自己と皮膚〜ずっと真夜中でいいのに。『沈香学』最高(再考)文 (original) (raw)

「ずっと真夜中でいいのに。の音楽世界は、ここから我々の想像を超える速さで広がっていくはず。決して大げさではなく、2020年代の音楽シーンを担うポテンシャルを持っていることはまちがいないだろう。」

上記は2019年のずっと真夜中でいいのに。初有観客ライブ後のReal Sound記事(執筆・森朋之氏)からの引用である。そのライブ直後にコロナ渦を迎えて5年が経った現在、ずとまよの存在感は氏の予言通り唯一無二のものとなった。なかなか止まないコロナ渦中に花開き、世界中を包みこむ渾沌とともに歩み続けてきたずとまよは、その唯一無二の存在感を着実に際立たせていった。

そして昨年(2023年6月7日)にリリースされた3rdアルバム『沈香学(じんこうがく)』は、繊細かつ婉曲、成熟とエモーショナルの極北を二律背反的に踏破したような集大成的作品であると同時に、ずとまよの新たな扉を開いた大傑作となった。本稿では『沈香学』考察を通じて、ずっと真夜中でいいのに。の現在地、これからについて考察してみたい。

1.『沈香学』の凄さとは?

『沈香学』において、ACAね氏は絶妙なニュアンスとセクシュアリティ、エモーションをミリ単位でコントロールしているかのように「ポップで、ハードで、性的な」楽曲を惜しみなく披露している。ここでの「性的」とは、存在の有り様――「現実界の或る季節における自己意識の正確な描写」であると同時に、いっそうの実在感・肉体性を伴っていることを意味する(それは本作における「ビート」「音響」の強化とも密接に関連しているだろう)。本作の楽曲は、或る時代を、或る精神を余すところなく鳴らしている。さらに烈しい感傷性といっそう縦横無尽、諧謔に富んだ詩世界は、全曲目を見張るほど素晴らしい。

幾何学模様を 辿って歩く
同じ所で たどり着いた
余った袖を 引き止めてる
君といる今日が ずっと奇跡みたいで 叫んだ (袖のキルト)

「ずとまよ」とは、「陰(かげ)」をデフォとして生きていることを自覚している孤独者が生み出す苛烈な音楽であり、精緻な自己省察である。デビューアルバム「正しい偽りからの起床」以来、筆者はそのように感じてきた。ずとまよは泣きたくなるような儚さと同時に、「きっとそこになけりゃないよ」(「Blues in the Closet」)と無表情に言い放つような、ミもフタもない現実認識を有しているのではないか。でも、諦めながらも首を縦には振らない。そこにちゃちな幻想はない。希望もあまりなさそうだ。しかし、共感を煽らない共鳴性はおおいにあるように思う。

冒頭に記したように、ずとまよは2019年のデビューからこの5年において、世代、ジャンル問わず、多くの聴き手に共有される巨大なポピュラリティを獲得した。YouTubeで仲睦まじそうな姉妹がカラオケで「あいつら全員同窓会」後半のアカペラを歌い上げるのを見たり、酔っぱらった知人が「袖のキルト」をかすれた声で歌唱するのを耳にするたびに、奇妙な感覚に陥る。雑然としたオフィスで、深夜のファミレスで、学生が殴り書きしたノートの中で、不衛生なネットカフェで、公園で電子タバコを喫う中年男性のイヤフォンの中で、ビデオゲームの中で、SNSの中で、ずとまよが作り出したその音楽と空気が、世代も時空も超えて共有されてきたことに思いを馳せないわけにはいかない。そんな「ずとまよ通奏低音」がこの世界に少しずつ、しかし確実に広がっていくのを、我々音楽ファンはとくに肌身に感じてきたはずだ。

今日に至るまでのこの5年はずとまよの声が現世界に浸透していく期間だったと言えるだろう。その声は悲鳴を上げている。ふてくさている。自己憐憫している。怒っている。跳ねている。喜んでいる。脅している。焦っている。確かめている。許している。戦っている。脅えている。なだめすかしている。願っている。信じている。そこに作り手でありフロントマンであるACAね氏のパーソナリティは一切関係ない、とは思わない。だが本作『沈香学』において、ACAね氏のビルドアップした歌唱は、これまでの2枚のアルバムとは異なる位相で鳴っているように聴こえる。その声は、あたかも世界中の自意識が自然に集結したような普遍性を纏っている。ずとまよは空気のようにあらゆる場所に行き渡り、聴き手の内に侵入し、新しい(しかし見えずとも静かに育っていた)風景や口調、感覚をこの世界に現出させた。ずとまよは外殻を規定、固定しない。その1曲1曲には「固い魂」が吹き込まれているかのようだ。でもそれはふとした拍子に消えてしまいそうな儚さも併せ持っている。排気口にそろそろと流れていく煙のように。

2.自己と皮膚

サードアルバムで、のっけから自らの名前を冒頭から歌い上げたミュージシャンがかつて存在しただろうか? 筆者は寡聞にして知らない。「ずっと真夜中でいいのにって溢した午前5時。」ACAね氏がこのフレーズを実際に舌に乗せるまで、どんな道程があったのかを我々は知り得ない(「ずっと真夜中でいいのに。」というフレーズが、デビュー前に「暗く黒く」の原形となった曲で歌われていたという説をファンの記事で読んだことがあるが、真偽は不明である)。しかし『沈香学』が新たなフェイズに辿り着いた作品であること、そして「ずとまよとは何か?」という度々繰り返されて来た疑問への答えは、本作の強烈な冒頭曲「花一匁」で完璧に、鮮やかに開陳されているように思う。

笑われたって凹むけど 媚び売れないけど 特別な未来を 期待はしない死(花一匁)

流麗なストリングス、ダンサブルなリズムに乗って厚いファンファーレを鳴り響かせる「花一匁」で歌われるのは(その祝祭的な曲調とは裏腹に)ずっと真夜中でいいのに。という存在。そこに重なる自己・重ならない自己に対する不信と苛立ち、ある種の開き直りのようにも聴こえる。しかし2曲目「残機」以降、ACAね氏は自己という存在を、あたかも交換・着脱可能な皮膚であるかのように、パラフレーズするように歌う。

思い出せる 僕を着ると(袖のキルト)

慣れない皮膚で叫ぶ(不法侵入)

それはわたしじゃない(ばかじゃないのに)

ただ僕に合う長所 選んでいいかな(猫リセット)

『沈香学』において、「自己と皮膚」は過去作以上に大きな主題となっているように思う。現実への疑問と倦怠感はより強まっている。さらには現状に慣れていく自分自身への不信、強者になること、ルーティンへの懸念。『潜潜話』『ぐされ』に収録された多くの曲のようなナイーブさ、弱者の視点、淡い期待といった初々しいエモーションは本作では前景化してこない。『沈香学』では、感情の行き場の喪失を自覚した者の呟き、決別、苛立ち、中間地点の不安、諦念といった、過去作以上に複雑で、簡単には推し量れないような自意識がこれまで以上に直截に(あるいは遠回しに)描かれているように感じられる。批評家、ミュージシャン、そして我々音楽ファンたちによってその魅力と革新性をたっぷり語られてきた『沈香学』が、過去作同様に多くの音楽を咀嚼していることは間違いないだろう。
しかし結果立ち上がるのはきわめてドメスティックで、オリジナルで、バラエティに富んだ「ずとまよ」としか言い様のない音楽であり(ただし、そのドメスティック性は日本独自のカルチャーとアトモスフィアを最大限に咀嚼・吸収することによって、グローバルな普遍性を内包したとも感じられる)、音楽面でのクオリティが過去作と比較しても驚異的なほど完成された音世界となっていることは本作を一聴すれば明らかだ。数多の引用元やリファレンスを持つずとまよだが、縦軸的な聴き方で他アーティストの比較や考察などすればするほど、『沈香学』の本質から遠ざかってしまうようにも思う。本作の音楽面における幅の広さ、そして一貫した音楽・映像的快楽性の両立は、ずとまよ公式YouTubeチャンネルで公開されたインストメドレー「ZUTOMAYO レア・グルーヴ集 (Rare Groove + Animation)」を聴けば10分間で了解されるはずだ(同時に、ACAね氏の歌と詩が入って初めてずっと真夜中でいいのに。の楽曲となることも痛感するのだが)。

また、『沈香学』に収められたタイアップ曲たちは、どの曲もその作品が内包しているテーマを理解・咀嚼しながら、いっそう大きなものを引き寄せていると感じる。たとえばアニメ『チェンソーマン』主題歌として書き下ろされた「残機」は、「ただ穏やかでいたい」「戦わないと撫でてもらえない」といった原作らしい歌詞を持ちながらも、その主題さえも自家薬籠中のものとし、「暴力性」と呼べるような破壊的な迫力を以て見事にずとまよの新機軸と相成った。出会いの瑞々しい感情、哀しみを睥睨し、出会いの喜びを高らかに歌い上げる『HOMESTAY』主題歌「袖のキルト」も『雨を告げる漂流団地』主題歌「消えてしまいそうです」も同様だ。前作『ぐされ』収録曲「正しくなれない」(『約束のネバーランド』主題歌)や「暗く黒く」(『さんかく窓の外側は夜』主題歌)同様、ずとまよのタイアップ曲は優れた映像作品と結びつくことで、いっそうの繊細さと強度、独自性を獲得しているように思えてならない。

3.「上辺の私自身なんだよ」が示す”ずとまよの主体”

リリース曲が新旧アニメーション作家たちによるPVとともに制作・配信されることは、『沈香学』においても徹底されていた(その一貫したリリース手法の結果、本作の発売時には「花一匁」「上辺の私自身なんだよ」以外の全曲が既発曲となった)。また新曲2曲が「残機」から「ミラーチューン」までの完璧にクオリティコントロールされた10曲を挟み込む構成となっていることは、このアルバムの構造における重要な指摘であるだろう。
ACAね氏の醒めた「やあ。」から始まる「残機」から、ギアが1曲ごとにシフトアップされるような、めくるめく「ずとまよトリップ」が始まる。それは終始ヘビーなボディーブローを食らっているような、しかし過去作以上に身体が音楽と同期するような圧倒的なリスニング体験である。しかも驚くことに、それはずっと続くのだ。「あいつら全員同窓会」「猫リセット」のような先行リリース曲も、本作『沈香学』の中では昨年リリースされたEP『伸び仕草懲りて暇乞い」やライブツアー(GAME CENTER TOUR)『テクノプア』で披露された時とは全く違ったコンテクストと魅力を生み出していることも見逃せない。そうして「カラ元気 」でありながら、ずとまよが生み出した世界とファンダムを力強く肯定するように歌い上げる(「歌うぜ GACHIフォー・ユー」)、ずとまよ的ポジティビティを色濃く漂わせる「ミラーチューン」でこのアルバムはひとまずの大団円を迎える。

しかしスローかつダビーな、新曲にしてアルバムラスト曲「上辺の私自身なんだよ」で、ACAね氏はここまで入念に積み重ねられてきた完璧な「ずとまよ界」を叩きつけ、破壊し尽くした後のように哀しみを纏った声で——まるで泣いているかのように——歌う。

泣いてんの それは誰にでもあんだよ(上辺の私自身なんだよ)

「上辺の私自身なんだよ」はアルバム『沈香学』の中でも、いや、これまでずとまよがリリースしてきたどの曲とも異なる位相で鳴っているような気がしてならない。寄る辺無さと諦念、そしてタフネスをたっぷりたたえたこの曲こそ、本作における最重要曲と感じる。もしラストがこの曲でなかったら(たとえば「ミラーチューン」で終わっていたら)、本作はまったく違った印象を残したことだろう。ストレートな憂愁、後期Fishmansにも通じるようなメロウでダビーでスローなこの曲は、ずとまよが新しいフェイズに入っていくことを予言しているかのようだ(「上辺の私自身なんだよ」のみ、フルPVが公開されていないことも象徴的である)。「上辺の私自身なんだよ」はギリギリの吐露であり、苛立ちであり、諦念であり、告白であり、別離の曲であるように感じられる。この曲はアルバム『沈香学』を通して聴いてきた者、そしてこれまでずとまよを熱心に聴いてきた者にとっていっそう強烈に、切実に響くのではないか。さらに「上辺の私自身なんだよ」は冒頭曲「花一匁」と接続しており、既発曲を始まりと終わりで挟み込んだこの圧巻の2曲によって、筆者はずとまよの新しい「主体」が立ち上がったように思えてならなかった。

「ずとまよとは何か?(What is Zutomayo?)」
これまで幾度となく問われたそんな問いに対して、筆者は「展開する世界と自らをメタ化していく自己省察の無限運動」と(とりあえず)定義していた。しかし「花一匁」「上辺の私自身なんだよ」にはその運動にひとまず終わりを告げ、別の踊り場に出たような到達感と解放感、そしてずっと真夜中でいいのに。に相応しい、新しい不安と諦念が宿っているように感じられたのだった。ずとまよ未聴の方や「ほぼ既発曲だし」とやりすごしていた方も、現時点でのずとまよ最新作でありマスターピースである『沈香学』をぜひ聴いて頂きたいとせつに願う。