ってどんな音を奏でようとしていたのか思い出すだろう。

現代のヴァイオリニストの中でも、ズッカーマンやパールマン、ヒラリーハーンクラスの演奏家、日本人ヴァイオリニストの中にも自然の音と〈平行して〉聴ける奏者はいる。

しかし更に一世代前、僕たちが聴く事の出来る録音が多くなり始めた戦中世代( 第一次対戦1914〜から二時大戦の集結〜1945までの40年間)は平行するだけではない。

戦時下の生存の危機に直面した経験、イデオロギーの暴力に晒された世代なだけに、生存の喜びを謳うギトリスは象徴的だ。同世代もみんな鬼籍に入ってしまったが、オイストラフミルシュテイン等、多くの演奏者は自然に同化しようとするヴァイオリンの音を残しながらも混乱した時代を生き抜いた。

国家による活動、作品の制限、戦意高揚に使われる音楽。その背景にある機械技術と兵器の強大化、産業と汚染、自然破壊、後戻り出来ない歴史を歩み始めてしまった時代の中に、人間としての精神と身体の間をゆらめく情緒。人間の愚かさと生命力に対する感慨を想像できる。

しかし人間性を排した機械的演奏で評価されるハイフェッツは、精密に楽器を操る方向に振り切ったのだらう。

本の学校教育にも少なからぬ影響を与えた彼について、wikiにも高知能ギフテッドと紹介されている。知能とは正解か不正解しかない非現実的抽象能力の事であり、その音は自然界への親和性を持たない。

世代を遡り、大戦が始まる前に若い時代を過ごしたカザルスやクライスラーは、産業革命に直面していた世代になる。

この産業革命は人類史の大きな曲がり角とも言える。

革命以前を失ったこの世代は、音楽だけでなく、身体的にも大きな変化の波を受けている。

音の中にも機械時代への傾倒、自然界を無視する傲慢さが現れてくるのだけど、どう言うわけか、カザルスだけはその波に反し革命以前の世代を踏襲して見せることができた。

バロックヴァイオリンを弾くある子が嘆く。

「本当のバロックって、どうしても今の音じゃ無い気がするんですよね」

それは1800年代に音楽活動の多くを過ごした世代まで遡れば明らかになる。

時代を遡るほど音楽はより音楽になっては来るけど、1800年後半以前に活躍していた人達と、それ以降では驚くべき変化がある。

その世代、イザイ、ヨアヒム、アウアーと言ったヴァイオリン名手達の録音は今もyoutubeで聴く事が出来る。

彼らの録音を水の音に並べると、その音は水音を大きく膨らませたり、中に潜り或いは水から出て、音の粒と粒の間に深さを生み、水音と楽器は互いに伴奏しあう。

ヴァイオリンは、ほぼほぼ自然界の音の再現だったのだ。

またその性質は、一つ一つの音が捌かれて何も癒着する事もなく、滑るように水や身体、聴くものに流れ込む。

また楽器が腹の位置にあるのかと思うほど、腹辺りに音が動く。

これは実に驚くべき証拠だった。

西洋人は、宗教的にも精神性ばかりの民族かと思っていたら、産業革命以前は違っていたのだから。

革命前に胸を使っていたのはサラサーテくらいで、他は腹に楽器があるようだ。

つまり受容性が好まれる時代があったと言う事だし、クラシックは精神性をテーマにしてはいなかった事を意味するだろう。

精神活動がクラシックとなったのは、少なくとも1900年代以降になる。

どう言う事かと言うと、演奏には身体を使う。

楽器は身体が無いと持てないのだから当たり前だけど、身体と言うのは私の意識とは別のものであり、別の秩序の下に働いている。

自分の身体なのに個人としての現象でない事が身体に現れる事は日常にも多いし、少し時間がズレたり別の時間軸が現れることもある。

過去の記憶が季節の変化やサイクルを止めていたり、アウアーやコーガンなどに見られるような、身体の中を捌き、滑り込み、無数の音の気が通り抜ける気韻を発する事が出来る。しかし現代人がそれを再現しようとしても、身体世界は五感の微かな精神的要素によって阻害される。

胸に集注があると言う事は、その大部分は肺と心臓が占めているのだから、呼吸器の働きが反映されると考えられる。呼吸は意識が半分を支配できる。つまり胸は身体でありながら精神の支配下にある事を意味し、その音は癒着を伴う。

ここで「精神」と言うのは皆んなが思っている程曖昧なものではない。

特に男性の背骨を触っていくと、ほぼ精神活動の働きを示して、身体を示している椎骨が脊椎の中に三.四カ所しかない人もいる。

オイストラフでさえ癒着は免れなかった、と言うより、時代的な感受性の変化が癒着を心地良いものと受け入れたのだろう。

その心地良さとは何だったのか?

この精神化する心地良さは存外に大きな問題である。

現代ではハイフェッツを癒着した音と聴いている人は少ないだろう。

産業革命が無ければ、ハイフェッツは評価されなかっただろうし、二度の世界大戦も原子爆弾も無かったかもしれない。

しかし感受性は変化したと言うか発見してしまった。

本来、自分達の生活や争いにコントロール出来ないものを持ち込んではならない。〈営みは身体感覚の範疇でコントロール出来なければならない〉と言う昔の規範、身体の内部と外部が一致していたそれまでの世界は壊れてしまった。

人類にとって道具を扱う身体技術の習得、扱える感覚の習得は成長の基盤だった。そこでは扱い難い道具であればあるほど身体は優れた働きをしなければならなかった。

しかし、革命を機に道具は一気に身体を離れていく。

その先は感覚の歯止めが効かない。身体は必要とされない、手には負えない事態が待っている。戦争も、原発事故もその一つ。

18世紀後半人々は自分達の精神を信じたかった。きっとこの先もコントロール出来る。事故が起きても誤魔化せる。自分の利益は守れると。

それは必然的に、身体を捌くのではなく、仕事を捌く能力の優れたものが価値ある時代へと変化を促し、人の精神は自然と遊び、戯れる喜びを、征服し操る喜びに変えた。

音大を卒業し、演奏を仕事とし始めた子が言う。

「クラシックは音楽なのでしょうか?」

それは、音楽とは何を旨とする技術でしょう?と言いかえたほうが良いだろう。

その答えは時代を遡って考えてみるしか無い。

初めて楽器を手にした人達が、どんな身体でどんな音を出したのかを。

言葉の研究は古今東西いろいろとあるけれど、発声の仕方と語彙の並びとの関係に言及するものは少ない。

例えば発語に関しても顔で発声する人、胸で発声する人、腹で発声する人、それから身体の内側に向けて発声する人、外だけが発声する人といろいろなタイプがある。

これはその人が楽器を使う時の音の出方にも通じている。

身体の使い方とそれ以前にある言葉、音の出どころは、文化と共にあったことにも繋がってくる。

整体ではこれを気韻の稽古と言うのだけど、その発声の仕方を稽古して行くと、気を通す力にも関係するから、訓練し本来の身体を取り戻す為の一助になる。

歌を詠めば、佳い歌は感覚を運動させる力があるのだけど、現代人のほとんどが口先や胸で発音して価値を失ってきた。

例えば小学校に入って初めて国語の教科書を開いた時、そこにある近代日本語のつまらなさ、センスの無さに子供達はうんざりする。

これからは口先だけで生きて行くんだぞと言われているように感じるけど、その実感の元には言語習得と身体を無関係とした指導方針があり、言葉と感受性とは何の関係も無い日本語を強要される。

もしこの時期に記紀万葉とは言わないけれど、古典に触れていたなら教育に敬意を抱いただろう。

あいうえおの五十音を使い重複無しで表記されたものに、いろは歌とひふみ祝詞、あわ歌がある。

どれも古い時代に成立したものだけど、その遊び心は素晴らしく、どれも整った身体の運動性を教えてくれるし、日本人本来の世界観が垣間見える。

昔の文章にも歌にも今には無い味わいがある。味わいには頭ではなく身体で感じる「佳さ」の基準があり、それは長い文芸の歴史が作り出してきた。

有名な芭蕉の一文に「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり」がある。

面影がゆらめき動く。

その面影には表裏の影があって、この二つが動いて整う事を整体と言う。

その言葉と身体の基盤に形成された音は、それ自体に力があるとするのが言霊の思想だろうけど、実際には世代を重ねて身体に染み付いた、その染み付き方に力は生まれる。

標準語と呼ばれる近代言語が生活のほとんどを担う中で、たまに葬式や神社で意味不明な言葉の羅列、お経や祝詞と呼ばれるものに出会う。

そのほとんどは現代人にも辛うじて意味の分かる文章になっているけど、中には意味の分からない単なる音の羅列になっているものがある。

お経の場合は、伝来する過程と、宗派の開祖などによる変遷や創作があるのは分かるとして、神道は分からないものがいくつかある。

お坊さん達や神官さんが、朗々と読み上げ、常日頃「行」としているのは何故か?

何の効果があるのか?

僕も不思議に思っていた。

身体と心の間に発生する原始言語を音声化したものが、意味の分からない音の羅列になっているのだろうとは思っていたけど、これは意味が発生する外部世界に触れてはならない。

そこであるお経を百八日間、読経した事がある。

正確には最後の一日が出来なかったのだけど。

しかしその時体験したのは、100日を超えた辺りから、頭に尋常ではない気が集まり始めていた事だった。

拙い経験ではあったけれど、行者さん達は何らかの経験をしている、或いは求めて読経しているのだと言う事は分かった。

あれから随分経ったけど、最近S先生と祝詞の音の並びってなんだろね?って話しになり、こうした方が良いんじゃないか?こうしたらどうだろう?と工夫している。

これが面白い。驚くべき内観経験をするのだけど、祝詞の音の配列は、古の身体が古伝書にある通りの経験をしていた事が分かる。

と同時に、内観技法が音の配列を生み出した古代の叡智に、内側から触れる技法にもなり得ることに驚いた。

特にそれぞれの配列の焦点、意思を必要とせず気を集める点など、まだ土台構造の部分ではあるが、内観的身体技法をもって古代の叡智に触れる事が出来る。

更には我々の身体が音の配列によって世界を変えている事から、最も古い言語の起源と言うところまで研究は遡ることが出来るかもしれない。更にこの研究の方法を生み出す事が発展するなら。

ただし、意味は配列の力を奪うから要注意。

これはとてもマニア心をくすぐる。

そんなこんなで古い言語も音の使い方、文字の使い方、それに対する感覚の焦点などの話しになってくるのだけど、試験がてら楽器のレッスンに使ってみている。

音の配列と集注の組み立てを使うと、意識を用いず身体が変わると言うのが最大の利点になるだろう。

五種的な回転が欲しい曲、美しいメロディにしたい曲、激しいイメージでありながらロマンティックな空間を動かしたい時、様々なシーンに応じて、演奏者の感受性に応じ、必要な感受性を体験し、足りない感覚を補って演奏出来るから面白い。

簡単に言えば、五種の人間が七種の曲を演奏しようとして、いくら曲の背景や作曲家の勉強をしても、それは五種の感受性から捉えた七種の曲であって五種的な感受性しか伝わらない。

七種の身体、七種の感受性になって始めてその欲しかった音を出せる。

だから、いくら上手でもスコアを解析しても自分の感受性が変えられ無ければ自分の演奏にしかならない。

この感受性を変えると言うことが大問題、若ければ経験が足りないし、歳を取れば硬直している。したがってほとんどは鉄板の自分で仕事をやっつけようとする。

でもそれじゃ整体も演奏家も結局は通用しない。

結局は自分の身体を自由に適応させられるようにならないと・・と今回文字にしていて思い出した。

これは十代の頃考えていた事じゃないか、、、

自分の求めていた事は忘れてからリアルに実現されるけど、リアル過ぎて気づかんかったわ・・

おわり

(このオチわかる??)

この世界に最初に鳴り始めた音は今も聴こえているのかも知れない。

身体の奥底の方で。

と、たまに耳を澄まして観る。

十二畳の部屋の壁から向かいの窓にいる蚊の羽音がはっきり聴こえていた頃、音楽が聴けなくなり長い間興味がなかった。。。実は。

その理由は今になって分かったけど、それでも感覚がもっと深まるなら、始まりの音も聴こえて来るんじゃないかと思ったりもする。(注 厨二病ではない)

十五年程演奏者の身体を観させてもらって、感覚的な問い掛けにちゃんと応えてくれる人が多いのは、有り難い事だった。

そこにはプロの身体と、アマチュアの身体、学生の身体があるし、学校によっても身体の傾向に違いがある事を随分前に書いた事がある。

それは集注の置き所によって変わって来る。

プロは早くからプロだし、アマチュアはずっとアマチュアで、それも集注を何処においているかの問題になるから、その集注を変えられないとアマはずっとアマのままと言う事になる。

それは学校の先生も同じ。自分が弾くことは出来ても教える為に必要な集注の仕方は別にある。

しかし、芸事は学校教育には相性が悪い。

それは学校教育が感受性を育てるようには出来ていないし、身体、感覚、意識、情緒、言語などの扱いがほとんど未開拓なせいでもある。

また、それぞれの生徒の今何が育っているかも関係なく、画一的プログラムに沿って四年で終わる事もある。

例えば教師が教える事は出来なくても、その弾いている身体を生徒が感じ取れるなら、生徒の身にはなる。

聴き方の癖、弾き方の癖、これは誰にでもあるけれど、それ以前に耳じゃなく身体で聴いている事に気づかせる必要はある。しかしこれも本人が自分の癖を乗り越えていかなければならない。

聴いている音しか弾けない事を分かるところからはじめ、生活が音楽の中に入っていく。

生徒の側とすれば、どれだけその世界にのめり込むか、集注するか。それから感受性の深さを育てているか?と言う問題になって来る。

この世界をどう感じ、経験して来たか?

どれだけ学校教育にスポイルされずに来たかと言う事が、生徒のベースになる。

例えば体癖は快感が居着いていると言う事だから、変化しないといけない。変化して様々な感覚を見つけ体験していく事が必要になる。

だけど、大抵は弾くための体を固定してどの季節も、どんな条件でも同じ身体を使おうとする。

この身体の傾向が追い詰められると、そこから解放されて次の身体、感受性に移行し感覚領域を拡張していく。

しかし学校のシステムの中では、生徒側はなかなかその余裕を持てないし、その身体と感受性に合わせた曲から追求していく訳にもいかない。

自分達が評価されて来たようにしか、他人の演奏も聴けなくなる。更にその印象(自分の癖)と自分の弾き方を一致させ、結果聴く音と弾く音の間にズレがある事に気付けなくなる。

つまり他人の評価、客観的な音しか聴こえてこないと言う事になってくる。

もう一つの問題は、時代に押し流されている自覚。

音楽の評価ポイントが、人間的であるより機械的演奏に置かれるようになったのは、産業革命以降の価値観の変化が行き着く先に行き着いた結果。

異文化に飛び乗った形の日本人が土台にすべきは、日本の音楽だったのだけど、既にそれを聴く耳を失っていたから、佳いの基準が分からなくなっていた。そこで他文化は良いものと短絡する。

でも最近の学生を観ると、とうとう新しい時代に適応する世代が現れてきたのかもしれないと思う事がある。

新しい世代は明らかに僕たちとは違う身体になっている。

教育を放棄されたゆとり世代のメリットに上手くハマった子達なのか、大谷世代と言うか、音楽教育の未来を、良い方向に持っていくかどうかは、この世代が決めるのだろう。

だけど、どんな世代でも深い人間への目線が名演を生むのは変わらない。

人間的である事と、機械的である事の問題は「録音」を発明してから始まったと考えられている。

近年「可聴域」と言う余計なものが設定され、更には気軽に配信を利用出来るようになって、ますます体験がなくなって来た。

付け合わせになっているヘッドホンの音では、脳が活性化しないと言うのも、身体に無関係な音楽の雑音化と言える。

そうした問題の根本は何かと言ったら、「音の常識」が間違っていると言うか、音楽の産業化による洗脳が為された事にある。

勿論メリットもあるけれど、そのデメリットを充分に知らないと、音楽産業は終焉を迎える運命にある。

例えば僕のところは、複数人だと施設を利用するけど、個人的なレッスンはカラオケボックスを利用する。

カラオケボックスは換気音がうるさくて、周りの音や廊下のスピーカーも賑やかだし、昼間は楽器練習に使っている人も多くて、隣りはサックス、その隣りは声楽って日もある。

今までも雑音と一緒に弾いてもらおうと、時には山の中で、時には公園で弾いてもらったこともあるけど、それは元々自然界の伴奏者が音楽家だと考えるから。

西洋音楽は神の伴奏だと言うかもしれないけど、やはり、身体で演奏するのだから自然界に属する身体を優先としなければならない。

例えば静寂の音を体験した事はあるだろう。

趣味の庭によく置いてある〈ししおどし〉は、落ちて来る水の重さで、竹が岩に打ち付けられ「カポン」と音が発せられる。

音によって、かえって庭の静寂さを感じ、楽しめるよう工夫された遊び。

静寂さは雑音が無いとこととは無関係で、余韻の響きが深ければ深いほど、雑音は溶けていく。

カラオケボックスの騒音の中でも、音の深さがノイズキャンセル現象になる事がある。

これは音について考える切り口として、面白い。

一般的なイヤホンのノイズキャンセリングは雑音と逆位相の波形をぶつけて音を相殺する。

が、これは頭の感覚が雑音だらけになって、気持ち悪い。

音を周波数としてみれば、この発想が単純に生まれて来るのもわかるけど、この数値化された性質は、数値と言う見方から音に対する観念を限定する事になっている。

前回話した眼の視点、外、中、奥はそのまま聴こえる世界にも連動していて、例えば、iPhoneである人の講義を聴きながら、その音の響きに合う金属を鳴らして倍音を発生させると、共鳴現象でiPhoneの音量は勝手に大きくなる。(あまりやると壊れます)

逆にヴァイオリンを弾きながら奥に入っていくと、雑音は中から奥に入る過程で実際小さくなる事がある。

雑音の音量に集中していてもはっきり変化していて、弾く人が浅くなればその瞬間に雑音も大きくなるし、演奏が終わった瞬間音量が上がる。

これは別にヴァイオリンに限らず、ピアノや他の楽器でも同じ。

普通に考えれば、聴く側が、弾く人の集注世界に同調して雑音を聞かなくなるからとも言えるけど、雑音に意図的に集注していても明らかに変わっている。

そうすると、弦の周波数の中に逆位相の周波数が含まれるのではないか?と考えれるかもしれない。が実際、集注の深さは周波数で表されるのか?と言うことになり、音の性質上その可能性は低い。

もう一つが集注の感覚的深さは、物理的に影響する。音量は深さによって克されるとも言えて、同化されると捉えた方が正確かも知れない。

例えば手を叩くだけにも、下手な叩き方と上手な叩き方がある。

響きの良い音が良いと感じるのは、空間的に広がる音だからで、逆にしょぼい音は響かないし、飛んでいく音に方向性がある。

つまり空間が障害として感じられるのがダメな音。

神社で柏手を打つけれど、清浄な空間は音が広がり、穢れがあると音が届かない。

穢れを祓うのは柏手を一回。空間の穢れに向け、上手に打てればそれで空間は清浄さ、空気の流れを回復する。

その時、高音は奥になっている。

逆に外の音になると、くぐもった音に聴こえて響かない。

つまり空間に障害のない深さの音は、空間を清浄にしていく、空間の性質は深さによって変わると言う事です。

これを感覚空間の位相性として観ると、一種の次元干渉とでも言えるかましれないが、この世界はそんな歪みだらけです。

(最近下北沢が有名みたいですけどw)

例えば奥の世界では、弓矢の名人が的に矢が当たってから矢を放つと言われる感覚もわかる。

兎にも角にも、晩年いつも奥の世界を観ていたギトリスのように、深い味わいのある演奏を聴きたい。

そんな演奏者が増えなければ、これからの社会で音楽は必要とされなくなる。

そんな危機感を演奏者には持ってほしい。

もし音の感覚を追求するなら、その音は世界を清浄にしていくだろうし、延々と響き続ける。

そこに入っていける集注を、皆んな追求していけるはずだから。

この前も親戚に「腰が痛くて整体に通っているんだけど、良い整体師知らない?」と聞かれ、「整体師の事はよくわからない」と答えた。笑)この質問にはいくぶん悪意がある。

彼らが言う「整体師」はカイロプラクターか、マッサージを指しているのだろう。

今では野口整体はほとんど知られていないから。

だけど、整体について説明をしようとして上手くいったためしも無い。

話していると、期待されている「病」とか「治る」とか「治す」と言う言葉の観念が混乱してきて、受け入れられないのが分かる。

西洋医学の治療観が広まるにつれ、野口整体は閉じた世界と見做されるようになった。

そこには昭和の中頃、医学界が政治的に整体を締め出しにかかった経緯もある。その時に「治療」と言う言葉すら使う事を禁じられた。

他の手技療法については時代が身体を変えてしまったのもあるし、技術を振るえる身体が消えてきた事や、科学薬品によって風前の灯。例えば鍼灸は西洋医学観をベースにする事で「治療」を許される事になった

元々今の西洋医学は巨大資本がマーケットにしやすい構造をしていたから、大量生産した病人に量産した薬と言うパターンが広まると、病気も病人も昭和から順調に倍増し、身体は自然界から切り離された産業的対象になって今に至る。

それは時代の必然でもある。

だけど本来、我々は医学と全く無関係に生きていた。

人間の身体を考える時、先ず身体は自然物なのか造形物なのか?二つの捉え方があると思う。

前者はアジア的で、後者はヨーロッパ的であるけれど、時系列で見れば一万四千年前、農耕文明の発生辺りを機に偶像崇拝が始まる。その神を具象化すると言う思考の変化が後者の考え方になり我々は神に作られたと考えるようになる。

造形物は一神教となり現在の医学も科学もこの後者の思考に偏っているが、この思考の向かうところは人間が人間自身を造形し、より自然界とは隔離された人工的文明を作り出し、人間と家畜の違いは無くなってくる。最新の研究に至っては、様々な分野で個人の幸せなど無関係なところに来ている。

これに対して身体は自然であると言う時、言葉に表れる以前、仮想現実が生成される以前、この世界の物事と響き合い、流動的な姿をした生命の存在様態に含まれる緻密な個人を指していた。

野口整体が治療をしていた時代、晴哉先生は次のように仰っている。

「治療というと、効くことの強い薬や治療方法が尊ばれるが、これは物の側から見ているからで、生命の側から見れば、効かない薬や方法で効果を上げるようにしないと、生命は真に溌溂としてこない。

それ故、効く薬を沢山使って治療する人よりも重曹、苦味、丁幾で万病に処すことのできる人の方が治療技術は上手であると言える。

治療の方法は、効かない方法で効かすようにするところに進歩がある。方法を追求して効かないから駄目だと言う人は技術と言う事のわからない人達である。

指で押して治るわけがないと言う人がある。治るわけのない方法で治るから技術があると言い得るのである。

効くことばかり追っていると、治療技術はこの世から姿を消してしまうかもしれない。

そして効く薬や効く方法が多く用いられるようになると、人間はその薬や方法がなければ、一日も生きていられないような体になってしまうかもしれない。

繰り返して言うが、治療の進歩は効くことにあるのではない。」

これは薬漬けの高齢者に至る現代社会からは駆逐されてしまった考え方で、おそらく現代人の多くが理解出来ない言葉だろう。

「効く薬、効く方法」の「方法」は言わば逃げ筋の事で、八方塞がりになるまで延々と逃げ続ける行為の選択を意味する。

それに対して効かない方法で効かせるのは、はじめから、何もしていない。何も持っていない。

過去や未来すらない。

それは、こころの生起する以前に同化しようとする、古い人間の試みと言えるかもしれない。

それが技術になると愉気となる。

我々の社会では分析の結果、化学的にはこうした反応が起こる筈だと言う、化学からの推論に従うことが正しい考えになっているけど、身体が化学反応で生きているならそれでも良いだろう。自分の身体に経験が乏しければそう考えるのも無理はない。

しかし、いくら栄養のあるものを食べても、その身体が欲して受け入れる状態になければ毒になる。つまり感受性の問題がある。

例えば、幼い子供が怪我をしたり、お腹が痛くなっても、骨が折れても絆創膏を貼って「はい、大丈夫」と教えれば、ケロッとして遊びに行く。

この感受性の転換は大人には真似できない。そこには暗示がどうこうよりも、子供の溢れる生命力がある。

この生命力が我々の人生を支えている。

しかし大人が生命力の当事者に対して、暗示の効果に目を向けた途端、子供のコントロールを考える。

支配下に置く為の自分が楽をする方法を見つけた気になる。

この見方一つで、生命力は陽の光を浴びるか、薄暗い支配欲に抑圧されていくかに分かれてしまう。

実際整体は治療では無いとは言え、感覚が変化すれば病が消える事はしばしばある。

物の世界に住んでいると現時点の身体状況が実体であるかのように錯覚するけど、その実態はある焦点が作り出しているに過ぎないし、それが変化すれば感受性は変わる。

面白いのは、障害や病は認定してしまうと固定される傾向があるところで、これを「呪」と言うけれど、この「呪」を免罪符に、変化を厭う傾向が社会にはある。

この固定された焦点、「呪」を解く事が実態を変える。

例えば、人の身体を触るようになってすぐに気がつく事がある。

先ず脊椎の姿形を観察する。

実際に上から下まで一通り観察して、こことここが捻れていると観たとする。二、三呼吸空けて再び上から下まで観察すると、もう違う場所が捻れている。

更に下から見ても違うし、立てば違う。座っても違う。触る人の身体によっても変化する。さて、この人の正解の背中はどれでしょう?

と言うのが現実。

もし他者に集注する際に再編される過程を見る事ができれば、自分の身体が粒子状に拡散し、収縮して再編される瞬間が観える。

この最初の選び方で、その後の展開がある程度限定される。観察の選択が増えれば相手の身体にはいろいろな身体がある事がわかる。

観るものによって観られる身体は変わると言う当たり前の事なんだけど、観られる側もこれを観てほしいと言うのは、たまにある。

ただ、意識的に思ってる事が身体に出ているとは限らない。

これは観る側も同じで、だから、僕らは観る自分がどんな身体なのか?と言うところから観始める。となると、それ以前の観ている身体自体の経験を練り上げていかないとならない。

そうして事実を「観察する」と言う事は、簡単で単純な人間観を共有している世の中で異端に身を置く事に他ならない。

人間の身体も感受性も生きているのだから変化している。それは歪んでいる事と同義なのだから環境や対象に左右されない固定した身体を作りたがるのは武道くらいで、変化は当たり前。歪む事は生きる力になり、出会う相手によっても、感受性の働きによっても身体は歪み、全力を〈傾け〉ようとする。

その〈傾き〉歪みが「異常」に見えるなら、「安静」以外の元気に動き回る子は障害児と言う社会になってしまう。

病院で検査を受けて「一言で言って癌ですね」と言われ何か安心する。あなたの人生は癌なのか?と言う事になるけど、そのレッテルは弱さを肯定する。

弱さにはある種の情感やストーリーが生まれる豊かさもあるけれど、身体は呪いにかかっている事を忘れてる。

それ自体が現代社会の〈病〉でもある。

これからはAIが人の身体を診断して、治療までするらしい。「効く方法」を求めた結果、方法ですら人の手を離れていく。

現代社会が恐ろしい速度で機械化する身体に向かい、人々の人間観が幼稚になれば黙して待つしか無い。

先日、長く整体に付き合ってくれている人が「自分の身体に起こる95%の痛みや、病気も更年期障害も自分で治せますね」と言った。その方は内観が上手になって整体がとても良い経験になる。

〈自分の身体は自分で始末をつけれる〉と観念を変更出来たら、整体は本来の整体になってくる。