自作小説「塔の上のセピイ 〜中世キリスト教社会の城女中の話」第七話(全十九話の予定) (original) (raw)
第七話 絶たれる糸
昼間、私は畑でぼんやりしてしまった。またしても眠かったのだが、それだけじゃない。セピイおばさんの人生に現れた人たちのことを、どうしても考えてしまうからだ。ヴィクトルカとスネーシカ、ヒーナお嬢様、ベイジとカーキフ、そしてソレイトナック。その他、ネマとか当時の城主様ご夫妻とかも。
多くの人と出会えた大叔母が羨ましくも思える。しかし、その出会いのすべてが楽なものかと言えば、そうではなかった。いや、良い人との出会いほど、苦味を伴っている。それを考えると、ちょっと怖い気もする。
しかし怖気付いて、こんな田舎でくすぶって一生を終えるなんて、まっぴらごめんだし。
とにかくセピイおばさんから学ばねば。まだまだ話が聞きたい。そう再確認して、私は夜を待った。
今回セピイおばさんが指定したのは、家から四番目の離れ。これで、おばさんの離れ、四軒すべてを制覇した事になる。
なんて事は、どうでもいいのだ。大事なのは、セピイおばさんの話なんだから。
雨降りの昨夜と違って、今夜は煌々と月が照っている。雲も少ない。
セピイおばさんは離れの窓を開けて、その月明かりを確かめた。が、数秒ほど黙っていたかと思うと、少しだけ首を横に振って、その月明かりの中でロウソクに火を灯した。その火がちゃんとついたのを確認してから、窓を閉める。
私が「どうしたの」と聞くと、セピイおばさんは「念には念を、だよ」と答えた。
続けて、セピイおばさんは隅の暗がりから皮袋を引っぱり出した。
私との間には、例によって椅子。その下にロウソクの皿が置かれ、ぼんやりとした光をはみ出させていた。そこまでは、昨日と同じなのだが。
セピイおばさんは、その椅子の上に盃を置いて、皮袋から中の液体を注いだ。葡萄酒だったわけだ。私たちの間の椅子は、ロウソクの火を隠すだけじゃなく、小さなテーブルに早替わりしたことになる。
「ちょいと失礼するよ」言うや否やセピイおばさんは、その葡萄酒をあおった。
「あんたも、やるかい?」
「う、うーん、遠慮しとく」
セピイおばさんは私の返事を気にしたのか、気にしていないのか、空の盃を握って、そのまま数秒、黙っていた。
「今夜は、それぐらいの話ってこと?」嫌な予感がして、私は尋ねずには、いられなかった。
「そういうこと。これまで以上に、他人に聞かれたら、まずいし、内容も重い。どうか覚悟しておくれ」
「だ、大丈夫よ、セピイおばさん。しっかり聞かせてもらうから」と、私は全然しっかりしていない答え方をしてしまった。
「脅かして、ごめんよ、プルーデンス。しかし辛い話の前に、またしても浮ついた話だ」
セピイおばさんは盃から手を離して、背筋を伸ばした。
「ベイジがツッジャム城を去ってから、一月くらい経ったかねえ。私は奥方様から、里帰りを勧められたんだよ。私が城から山の案山子村に帰るのは、その時が二度目だった。
ちょうど、私が十八歳の誕生日を迎える頃でね。せっかくだから里帰りして、家族に祝ってもらいなさい、という城主様ご夫妻のお心づかいさ。
一度目の里帰りと違って、ビッサビア様は、びっくりするくらいのお土産を、私に持たせてくださったよ。私が乗せてもらう予定の馬車に、荷車を三台も同行させなさった。その一台ごとに、食糧やら女物の衣類やら、珍しい焼き菓子とか酒樽までが山積みになってねえ。私は腰が抜けそうだったよ。
私が遠慮しようとしたら、モラハルト様が笑っておっしゃった。
『食べきれんなら、親族だけでなく、村人たちにも配ってやるが良い。大いに感謝される事、間違いなしよ』と。
すると、ビッサビア様も付け加えてくださった。
『言い換えれば私たちも、あなたに感謝しているのですよ、セピイ。
ヒーナの前回の縁談が上手く行かなかった事は、前にも話したでしょ。あの時は、リブリュー家をなだめすかすのに、苦労しました。
でも今回は違う。あの子の結婚式は滞りなく済みましたからね。それも、あなたのおかげ。あなたが辛抱強く応援してくれたので、ヒーナも、ようやく貴族の女としての自覚を身に付けました。
私は嬉しいのよ、セピイ。初めてあなたに会った時から、あなたは、きっと活躍してくれると思っていた。今回は私の期待に見事、応えてくれたわね。いいえ、期待以上です。
だから、これらの品で私たちから、あなたへの感謝の気持ちを表したいの。遠慮なんかしないで、受け取ってちょうだい』
という感じで、何とも、もったいないお言葉だったよ。
奥方様は、さらに小声でこんなことまで、おっしゃった。
『あなたはベイジと違って、必ずここに戻って来てね。必ず、ですよ。
ヒーナは何とか結婚しましたが、マムーシュ殿になかなか慣れなくて、衝突する事が多いようです。つまり、あの子には、これからもあなたの応援が必要だということ。私も、あなたを頼りにしてますからね』
だなんて。私は身が引き締まる思いさ。しっかり働いて、ご期待に沿いたい、と改めて思ったよ。
しかし、お褒めの言葉をいただいた事もあって、私は少々、調子に乗ってしまってね。『ソレイトナックから何かお聞きになってませんか』なんて小声でお尋ねしたんだよ。他の使用人や女中たちが、城主様ご夫妻から離れていることを確認した上で、だ。
ビッサビア様とモラハルト様は一度、顔を見合わせて、モラハルト様がお答えくださった。
『たしかに聞いておるぞ、セピイ。ソレイトナックが再婚相手として、そなたを望んでおる、とな。
わしも、あ奴をそろそろ再婚させるべき、と考えておったところだ。それがそなたのおかげで、相手を探す手間が省けたわ。
ただ、そなたたちには済まんのだが、ヒーナの件でソレイトナックも、なかなか忙しくての。あちこちに行ってもらわねばならん。そなたもそなたで、先ほど奥から聞いた通り、ここに戻ったら、また活躍してもらうぞ。今回は里帰りして、英気を養ってくれ。
そなたたちが働いてくれている間に、わしと奥も、できるだけ準備を進めておこうぞ』
なんて小声でも、力強く約束してくださったんだよ」
「さ、さすがね、おばさん。城主様ご夫妻の確約を取り付けるなんて」
私は心から、そう思って言った。城主様にお願いなんて、そうそうできることじゃないはずだわ。
「まあ、私もリオールの件で学習したからね。とにかく城主様ご夫妻が認識してくださっているのが分かって、私は安心したよ。
しかもお二人は、私たちに合わせてくださっていた。モラハルト様はニヤリとして小声で、こうもおっしゃった。『他の者たちには内密にしておるぞ。特に、女中たちはそなたを羨み、妬むだろうからな。それに、わしとしても、そなたたちの件で後々、皆を驚かせたい』
このお言葉が、私にとって、どれほどありがたく、心強かったことか。
というわけで、私は贅沢すぎるくらいの待遇で、この山の案山子村に戻ったわけさ。
馬車の御者はマルフトさんでね。『セピイさんの凱旋に立ち会えるなんて、私も嬉しいよ』なんて言ってくれるんだが、私は恥ずかしかったよ。荷車を引く馬やロバを御している使用人たちに丸聞こえだからね」
「でも実際、凱旋と言っても過言じゃないわ。だって、おばさんは城主様に言われた通り、お土産を村で配ったんでしょ?で、普段おばさんのことを悪く噂していた連中も、ちゃっかり受け取って。
それなら、おばさんの里帰りを凱旋と言ったって、それに文句を言える村人なんて一人も居ないわよ」
「いいんだよ、プルーデンス。私は、べつに仕返ししたくて里帰りしたんじゃないんだ」
「それにしても、おばさんが村でお土産を配るのは、この時からだったんだね」
「そうだよ。ご利益を独り占めなんかしたって、無駄に妬みや恨みを買うだけだろ。必要な分だけ取ったら、余る物はどんどん譲ればいいのさ。それで恩を感じる者が一人でも居れば、めっけもんだろ」
「うーん、それでも一人も居なかったら?」
「結構じゃないか。余分な物がはけた上に、こちらは物が足りていないわけでも、損したわけでもないんだ」
セピイおばさんは、事もなげに言い切った。私としては、何だか悔しい気がするんだけどなあ。
「そんな顔するんじゃないよ。欲張ると、足元をすくわれるんだからね。あんたも、覚えておきなさい。
それに全然、効果が無かったわけでもないんだよ。ちゃんと、おまけが付いてきた。この時はまだだったが、三度目の里帰りでもお土産を配ったら、後で村長さんが父さんを訪ねてきてね。何を言い出すのかと思えば『自分に代わって、村長を務めてくれ』とさ。
ほら、うちの家族が荷車からお土産の品を降ろす時に、御者を務める使用人たちとよく言葉を交わすだろ。それを傍目で見ていた村長さんは思ったそうなんだ。自分たちよりも、うちの家族の方が、村の対外的な窓口として、もう充分立ち回っている、と。
言っちゃあ何だが、私も正直、村長さんがヌビ家とか貴族の関係者と話しているところなんか、一度も見た事が無かったよ。それで村長さんも、うちの父さんに交代してもらって、自分は普通の農民に戻った方がいい、と結論したわけさ。
というわけで、それ以来、父さんが村長になり、その後は兄さん、つまり、あんたたちのお爺さんが村長を務めた。さらにその後は、分かっているね」
う、うん、と私もうなずいた。おかげで私は今、村長の娘だ。
「まあ、お土産なんて、他の連中を黙らせるための口止め料みたいなもんだよ。そう思っていればいい。
そりゃ、城主様ご夫妻からいただいたというのは、何ともありがたい事だ。感謝しなきゃいけないよ。だが、すごく大事ってほどでもないさ。その証拠に、城主様も『配ってよい』とおっしゃっただろ。それくらいなのさ」
セピイおばさんの口元が、少し吊り上がったように見えた。
「それよりも私は、ほかのことで頭がいっぱいだったねえ。ソレイトナックとの仲を、父さん母さんに告白しなくちゃ。そればかり考えて、凱旋もお土産も、本当はどうでもよかったんだよ。とにもかくにも、私はソレイトナックと結婚の約束をした、と報告すべきだ。そう気が張っていたら、とてもじゃないが、英気を養う自信なんて無かった。
あの時は、たしか三泊ほど滞在したんだが、私が父さんたちにちゃんと話したのは、二泊目の夜だったかねえ。そうだ、一泊目は怖じ気づいてしまったんだ。二泊目に勇気を振り絞って話したら、案の定と言うか、まあ苦い顔をされたね。父さんなんか、絶句していた。
ほら、前に私が話しただろ。一度目の里帰りでは父さんたちに、ソレイトナックへの気持ちを片想いだと説明した、と。それが結局、両想いになったんだからね。
で、絶句した父さんの代わりにでもないだろうに、母さんが私を問い詰めてきたよ。リオールの時みたいに口約束で、私を弄びたいだけじゃないか、とね。もちろん私は、城主様からのお言葉を根拠に、反論したさ。
そしたら二人とも、椅子から転げ落ちんばかりに驚いたね。父さんなんか、私がソレイトナックをかばうために出まかせを言っているのか、あるいは私が惚れすぎて、そういう妄想に取り憑かれたのかも、なんて疑ってかかる始末だ。
私だって、城主様のようなお偉方を、そう簡単に話に出したりしないよ。そう断言して、父さんに分かってもらいたかったんだが。父さんたら、なかなか信じてくれなくて。
そんな押し問答を、夜中に親子でしてしまったわけさ。しかも途中で、兄さんが入ってきた。何度も言うが、あんたたちのお爺さんの若かりし頃だよ。兄さんは、またしても盗み聞きしていた事を悪びれもせずに、自分もテーブルについて数秒、黙っていた。
私は兄さんの言いたいことが読めたんで、先に説明したよ。ソレイトナックは今回来られなかったが、それは嫁いだばかりのヒーナ様の件で忙しいから、ということ。そして、こうしている間にも、城主様ご夫妻がいろいろと準備してくださっていること、とかね。
この説明が効いたのか、兄さんは私をチラッと横目で見ただけで、そのまま何も言わなかった。
結果、家族四人とも黙りこくってしまった。会話を再開させたのは父さんだったか。
『まあ、奴に悪意があったとしても、あのモラハルト様が、わざわざ加担してやるはずもないか』
なんて言うから、私もつい声を荒げて否定したよ。『ソレイトナックは、そんな人じゃないっ』とね。
兄さんも、やっと口を開いたかと思ったら、首をかしげながら、こんな物言いだった。『あの野郎が大人しく、俺の義理の弟として収まるとは思えねえんだけど』だとさ。兄さんは、明らかにソレイトナックを嫌っていた」
「う、うーん。おばさんには悪いけど、あまり幸先がいいとは言えないね」
口をはさみながら私も内心、二人を応援すべきか、迷ってしまう。
「仕方ないさ。私は一度、やらかした身だからね。父さんたちはそれでも、よく心配してくれた方だよ。
でも母さんが、こんなことを言い出した。
『もし仮にソレイトナックの求婚を断るとしても、それはそれで私たちは、城主様ご夫妻に謝るべきじゃないのかい?』
これを聞いた私は、やっと母さんだけでも味方にできたかと喜びかけた。
だが母さんとしては、城主様ご夫妻に悪い印象を与えないか、気になっただけさ。
ただし父さんと兄さんに対する揺さぶりと考えれば、その効果は充分すぎるほどだよ。父さんたちにしてみれば、ソレイトナックは疑っても問題にならないが、城主様たちをむやみに疑うわけにはいかないだろ。失礼にあたるんだから。それで父さんも兄さんも唸るだけで、また黙り込んじまった。
というわけで、せっかく勇気を出して報告しても、大して成果は無かった。親兄弟の誰一人、私とソレイトナックの婚約に賛同せず、祝福もしてくれなかった。全否定でなかった事だけが、せめてもの救いさ」
セピイおばさんは、ため息をついて、閉じた窓の方を見た。物音は、していない。
「英気も全然、養えなかったねえ。モラハルト様には申し訳なかったが。だらだら過ごしただけで、元気になった、とは自分でも思えなかった。
私がそんな状態のまま、城から迎えの馬車が来たんだよ。私は馬車に乗り込みながら、次はソレイトナックを連れてくる、と約束するのが精一杯だった。
迎えの馬車の御者は、マルフトさんじゃなくて、ソレイトナックの部下でね。ほら前に、リオールが荷車に乗せられて、村に連れて来られた話をしただろう。あの時ソレイトナックの助手として、馬に荷車を引かせていた、若い男だよ。
その男は特に私に話しかけてこなかったが、ツッジャムの城下町に入る直前で、馬車を止めると言い出した。どうしたのか、と私が窓から顔を出したら、ちょうどソレイトナックが単騎で駆けつけたところだった。
馬車は近くの林に誘導されて、部下の男はソレイトナックから馬を借りて、走り去ったよ。近くの富農に用がある、とか言ってね。
で、林の中、馬車と一緒に残ったのは、私とソレイトナックだ。ソレイトナックは、部下の代わりに馬車の御者を務めて城に向かうのか。それとも部下が戻ってくるまで待つのか。私が尋ねると、ソレイトナックは、部下を待ちながら話をしたい、と言う。
ソレイトナックは、私に詫びたよ。村に同行できなかった事や、私の家族にまだ挨拶が済んでいない事を。
しかも、この後、部下が戻って来ても、部下が私だけを城に連れ戻して、ソレイトナック自身はシャンジャビ家の関係者のところに行かなければならなかった。ソレイトナックはその合間を縫って、私に会いに来てくれたわけさ」
セピイおばさんはそこでまた話を区切って、窓の方を見た。
そんなおばさんの姿に、今度は私の方がため息をつきそうになって、何とかこらえた。ああ、予想がついた。はじめに、私に断りを入れたわけだ。
「で、話もそこそこに、馬車の中で抱き合ったよ。ソレイトナックから言われたんだ。ずっと私が欲しくて、たまらなかった、と。ずっと、ずっとね。それで私は、できるだけ彼の望むようにさせてあげようと思った。
彼が私のどこを触れても、泣けるくらい嬉しかった。同時に、またベイジやヒーナ様に申し訳ない気がしたよ。
陽が暮れるまで、そうやって馬車の中に閉じこもっていた。ソレイトナックが私に服を着せて、自身も服を着たところで、部下の男が戻ってきた。
で、また部下とソレイトナックは交代だよ。ソレイトナックは馬上の人となって、よその街へ走り去った。私は、彼の部下が御する馬車で、ツッジャム城に戻った。
以上が、私がはじめに言っていた、浮ついた話さ」
言い終わるや否や、セピイおばさんは、また
暗がりから皮袋を持ち出して、盃に葡萄酒を注いだ。そして一気にあおる。
今度は、私も盃を出してもらって、ちょっとだけ呑んだ。呑まずには、いられなかった。
「馬鹿なおばちゃんだろ、まったく」
セピイおばさんが、私と目を合わせないで言った。
「親の心配をよそに、男といちゃつくなんて、世話ないよ。あんたは、どうか私みたいには、ならないでおくれ」
「そ、それはともかく、次の日から大変だったんでしょ」
私は話を替えたくて、先を促した。しかし。
「次の日じゃなかったよ。その日のうちから、大変なことになった。
あの時は城に着いたら、陽が沈みきって、暗くなり出していた。
城門を通り抜けると、何とビッサビア様が自らお出迎えだよ。ビッサビア様は早口でおっしゃった。
『戻ってきたばかりで悪いけど、今すぐヒーナのところに行って。あの子が、あなたに会いたがっています』と。
ビッサビア様は、すでに馬車を用意しておられた。マムーシュの屋敷に行くための馬車を。しかも騎士のロンギノ様をはじめ、兵士も三人だったか、同行することになっていた。
私が馬車を乗り替えると、すぐに出発となった。しかも結構、速度を出してね。馬車も大きく揺れて、閉口したよ。
城下の大通りには、まだ人の往来も少なくなかった。私たち一行は、それを突っ切るようにして飛ばしたんだよ。驚いて、こちらを振り返ったり、慌てて道を開けたり、町人たちの反応も様々だった。
激しく揺れる馬車の中で、私は、あれこれと気をもんでいたよ。
そりゃ、ヒーナ様に会って、慰め、励ましてあげたいのは山々だ。しかし私は、ほんの二、三時間前までソレイトナックと抱き合っていたんだ。それをヒーナ様に感づかれないか。考えただけでも、恐ろしいことだよ。
だからと言って、断われるわけもないだろ。たとえ馬車が走り出していなくても、ビッサビア様相手に否は言えないよ。ヒーナ様に会うしかなかった。
でも、会ったら。
私の頭ん中で、いつまでも同じ問いが、ぐるぐる回っていた。
ツッジャム城からマムーシュの屋敷までは、普通なら半日くらいかかる、と聞いた覚えがあった。しかし、その夜は三時間くらいで着いたんじゃないかねえ。先頭のロンギノ様が、それくらい飛ばしに飛ばしたってわけさ。
お屋敷の方々は、すでに晩餐も済んで、ほとんどの人がこれから就寝するところだった。嫌な推測だが、おそらく新郎マムーシュも、ヒーナ様と、そのつもりだったんだろう。私らは、そこに駆けつけてしまったわけだ。
篝火を焚いたお屋敷の入り口で、私は初めてヒーナ様の夫マムーシュを見たよ。ソレイトナックほど背は高くないが、私やヒーナ様よりは少し高い。目もぱっちり大きくて、鼻や口も程よく整っていた。いわゆる女顔ってやつさ。それで微笑みでもすれば、なるほど大概の女は喜ぶだろうよ。ただし、この手の顔は、怒った時の表情がきついんだ。キンキンにとんがりまくった印象を周りに撒き散らすからね。
篝火に照らされたマムーシュは、まさにそれだった。入り口に突っ立っていたから、お互いご挨拶かと思って、こちらがそうしても、微動だにもしない。一言も無いんだよ。
むしろマムーシュは目を吊り上げて、こちらを睨んでいるように見えて、仕方がなかった。騎士のロンギノ様に対しても、だよ。見ようによっては親子と言ってもおかしくない歳の差なのに、そんな態度だ。ロンギノ様の、苦笑いを浮かべた頰が引きつっていたよ。
どうしたものかと思っていたら、ヒーナ様がマムーシュの後ろから飛び出してきたじゃないか。その上、私の首に縋りついて、わあわあ泣きじゃくった。
後から追いかけてきたスネーシカ姉さんが、ロンギノ様たちに謝っていた。『申し訳ありません。私のお世話が行き届かないばかりに』とか自分を責めて。
久しぶりに会えたスネーシカ姉さんは、明らかにやつれていたね。私はヒーナ様だけじゃなく、姉さんの方も心配になったよ。
ヒーナ様は泣きながら騒いだ。『今すぐ私をツッジャムに連れて帰って』とね。私がなだめようと話しかけても、お構いなしにそれを繰り返すんだ。
それを横目で見たマムーシュがやっと口を開いたかと思ったら、こんな言い草だったよ。
『お前は俺の妻ではないか。ならば、お前の家はここだ。ツッジャムではない』
ヒーナ様は『違う』と叫んで、私に一層、体を密着させてきた。私は心臓が飛び出すかと思ったよ。ソレイトナックとのことを気づかれませんように、と心の中で祈るしかなかった。
ロンギノ様もヒーナ様を落ち着かせるために、言い方を工夫なさった。
『ヒーナ様。ここで押し問答しても仕方ありません。どこか一室をお借りして、ゆっくりお話ししましょう』
そしたらヒーナ様は、こう返した。
『だったら、今夜は泊まっていって。セピイだけでも泊まっていって』
これを聞いた屋敷の使用人らしい声が、背後で聞こえた。『また、旦那様の許しも得ずに、勝手なことを言って』とかね。
これが、ロンギノ様のお耳にも入ったんだろう。ロンギノ様はまだ苦笑いだったが、マムーシュに断りを入れた。『よろしいですかな、婿殿』
これに対するマムーシュの返答が、まあ酷いもんさ。『ああ、好きにするがいい。ただしお前たちが帰れば、俺もヒーナを好きにさせてもらうぞ。何しろヒーナは、俺の妻なんだからな』と来た。
私は、この言葉を忘れたいのに、今でも忘れられなくて、困ってんだ」
うわあ、と私も声が出てしまった。
「もう、だめ。嫌な予感しかしない」
「こらえておくれ、プルーデンス。これから、坂を転がり落ちるように、事態はどんどん酷くなっていくんだ。
とにかくマムーシュは、私らのために応接間を空けてくれたよ。
ヒーナ様は、私と二人きりで話がしたいとおっしゃった。で、ロンギノ様や部下の兵士たちは応接間の入り口そばで待機だ。
応接間の長椅子に並んで座ったら、ヒーナ様は、また私にしがみついて泣き出した。
『もう夜が来るのが怖い。毎晩々々あいつに犯される。嫌だって言っても、全然聞いてくれない。それどころか、あいつ、私をぶつのよ。何で俺の言う事を聞かないのか、なんて言って。それで無理矢理のしかかってくるの。最後は、いつも私が泣きながら我慢するだけ。
何で私があいつの子どもを産まなきゃならないのよ。冗談じゃない。
セピイ、私を助けて。もう一分もここに居たくない。ツッジャムに早く帰りたい』
なんて、まくしたてた。とてもじゃないが、なだめて落ち着かせようとなんて、無理だよ。
しかもヒーナ様は、こうも言った。
『ヴィクトルカの気持ちが分かったわ、どんなに辛かったことか。改めて、ヴィクトルカを苦しめた男どもが許せない。そして私の夫と称して私を犯す、あいつも許せない』とね。
ヴィクトルカ姉さんまで出されたら、もう私も耐えられないよ。すぐさまロンギノ様にも入ってもらって、相談した。休養などの名目で、ヒーナ様をツッジャム城に一時的にでも連れて帰れないか、と。
しかしロンギノ様は苦しげに顔を歪めて、首を横に振りなさった。そして、ヒーナ様にお答えしたんだ。『それだけはするな、と奥方様から言いつけられております』と」
「ええーっ」私は声が大きくなってしまった。
しかし、さらに驚いたのは、セピイおばさんがそんな私を咎めるのも忘れて、話を続けたことだ。
「私は、思わず倒れそうになったね。もちろんヒーナ様の泣き声も、一層ひどくなった。目の前が真っ暗になる、とかいう言い回しはこういう時に使うのか、と思ったよ」
「で、でもセピイおばさん。ヒーナ様にとっては、ツッジャム城の奥方であるお母様が最後の頼みの綱だったんでしょ」
「間違いなく、そうだよ。ヒーナ様を助けられるとしたら、まずはビッサビア様だ。
しかし、そのビッサビア様が、あらかじめロンギノ様たちに言い含めていた。これはもう、ヒーナ様を助けない、突き放す、とビッサビア様が宣言なさったようなもんだよ。
私も愕然としたさ。あのお優しいビッサビア様に、こんな一面があるなんて。よほど夢か、聞き間違いであってほしかったよ。
しかしロンギノ様は『お力になれなくて、申し訳ございません』とか言いながら、応接間を出ていこうとする。
それを待っていたのか、入れ替わるようにマムーシュが入ってきた。
『もう話も済んだであろう。お前たち、使いの者たちの寝床も用意してやったぞ。
ヒーナ、お前は俺と寝るのだ』
『嫌よっ』とヒーナ様が、すかさず叫んだ。『私は、セピイに添い寝してもらって休むの。あんたは一人で寝なさい』と言い放ちながら、私にきつく抱きついて離れない。
これに対して、マムーシュは困るどころか、ニヤリとした。
『ならば、俺も加えてくれよ。三人で楽しもうじゃないか』
マムーシュが言いながら足を踏み出すから、私は悲鳴を上げそうになったよ」
「もう、ゲスタスと一緒じゃん」
私も言わずには、いられなかった。まったく男ってのは、どうして、こう、どいつもこいつも、いやらしいのか。
「そうだよ。そっくり過ぎて、私もびっくりさ。
で、この時もロンギノ様が割って入ってくださった。『婿殿。さすがにそれは、お戯れが過ぎるのでは』と、かなり言葉を選んであったけどね。ゲスタスの時と違って。
そしたらマムーシュの奴、はあ?とか声を上げたんだよ。侮蔑の表情を隠そうともしなかった。
『当たり前だ。冗談に決まっておろうが。俺とて、そこのセピイとやらに興味は無いわ。どう採点を甘くしても、ヌビ家ほどの血筋の者ではあるまい。ならば、用は無いわ。
まったくツッジャムの騎士は、冗談も分からんのか』
だとさ。
ロンギノ様は、必死に耐えてくださったよ。しかし、こめかみの青筋までは、さすがに隠せていなかったが」
「ひえー。騎士様も、苦労が多いんだね」と私。心から同情してしまう。
「そうだよ。城詰めだからと言って、華やかな生活ばかりじゃないのは、騎士も女中も同じさ。
ま、それはともかく。
マムーシュは、その夜だけ諦める気になったのか、結局、嫌味を吐いただけで引き上げていったよ。
ヒーナ様は、それでも安心できないとして、スネーシカ姉さんも呼んで、三人でそのまま応接間で寝ると言い出した。お屋敷の、つまりシャンジャビ家の使用人に言いつけて、寝床を作らせたのさ。
使用人は『ご主人様のお許しが』とか、いつまでも小声でぶつぶつ言っていたけどね。
それら一部始終を傍目で見ていたロンギノ様も、ヒーナ様を心配して、見張りを買って出てくださった。連れてきた兵士たちと交代で、そのまま応接間の入り口そばに控える、と。
そこまでして、ようやくヒーナ様はお休みになったのさ。私とスネーシカ姉さんが両側から挟むように並んで、横になってね。そう、前回はベイジと私とヒーナ様の三人だったが、この時はベイジの代わりにスネーシカ姉さんが加わったわけだ。そして、この時も私は、なかなか寝付けなかった。
ただしヒーナ様だけは、あっという間に寝てしまったんだよ。灯りを減らした応接間で、スネーシカ姉さんが小声で説明してくれた。このお屋敷に嫁いで来て以来、ヒーナ様は気が休まる時が一度も無かったそうだ。
『もう少し、私がお嬢様を慰めてあげられたら、まだ違うんだけど。ごめんね、セピイ。私の能力が足りないせいで、あんたまで巻き込んでしまった』
なんて、力無く微笑むんだよ。私は悲しかった。
そうかと思えばスネーシカ姉さんは、そおっと寝床から抜け出して、入り口を確かめた。見張り役の兵士は壁にもたれて、座り込んでいたそうだ。いびきも少し聞こえていた。『兵隊さんも、お疲れだったようね』と戻りながら、スネーシカ姉さんがつぶやいたよ。
そのくせ姉さんは毛布をかぶらずに、そのまま寝床の端に腰掛けた。
『セピイ。お疲れのところ、悪いけど、幾つか聞いてもいい?』
私も寝床から体をそっと起こして『どうぞ』と返事した。
スネーシカ姉さんが知りたがっていたのは、ヒーナ様とソレイトナックのことだったよ。
二人が関係をもった事を、ヒーナ様がスネーシカ姉さんに話したらしい。私が協力して、逢引きの段取りをつけた事もね。
スネーシカ姉さんは私に尋ねた。
『セピイも、ソレイトナックが好きだったんでしょ。辛くなかったの?』
私は答えた『辛かったけど、私が協力して願いを叶えてあげないと、ヒーナ様の方がもっと辛くなると思って』
これを聞いて、スネーシカ姉さんは数秒、黙っていた。
『よく、こらえてくれたわね、セピイ。私からも、お礼を言うわ。
おかげでヒーナ様は、今も何とか自分を保っておられる。これでソレイトナックとの思い出すら無かったら、今頃ヒーナ様は』
スネーシカ姉さんは最後まで言わなかった。私も怖くて聞けなかった。
姉さんは、自分と私の間で眠っているヒーナ様の髪を、触れるか触れないか分からないくらいの手つきで、そっと撫でていたよ」
今、私もセピイおばさんに聞けない。おばさんは、どう推測したのか。聞きたいけど、聞けない。仕方ないから、自分で推測するしかないけど。考えただけでも辛い。とにかくヒーナは、無事では済まなかっただろう。
セピイおばさんは私の絶句に気づいているのか、いないのか、話を続けた。
「それから姉さんは、そのまま声をひそめて、ヒーナ様がどんな仕打ちを受けたか、私に話してくれたよ。大体はヒーナ様が言っていた通りで、聞くに耐えないものだったが、姉さんからも補足があった。
お屋敷の女中や使用人たちのことだよ。スネーシカ姉さんだって、ヒーナ様が泣いている時に、黙って見ていたわけじゃないんだ。むしろヒーナ様に迫ってくるマムーシュの前に、何度も立ちはだかったんだよ。姉さんの気性を考えれば、下手すればマムーシュに手を振り上げようともしたのかもしれない。
でもね、お屋敷の者たちが、それをさせなかったのさ。たちまちスネーシカ姉さんを羽交い締めにして、ヒーナ様から引き離してね。
その事でも、姉さんは謝るんだよ。『私じゃ非力すぎて、ヒーナ様をお守りすることができない。ヒーナ様が泣き叫んで苦しんでも、私は守ってあげられない。私がロンギノ様たちみたいに強かったら、と何度思ったことか』と。
それを聞いて、私は提案してみた。ロンギノ様たちに、このままお屋敷にしばらく滞在していただく。あるいは、スネーシカ姉さんにはツッジャム城に戻って休養してもらい、私が代わりにヒーナ様をお世話する。私としては、せめてスネーシカ姉さんだけでも休ませたかった。
しかしスネーシカ姉さんは、どちらの案にも首を横に振った。ビッサビア様がどちらもお許しにならないだろう、と」
「うーん、とにもかくにも奥方様のところで、話が止まっちゃうのね。何だか、本当にヒーナ様の母親なのかって言いたくなる」と私。
「そんなこと言うもんじゃないよ、お城の奥方様に対して。
しかし、話がつっかえたのも事実だ。私は話題を替えようと、ソレイトナックに頼ってみた。姉さんの彼に対する気持ちも確かめたかったからね。『ヒーナ様とソレイトナックの関係を知って、辛くなかったですか』と尋ねてみたのさ。
そしたらスネーシカ姉さんは、くすくす笑い出すじゃないか。声を抑えていたから、私以外には誰にも聞かれなかっただろうけど。姉さんの突然の変化に、私は内心、驚いたよ。
スネーシカ姉さんは言うんだ。
『セピイたちからは、私もあの人に気があるように見えていたの?そりゃ、まあ、そんな時期もあったけど。こちらに少しも関心を示してくれなかったから、さっさと諦めたわ』
姉さんは笑い疲れたみたいに、ため息をはさんで、話を続けた。
『たしかに、ソレイトナックは素敵な人よね。私も、かっこいいな、と思っていた。みんなが夢中になるのも、無理ないわ。
でも、あの人自身は誰を見ているのかしらね。亡くなった奥さんがまだ忘れられないんじゃないか、と私は推測したんだけど。
そのくせ、ネマと居る時だけ、あの人が緩んで見えたりするのよねえ。ほら、あの人って、いつも気を張っていると言うか、隙を見せないじゃない。ネマと話している時だけ、それが緩んでいるように見えたのよ。ソレイトナックの亡くなった奥さんがネマと双子の姉妹という噂を聞いて、間に受けたからかなあ。
でもね。私、ヒーナ様から話を聞いた時に、また別のことも考えたのよ。ソレイトナックには、案外ヒーナ様とかセピイみたいに、歳が離れた娘の方がいいかもってね』
私は自分の名前を急に出されて、思わず飛び上がりそうになったよ」
「おばさん」
私は口をはさんだものの、また絶句しそうになった。疑問が、確かめたいことが、途端に増えた。
「お、おばさん。幾つか質問があります。ソレイトナックの亡くなった奥さんって、ネマの姉妹だったの?」
「その時は断定できなかった。スネーシカ姉さんも一度だけ、そんな噂を耳にしたってだけで、結局、分からなかったそうだ」
「では、もう一つ、質問。スネーシカは、すぐにソレイトナックを諦めたと言ったけど、その割には観察や分析が細かいんじゃない?」
「そうなんだよ。まさに、その通り。やっぱり、あんたも気がついたか。
しかも、それだけじゃないんだ。いつの間にか、スネーシカ姉さんの雰囲気が明るくなっていた。ちょっと前まで、自分を責めて、ひどく沈んでいたのにね。
そりゃ、ロウソクの火も減らして、部屋は薄暗いし、姉さんも声をひそめたままだったよ。でも、その暗がりの中で、姉さんが少し微笑んでいるように、元気を取り戻したように、私には見えて仕方がなかった。小さく抑えても、声まで弾んでいたし」
「てことは」
「好きだったんだろうね、ソレイトナックが。姉さん自身は諦めたつもりで、自分で気づいてなかったのかもしれないけれど」
「では、あと一つだけ。これが一番大事というか、悩ましいんだけど。
スネーシカは何で、ヒーナ様に続けて、セピイおばさんの名前も出したのかな。まさか、おばさんとソレイトナックの仲に感づいていたとか?」
「それは、私にも分からないよ。姉さん本人に聞くわけにもいかないし、私もソレイトナックとの事は隠し通したつもりだ。
後になって、何度も考えたさ。スネーシカ姉さんは、どういうつもりで言ったんだろうと。ただ、この時の姉さんの顔を何度思い出しても、私に対する悪意を感じなくてねえ。
まあ、強いて言うなら、姉さんも、私がソレイトナックに惚れていた事までは知っていたからね。『セピイにも分があるかもよ』と姉さんなりの後押しだったんだろうよ」
うーん。私は唸ってしまった。
「なんて言うか。私、スネーシカにも幸せになってほしいなあ」
「ありがとよ、プルーデンス。あんたがそういう気持ちを持てる娘に育ったことが分かって、私も嬉しいし、あんたの母さんを尊敬するよ」
というセピイおばさんのお言葉は、ありがたいのだが。
おばさんは盃をちらっと覗き込んで、空っぽだったからか、また皮袋に手を伸ばそうとした。が、私と目が合うと、やめてしまった。
途端に私の中で、悪い予感が増した。で、また質問してしまう。
「お、おばさん。スネーシカは、その後どうなったの」
「ああ、姉さんは、やっと横になったよ。『疲れているところを、話を長引かせて、悪かったわ。あんたも、もう休んで』とか言って。ヒーナ様と並んで。
ちょうど、応接間入り口の見張りも交代の時間だったようでね。ロンギノ様が兵士に休むように言う小声が聞こえたよ。
私も毛布をかけ直したら、今度は、あっという間に寝入ってしまった。考えてみれば、いろいろとあり過ぎた一日だったからねえ」
ああ、と声が出そうになるのを、私は何とか噛み殺した。そういう意味じゃなかったんだけど。私の質問の仕方が紛らわしかったか。私が話の続きを催促したように、おばさんが誤解したのも当然だ。しばらく質問を控えよう。
「とうとう、マムーシュの屋敷で一泊しちゃったんだね」と私。
「そうなんだよ。以前はヌビ家の建物に入るのでも怖気づいたもんなのに、まさかシャンジャビ家の屋敷にも泊まるとはね。
でも、まあ、その一泊だけさ。翌朝は早々に起こされたよ。応接間入り口で、こちらの兵士と屋敷の使用人たちが、ちょっと押し問答になっていた。マムーシュや使用人たちとしては、私らに朝食を摂らせて、さっさと追い返したかったらしい。
使用人たちの後ろから、ロンギノ様も呼びに来たよ。ロンギノ様も、もう粘らないつもりなんだ、と私も気づいた。
シャンジャビ家の食堂の朝食がどんなだったかは、覚えていないねえ。不味くはなかったはずなんだが、特に印象も残っていないよ。
後は、私らが帰るだけ。私はロンギノ様に急かされて、馬車に乗ったんだが。
これが辛かった。ヒーナ様が、火をつけられたみたいに騒ぎ出したのさ。
『セピイ、私を置いていかないで。私を見捨てないで。私も馬車に乗せて。
何で、あんたは帰れるのに、私は帰れないの。何で私だけ、こんな目に遭わなきゃいけないの。私もツッジャムに帰って、あの人に会いたい。何でセピイには、それが許されて、私には許されないの。
卑怯よっ。セピイ、降りなさい。馬車から降りて、ここに残りなさい』
ヒーナ様はスネーシカ姉さんに捕まえられて、馬車から引き離されながらも、叫び続けた。
『スネーシカ、離して』
『お嬢様、こらえてください』
なんて二人のやり取りも、私は目が離せなかった。
私は、そのまま馬車の中で凍りついたように動けなくなった。そしたら突然、馬車の窓が外から閉められてね。続けて、ロンギノ様が御者に馬車を出すよう命じる声が聞こえた。
馬車は動き出して、私は震えながらも何とか、もう一度、窓を開けたよ。もちろん、振り返ってヒーナ様とスネーシカ姉さんを見るために、だ。
しかし。見ない方がよかったのか。屋敷の使用人や女中たちが二人を取り囲んで、引き離すところだった。ヒーナ様がスネーシカ姉さんから離されると、笑みを浮かべたマムーシュが現れたよ。口の端が高く裂け上がるような、恐ろしい顔だった。
『やっと邪魔者どもが居なくなったか。さあヒーナよ。昨夜の分も楽しませてもらうか』
マムーシュは本当に嫌な奴で、この台詞を、遠ざかる私らにも聞こえるように大声で言ったんだ」
「ええーっ」と私も驚きながら、言葉が続かなかった。
「途端に、ヒーナ様の悲鳴が響き渡った。私はヒーナ様の体が引き裂かれたのかと思ったよ。スネーシカ姉さんが『おやめください』とか、かばおうとしているのも見えた。
私は慌てて、先頭を走るロンギノ様にお願いしたよ。『馬車を戻してくださいっ。みんなで屋敷に戻って、ヒーナ様をお助けしましょう』とね。
ところが、だよ。ロンギノ様は、こちらを振り返りもしない。何も答えずに片腕を上げたと思うと、前に振り下ろした。
すると、ロンギノ様を乗せた馬の速度が上がる。お付きの兵士たちの馬も、馬車も、合わせて速度を上げる。
ヒーナ様の悲鳴は、まだ後ろの方で聞こえていた。私は泣きながら窓を閉めたよ。
馬車の中で縮こまって、ヒーナ様とスネーシカ姉さんの無事を祈るしかなかった。祈りながら、二人に謝った。私だけ逃げ帰る事を謝り続けた」
セピイおばさんは、そこまで話すと、盃に葡萄酒を注いで、あおった。さらに、もう一杯分を注ごうとするので、私は思わず声をかけた。
「そうだね。控えておこう。今から、こんなじゃ、自分でも先が思いやられる」
セピイおばさんの返事に、私は内心、愕然としてしまう。も、もっと話がきつくなるってこと?
セピイおばさんは私の驚きに気づかないらしく、そのまま話を続けた。
「ツッジャム城には、あっという間に着いたよ。行きもかなり飛ばしていたのに、帰りはもっと速かったわけだ。
でも、それならそれで、馬車も相当揺れたはずなんだが、私は全然覚えていなくて。気がついたら、城内の厩に入っていた。
私は慌てて、馬車から転がるようにして降りて、ロンギノ様を探した。城主様ご夫妻に報告するのに、ロンギノ様にも来てもらいたかったからさ。そしたら、お付きの兵士が教えてくれたよ。ロンギノ様は『城主様に至急の用ができた』と言い残して、先に厩から飛び出して行かれた、と。
私は理解できなかった。報告なら、奥方のビッサビア様にもお聞かせするべきだろうし、私からも、しなきゃいけないはずだ。熟練の騎士であるロンギノ様がそこを間違う、とは思えなかったんだが。
しかし途方に暮れている場合でもない。緊急事態だからね。私は自分だけでもビッサビア様にご報告しようと、ご夫妻のお部屋に急ごうとした。それで、城内の通路でビッサビア様本人と鉢合わせになったもんだから、驚くやら、ありがたいやら。
私はビッサビア様の足元にひざまずいて、泣いて謝った。
『お嬢様をお守りできませんでした。私を罰してください。そして、どうかお嬢様を迎えに、助けに行ってあげてください』
私は何度も何度も頭を下げて、お願いした。それこそ、通路の床に額をつけてもいいくらいにね。とにかくヒーナ様を助けたくて、必死だった。
ビッサビア様は目を丸くして、驚いておられたが、私の肩をつかんで、そっと起こしてくださった。
『ありがとう、セピイ。今、そのことで、夫とロンギノが話し合っています。あなたは今のうちに休みなさい。疲れたでしょう。詳しい話は、また後で聞かせてもらいます』
後で、と聞いて、私は気が狂いそうになったよ。首を横に振りまくった。
『奥方様、お願いです。今、行動を起こしてください。今すぐに。でないと、でないと、お嬢様が』
それ以上は、私も言えなかったよ。恐ろしくて、言いたくもなかった。で、わあわあ泣きじゃくってしまってね。目の前のビッサビア様が何度か見えなくなったほどさ。
しかし、ビッサビア様からのご返事は無かった。代わりにと言おうか、いつの間にかアキーラや他の姉さん女中たち三、四人が私の周りに集まっていて。彼女たちを促されて、私は女中部屋に戻ることになった」
そこまで聞いて、私は、またしても唸ってしまった。何だか、もう分からなくなった、ビッサビアという母親が。セピイおばさんは、まだ敬意を持っているみたいだけど。
セピイおばさんは、私が唸っただけで質問しないのを見て取ると、話を続けた。
「女中部屋に入ると、姉さん女中たちは口々に言うんだ。
『あんたは今日一日、仕事しなくていいよ』
『仕事は私たちで、やっておくから』
『とりあえず、ここでしっかり休養しなさい』
なんてね。それで彼女たちは、さっさと仕事場に戻ろうとする。
私は思わず呼び止めて、尋ねた。
『どうしたらヒーナ様をお助けできるんでしょうか』
アキーラたちは立ち止まってくれたけど、振り返って思い切り、ため息をついたよ。
『それを今、城主様とロンギノ様が話し合っているんでしょ』
『私たちだって、どうしたらいいか分からないわよ。あんたが考えても、どうにもならないからね。今は考えるのをやめて、休むのに専念しなさい』
姉さん女中たちの意見は、そんなところだった。私は突き放されたようにしか思えなくて、また泣けてきた。
『ヒーナ様が危険なんです。シャンジャビ家で酷い目に遭っています。一刻も早く、お助けしないと』
とか、私なりに必死で訴えたんだが。最後まで言わせてもらえなかった。遮ったのは、アキーラだったかねえ。『だから、それは城主様たちが判断なさることでしょ。同じこと、言わせないで』と来た。
メロエも付け加えたよ。『それにね、セピイ。これは夫婦の問題でもあるのよ。家柄の問題もあるけど、まずはヒーナ様とマムーシュ様という夫婦の問題なの。いくら城主様たちが親族だからって、そう簡単に夫婦に割り込むわけにはいかないでしょ。ヒーナ様たち本人同士で話し合ってもらわないと』とか何とかね」
「ええーっ」と私は呆れてしまった。「もう、そんな段階じゃないじゃん。ヒーナ様の安全を確保しないといけないのに」
「そうなんだよ。全然、分かってもらえなかったんだ。
でも、これなんか、まだいい方さ。もっと酷い意見もあった。『大体、お嬢様も馬鹿よ。男なんて、適当におっぱいでも、ねぶらせておけばいいのに。男の機嫌なんて、それで大概、直るでしょ。何で、それが分からないのかしらねえ。
お嬢様がちょっと我慢してくだされば、ヌビ家もシャンジャビ家も、みんな丸く収まるのよ』だとさ。
もう、誰が言ったのか、思い出す気力も無いよ」
私も、ため息を止められなかった。女ばかりが我慢ですか。そんな嘆きを言葉にしようか、と私が迷っている間にも、セピイおばさんの話は続く。
「追い打ちをかけるでもないだろうに、メロエがこんなことを言うんだよ。『私は、てっきり、あんたかベイジがお嬢様に教えている、と思っていたのよ。そこら辺のことを』なんて、少し睨むんだ。
私は絶句して、途方に暮れたよ。今さら、そんな勝手なことを期待されても、こっちは困るだけさ。
そうやって、アキーラやメロエたちは言いたいこと言って、それぞれの仕事場に戻っていった。私に、見聞きしたことを言いふらすな、と口止めしてね。
私はその後、女中部屋で、ただただ泣いていたんじゃないかねえ。よく覚えていないよ。
覚えているのは、その夜、女中部屋に他の女中たちが戻ってきて、全員が寝る時さ。
昼間、全く仕事をしなかった私が疎ましいのか。あるいは、昼間の城内がヒーナ様の件でぴりぴりしていたのか。姉さん女中たちは寝る直前に、へんに火が付いたらしく、愚痴が少し続いたよ。毛布をかぶった中からで、もちろん声を抑えていたが、それでも彼女らの不満は充分伝わってきた。
その矛先は、昼間はヒーナ様に対してだったが、今度はロンギノ様に向けられた。
『ロンギノ様も言ってくれるわよね。いきなり城主様のところに駆け込んできたかと思えば、マムーシュ様のお屋敷に討ち入りをかけたい、だなんて』
『しっ。あんた、声がでかいよ』
『だけど呆れるじゃない。リブリュー家との時も、あんだけ大変だったのに』
『私も無茶だと思うわ。ロンギノ様の方が私らよりも、よっぽど政治を分かってそうなもんなのに』
ついつい聞き耳を立ててしまった私は、これでやっと分かったよ。ロンギノ様が私をほっぽり出してまでモラハルト様のところに急いだ理由が。いや、それ以前に馬を飛ばし続けた理由がね。ロンギノ様は、モラハルト様を説得したかったのさ。一刻も早くマムーシュの屋敷にのり込んで、ヒーナ様を救出しよう、とね」
「何で急に冷淡になったのかと思ったら、騎士様なりに、ヒーナ様をお助けする気、満々だったのね」
「そう。私は、うっかり誤解するところだったよ。ロンギノ様だって、ヒーナ様を幼い頃からご存知で、自分の娘のように大事に思っておられたそうだ。
ところが、そのヒーナ様の夫になったマムーシュが、めちゃくちゃな態度だろ。それでロンギノ様は『あの無礼な若造の細首を捻じ切ってやりたい』とかモラハルト様に息巻いていたらしい」
「ひー。やっぱり怒ってないわけ、ないか」
「まあね。ただしモラハルト様も、そう簡単に許可を出すわけには、いかなかったんだ」
「えっ、何で。奥方様だけじゃなく、城主様も動いてくれないの?」
「モラハルト様も許可をもらえないんだよ。実の兄君、当時のヌビ家のご党首様から」
「あー」
私は力の抜けた、情けない声をもらしてしまった。まさに政治の話だ。
「そりゃ、私もヌビ家とシャンジャビ家が戦争してもいいとは思わないけど。だけど、何だかなあ」と私。
「そう。誰もそこまでは望んでないんだ。ご党首様もモラハルト様も、そしてロンギノ様だってね。あくまでも、ヒーナ様をお助けしたいだけ。できれば、剣を振り回したり、したくないのさ。
だからモラハルト様たちも相当、悩ましかったろうよ。角の立たない方法を考えなきゃならなかったんだから」
「それで、ソレイトナックやネマが、あちこち奔走していた、と」
「そうだよ。やっぱり鋭いじゃないか、プルーデンス。
でもソレイトナックたち、だけじゃない。何人も使者が、ツッジャムとメレディーンを、あるいはツッジャムとシャンジャビ家の拠点を、何度も行き来したのさ。もちろん手ぶらじゃないよ。モラハルト様とビッサビア様が直筆した手紙を待ってね。
私の説明が悪くて、あんたは城主様ご夫妻が愛娘のヒーナ様を見捨てているように思ったかもしれない。でもね、この頃の城主様ご夫妻は手紙を書きまくっておられたんだよ、ヒーナ様のために。シャンジャビ家には、もちろんヒーナ様にもっと優しく接してほしい、と。メレディーンのご党首様には、ヌビ家本拠地からもシャンジャビ家に働きかけてほしい、とね。
おや。さては、あんた、それじゃ生ぬるいとか、弱腰とか思っただろ」
「うん、実は」と私は正直に答える。「だってヒーナ様は散々、暴力を受けたのに。優しくして、と頼むだけだなんて」
「もちろん、それだけじゃないよ。シャンジャビ家に対して、ちゃんと、ほのめかしたんだ。ヒーナ様の待遇が改善されない場合は、王宮に報告せざるを得ない、とね」
あっ。私は声を上げてしまった。セピイおばさんも私を咎めない。
「飴と鞭の使い分けとは、また違うけどね。丁寧に頼み事をするようで、その実、ちくりと脅しも忍ばせてあったのさ。
だから、あんたも、よく覚えておきな。貴族にとっては、手紙も武器の一種なんだよ」
「そうか。そうだよね。ヌビ家ほどの名家にもなれば、それだけ王家に近いんだもん。その近さも、名家の、上級貴族の強みってわけね」
「そういうこと。なかなか呑み込みが早いじゃないか、と褒めたいところだが」
セピイおばさんの雰囲気が変わった。と言うより、一瞬、機嫌が良くなったように見えて、また戻ってしまった。
「このお手紙作戦には限界があるんだ、決定的な限界がね」
私は、ハッとした。
「じ、時間がかかる。かかり過ぎるんだわ」
「そう。時間ばかり減っていって、効果が分かりにくいんだ。一刻も争うはずなのに。
マムーシュの屋敷から戻って一週間、二週間と経っても、大して良い話が伝わって来なかった。その間にもヒーナ様が酷い目に遭わされていると想像したら、私は気が狂いそうだったよ。ロンギノ様があれほど焦っておられたお気持ちが、痛いほど分かった」
「ビッサビアは話を聞いてくれたの?」
私は、つい、また質問してしまった。しかも敬称略で。
「ああ、聞いてくださったよ。奥方様もお忙しいそうだったし、もちろん機嫌もいいはずがなかった。だが、城内の通路ですれ違いざまに、何とかお引き止めして、聞いていただいた」
「お、おばさん」
私は思わず、話を遮ってしまった。そのくせ次の言葉を出せずに、口をぱくぱくさせてしまった。用意していなかったわけじゃない。用意した言葉を出すべきか、迷ったのだ。(それって、立ち話じゃない。奥方様にとっては自分の娘の事なのに。おばさんは気づかないの?)
「どうしたんだい、プルーデンス」
「な、何でもない。それよりソレイトナックも忙しすぎて、なかなか会えなくなったんじゃないの?」
「ああ。私がツッジャム城に戻って、たしか一週間以上は会えなかった。と言うか、あの人を見かけなかった。もちろんネマもね。日によっては、ロンギノ様をはじめ騎士様たちも、入れ替わり立ち替わり外出なさって。
私は、とにかく女中の仕事に専念するしかなかった。ヒーナ様が心配で、集中しているとは言い難かったが。あの頃は、仕事の合間に塔の上でしくしく泣いていることが多かったよ。こんな時にベイジが居てくれたら、と思ったりもした。
そんなことをしているうちに、地下道に行ってみよう、と思いついてね。もちろん誰にも見られないように行かないと、ソレイトナックに迷惑がかかる。
マムーシュの屋敷から帰ってきて二週間以上過ぎた日だったか。かなり時間が空いたんで、私は思い切って城内の通路をずっと下に降りていってみたんだ。で、周りをよく確認して、地下道の入り口の扉に近づいたのさ。
私はダメ元で扉を押してみたよ。やっぱり鍵がかかっていた。と思ったら、扉の向こう側から、がちゃがちゃ鍵を回す音が聞こえて、勝手に開くじゃないか。ちょうどソレイトナックが通ってきて城内に入るところだったんだよ。私もあの人も驚きのあまり、言葉が出なかった。
だが、すぐにソレイトナックは城内を確かめてから、私の手をそっと引いて、地下道に招き入れた。で、音も立てずに扉を閉める。
中は暗くなったけど、ソレイトナックが屈み込んで、ロウソクに火をつける気配がした。やがて、その明かりで周りが見えるようになった。
立ち上がったソレイトナックは当然、私に尋ねたよ。なぜ自分が地下道から戻ってくることを知っていたのか、と。私は、知っていたわけじゃなく、何となくで来てしまったことを正直に話した」
「もしかして、が本当になったんだね」
「ああ。わずかな望みのつもりが、いざ実現してみたら、嬉しさ以前に、びっくりだよ。久しぶりに会えたソレイトナックに、ちょっぴり緊張したりしてね。
ソレイトナックと私は、地下道の階段に座り込んで、しばらく話した。それでソレイトナックがどんなに奔走していたか、が分かったよ。シャンジャビ家の本城はもちろん、支城にも行っていたし、シャンジャビ家党首の兄弟たちの屋敷や、つながりのある修道院や司教のところも回っていたのさ。それらのお偉方からマムーシュをたしなめていただこう、という狙いで。
そのためには、相手の気分を害さないように言動を気をつけなければならない。そして何よりも、まずモラハルト様たち直筆の手紙が無ければ、ソレイトナックたちも使者として扱ってもらえない。
ソレイトナックは『なかなか手応えが無い』と嘆いていたよ。シャンジャビ家ほどの上級貴族になると、尻尾を出さないと言うか、感情をつかませないことに長けていてね」
「あれっ。どちらかと言えば、ソレイトナックもそういう型の人じゃなかったっけ」と私。
「そうなんだよ。そのソレイトナックが『相手の表情が読めない』と悩むくらいだからね。相当なもんだろ。
マムーシュの事を指摘されて『当家を誹謗中傷する気か』なんて絡んでくる者は、ほとんど居なかったそうだ。もちろん向こうも、ちょっとは嫌な顔をするが、必ずと言っていいほど、丁寧な対応に終始した。やんわりとだが『ご用が済んだら、お引き取りを』ってわけだ」
「となると、また時間が無駄になっちゃう」
「私もそう思えて、話を聞きながら、気が気じゃなかったさ。
おまけにソレイトナックは、ひどく疲れていてね。私は思わず、あの人の頭を抱え込んで、自分の胸元に抱き寄せたよ」
「で、いい子いい子してあげたんだ」
「そんな意地悪な言い方、しないでおくれよ。私としては、それくらいソレイトナックが心配だったんだからね」
「おばさん。ちょっと意地悪を続けて、ごめんね」
断りを言いながら、私の中で、もう一人の自分が喚いた。(やめとけっ、やめとけ。おばさんに対して失礼じゃないのっ)そう思いながらも、口が止まらない。
「お、おばさん。もしかして、そこでソレイトナックと寝たの?」
セピイおばさんの頰が赤くなった気がした。弱めたロウソクの光で見えにくいが。私だって言っておきながら、恥ずかしい。
「まあ、寝たと言うか、立ったまま抱き合ったよ。あの人が『こんな石の床に、お前を寝かせたりしない』とか言うんでね。でも、とにかく私は、あの人を癒やしてやりたかったんだ」
まさかセピイおばさんが私に言い訳する日が来るなんて。ヒーナ様のことが心配だったんじゃないの、とまでは言わない。私も、そこまで生意気でも残酷でもないつもりだ。
「そ、それくらいソレイトナックが好きだったんだね。
で、その後は、誰にも見つからないで戻れたんでしょ」
「何とかね。ほてって、ぽおっとしたまま、とりあえず女中部屋に戻ったよ。ソレイトナックは、騎士様の誰とかをつかまえてお尋ねすることがあるとか言って、別方向に歩いていった」
そこで話を区切ると、セピイおばさんは葡萄酒を盃に注いで、あおった。今夜は、もう何杯目だっけ。
「馬鹿な女と笑っとくれ。友達とも思える人の窮地に、心配しているつもりで、結局やる事はこれだからね。あんたは、間違っても、私みたいにならないでおくれよ」
「おばさん、それは、もういいから。
それより、二人揃って村に来て、ひいお爺ちゃんたちに挨拶する件は進んだの?」
「いいや、進まなかった。やっぱりヒーナ様の件が、なかなか落ち着かなかったからね。ソレイトナックからも『済まない』と言われたよ。『待たせて、済まない』と。
代わりに、でもないが。しばらくして、やっと少し良い噂がツッジャム城にも届いたよ。マムーシュがシャンジャビ家の本城に出頭させられた、とね。あちらの党首をはじめ、そのご兄弟とか、お偉いさんたちに厳しく叱責されたそうだ。その手の噂を、その後も二、三回ほど耳にすることができた」
そ、それはいいんだけど。私にはセピイおばさんが話をそらしたように思えてならない。今夜のおばさんは明らかに、おかしい。
とは言え、それを面と向かって言うわけにもいかず。
「す、少し前進だね」なんて、私は心にも無い言葉を吐いてしまう。
「そうさ。ちゃんと、お手紙作戦の効果が出てきたのさ」
セピイおばさんの言葉は、しかし、それだけで途切れた。話を続けようとしない。嫌な予感がする。
「いや、違う。ごめんよ、プルーデンス。私は今、嘘をついたね。嘘なんだ。マムーシュが自分の一族から吊し上げを喰らったのは本当だが、ヒーナ様の待遇が改善に向けて前進したかと言えば、それは嘘だ。前進なんか、していなかった」
「も、もしかしてヒーナ様は、マムーシュからもっと酷いことをされるようになったの?」
「なったかもしれない。ならずに、そのままだったのかもしれない。とにかく良い方向にならなかった事は確かだろう。
そして、ついにヒーナ様は亡くなられた」
私は息を呑んで、凍りついたように固まってしまった。
「そ、そんな。酷すぎる。ヒーナ様が可哀想じゃない」
「ああ。私も辛かったよ」
「マムーシュに殺されたの?」
「でもないんだ。そう言いたくもなるんだが。
マムーシュが何度目かの出頭で留守にしている間に、亡くなってね。寝室で動かなくなったヒーナ様を、スネーシカ姉さんが発見したそうだ。外傷は無くて、おそらく毒が死因だろう、と医者たちは推測したらしい」
「一体、誰が」
「それが、分からず仕舞いなんだよ。両家で、なすり合いになって。
マムーシュと屋敷の連中は、随分と勝手なことを言ってくれたよ。まず、スネーシカ姉さんを犯人呼ばわりしたんだ。あの真面目なスネーシカ姉さんに、どんな動機があるってんだい。
それにも腹が立ったが、もっと酷いのは、自殺説だよ。よりによって連中は、ヒーナ様が自ら死を選んだ、とまで言い出した。
冗談じゃない。ヒーナ様は女子修道院でも教育を受けたんだ。キリスト教徒が自殺を禁じられていることくらい、ご存知だったに決まっているだろ。
プルーデンス。あんたも、禁じられている理由は分かっているね」
「うん。人の生死や運命は、神様がお決めになるからでしょ。人が自分で命を絶てば、その神様のご意志に背くことになる」
「そう。人が病気や戦争で死ぬのは、全て神様のお計らいってわけさ。人が決めているように見える時も、実は神様が決めておられる。だから人は勝手に他人を殺してはいけないし、自分を死に至らしめてもいけない。まあ、それを考えれば、本当は戦争も禁じられるはずなんだが。
ともかく、このキリスト教社会では自殺は禁忌とされていて、教会はすこぶる嫌がるんだ。さすがに私もタリン全土までは知らないが、国や地方によっては、自殺した者の遺体を引き取りたがらない教会もある、と聞いているよ。
教会が葬儀のミサをやってくれなきゃ、その死者の魂は亡霊として彷徨い続けるのか、あるいは地獄に直行か。いずれにせよ、可哀想じゃないか。
厳しいと言うか、頭の固いお坊さんになると、自殺者はどうせ地獄行きだから、と見向きもしないような者もいるらしい」
「おばさん。それって、マムーシュたちは、そうやってヒーナ様の葬儀ができなくなることを望んでいるんじゃないの?ヒーナ様を自殺と決めつけることで、ヒーナ様を貶めているとしか思えない」
「まさに、そうさ。仮に屋敷の使用人たちがマムーシュに言わされていたとしても、マムーシュだけは確実に、そのつもりだったんだろう。
私は当然、はらわたが煮えくり返るし、そんなマムーシュに一時期でも期待していた自分を情けないと思ったよ。あいつの名前を初めて聞いた頃は、ヒーナ様の素敵なお婿さんと想像したんだがねえ」
「でも、おばさん。ヌビ家だって、言われっぱなしじゃなかったんでしょ?」
「もちろんさ。ヒーナ様の遺体を引き取って、葬儀もそこそこに、城主様ご夫妻はアガスプス宮殿に直行なさった。モラハルト様の兄君である、ヌビ家のご党首様とも、そこで合流だよ。
お二人とも、わんわん泣いて王陛下に訴えたそうだ。ビッサビア様なんか、シャンジャビ家の党首が王の間に現れるや否や掴みかかろうとして、こちらのご党首様に止められた、とか。
一方、向こうのご党首は顔を赤くしたり青くしたりしても、返す言葉は無しだよ」
「当然だわ。散々、責め苛んでおいて、ヒーナ様の死因が自殺だなんて、居直ってんの?って言ってやりたくなる」
セピイおばさんもそうだが、私もだんだん興奮してきた。理不尽すぎて、気持ちが少しも収まらない。
「当時の王陛下や宮殿のお偉方は、とりあえず城主様ご夫妻と両家党首をなだめて、その場は帰らせた。『追って沙汰する』ってことでね。
ご夫妻がツッジャムに戻られた頃には、領民たちも悲憤の声を上げて、あちこちで騒いでいたよ。みんなで祝福したヒーナ様の扱いが、こんな結果になっちまったんだ。お祭り騒ぎした後ろめたさからか、誰もが同じように怒っていたよ。
私も、あの頃は仕事中にヒーナ様のことを考えて、よく泣いていたね。集中なんて、とてもじゃないが、できなかった」
セピイおばさんは、ため息をついた。
それから沈黙が数秒、続いた。
セピイおばさんが話し疲れているような。私から目をそらして、窓の方を見たり。
私も私で、話の続きが気になるけど、聞くのが怖い気もする。もっと酷い展開になるのかしら。でも、シャンジャビ家とヌビ家は戦争していないはずだし。
迷いながら私も、つい葡萄酒を催促してしまった。セピイおばさんは少なめに注いでくれて、自身にも同じくらいにしていた。「こんな調子じゃ、酔い潰れてしまうね」なんて言いながら。
それじゃ困るから、私は改めて、話の続きをお願いする。
「それで、その後、沙汰はあったんでしょ?」
「ああ。たしか一週間くらいかかったかねえ。王弟様の一人が乗り込んで来られた。
マムーシュの屋敷に一番近い教会の前に、両家の主だった者たちを召集なさったんだよ。要するに、ヒーナ様とマムーシュが式を挙げた教会さ。
招集された方々も、モラハルト様とビッサビア様、両家のご党首。それと、それぞれの幹部が数人ずつ。宮殿で集まった時より少し、人数が増えた感じだね。
王弟様のお達しは、こんなだった。
まずは、マムーシュの謹慎。しばらくは外出するな、と。
そして、シャンジャビ家からヌビ家への慰謝料の支払い。
合わせて、ヨランドラ各地に散らばるシャンジャビ家出身の役人たち、何人かの降格。替わりにヌビ家の者たちが登用される事になった」
「うーん。両家とも納得しないような。私も、だけど」
「もちろん、誰も納得なんかしてないさ。
ヌビ家としてはマムーシュに、もっと厳しい処分を望んでいたんだ。私だって判決を聞いた時は、悔しくてたまらなかったよ。
しかしシャンジャビ家の方でも、端から落ち度を認めていない。
王家の方々も、両家のそんな本音を見抜いておられただろうよ。だから王弟様たちがなさったのは、両家を説得するというよりも、我慢させるだけさ。痛み分けということでね。
それでも不平を言う者があれば、今度は、その者が王家に背いた事になる」
「いくら名家でも、そこまで事を荒立てたくはないだろうし」
「そういうこと。臣民は我慢するだけさ」
「おばさん、これが政治なんだね」
「そう。でもね、プルーデンス、間違えないでおくれ。これは、まだ良い方なんだよ。ヌビ家ほどの大貴族だから、これくらいで済んだ、とも言えるんだ。
これでヌビ家がもっと力の弱い貴族家だったら、と考えてごらん。ただ単に、泣き寝入りだよ。王家のお偉方なんかシャンジャビ家にばかり肩入れして、ヌビ家は相手にもされなかっただろう」
「わ、分かったわ。
でもヒーナ様の死因は、どうなったの。他殺にしても自殺にしても、シャンジャビ家のせいである事は、王弟様も認めてくださったんでしょ?」
「そりゃあ王弟様も、腹ん中じゃ分かりきっておられただろうが」
セピイおばさんは、またしても、ため息をはさんだ。
「認めてくださらなかったよ。強いて言うなら、神様の思し召しだそうだ。連れてきた司教や修道院長に、そう言わせていた」
「そんな」私は体から力が抜けていくような気がした。
「神様になすりつけたの?誤魔化しただけじゃない」
「ま、たしかにそうだね。逆に言えば、王弟様としては誤魔化してでも、早く幕引きしたかったわけさ」
説明してくれるおばさんには悪いけど、私は呆れて、ため息を止められなかった。
「おばさん。酷い言い方かもしれないけど、ヒーナ様は見殺しにされたも同然だと思う」
「ああ、その通りだよ。城主様ご夫妻も似たようなお気持ちだったろう、内心はね。しかし王家には逆らえない」
それを言われると私も、何も言えなくなってしまう。
そして二人して、また黙りこくった。私は話の方向を少し変えようと思った。
「スネーシカは、どうなったの?主人であるヒーナ様が亡くなって、ツッジャム城に戻してもらったんでしょ?」
セピイおばさんは顔をしかめて、横に振った。
「戻してもらえなかった。私もスネーシカ姉さんの行き先を知りたかったが、聞けなかった。アキーラにしろ、メロエにしろ、姉さん女中たちは、尋ねようとする私の気配を察知して、質問させてくれなかったんだよ。そういう空気を醸し出していた。私が無理して聞いても、答えないつもりだったんだろうね。当然、城主様ご夫妻にも、お聞きできなかった。
アキーラたちは、スネーシカ姉さんの話を滅多にしなかったし、しても私が居合わせない時だけ。だから私としては物陰から、わずかな噂話に聞き耳を立てるのが精一杯だった。
それで推測したよ。どうやらスネーシカ姉さんは、生まれ育った商家に戻ったらしい、と。それが限界だった」
うーん。私は唸ってしまった。ここへ来て、話がふん詰まってばかりだ。状況が全く好転しない。
ハッ。さては、ソレイトナックとのことも。
「おばさん。ソレイトナックのことも聞いていい?」
「あ、ああ。もちろんだよ。すっかり話してしまおう。
ソレイトナックはヒーナ様の葬儀でチラッと見かけただけで、それ以来、会えなかった。モラハルト様のお使いで、メレディーンや都アガスプスとの間を何回も往復している、とのことだった。
ああ、プルーデンス、分かっているよ。私も少し心配になったさ。避けられているんじゃないか、とね。
だが、私にできることなんて、たかが知れているじゃないか。また地下道だよ。周りの目に気をつけながら、例の、壁に溶けこんだ扉に近づいたんだ。たしか五、六回試しても応答無しで、その後に、やっとソレイトナックに出会えた。
彼は私に気づくと、慌てて地下道に入れてくれたよ。で、なかなか会えなかった事を詫びようとするんで、私はそれを止めた。それより、ゆっくり話せる所へ行きたかったんだ。そう。私から宿屋に誘ったのさ。
二人して、ほとんど駆け足で地下道をくぐり抜けて、城下町の宿屋にしけこんだ。並んでベッドに腰掛けると、ソレイトナックがそれまでの事情を説明しようとしたよ。
でも私は彼の口を塞いだ、自分の口でね。それから自分で服を脱いだ。
ソレイトナックは私を止めようとしたよ。『ちょっと待て』と。
だから私は聞いたんだ『なぜ。私たち、結婚するんでしょ』とね。結婚する前に、抱き合うくらい、いいじゃないかって意味さ。ああ、私の声は震えていたかもしれないね。
幸い、ソレイトナックは『もちろんだ』と言ってくれたよ。ただ『少し延期になったが』とか言い掛けたんで、私はもう一度、彼の口を塞いだ、同じやり方で。
後は、ご想像の通りだよ。説明を聞くより先に、おねだりしたわけさ。抱き合いながら私は何度も、むせび泣いた。彼の口や手が私のあちこちに触れる度に、私は嬉し過ぎて、気が狂いそうだった。
いやらしい大叔母と笑っておくれ、プルーデンス。そして、真似してはいけない例として覚えておくんだよ」
「で、でも本当はソレイトナックの方から迫ってきたんじゃないの?おばさんは、それに応えてあげただけじゃ?」
「・・・そんなんじゃないさ。嫌々ながら肌を許すくらいなら拒めばいい。少なくともソレイトナックは、無理強いするような男じゃなかったからね。私が言えば、ちゃんと聞いてくれた。
やっぱり私の方から、おねだりしたんだよ」
とセピイおばさんは言うけど。私には、おばさんの本音が別のところにあるように思えて、仕方がない。
だからと言って、続けて問い詰めるなんて、できないし。
「ソ、ソレイトナックから話は聞いたんだよね?」
「ああ。どうやら彼が私に満足してくれたらしいことが分かって、私も彼の胸にもたれて。今度こそ、彼の口を塞がずに聞かせてもらった。
ソレイトナックは言ったよ『城主様ご夫妻に、ヒーナ様との関係を告白した』と。後でどこからか漏れ伝わるよりは、自分から言った方がいい、と結論したそうだ。もちろん死を賜るのも覚悟の上で。
城主様ご夫妻は、しばらく黙っておられたそうだ。怒鳴りつけたり、殴りつけたり、は一切無し。睨みもしないで、ソレイトナックをじっと見ておられた、と。
やがて、お二人は顔を見合わせると、モラハルト様が口を開いた。お言葉は『追って、沙汰する』だった。宮殿での王陛下の対応を真似する形になった。
しかしモラハルト様は、王家の方々と違って、長くは悩まなかったよ。告白の翌日には、使者に手紙を持たせて、メレディーン城に向かわせたんだ。要するに、ヌビ家のご党首である、モラハルト様の兄君に、ソレイトナックの処分を委ねたのさ。
つまりモラハルト様もビッサビア様も、理解してくださっていたんだよ。ソレイトナックがヒーナ様を誘惑したわけじゃない、と。彼の人となりは、私より付き合いの長い、お二人の方がご存知だからね。それに、ソレイトナックの告白を聞けば、ヒーナ様のそれまでの行動にも納得がいっただろうよ。何で結婚に乗り気じゃなかったのか、とか。
しかし、だ。同時に、ヒーナ様がマムーシュを拒んだ要因はソレイトナックだった、との推測も充分に成り立つ。その意味では、全くお咎め無し、というわけにもいかなかったのさ。モラハルト様たちとしては、ご党首様に報告せざるを得なかった。何しろ、ヒーナ様とマムーシュの結婚は、ヌビ家とシャンジャビ家を結びつけるためのもの。ヌビ家全体のためだったんだからね。ヌビ家を代表するご党首様の意見を、聞かないわけにはいかないじゃないか。
というわけでメレディーンとツッジャム、二つの城の間を、手紙が何度か行き来した。そして、ご党首様とモラハルト様は決めなさったんだ。もう一つの支城、ロミルチに、ソレイトナックを転属させる、と」
「ロミルチ。地名としては時々、耳にするけど、詳しくは知らないな」
「仕方ないさ。ツッジャムからはメレディーンを通り抜けて、さらに向こうに行くことになるからね。メレディーンのほぼ両側に、ツッジャムとロミルチが在ると思えばいい。城や町の大きさも、ツッジャムと大体、同じくらいだそうだ。
ソレイトナックは言ってくれたよ、私の手を握りながら。しばらくしてロミルチでの生活に慣れたら、私を迎えに来る、と。そしてロミルチで一緒に暮らそう。もちろん、その前には、この村に来て、父さん母さんたちに挨拶する、とね。
先に『延期になった』と言ったのは、そういう意味さ」
そう、と私は小さく相槌を打った。それしかできなかった。
困った。やっぱり、ダメだった。ソレイトナックでも、ふん詰まってしまった。もう、話の続きを催促できない。ソレイトナックが約束を守らなかった事は分かりきっている。セピイおばさんは、今の今まで独身なのだから。
私はもう一度、盃に手を伸ばそうとして、失敗した。おばさんが先に取り上げたのだ。
「落ち着いて、プルーデンス。ちゃんと続きを話すよ。
ソレイトナック本人から話を聞いて、三日後くらいだったか。朝早く、ネマに起こされた。他の姉さん女中はみんな、まだ寝ているから、気づかれないようについて来て、と。
言われた通りにしたら、陽は、まだ顔を出していなかった。
ネマが私を連れて行ったのは、城門の一つでね。旅支度を済ませたソレイトナックが待っていた。いよいよ出発だよ。
見送りは少人数だったねえ。城主様ご夫妻にロンギノ様。それと、他の騎士様が、もう一人。マルフトさんも別れの挨拶をしていた。
時々見かける、彼の部下らしい若い男たちは、なぜか一人も来ていなかったねえ。
私は頼りない足取りで、城主様ご夫妻のそばに歩いて行った。そして『私もソレイトナックに同行させてください』なんて、思わず口走った。
『落ち着いて、セピイ。ソレイトナックは少し先に行って、準備をするだけよ』ビッサビア様が私の肩を撫でながら、おっしゃった。
ソレイトナックも私に駆け寄って、言った。
『今は、こらえてくれ、セピイ。二、三ヶ月だ。二、三ヶ月で手続きや引き継ぎなんかを片づけて、お前を迎えに来る。そうすれば、ロミルチで一緒に暮らせるんだ。ご党首様もお許しくださった』
でも私は泣いてしまったよ、彼の胸元に顔をこすりつけながら。
『待てない。私も行って、お手伝いしたい』
なんて駄々をこねたが、無駄だった。『手伝えるとかいう代物じゃない。俺が、やらなければならないんだ』とか言われてね。
ソレイトナックは泣いている私をそおっと引き離すと、サッと馬に跨った。で、城主様たちに言ったよ。『それでは、行ってまいります。お世話になりました』
『達者でな』とか、ロンギノ様たちが答えていた。
私は、また彼の方に、ふらふらと近づこうとしたが、マルフトさんに引き止められた。マルフトさんは私と目が合うと、黙って首を横に振った。
そして彼の馬が走り出したんだ。城門を飛び出して、朝靄の中に入っていった。
私も門の外に出て、霞んでいく彼の背中をいつまでも見ていたよ。城主様たちもしばらく見送っておられたが、やがて城内に入られた。私は彼が見えなくなっても、そこに突っ立っていた。
後で知ったんだが、マルフトさんやネマが何回か私に『そろそろ戻ろう』と促したらしい。私は全然、覚えていないんだよ。マルフトさんたちは仕方なく私を置いて、先に仕事に戻ったそうだ」
セピイおばさんは、そこで話を区切ると、閉じている窓の方を見た。窓の外で物音とかがしたわけじゃない。窓の向こう、ずっと遠くを意識しているのだ。ロミルチ城って、そっちの方向なんだろうか。
私は、ため息をこらえていた。もしかして、おばさんがソレイトナックを見たのは、それが最後だったりして。とは言え、これも口に出すわけにはいかないし。
迷い、黙っている私をよそに、セピイおばさんは真ん中の椅子を持ち上げて、ロウソクを確かめた。
「まあ、まだ余裕はありそうだが。あと一つ、手短に話して、今夜はお開きにしよう。どぎつい話だから、これまで以上に覚悟しとくれ」
分かった、と即答しかけた私だったが「どぎつい?」と聞いてしまった。
「ああ。私の人生の中で、一番どぎつい出来事だったかもしれない。だから早く片づけたいんだ。頼むよ、プルーデンス」
「はい」
私は改めて背筋を伸ばした。それしか、できなかった。
「ソレイトナックからは『手紙を送る』と事前に聞かされていたんだが。一月経っても、二月経っても音沙汰無しだった。
私は、みんなに聞いて回ったよ。ソレイトナックから手紙が届いていないか。何か伝言を頼まれていないか。ちょっとでも外出した騎士様や男連中には、もちろん、城主様ご夫妻や、たまにしか見かけないマルフトさんにまで。
あんまり聞きすぎたんで、アキーラたち、他の女中にも、私とソレイトナックの関係を感づかれたみたいだったね。それでも、気にしていられなかった。一刻も早く、ソレイトナックとの手紙のやり取りを実現したい。ソレイトナックの状況をつかみたい。私の頭ん中は、それだけだった。
しかし逆効果になりつつあった。はじめは優しく気づかってくださったビッサビア様も、だんだん私を煙たがるようになってね。私も失礼だとは薄々分かっていながら、しつこくお尋ねせずにはいられなかったんだよ。何しろ、一番頼りになるのは、ビッサビア様なんだから。
男連中なんか、私と目が合うと回れ右して、逃げようとするし。ロンギノ様くらいだよ、私を不憫だとか同情してくださったのは。
で、ある日、とうとう釘を刺された。またしてもネマさ。彼女は、城内の物陰に私を引っぱっていって、言ったんだ。
『焦らないで、セピイ。今は、こらえて。
それと、アキーラやメロエから何か言われても気にしないで』
それでやっと気がついたんだが、アキーラたちは私の事を笑っていたらしい。どうせソレイトナックに捨てられたんだろう、とか陰で噂していたのさ。迂闊だったよ。ネマに教えられるまで、全く気づかなかった。
私は途方に暮れたね。焦るな、とか言われても、どうしたらいいのか分からなかった」
セピイおばさんは、おそらく当時も、そうしたのだろう。ため息をついた。もう、ため息ばかりだ。
私は私で、こんなことを考えていた。『今は、こらえて』なんてネマも、ソレイトナックと同じじゃん。そして、これも言わないでおく。
替わりに質問した。
「おばさんからもソレイトナックに手紙を出したりしたの?」
「出したよ。モラハルト様が段取りしてくださった。当時のロミルチ城の城主様は、モラハルト様のすぐ上の兄君でね。モラハルト様自身がその兄君と、よく手紙のやり取りをしておられたんだ。長兄である、ご党首様に対するのと同じくらいに。それでモラハルト様が私に声をかけてくださった。お前の手紙も一緒に送ろう、と。
ロミルチ城まで実際に走ったのは、ソレイトナックの元部下だった、若い男連中が多かったような。しかし誰であれ、なかなか良い報告を持ち帰って来なかったよ。ソレイトナックは、たしかに受け取ってくれたが、忙しいから、返事はまた今度になる、とか。保留されてばっかりだった」
うーん。私は唸ってしまった。
「それじゃ、焦るなって言われても無理だわ」
「だから毎日、気が気じゃなかった。
そのくせ、待ってもいなかった情報なんかを耳にしたりしてね。何って、マムーシュの噂だよ。ちゃんと謹慎しないで、酒場や娼館の多い通りを夜な夜な、ほっつき歩いている、とか。逆に、屋敷から出ないが、若い娘を呼び寄せて帰さない、とか。聞くに堪えない内容ばかりだった。
それら噂がツッジャムの城下町みたいにヌビ家の領内から広まったんだったら、領民たちが感情的に噂しているだけ、と言えなくもないだろう。しかし、私に教えてくれた商人は言ったんだ。ヌビ家でもシャンジャビ家でもない、別の貴族の領地で噂を聞いた、と」
「少なくとも反省はしてないわね」
「ああ、そうとしか思えなかった。
それが悔しいのと、ソレイトナックから連絡が無い事が重なって、私は、まともじゃなかったんだろうね。あの頃は、少しでも時間が空くと、一人で塔に登って、しくしく泣いていたもんだ。他の女中たちや兵士なんかと世間話を楽しむなんて、考えもつかなかった。
そのうちに、もっと悪い噂が入ってきたよ。まるで私に追い討ちをかけるみたいにね。ソレイトナックがロミルチで再婚した、と。
噂の出所はアキーラとか、他の女中たちだった。私には彼女たちを問い詰める勇気が無かった。しても、はぐらかされる、としか思えなかった」
「私も、おばさんの判断が妥当だと思う」
「ああ、あんたもそう思うかい。じゃあ、やっぱり、こらえるしかなかったか。
そんなこんなで、私の心は日に日に酷くなっていった。みんなの食事の下拵えとか、針仕事とか、ちゃんと仕事があっても、全然手につかなくて。
気がついたら、私は勝手にその場を抜け出して、塔の上で泣いていた。ますます塔に入り浸ったのさ。後で知ったんだが『塔の上のセピイ』なんて、あだ名をつけられていたらしい。
しかも塔に行くまでに、城内の通路をどう通ったのか、誰とすれ違ったのか、ほとんど覚えていない」
「し、叱られなかったの?」
私は、ちょっと声が裏返った。
「それだよ。やっぱり気になるか。不思議なことに、その覚えもなくて。黙って抜け出して、他の姉さんたちが怒らないはずがないんだがねえ。
もうネマも、忠告してくるどころか、また見かけなくなったし。
セピイおばさんは言いながら、首をかしげた。ほ、本気で不思議がっている。
逆に、私は推測できていた。簡単に。その時のツッジャム城の人たちは腫れ物に触るように、セピイおばさんに接していたんだわ。叱るどころか遠巻きにして見ていた。そうとしか思えない。
まさかセピイおばさんほどの人が、まだ、そのことに気づかないなんて。
「それで気がついたんだよ」
自分の推測に気を取られていた私は、おばさんの一言に、飛び上がりそうになった。
「女中たちの中で、自分が浮いている、孤立している事にね」
ああ、そういうことか。私は少し安堵した。安堵するような内容じゃないのだが。
「今さらアキーラたちと仲良くする自信も意欲も無かった。だから、つくづく思ったよ。こんな時にベイジやスネーシカ姉さんが居てくれたら、とね。もちろん、私の勝手なわがままさ。
今だったら、仕事に没頭して気を紛らわせるとか、ヴィクトルカ姉さんに手紙を出すとか、するんだがねえ。あの頃は、少しも気が回らなかった」
セピイおばさんは、そこで一度、重いため息をついた。かと思えば、私から一瞬、目をそらし、それから私をひたと見つめ直した。
「そんな時に、あの方が来られた。モラハルト様が。
あれは夕暮れ近くだったか。曇り空で、朱に染まるというよりは、ねずみ色でね。城下の街並みが、どんより薄暗く見えた。
私がぼーっとしていると、モラハルト様が上がって来られた。私は、お叱りを受けると思って、慌てて頭を下げて謝りまくったよ。しかしモラハルト様は、私を叱るどころか、呑気に笑うだけ。『わしも、ちぃと抜け出して来たわ』とか、頭をかいておられた。
その頃のモラハルト様は、悩ましい案件が山積みだったそうだ。付近の司教や修道院長を交えた会議とか、メレディーンのご党首様に提出する報告書とか、領民同士の裁判沙汰にどう判決してやるか、とかね。
モラハルト様の愚痴が少々続いたが、私は、まともな受け答えができなかった。私なんかからすれば、どれも雲の上の話だよ。『お役に立てなくて、申し訳ありません』と頭を下げるのが、やっとだった。
そしたらモラハルト様は、ガハハと笑って『今こうして愚痴を聞いてくれておるではないか』なんて、私の背を軽く叩きなさった。
かと思えば、真面目なお顔に戻って『こちらからも謝ることがあるぞ』とか、おっしゃった。
『奴の噂を聞いたであろう。まだ確認中の点も多いが、どうやらロミルチの兄者に、気に入られたらしい。つくづくモテる男よなあ、ソレイトナックは。女からだけでなく、男からも好かれるとは。ロミルチの兄者は、我が兄弟の中でも気難しい方なんだぞ。
その兄者が手紙で言い訳するには、ロミルチの近郊に小貴族の娘がおってな。ソレイトナックを見て、兄者は思いついたのだ。その娘の婿にちょうどいい、と。わしが、かつてヴィクトルカの縁談を段取りしたように、兄者も世話を焼きたくなったわけよ。
もちろんソレイトナックには、そなたという婚約者がおる。それで先週、メレディーンに行った折に、ちょうどロミルチの兄者と鉢合わせになったので、言ってやったわ。勝手なことをしてくれるな、と。
したが、兄者は意固地になって、非を認めようとせぬ。おかげで、未だに喧嘩中よ。
ほれ、そなたもソレイトナックから手紙をもらえんだろう。兄者が邪魔しておるのだ。
済まんのう。昔から面倒くさい男だったわ、兄者は』
とまあ、モラハルト様は、ため息混じりに説明してくださったよ。
私は、またしても、しくしく泣けてきて、何と言葉を返したらいいのか分からなかった」
「おばさん、ちょっと待って」私は例によって、口をはさむ。
「ロミルチの城主様はソレイトナックに、おばさんという婚約者がいる事を、とっくに知っていたはずよ。モラハルト様との事前のやり取りとか、着任したソレイトナック本人の報告とかで。
だからロミルチの城主様は、分かっていて、わざと、その娘とソレイトナックの縁談をまとめようとしたんだわ。その娘が貴族だから、平民のおばさんには我慢させればいいと決めつけて。そうとしか思えない」
「まあ、そんなところだろうね」
「そもそもモラハルト様も、頼りないと言うか、もうちょっと頑張ってほしかったなあ」
「そう簡単に言うもんじゃないよ。ご兄弟と仲違いしてまで、粘ってくださったんだから。
それに私がモラハルト様をなじるなんて、許されないよ」
セピイおばさんは、また私から目をそらした。ん?もしかして。
セピイおばさんは私に目を戻して、続けた。
「私は、ただ泣いた。声も無く、涙を垂れ流した。もう一度言うが、モラハルト様をなじるなんて考えもつかない。そんな気力も無いよ。
それより思った。もしかしたらロミルチの城主様は、ソレイトナックを離してくださらないのでは、と。私も、あんたと同じ推測をしたのさ。
そしたらモラハルト様は、今度は私の背を叩くんじゃなくて、撫でさすりなさった。『済まんなあ、わしの兄者が意固地なばっかりに』とか、おっしゃりながら、何回も。
私はそれで、やっぱりダメなんだ、と思ったよ。これは、モラハルト様もダメだろうと思ってのお言葉なんだ。諦めてくれ、と暗に示しておられる。つまりは、察するべき時。そう解釈せざるを得なかった。
心の中でそんな結論に達したから、私は、そのまま涙が止まらなくなった。
モラハルト様は私を慰めるつもりか、話をこんなふうに続けなさった。
『そんなに奴に惚れておったか。奴も罪な男よなあ。同じ男として妬ましいわい。
しかし、そなたにも、腑に落ちぬところがあるぞ。我が娘ヒーナに、一度ソレイトナックを譲ったそうではないか』
私は、それについてもモラハルト様に謝ったよ。何しろ結婚前のヒーナ様を、花婿以外の男に引き合わせたんだからね。
しかしモラハルト様は、私を咎めたいわけじゃなかった。分からない、とおっしゃるんだ。好きな相手を他人に譲る、という行為が。モラハルト様は続けて、おっしゃった。いくら本人が望んだり、友情のためだったりしても、自分は妻を譲りたくない、譲れない、とね。
それで、私はソレイトナックにした告白を、モラハルト様にもお話ししたよ。本当は自分も辛かったが、ヒーナ様のためと思って、こらえるしかなかった、とね。
するとモラハルト様は、おっしゃった。
『よくぞ、こらえてくれたなあ。おかげでヒーナは、自分が選んだ男との時間を持つことができた』
言われた私は、ますます泣けてきたよ。
モラハルト様は、また私の背をさすりながら、続けなさった。
『そんな時があっただけでも、ヒーナにとって救いになる。望ましい結果にはならなかったが、それが、せめてもの救いだ』
それから話は、望ましくない結果の元になったマムーシュにも及んだ。もちろんモラハルト様はマムーシュを恨んでおられたよ。激しく憎んで、怒りに打ち震えておられた。ロンギノ様が討ち入りを申し出てくれた時は、本当は嬉しかったらしくてね。シャンジャビ家との衝突は避けなければならないことは分かりきっていたけど、やはり嬉しかった、と」
「騎士様と同じで、やっぱり怒っていないはずはないか。私も、ようやく納得がいったわ」
と、私も言ってしまった。少し安心できた。
しかし話だとモラハルト様は、やたらセピイおばさんに触っているような。
「ところが、だよ」
続けておきながら、セピイおばさんの目が泳いだ。私を見たり、見なかったり。
ちょっと待って、ちょっと待って、ちょっと待って。頭の中では、そんな言葉が駆け回ったが、声にはならなかった。
「その後で、あの方は妙なことを言い出した。
『腹は立つ。が、全く分からぬでもない』なんてね。
私は聞き間違いかと思って、モラハルト様を凝視したよ。
しかし聞き間違いじゃなかった。モラハルト様は、よりはっきりと言い直したんだ。『マムーシュにも、その気持ちが分かる部分が少々ある』と」
「えっ、えっ。な、何言ってるの、おばさん。モラハルト様にとって、マムーシュは娘の仇じゃない?その仇の肩を持つの?」
私は、自分の声が大きくならないよう気をつけるのに、少し苦労した。
「私も、そうお尋ねしたかったよ。でも実際には、驚きのあまり、言葉にならなかったが。
一体マムーシュのどこを理解するのかと思ったら、あの方の言い分は、こうだ。
『妻から拒まれている点では、わしと同じだ』と。
モラハルト様は奥方であるビッサビア様を、もう何年も抱いていなかったそうだ。
私も慌てて話を止めようとしたんだよ。私なんかが聞くべきではない、と断ってね。
そしたらモラハルト様は『むしろ気にせず、聞いてくれ』と来た。
で、そのまま一方的に話すんだ、ビッサビア様に対する愚痴を。なんでもビッサビア様は、お世継ぎやヒーナ様を産んだ後、夫であるモラハルト様に体を触らせなかったそうだ。文字通り指一本、触れさせない。モラハルト様の方から手を伸ばそうとすれば、乱暴に払い除けた。『汚らわしい』なんて罵りながらね。
『さびしいもんだぞぉ』と、あの方は、おっしゃった。
『我が奥は、見事な女だろう。息子もメレディーンの兄者の元で修行させ、娘も嫁がせるまでになっても、まだ、あの体つきだ。今でも無性に抱きつきたくなるわい。そして、いつも、きつく叱られる。
ほれ、そなたは奥から何回も抱きしめてもらっていたではないか。奥は、そなたをかわいがっておるからのう。わしは羨ましかったのだぞ。ヒーナが産まれて以来、もう十何年も、あんなことをしてくれん』
なんて、すねた子供みたいな顔でおっしゃるんだ。
で、その流れでマムーシュを弁護なさるんだよ。
『あ奴の顔が浮かぶ度に、いつか思い知らせてやらねば、という気になる。
しかし時々、思うのだ。ヒーナも拒みすぎたのではないか、と。もう少し、やんわりと拒むとか、何回かに一度は相手してやるとか。やり方は幾らでもあったろう。違う接し方をしていれば、あ奴からの暴力も、そこまで酷くはなかったのではないか、とな。
そして、これが一番思うのだが。やはりヒーナは我が奥の娘なのだ。母親と同じことを、自分の夫にしたわけよ。
だが、あの若造は、わしと違って、辛抱が足らんかった』
そんな説明の間、あの方の手は、いつの間にか私の肩を掴んでいた。背をさすっていた手が、そこに移っていたのさ。
あの方とのあまりの近さに、私は体が硬くなったよ。気がついたら、涙も止まっていたし。
あの方は、遠くを見ながら、続けた。
『男とは、さびしいものだなあ、セピイよ。女無しでは、生きられん。女の肌が、乳が、恋しゅうて恋しゅうて、たまらんのだ。つまり男とは、いつまでも乳離れができん子供よ。
これは間違いないぞ。経験者である、わしが言うのだからな』
あの方は、またガハハと笑ったが、こっちは笑えたもんじゃない。強張ったままだ。
そして、ついに来たんだ。あの方は私に目を戻して、と言うより顔を覗き込むように近づけてきて、言った。
『というわけで、セピイよ。抱かせてくれんかな、そなたの体を。
ソレイトナックのことは、もう良いではないか。そなたたちも逢引きをしたり、充分、楽しめたはずだぞ。
それに、そなたは一度、奴をヒーナに譲ってやったのだ。奴に対する気持ちも、その程度であったのだろう。ならば今度は、ロミルチの兄者に奴を譲ってやってくれ。
そして我らは我らで楽しもうぞ。
それとも、奴のように色男でなければ嫌か?なるほど見た目では、さすがに奴には敵わん。わしは、この通り、中年だからの。だが、あの程度の色男なら、意外と居るもんだぞ。都だとかメレディーンでも、よく街中を歩いておる。
それに、色男が床上手とは限らんのだ。若いもんは確実に経験が足りんからなあ。
だからセピイよ。わしは約束するぞ。そなたを喜ばせてやろう。ソレイトナックよりも、ニッジ・リオールよりも、はるかに、な』
話の間に、あの方の手は、私の肩からスルッと下がって、私の尻を掴んだ。痛くはないのだが、尻の片方を鷲掴みにして、もみ始めた。
私は、歯がカチカチ鳴ってしまったよ。両腕で胸元をかばうのが、やっとだった」
「お、おばさん」
私は思わず、声を大きくしてしまった。
「落ち着いて聞いておくれ、プルーデンス。
あの方のもう一方の手も伸びてきて、私を捕まえようとした。私は必死の思いで、身をよじって、あの方から離れた。
と言っても、狭い塔の上だ。大して距離は取れない。それどころか階段入り口と私の間に、あの方が立ち挟まる位置になった。
私は声も出ないし、足も震えていた。それでも何とか護身用の小さいナイフを持っていた事を思い出して、懐から急いで取り出したよ。マルフトさんから、普段も持ち歩くように勧められていたんだ。
しかし、あの方は、そんな私の行動をぼんやりと眺めていた。すぐに私を取り押さえようとしない。ありがたくはあるんだが、怖くもあった。要するに、あの方は余裕綽々だったわけだからね。
私自身、あの方に敵うとは思えなかった。実際に、騎士様たちや兵士たちを引き連れて、戦場を駆け巡った方だ。小さいナイフなんか、簡単に取り上げられてしまうだろう。
そう思うと、歯の音も震えもおさまらない。むしろ、ひどくなった。
私は、やっとのことで声を絞り出した。
『お、おやめください。私は城主様を、ち、父のように、思っておりました。こんなこと、するべきではないです』
つっかえながらも何とか言い切ったと思ったら、涙がダラダラこぼれた。
あの方は口を尖らせ、歪ませて、また、すねた顔になった。
『何だ。どうしてもダメか。アキーラやメロエたちは、少しも嫌がらずに相手してくれたのに、のう。そなたも、ちょっと試してみんか。何度も言うが、わしの方がソレイトナックたちよりも、はるかに、そなたを気持ちよくしてやれるぞ』
なんて言われても、私は必死で顔を横に振った。無我夢中で、嫌々をしたんだよ。『おやめください』とか繰り返しながら。
あの方は一度、泣きそうな顔で口が開いたままになった。が、やがて、こう言った。
『そうか。正直、夜まで待てんので、今すぐ、ここで、そなたが欲しいくらいなのだが。
仕方ない。ほれ、声を上げて、助けを呼ぶがよい』
これを聞いて、私も話がへんな方向に流れ出したと思ったよ。
しかし確かめている暇はない。私は転げるようにして、胸壁の凹みにすがりつき、中庭に向かって声を出そうとした。
が、かすれるような声ばかりで、中庭に居合わせた兵士たち、姉さん女中たちには全然、届かない。届いたところで、彼らの立場で、城主である、あの方に逆らえるわけもない。
考えがそこまで至った途端、あの方が歩を進めたような気がして、私は悲鳴を上げた。
『何だ、ちゃんと声が出るではないか。その調子で、誰か人を呼べ。でなければ、そなたが同意してくれたものと見なして、わしはそなたをいただくぞ』なんて勝手な理屈を言い出した。
私は、また『おやめください』と繰り返したよ」
「な、何それ。もう、おばさんを怖がらせて楽しんでいるじゃない」私も、もう声を抑える気にならなかった。
「ああ、明らかに私を弄んでいたね、あの人は。まるで自分より小さい生き物を痛ぶって楽しむ、獣みたいだったよ。
私はもう一度、胸壁の凹みから下を見た。そして、今度こそ『助けて』と叫んだよ。
しかし中庭に居た兵士や姉さん女中は、私と目を合わせたものの、こちらに向かって来ない。呆然と突っ立ったままだ。よく見ると、彼らの視線は、私の少し後ろ辺りに飛んでいる。それをたどって振り返ると、あの人がすぐそばに立っているじゃないか。
ああ、やっぱり、この城では城主様には逆らえないんだ。だから誰も助けに来てくれないんだ。そう思って、私は泣き叫んだよ。
そしたら、だ。あの人は何と、奥方様を呼ぼうと言い出した。
『慌てるな、セピイ。ほれ、あそこに我が奥が見えているではないか。奥を呼べ。奥なら、わしに遠慮せんからのう』
たしかに向かい側の塔の窓に、ビッサビア様のお姿が見えた。私は必死で、ビッサビア様に呼びかけたよ。
呆れたことに、あの人も、床に転がっていた小石を拾い上げて、ビッサビア様の窓に向かって投げるまでした。
ビッサビア様は私とあの人を見ると、血相を変えて、窓の中から居なくなった。
私は、もしかして奥方様まで私を見捨てたんじゃないか、と不安になった。しかし、あの人自身は、こう言ったんだ。
『さて、我が奥が、ここに来るまでは少々、時間がかかろう。せめて、その間くらいは触らせてもらおうか。乳房は、どれほどの膨らみになったのやら。それと、尻の方も。ソレイトナックもリオールも、そなたに夢中になったくらいだからのう』
で、両手を伸ばして、ゆっくり近づいてくるんだ。
私は階段入り口の方に行きたいんだが、あの人がそうさせるわけがない。狭い塔の上で私はすぐに、あの人に捕まってしまった。持っていたナイフも、はたき落とされたよ。
私は『離して』と叫びまくった。身をよじって、あの人の腕から逃れようと、もがいたんだ。そして泣きながら心の中では、一刻も早く奥方様が現れることを願った。
それなのに、あの人ときたら、へらへら笑ってねえ。
『こうして嫌がられるのも、それはそれで興奮するわい』
なんて言いながら、私の服の中に手を突っ込もうとする。私は、その手を押さえるのに必死だった。
しかし力で敵うわけがない。あの人の指が私の股に食い込みそうになって、私は一瞬、絶望してしまった」
「おばさん」私は、もう体が震えていた。
「安心おし、プルーデンス。
その時さ。ビッサビア様が、階段入り口から飛び出して来られたのは。まさに間一髪。ビッサビア様は、ほとんど体当たりして、私とあの人の間に割って入ってくださった。
『やめなさいっ』
ビッサビア様のお叱りが雷のように響いて、あの人の口が、またしても歪んだ。
『やれ、もう少しだったんだが。
セピイよ。そなたも、すっかりいい女になったなあ。できれば味見したかった』
『あなたっ。ふざけるのも、いい加減にしなさいっ』
ビッサビア様はご自分の旦那さんを、鬼の形相で睨みつけて、私を抱きしめてくださった。
私は、わんわん泣いた。ビッサビア様の腕の中で泣きながら、ビッサビア様にしがみついた。少しでも離れたら、また、あの人に捕まって、今度こそ犯されると思ってね。
それから次に気がついた時には、ビッサビア様の書斎に居た。多分ビッサビア様や他の姉さん女中たちに、引きずられるようにして塔の上から降ろされたんだろうけど、そこも、ほとんど覚えていない。あの方だけ、塔の上に残ったのか。夫婦で、どんなことを話し合ったのか。そばで私も見ていたはずなのに、覚えがないんだよ。
それより私は書斎の真ん中に、泣きながら立っていて、ビッサビア様の背中を見ていた。ビッサビア様は机に向かって、何か一心不乱に羽筆を動かしておられてね。
私はビッサビア様が何をなさっているのか、見当もつかなかった。
やがて『できたわ』と、おっしゃって、ビッサビア様は立ち上がった。そして私の手を掴んで、書斎を出た。
ビッサビア様は私が泣いているのもお構いなしに、城内の通路をぐいぐい引っぱっていったよ。
どこへ行くのかと思えば、厩さ。ちょうどマルフトさんが馬車を誘導して、荷下ろしを兵士たちに手伝ってもらっていた。
ビッサビア様は、その兵士たちに怒鳴りつけたんだ。
『もっと早く降ろして、今すぐ馬車を空にしてっ。丁寧に積まなくていいから、放り出しなさい』
ビッサビア様の剣幕に驚いて、兵士たちは急いでご命令を実行したよ。
で、馬車が空っぽになったのを確認するや、ビッサビア様はその中に私を押し込んだ。私の胸元に、封蝋した書簡を押しつけてね。
ビッサビア様は早口で、おっしゃった。
『セピイ。あなたは今からメレディーンに行きなさい。紹介状を書きました。それをヌビ家のご党首様にお渡しすれば、分かっていただけますからね』
私はビッサビア様にお礼を申し上げようとしたが、ビッサビア様はそれも聞かずに扉を閉めなさった。外でマルフトさんに、急いでメレディーンに行くよう、言いつけている声が聞こえたよ。
途端に、馬車が動き出した。
私は慌てて馬車の窓を開けて、今度こそビッサビア様にお礼を申し上げた。
ビッサビア様は、ほとんど叫ばんばかりに答えてくださった。
『礼はいいから、紹介状をご党首にしっかり届けなさい。絶対ですよ』
馬車は城門を抜けて、通りに出た。
外は、もう暗くなり出していたねえ。
どんどん速度が上がっていく馬車の中で、改めて筒状の書簡を見つめた。開かないように付けられた封蝋は、ツッジャム城の紋章じゃなかった。
当時のツッジャム城の紋章は、ヌビ家のヒュドラと、ビッサビア様の生家であるマーチリンド家の頭の大きな蛇が、左右半分ずつ載っているはずだった。それがあの人の、モラハルトの紋章を兼ねてもいたんだ。
しかし封蝋には、頭の大きな蛇だけ。マーチリンド家の蛇しか居なかった」
ツッジャム城の紋章
セピイおばさんは、そこまで話すと、大きなため息をついて椅子の背にもたれた。おばさんの体が椅子に沈み込んだように見えなくもなかった。
そして、おばさんは、また葡萄酒を注いで、あおった。
「今度もまた長引いちまったねえ。早く片付けたい、と自分で言ったのに。でも、何で私が早く片付けたがったか、これで分かったろう」
「うん。ごめんね、嫌な事を思い出させて」
「謝ることはないよ。それより、男どもが、いかに油断ならないか。この話で、よっく覚えて、気をつけておくれ。そのための話なんだから」
「分かったわ。ありがとう、おばさん」
「よおし、ついでに、あんたにこれを渡しておこう」
セピイおばさんは、また葡萄酒の皮袋がある暗がりに手を伸ばしたように見えた。が、違った。暗がりから取り出してきたのは、小型のナイフだった。
「おばさん、もしかして」
「ああ。後でマルフトさんがメレディーンまで届けてくれたのさ。
これからは、あんたが持っていなさい。私はもう、おばあちゃんで、あんたの方が、残りの人生がはるかに長いんだからね。
私は上手く使いこなせたとは言えないが、あんたなら私より上手くやれるさ」
受け取った私は、鞘から少し刃を出して覗いた。そして、すぐに戻して、胸元に当てた。
「わ、分かったわ。大事に使います」
「よっし、では今夜はこれくらいにして、メレディーンでの話は明日にしよう」
セピイおばさんは私たちの間にある椅子を取り除けて、ロウソクの皿を持ち上げた。
「おばさん、寝る前に、あと一つだけ教えて。
ビッサビア様の生家マーチリンドの紋章が頭の大きな蛇って、何なの。そんな蛇、聞いた事もないわ」
マーチリンド家の紋章 コブラ
「ああ、あれかい。あれは今でも、そう見かけるもんじゃないからねえ。
頭と言うか、他の動物では胸に当たる部分が丸いヒレみたいに広がっているんだよ。遠い異教徒たちの国に居るらしい。しかも、けっこうキツい毒を持っていて、向こうでも恐れられているんだとさ。
マーチリンド家や上級貴族は、この蛇のことを書物なんかで知っていたが、実物は見た事が無かった。伝説上の生き物だろうと思って、マーチリンド家が紋章に採用したそうだ。
マーチリンド家は人数こそ多くないが、戴冠式とか王家の行事の采配を任される、由緒ある名家だ。伝説とか異国の事情にも詳しかったんだろう。
で、この頭でっかちの蛇、コブラとか言うんだが、最近ではごくたまに、このタリンでも出回るようになったんだよ。ラカンシアの背神王が異教徒の貿易商に持ってこさせたんでね。
って、また長くなっているね。
こんな片田舎じゃ、まず見かけないから安心おし」
セピイおばさんは、私にロウソクの皿を持たせて、送り出した。
本当は、他にもたくさん質問があるけど、ここは我慢だ。
月は、まだ白く輝いている。月明かりは充分にある。おばさんにロウソクを返そうか。
一度、振り返って扉を見たが、おばさんがまだ居るはずの離れからは、全く物音が聞こえなくなった。
私は部屋に戻った。
(第八話に続く)