続続・捌けた音と癒着する音〈美は狐憑き?〉 (original) (raw)

前回の記事では実際に時代の変遷が体験出来ることから、今まで話すだけではピンと来なかった事も腑に落ち、一部の人達は自然音に挑戦しているようだ。

その為にはまず、自然の音の性質と我々の音の体験はどう関係しているのか?と言う事を見つけなければならない。

体験は「からだ」がそこに無ければ信用出来ない。この「からだ」がどんな体験の事を指すのか?が難関で、その一つ目の課題に取り組んでいる人達から、いくつか体験が寄せられた。

一つ目は、自分の感覚が楽譜に移って、それから自分の方に入ってくる。その後は入った流れを追いかければ良いと言うもの。

このステップに入っている人は増えてきた。

楽譜の見方もいろいろあるけど、基本は「からだ」が出れば良い。

例えばある人は空間を二重の時間差で集注する事により、作曲家の身体を体験する。

本人曰く、「バッハは手がめっちゃ大きくなる。そして結構ムックリしてる。すごく純粋で無私で弾く感じ、身体から指先が繋がってる。

ブラームスは超ビール腹っぽい。背中はこんな感じで・・・

パガニーニは視点がすごく高いとこから見下ろしてる。

クライスラーは・・」

と言うように、たった一時間の間に六人程試して録音を送ってくれた。

録音で再現するのは難しいけど、それでも聴いてみるとそれぞれの特徴も、前回話した時代性も微かに聴こえる。

中でもハマりがよかったと本人が語るモーツァルトは、弾いているうちに演奏者が消えてモーツァルトの感覚が運動し始める瞬間がある。

こうした体験は、練習中身に覚えのある方もいると思う。

人の感受性は身体にあらわれる。
その身体が良い感覚だな〜と思って楽譜になっているのだから、楽譜には本人の感受性が出てくる。
それを拾うと、拾った人の身体は作曲家の体験に変化して、曲の表現したい感覚の元が生まれている。

後は身体感覚のまま、自動書記のように弾けば良い。ただ、そこには訓練の習熟度が反映するから、初めは思ったより上手くは無い。

それに作曲家がヴァイオリンが上手かったとは限らないのと、時代的に身体上の運動感覚が大雑把な方向に変化している縛りがある。

この課題は実は10年以上前から話していたのだけど、当時は体験方法が分からなくて、取り組んだ人は足を中心に全体の気の流れ、速度のパターン分析を作曲家毎に行った。

それに乗って弾くことが出来るのだけど、ともかく楽譜からこの様な体験を汲み取る事は出来る。

つまり、演奏者は深く楽譜を洞察する鑑賞者でなければならない。

次の問題。

モーツァルトに同化した彼女の音は、やはり胸の奥に向けての運動がメインになってしまっている。

胸領域は使うけど、18世紀中頃までのヴァイオリニストを聴いた時、楽器が腹にあるのは、おそらくモーツァルト時代の〈腹に楽器を置いて弾いていた〉年代の記憶があったからだろう。

当時は肩に楽器を置いている今のスタイルでは無かったので、その面影を背負ったアウアーやヨアヒム等は楽器の影を腹においている。

であれば、その音もモーツァルトの時代に近いものだったろう。

折角の発見を利用して上手く弾くためには、アウアーのように楽器の影も運動も胸の下に納める必要がある。

そこで次に構え方と調弦の手順を変えていく。当時の音程は当然現代とは異なる。

その日の報告では、

「バッハの時代にビブラートはなかったってことか??と思ったけど、あるにはあって、楽器を手首で支えてたから今のとはだいぶん違う。

バッハは指の感覚が違いすぎて、一般技術的には昨日の方がよく弾けていたけど、今日のは面白さが少し出た感じがする。神様に曲作ってた時代と言うけれど、本当に何か真っ直ぐな気持ちの持ち主な感じがする。」と言う体験。

そして「モーツァルトはビブラートかかるけど、大切な音にだけアクセントで強調するみたいな感じにかかるなあと思っていたら、モーツァルトが、〈すべての音にビブラートをかけるのではなく神が選んだ音にのみかかるべき〉と言う言葉を残していた⚡️ モーツァルトは私が感じたそのままの言葉を残していて、これは本人からレッスン受けてるようなものだと思う。」

との事。

その録音は、素朴で身体の中を通っていく。

これだけでもカザルスやギトリスの音楽に似た、ある要素が生まれている。

それから三日間山に篭って自然の音を聴き続けてきました!と言う猛者も出てきた(笑

昔の音を再現するにも、自然な音がどんな音か?自分達の音と何が違うのか?

それから、不自然な身体にどう自然を見出すのか?

そこから、楽器の自然もそれぞれ人によって作られたわけだから、扱い方の違いはある。

いろいろな問題があるけど、山籠りの成果?笑なのか

「身体の無数の隙間に音は通り抜けるんですね」と体験を話してくれた。

本人が言う通り、隙間に通れば体形は兎も角、見た目がスッキリと清潔で綺麗に見える。

それを続けてくれたら三日間の経験も生きてくるだろう。

こちらも楽譜の見方はすぐに体験し始めた。

「憑依」と言うと怖いようだけど、日常に体験している事はままある事で、その身体を調べてみれば、たまたまこのタイミングだったのね、と言うある特定の焦点なことが多い。

体験としては、背骨も姿も変わるし筋肉の質感から、重心位置、顔つきまで変化する。

あるいは気の質感や流れ方、速度が写し取れるパターンもあり、同調の仕方はそれぞれが違うと言っていい。

また、今回は楽譜だけど、例えば土器や陶器も、絵画や書、写真でもお墓でも、場所によっては神社でもそれはおこる。

ただ、それはからだの体験である事、精神は影響されていない事、和花を観た時に感じる何かと同じ程度に受け取れていることが大切で「からだ」にはいつも静けさがあるのは条件である。

僕らからみると、その時に「ガス🟰邪気」の印が出ていない事、熱がない事が大事。

ちょっと横道にそれるけど、この仕事が長いといろんな人が来る。その中に「狐憑き」や、「物の怪」の類いもある。

本当にあるんだな〜と感心したけど、内観なんてさせてくれやしない。

可愛い顔した女の子が、突然目を吊り上げて「手出しをするんじゃない!」と脅しをくれる。

ものすご眼で睨んできた途端に激しく頭痛が始まる。

相手の身体から能面が自分の顔面に飛び込んでくる・・・などなど

それには、まぁ「目には眼を」で方法を講じるけれど、女性の中にはそうした自己放棄に快感のある子もいる。一種性欲の変形現象の様なものだけど、キッカケと縁が切れるのは難しい。

それらは要するに「感情と言う精神が生んだガス」だからダメな例だけど、楽譜から曲を読み取るのはそれらとは違う。

剣術の型や、太極拳ですら、その型に集注すると創始者の体軸や感覚が外側からやって来る事がある。

能や音楽、舞踊、茶の湯の型も、誰かが作ったものには、そこに強い集注感があればあるほど、伝達する何かを持っている。

その何かに気がつくには、いろんな体験が必要だし、早く結果の出る人も、ある程度の蓄積があって一気に繋がる人もいる、タイミングも過程も人それぞれ違う。

この様な文化の根幹を担う人間の現象には、身体と意識から解放された視点への気づきがあればいい。

それはいつも「発見」のタイミングになる。

演奏者と作曲家の間にある現象と並行して、演奏者と観客の間にも大きな問題がある。

「現代はなんでも三流じゃ無いと一般ウケしませんね、」とある友人が言っていたけど、そこが技芸の世界の難しいところ。

天才は勝ち負けのスポーツなら、井上尚弥や、大谷翔平みたいに認められるけど、技芸の世界は相手の感性がついてこないと、100均やユニクロが良い、と言う価値観のラインに乗ったものが勝者となる。産業革命世界線にある現代がそうなるのは当たり前なんだけど。

となると、才能を見つける為にも鑑定する能力が必要になる。

鑑定と言えば青山二郎

数年前に貸したまま忘れていた青山二郎の単行本を、海外にいる子が読み始めましたと連絡が来た。

驚いた事に、青山二郎の本を開くと全くオケで弾けなくなる、と言う。

どうも、青山のクセが強力過ぎて、この日本語が欠片でも身体に残ると弾けないらしい。

白州正子、小林秀雄の師匠であり、中原中也宇野千代、秦秀雄など、多くの美を求める人士が集った鑑定家青山二郎の美の世界は異彩を放っていた。

だいたい嫁さんがあの竹原はんだったのだから、もう意味がわからない虎の穴、すごい時代だ。

青山二郎を一時期読み漁っていたけど、なんだかんだで人が持ち帰り、今は一冊も残っていない。

ただ一冊、彼を追憶する森孝一編集「陶に遊び美を極める・青山二郎の素顔」と言う彼の交友録まで綴った文集だけが手元に残っていた。

この本の中で、河上徹太郎今日出海宇野千代、梅崎春正らが青山二郎を偲ぶ文章を寄せている。

中には面白いところもあって、小林秀雄の寄せた文章に、とある鉄斎の画を季刊誌の2号に載せることにした出来事があった。

ところが号が出来上がって改めてその画を観ると贋作じゃないかと言う気持ちになり、鉄斎論を掲載した青山二郎に、もう一度見てくれ、と持っていく。

しかし彼は笑って承知しない。

心中納まらぬ小林は宝塚にある鉄斎の大蒐集を観に行く。朝から晩まで四日間である。更にはその足で富岡家に寄り、更に2日見続け、数点持ち帰った出来事で回想を結んでいる。

大岡昇平もこの出来事を取り上げていて、小林は持ち帰った鉄斎を青山二郎に見せる。

鴨居から一幅垂らすと、青山はたんびに「いけねぇ」といった。

便所で顔を合わせた小林は大岡に「おれもいけねぇと思ったんだが、念の為あいつにいわしてやったんだ」と舌を出した。

想像すると可笑しくて仕方ないのだけど、この本の目次の次に次の言葉があった。

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美を鑑賞する天才青山二郎は「長次郎は茶を犠牲にしてでも茶人になってみたかったのだ。これが鑑賞家の芸術である」と書いている。

何となくは分かるけど、、僕なら自分で茶碗を作る。

鉄斎なら齢90を越えてからの作品を買えるなら何とかして欲しい。

それがダメなんだけど。。貧乏人には鑑賞家の眼は育たない。

さて、ここからは些かマニアックな研究で、協力者がもっと必要なのだけど、少し今週の鑑賞法をメモしておく。

毎日同じ曲を違う人と聴いてみれば、毎日違って聴こえる。

もっと言えば聴いてる人の身体集注の違いに同調して聴いてみると、聴いている音が違っている。

例えば「奥の音」だけを聴く場合。

偶数系の重心位置で裏の身体にすると本人は身体の中で聴いていて、奇数系だと外に聴こえる感覚がある。

多くは五月の表の時期になると、裏に入れば音は外になる。

裏も表も、時間循環があるけれど、これは重心を取って表裏を固定すれば回転するが、回転にも順逆がある。

演奏者はそれぞれ気の流れの違いに応じて聴く場所が固定されがちだけど、そこには少なからず現代的な擦弦音に対する感受性の拒絶がある。

身体感覚が弾く為に必要な重心点は選ぶ必要があり、それは聴く側も同じ・・・・・