『サンスクリット版全訳 維摩経 現代語訳』/植木雅俊 (original) (raw)
『サンスクリット版全訳 維摩経 現代語訳』植木雅俊 角川ソフィア文庫
植木氏の『法華経』がすごくよかったので、こちらも読んでみた。サンスクリット語の『維摩経』がチベットのポタラ宮殿で見つかったのはほんの20年程前だとか。そういう意味で新しいんだな。
在家の維摩詰(ヴィマラキールティー)が普段浄土三部経で慣れ親しんでいるお釈迦様のお弟子をバッサバッサと論破していく。
維摩詰が病気になったので(方便だったけど)誰かお見舞いにいけといわれて、みんな「こんなことがあったのでお見舞いに行けない」ってみんな告白するのがすごい。
そして智恵第一のわれらが舎利弗が、維摩詰の家に行って「みんな座れるかな」とか「ごはんどうするのかな」とか考えちゃって維摩詰にけちょんけちょんにされるわけである。どうした舎利弗。まあ、弥勒も結論としてけちょんけちょんなわけだが。
在家って言ったって、維摩詰の神通力は半端ない。こんなの普通の人じゃないじゃん!とも思うが、だれでも救われていく道だということを体を張って仏の世界に向かって叫んでいるような維摩詰。大乗仏教ってすごいなと思う。
天女と舎利弗のやりとりのところは、いかにこのお経が男女関係なく平等の視点をもっているのかを教えてくれる。ここは必読。
世尊であるブッダたちは、十方において多くの種類の説法によって法を説かれるが、それらの説法をその衆生の声から発させるのである。
いいね、いいね。これは法話は衆生の口からなんだよ。いいね。
凡人の行動範囲でもなく、聖者の行動範囲でもないということ、これが菩薩の講堂範囲なのです。
ここの辺りも面白い。
維摩詰が法話をしている目犍連に
言葉の限界を自覚し、衆生に能力の善しあしを知悉して、法を説くべきだ
なんて注意したりしているのだ。すごい。迦葉も乞食の在り方でたしなめられている。
仏教的な視点の転換もあり、なるほどと思わせられる面白さがある。
維摩詰の言動にお釈迦様の関係者のみなさまがしてやられてる感がすごい。その中に見える仏教の本質的なことがお話として読めるという感じ。
植木氏がだいぶんこだわって訳されているのが解説と註でわかる。
自分はサンスクリットはまったくわからないので、こういう現代語訳で親しめるのがとてもありがたい。
仏教をあまり知らない人でもとてつもない世界の物語として読めるのではないかな。
◆植木氏の本