「日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す」(金谷武洋) (original) (raw)

日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す (講談社選書メチエ)

このタイトル、いいね。そのとおり。当たり前のことだけど、日本語には主語は要らないんだよね。(^^) それを不完全な言語と一刀両断するのは、お門違いだよね。

「文法」が日本語を迫害している。「主語がよく省略される」から「非論理的」まで、100年にわたり「日本語」に貼られてきたレッテルを一刀両断する!「愛らしい」「赤ん坊だ」「泣いた」――日本語の基本文はこの3種で必要十分である。英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を完璧に論破する、すべての日本語話者、必携の書。日本語文法の常識を覆す、画期的日本語論。日本語は曖昧な言語ではない。曖昧に見えるのは、英語文法をむりやり当てはめるからだ。海外で長年日本語教育にたずさわる著者が明解に説く、「日本語の真実」。そのエッセンスを紹介しよう。

・明治期とは、初代文部大臣**森有礼「日本語をやめて英語にしよう」と真剣に目論んだ時代であった。文部大臣が、である。森は自分の母国語日本語「決して我々の列島の外では用いられることのない、我々の貧しい言語」**と捉えたのだった。

・日本語を表記面から改良しようと建白書「漢字御廃止の儀」を最後の将軍**徳川慶喜に上申したのは郵便制度の生みの親、前島密だ。「日本語を捨ててフランス語を採用したらいい」と投稿したのは小説の神様志賀直哉だ。こう見てくると日本語に対するイジメは相当根が深い鈴木孝夫「日本人が日本語を極めて効率の悪い不完全な言語だと思い続けてきた」**と言っている。

・私が日本語を不幸な言語だと感じ、本書の初稿の段階ではタイトルを「日本語・このの不幸なことば」としていたのは、こうした歴史を踏まえている。

・明治時代、百年の学校文法は、その基本的発想が日本語ではなく英語だからである。それを抜本的に改正することなしに今日まで来てしまった結果だ。日本語は燕尾服より、やはり和服がいい。

・日本語にはいわゆる『主語のない文』が少なくない。

毎朝、早く起きる。

非常に早い。

真里を見ましたか。

はい、見ました。

日本語では、人称代名詞は一切不要で、それでいて「座りのいい」文になっている。つまり文として自立しており、この違いが全てを物語っている。つまり一番重要なことは、英仏語(など多くの言語)には「人称代名詞がないと正しい文が作れない」という辛い「お家の事情」があるのに対して、日本語(や朝鮮語や中国語)には、そんな事情はまったくないことだ。これは事実なのである。

・(誤り)日本語にも、英仏語と同じように主語がある。すべての文は主語と述語に分解することができる。主語とは人類のすべての言語に共通する普遍文法の一要素である。ただ、日本語の主語は、省略されることが多い

(事実)日本語には主語の概念は不要である。述語だけで基本文として独立している。世界中の言語をS(主語)をあたかも普遍的な事実であるように扱っているが、実は普遍的ではないから、抜本的な改正が必要である。

「地名と人名」「ウナギ文論争」「日本語に人称代名詞、主語はいらない」「助詞「は」をめぐる誤解」「生成文法からみた主語論」「日本語の自動詞、他動詞をめぐる誤解」「モントリオールから訴える」など。

そろそろ日本の自虐史観を手放したいよね。オススメです。(^^)

日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す (講談社選書メチエ)