Stolog (original) (raw)

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ヒドゥン・アジェンダ弁証法と歴史記述。

現象学/身体論と構造主義を対比的に捉え、そこに弁証法的に(ポスト)マルクス主義批評としてタフーリを召喚する。タフーリの批評は、アドルノの『新音楽の哲学』やロラン・バルトの『零度のエクリチュール』と相同的と見做される。

タフーリの記述は他方で、ポストモダン時代の状況と同時代的かつ対比的であると捉えられ、そこから再び、弁証法的にルフェーブルらが導入される。

フォード・リヴァールージュ工場の描写他

「ずんぐりしたガラス張りの大きな建物が蠅鳥箱みたいにやたらと並んでて、中で人が動きまわってんのが見えた、と言ったってきびきびとじゃない、なんかとてつもないものをを相手に戦ってもう息も絶えだえって感じ。こがフォードか?まわり中から上は天まで、機械の奔流の、色んなにぶい重たい音に包まれ、大きな機械仕掛けが辛抱強く、ただもうひたすらまわり、転がり、唸り、今にもぶっ毀れそうでそれでそれでいていっこう毀れない。

《なんだこれかあ、とおれは思った・・・あんまりぞっとしねえな・・・》それどころかほかのどこよりもひどかった。門のところまで近寄ってみると、そこには一枚のスレートに人を求むと書いたった(ママ)。

待つのはおれ一人じゃなかった。そこで待ちくたびれてる中の一人が言うにはもう二日前からそこにいてしかもまだまちだとだちっとも動いてないんだそうだ。職を求めて、このお人好しはユーゴスラヴィアからやって来たんだそうな」

p216

「それは、やっこさんの言ったフォードじゃあ誰でも採るってのは、ほんとだった。嘘じゃなかった。実を言うとそれまで半信半疑だった。ルンペンてのは簡単にでたらめをしゃべるからだ。貧乏もひどくなると精神がもう肉体といつも一緒ってわけにいかなくなることがある」

p217

「《ここじゃあきみの学歴なんぞはなんの役にも立たんのさ、お若いの! きみはここへ頭を使いに来たんじゃない、ここは言われた通りに身体を動かすとこなんだ・・・うちの工場じゃ夢想家は必要じゃない。われわれに必要なのはチンパンジーなんだ・・・もうひとつ忠告しとこう。二度ときみの頭のことなんぞ話すんじゃない!》」

p217

「おれは職長の耳に口を寄せて話をしようとした、相手は答えの代わりに豚みたいに唸り、それから手真似だけで、辛抱強く、おれがこれからやってかなかきゃなんない世にも単純な作業を教えてくれた。おれの一分一分は、一時間一時間は、残されたおれの時間は、ここの連中とおんなじに、小さなボルトを隣の盲人に渡すことで飛んでいっちまうんだ。その盲人はもう何年も渡されたボルトの口径検査をやってた、おんなじボルトの。おれはその仕事をやって早速しくじった。ちっとも叱られはしなかった、ただこの最初の仕事を三日続けた後で、早くも落伍者として、手押車に満載した座金の運搬係にまわされた。機械から機械へとまわって歩くやつだ。あっちに三箇、ここは十二箇、その向こうは五つと置いとくだけだ。誰一人話しかけちゃくれない。生きてるってったってそいつは言ってみればただもう自失と錯乱の間でうろうろしているだけだ。人間を支配する何千という機械工具の轟音の連続より大切なものはありゃしないんだ。」

p219

《もうフォードは辞めてちょうだい! おまけにモリーが水をさすんだ。それよかどっか坐ってできる仕事を探したら・・・翻訳とか、その方があなたに向いているわ・・・本が好きななんだもの・・・》

p221

「彼女はいじらしくもおれを自分のそばに引き止めとこうとしたモリーは、おれを思いとどまらせようと・・・《ここだってヨーロッパとおんなじように楽しく生きていけるわよ、ね、フェルディナン! 一緒にいれば不幸せなんかにならないわ》ある意味じゃたしかに彼女の言うとおりだった。《二人で倹約してお金を貯めるのよ・・・お店を一軒買うのよ・・・そうして世間並みに暮らしていくの・・・》」

p222

「-フランスへ帰りたいんだよとおれは言った。もうこれで充分見たよ、おまえさんの言うとおりだ、もうたくさんだ・・・」

p226

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章はミシガン大学施設など、非・産業施設について。MMWへの傾倒と相違。カーンは建築的にはスノッブという視点。

5章はリヴァールージュ工場(1916-32)について。

ハイランドパークがT型の量産のためだとすると、リヴァールージュは哨戒艇イーグルボートの、同じく量産のための工場。

「だが量産はその関心の一つにすぎない。フォードは以下のように要約した。「七つの製造原理。力、正確さ、経済性、連続性、システム、スピード、そして反復」。

→アラン・ネヴィンスからの引用。

「1914年以前のカーンの工場建築の多くは鉄筋コンクリートでなされていたが、コンクリートの利点、その耐火性、振動の少なさ、侵食や劣化への強さ、は、多層階の建築において最も重要なものである。単層においてはこうした利点はそれほど重要ではない。機械は地面に直接置くようなものなので、振動の少なさのようなものはまったく重要ではなくなる。他方では鉄骨フレームがある種の優位を持ってくる。施工時間が短く養生時間も不要で、施工の速さにおいて潜在的優位性を持っている」p92

「それゆえ1915年以降のフォードのためのカーンの仕事の全てが鉄骨造であることは、驚くに値しない」p92

ヘンリー・フォードは、政府による世界戦争用哨戒艇がT型モデルのように、その経済性と速度でもって量産されうると確信した。1918年1月17日、彼は計画を進めることを決めた。これには哨戒艇生産のための政府資本による工場も含まれていた。操業は同年5月に始まり、7月10日に最後の哨戒艇が出荷された。

敷地はハイランドパークではなく、フェアレーンのフォード自邸近くリヴァールージュの2000エーカーの敷地である。」

「その巨大さに彼は惹かれた。ここなら単層の広大な建物が可能だったからであり、他にも利点を見ていた。素材と成果品の入出荷が簡単そうであり、ゆえに工場内での操業が速くなると見たのである」

「イーグルボート生産のためのリヴァールージュの展開はとりわけ論理的に見えた。というのも底浅のボートは、川に直接出荷できたからである」

「イーグル工場「B」棟はフォードの用語で知られているが、5廊で形成されている。それぞれは51フィート幅、1700フィートの長さである」p92-93

続いてA,B,D,Cについての説明。

「実施図書発行後14週で工場は完成したが、その巨大な大きさにもかかわらず、ハイランドパーク工場の4倍、パーク工場の2倍の施工速度だった。施工が速かったのは疑いなく多くは鋼構造だったからであり、形態をたちあげる無駄な時間をこれは省いた。『フォードマン』はこれを次のように述べる」

p99

→フォードマン、ネヴィンス+ヒルでの引用

「イーグル工場は4つの意味で重要である。巨大で複合化した製作過程を単一の、直接的で、経済的な形態で包み込んだこと。これは単一層構造への大製作者のかかわりを示す。ゆえに鋼でのフレームは、工業建築の軽く、鋼フレームによる、薄い皮膜の建築に向かい、最終的に鋼構造の帰結として、きわめて速い速度で建設された」p99

あらためてフォーディズムとの関連。+ギーディオン

イーグルボートについても検証。

p101からガラス製造棟(1922)について。猫耳越屋根の代表的工場建築。

のこぎり屋根は北側採光だが、南北軸の猫耳屋根は、より多くの採光を得る。

平面図、断面図。

「より重要なことは、北側採光だけでは、作業線は窓に対して直角でなければならず、ゆえに工場全体の柔軟性が損なわれる。フォードもカーンもこのことによる損失に早くから気づいていた。ゆえに1920年以降のカーンの建築にのこぎり屋根が登場することはない」p108

「ハイランドパークでフォードは、成長への余地を主張した。しかしハイランドパークにはリヴァールージュのような明確なサーキュレーションマトリックスは、いかにしようとも与えることはできなかった。このことは1913年以降のフォードの製造過程への関心からおそらく出てきた」p120

「ルージュを賞賛した人物にはバウハウスのモホリ=ナジがおり、彼はその写真を建築家について言及せずに、1929年の『建築素材』に写真を掲載した。『建築をめざして』でル・コルビュジエもまたアメリカの工場建築の写真を用い、グロピウスもまた「北アメリカの工業トラストの最新の作品をそのモニュメンタルな力」のゆえに賞賛した。これらヨーロッパのアヴァンギャルドの誰一人とし、しかしながら、工業建築デザインの美的側面から導かれ得る霊感源としての象徴的価値を超え、進んだ者はいない。ルージュをそういうものとしている設計や計画の洗練については、何も検証されなかったのである。合衆国ではルージュは技術雑誌や産業雑誌には掲載されたが、保守的なものであれアヴァンギャルドなものであれ、建築出版には登場しなかった。それは美的霊感源または設計の実用的側面の例だったからである」p121

「ルージュではハイランドパークにもまして、建築装置は、人間的欲求よりは生産性に向かうもの」

p123

1920年代を通してそして事実1925年まで、カーンは建築の学位を持った大学卒を雇うことはなかった。それには重要な理由があった。彼がみたところ、大卒は、チームワークや、カーンが造った組織に単純に不適な自己表現を始める傾向があったからである」p127

第6章は再び非・産業建築について

GE本社ビルの非・オフィスビル的平面について、これは病院やホテルに一般的な平面という指摘など。

フィッシャービル

第7章で再び工場建築

ミース・ファン・デル・ローエがコラージュに用いたグレン・マーチン社工場(1937)と、

これまでと異質かつ総力戦体制下で竣工したウィロラン工場(1942)は再検討。

クライスラー戦車工場は?

全体として、

パッカード10、パース、およびランサムシステム、ランサムの工場と、ファグスヴェルケの検討

ハイランドパーク、リヴァールージュ、フォーディズムと「空間・時間」の再検討

最晩年のグレン・マーチン、ウィロラン、軍産複合体の再検討

の三つの系に分類できると思われる。

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3章後半。

パッカード10に関する3章前半から、バッファローのジオ・N.パース工場(これも面白い)を挟んで、後半のハイランドパーク工場の記述へ。

ヘンリー・フォードの登場。

My Life and Workは読んだはずだが記録がない。→再読

藁のハンドルも記録がない。→再読?

バンハムのコンクリートアトランティスも記録がない。→再読

「フォードは以下のように述べたとよく引用されてきた、つまり、あらゆる工程を一つの屋根の下で、主要な全ての工程を一つのフロアで行えるよう統合することを、ハイランドパーク工場に望んでいたということである。これはパース工場での(カーンの)解法に近いゆえ、ピケット工場とハイランドパーク工場(最初の数年)の双方での生産方法の独特な側面について知らねばならない。また何が必要とされ、なぜ建物がそのように設計されたかを理解せねばならない」p45

ここからピケット工場での重力利用シュートの話。

「ゆえに建物は三次元のマトリックスまたはグリッドとして構想され、そのプランニング関係は同一フロア内だけでなく異なるフロア間でもスタディされねばならないものだった」「面白いことに制作工程を収納するこのアプローチはすぐに時代遅れとなる。というのも、動力移動組立ラインをフォードが導入したからである。ハイランドパーク開業から5年以内に、フォードは、新しい複合生産施設へと考えを変え、7年以内に社として、多層階スキームを捨て、一層階建物のポリシーへと乗り出す」p51

これにカーンにとるフォード礼賛が続くが

「まず、一つ屋根下での多数行為という考えはフォードの独創ではない。産業革命期の繊維工場は、全ての行為を一つ屋根の下にまとめており、これは明らかな先行例である。自動車産業について見れば、カーンのパース工場がその先行例であり」p51

パース→ハイランドパークでの一層階への集約という考え。

光と工場のフォードの考え、

「光が多ければ、機械をよりたくさん置ける」、言い換えるなら、工程間の空間と時間を効率的に使え、単位面積あたりの生産量を増やすことができる」p52-53、

→Alllan Navins and Frank Ernest Hill, Ford, the Times, the Man, and the Company(Scribners, 1954)

また、Helen Bennet, “Albert Kahn Gives People What They Want,” American Magazine, June, 1929

「フォードの教育部門は似たような視点を1916年に反映している。ビジネスの観点から明るい工場環境はフォード社がなした「まさに最善の投資」の一つである」p53、

Nevins and Hill, Ford, the Times, p550

フォードに関して「空間・時間」という言葉が頻出するのは要再考。

American Architect July3, 1918

パッカード・フォージショップ、熱と換気と越屋根の断面。

フランク・ロイド・ライトも工場を設計している。

「1905年にシカゴにE-Z靴磨き工場を設計している。同年のカーンのパッカード10と同じくこれはコンクリート構造だったが、壁にシンプルでエレガントなリズムをつけるためにレンガで覆われたスパンドレルと付柱を持つものだった。ライトの技術的把握はしかしながら、それ自身豊穣なものではあったが」など。

p63-64にファグスヴェルケの記述があるが、ユナイテッド・シューマシナリーとの関係は、バンハム後であるにも係らず、触れられず。

「カーンにとって直線はわくわくするものでも、表現的なものでも、象徴的なものでもなく、それ以外の要素の帰結だった。彼がそれを用いる時、それは計画地において作業をより容易にすることを意味したからであり、ディテールを複雑化させず、形態を単純化し、レンガの出っ張りをなくすことといったことなどからだった。彼の作品は、実際のタービンや、レーシングカーや、靴磨き機へのもっと類比的なものだったのであり、こうしたものに象徴的な解釈を与えた欧州の建築家とは異なるものだったのである」p67

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必読書。

全体は8章からなる。1-3章前半。

メモ

1章

大恐慌と世界大戦のあいだ、工業建築は雇用と愛国主義の象徴 p1

19世紀後半-末における鉄骨オフィスビルに続き、20世紀初頭の重量木骨構造に代わる新たな工場建築。

MEMO→いわゆる均質空間と呼ばれるものは、この二つから出てきたものにすぎない。

→上記文脈と合わせ、ヴェンチューリの著作は誤読されている。

2章

アーリー・ライフ記述。

2002年刊のロジャー・メタズの書で触れられているジュリウス・カーンの日本行きは、1974年刊の本書には登場しない。

M.MWらとの比較、p21.

米国初のベッセマー製鉄所はデトロイト近くのワイアンドットに建設、1864年、p22

3章

1900年に最初の工場を設計、木骨構造、p25

フォード社は1903年設立、p27

1903-05年の観によるパッカード工場は保守的、9棟の工場を設計、パッカード1-9、p28

これの一次資料は?

1905年のパッカード10、大梁がなく、大容積を確保、明るい、p29

以降、P10についての記述、このp10がハイランドパークの原型になっていく。

ジュリウスの日本滞在はあまり関係ない?

この前後の米国工場建築は洗ってみる価値がある。

「合衆国で最初に竣工した鉄筋コンクリート構造は、1876年にニューヨーク州ポートチェスターでのウィリアム・E.ウォード・ハウスで、これはウォード自身が構造技師だったものである。

1877年、ニューヨークの発明家タデウス・ヒャットは、ロンドンのデイヴィッド・カーカルディと協働したが、後者は産業検査機械の分野でパイオニアだった。彼らは協働して鉄筋コンクリート構造の挙動について一連の試験を行い、これが梁やスラブや柱における引張り抵抗の適正な補強の始まりだった」p32、以下関連記述。

「合衆国でウォード以外で1900年以前の主な仕事には、アーネスト・ランサムのものがある。1888年から98年にかけ、カリフォルニアで多くの建物を建設し、そこで彼は鉄筋コンクリート造を試した。これは四角断面の棒材を連続して捻っていくものである。1898年にニュージャージー州ベイヨンのパシフィック・コースト・ボラックス社の工場の設計と施工行っている。これはランソム・システムの当時の発展の具体例である。この構造は、大梁、小梁、緊密に並べられた根太によるフレーム、それに一体打設されたスラブを支える固い柱からなる。4層構造はゆえにランソムの捩れた角パイプのバーによって補強されている。一本のバーが梁や根太の上部と下部に置かれ、これはおそらくランサムのエヌビックの仕事への知見から結果している」p33.→カール・コンディット「最初の鉄筋コンクリート摩天楼」Technology and Culture 9,1969, 1-12

「ランサムの実践は世紀をまたいで行われた。彼の最も印象的な仕事は、1903-05年、マサチューセッツ州ビヴァリーのユナイテッド・シュー・マシナリー社の特筆すべき工場である。この四層の巨大工場は16エーカーの床面積を供給し、清潔で、ほとんど装飾がなく、ガラス・カーテンウォールが充填された正確に分節されたコンクリートフレームを具体化していた。

アルバート・カーンのパッカード10をランサム+コルドウェルによるやや早い仕事と比較するなら、それは先行者に対してほんの少し進んでいるにすぎない」p33

「工場の竣工に際して24ページのブックレットがトラスコン・スチール社から発行され、この工場を詳細に描写し、18枚の写真と図面が掲載されている」p34

このブックレットは入手できないか?

続いてジオ・パース工場の記述が続く。この工場はパッカード10を発展・洗練させたもの。

これらの工場建築がフォードの眼を引き、1908年最初の接触をもたらす。p43

ランサム・システムとカーン・システムの検証、およびランサムの工場建築とパッカード10の比較検証、それにファグスヴェルケは元々ユナイトッド・シューマシナリーとの合弁会社だったはず。このあたり、どう資本が動いたかなどの検証。ここではジュリウスの「日本」より、このあたりの検証を行うべき。

フォーディズムとモダニティとカーンの関係。序章、1章、2章を読む。

謝辞にT.J.クラークとリンダ・ノックリンの名前が見える。他にアルバート・カーン・アソシエイツ、デトロイト美術館、ヘンリー・フォード博物館。

著者の視点は「独創的なものは何も無い、しかしモダンに見える」が基本にあり、ヴェンチューリの「ダック」を髣髴させなくもない。「米国産業の視覚的イメージの発展、モダニティのイコノロジーにおいて次第に政治的になっていく図象という中心主題。繰り返すなら、今日の芸術、デザイン、写真史で重なる部分が多い一方、異なる読みが幅広くなっていく。第二次世界大戦中の米国社会で規則化されるこの新しい視覚秩序についてのいくばくかの考察を結論する」(p2)。

「いわゆる第二次産業革命の米国、つまり大量生産、大量消費の登場した時代における視覚イメージの役割に、私の主要な焦点はある。この革命は近代社会の歴史で新たな段階を画した」(p6)。

「この関係が生み出された期間、そして第二次世界大戦から企業消費主義へ向かった時代、1950年代と60年代の軍産複合体の時代が、あるモダニティを米国社会的とし、それ以外の読みを積極的に排除したこと」(p8)。

第1章「フォーディズム、大量生産と全体統御」

「何一つ独創的なものはない、しかし全て新しく見える。ヘンリー・フォードは言われるほど産業プロセスを発明したわけではない」、「発明的才能としてこの名前が表わしているのは組織についてである」「工場システム発展の新たな段階とともに、産業革命は一段高い段階に入った」(p15)。

「六つの表象実践を検証する。作業空間組織、管理、建築、広告、写真と絵画、これらの事例研究を通し、ある特定のイメージ制作者がフォード社のために働き、その結果、フォードこのイメージの要求に従っていかに作業する事になったかを。かくして、モダニティの強力なイメージ性の構築の考古学が始まる」(p16)

セリーヌの『夜の果てへの旅』でのフォード・ハイランド工場労働者の描写。

アルバート・カーンはハイランドパーク工場の建物のオリジナル・デザインを先取するために依頼されたのではない。ゴーストライターによるフォードの『わが生涯と仕事』はアーノルドとフォールートによる説明に全て依拠している」(p22)、

→同書のゴーストライターはサミュエル・クロウサー、この書は、Horace L.Arnold and Fay L.Faurote, Ford Methods and the Ford Shops(New York: Engineering Magazine Co., 1915)

「電力もまた機械や道具の可能性に大きく貢献した。もっと一般化するなら、大量消費に供する物品を供給する大量生産の誕生に電力が深い役割を果たしたことを忘れがちである。トーマス・ヒューイが最近議論したように、フォーディズムの基本原理は、一定した流れ、大量の需要、大量の供給であり、これはまた電力のメタファーでもある」(p23)。

「この視点から、「全体としての工場」は「大生産機械」となる」(p32)。

「1915年のハイランドパーク工場では18000人の労働者が、何ダースもの建物、5500の機械、50マイルのベルト、1.5マイルのコンベヤートラックで労働していた。合衆国、カナダ、英国にある25の工場、17の国のヘッドクォータ、国内の7000のディーラとともにあった帝国の核である」(p34)。

「(リヴァールージュの)これがハイランドパークでの付加的な性質を、さらには海外の大工場、エッセンのクルップ工場などの性質を超えていく性質である。無限の可能性に関わるというそのモダニティ、まだ意図されていない方向への拡張能力、いかなる未来の変化も包含して生産的に統御できるという根本表明のことである」(p38)。

フォーディズムは、モデルTの需要は尽きないという前提に基づいており、ゆえに工場の目的は、生産財仕入れと生産を極大化するためのものとなる。リヴァールージュ工場は工程全体を徐々に取り込むようになったが、ハイランドパーク工場は、外部からの供給による大小さまざまな多くの単位からなっていた」(p41)。

メモ

Hugo Diener, Factory Manegement(New York: McGraw-Hill,1910)

「フォードの動機は単に古い型の起業的資本家だったが、新しい企業管理者たちは、国内市場と国民を労働者や消費者と見做す大きな視野を持っていた。これは独占資本主義の明確な欲望である」(p49)。

ソ連でのトロツキーによる労働者の軍隊化について論じたあと、「アメリカの現象」をグラムシは性格付する。「生産のための今日最も大きい集団的力であり、歴史に不釣合いな目的意識、新しいタイプの労働者・人間である」(p51)

→『アメリカニズムとフォーディズム』? 要再読。

「新しい人間は発明ではない」(p51)

→ポストヒューマニズム

「ここまで見てきたように、リヴァールージュ工場は、その機能主義的建物やそのまったく工業化された「見映え」(これは来るはずだった)だけでなく、生産とヘゲモニーの観点で大規模経済の独占の物理的形態を成就したアイコンとして、その場所なのである。

ルージュは、全体化、モダナイズする機械となったのであり、それはそのモダニティを、モダニティとはそのようなものとして、常に再生産する機械である」(p52-53)

第2章「建築と大量生産、機能主義の問題」

アルバート・カーンについての章。

「ここで議論することは、カーン・アソシエイツは高い程度で20世紀のモダニティの発明性を具体化しているということである。これは「何一つ独創的なものはない、しかし全て新しく見える」のことである」

「そのデザインとオフィス組織、さらに実践構造において、カーン・アソシエイツはフォード社の生産と管理をモデルとしている」(p57)。

「フォード社とカーン社の関係は1908年に始まった。最初のフォード大工場の設計の依頼である。1929年にジャーナリストに回想している」→submerge to Ford(p58)

「1931年のレクチャーでカーンはヨーロッパのモダニストを嘲っている」(p59)

→Albert Kahn, ”Architectural Trend,” Journal of the Maryland Academy of Science2,(Apr.1931)125。

メモ

W.Hawkinsons Ferry The Buildings of Detroit,1968、Wayne State University Press

ル・コルビュジエが『建築をめざして』において賞揚したのはパッカード10のような建物」(p60)

ル・コルビュジエのようなモダニスト・ピュリストにとって、職業的建築家が設計していればあったであろうスタイルが欠けているので、それはアメリカ的生産システムあるいはマシンエイジの自然発生的生産物に留まるもの」(p60)

p61-p70、工場空間の組織について18世紀英国のもの、重力式編成、クレーンの採用など。

「全面的ライン生産への移行は1913-14年」(p71)

「機能主義はモダニティに本質的もので、単に合理性や効率性、単純性のレトリック表現のデザインとしてだけでなく、つまるところ生産プロセスそのものの組織の物質化としもそうである」(p72)

「技術に於ける機能主義は反対に、内的、分割的なものでは全くない。それは実践そのものの条件である。この異なるモダニティ誕生の瞬間に、カーンは技術の価値を建築言説の支配的な価値へと移しこんだのである」(p72)

メモ

Architectural Forum 1938年8月号、カーン特集

1931年のカーンの欧州モダニストへの嘲りは、彼をヒッチコックらか遠ざけ、建築家のメインストリームから遠ざけた。←重要?

→84-85はその続き。カーン評価について。

Life,1939年10月23日号、デトロイト特集、産業建築家としてのカーン評価確立?

→1/4頁の登場

「カーンは明らかに採光と換気の分野を先行した。事実、最も説得力ある構造の多くは、そのガラスや印象的な屋根形状、それゆえ上部のゆったりした空間により、最小限機能の提供のはるかに先にまで行っている」

「だがこれら形への関心が、これまで挙げた抽象的基準以上に、労働環境への配慮から出てきているかは議論の余地がある。実際それら構造物を作るにあたり、かくも深く合理化され統御されているゆえ、それ自身の「美」の基準を確立するからである。反復、数えきれない似たようなよく出来た解法との類似、似たような問題へのあらゆる解法の投入、それ自体の典型的「過剰さ」、「自己満足」、「洗練」によってである。ヘンリー・フォードにとってハイランドパークのよい多い採光は「機械を密に置く」ためのものだった。それの影響は、ヒルデブラントらが述べたように、建物のデザインに帰せないものだった」「機械とプロセスが大きさと形を決めており、労働者はほとんど見たり見えたりするだけを意味し、トイレは規則的に配される」(p88)

→ポストヒューマニズムの建築、セリーヌ再読。

U

「鋼材を構造体に最初に実験的に使用した技術者はジェームズ・B.イーズでセントルイスミシシッピ河橋梁に部分的に使用し、1874年に竣工した(1869-1874)。3アーチ・スパンを持ち、それぞれ152m以上あり、チューブ状アーチは坩堝で造られた「クローム」鋼で、新たなベッセマー鋼ではなかった(それ以外のメンバーの多くは錬鉄製)。ベッセマー鋼による最初の鉄道橋が竣工するのは1879年で、ミズーリ州グラスゴウでのシカゴ・アンド・アルトン鉄道橋である」

「これらは建築物に鋼製柱が使用される約12年前の話である。橋梁技術者はしかしながら、見境無く鋼材を使用したのではない。鉄道会社経営者はUSベッセマーは長持ちしないと不平を述べ、実際、突然割れる傾向があった。技術者たちはこれを構造目的に使うのをためらっていたのである。

鉄道ブームが去り、鉄路需要が落ちる1884年、製鉄会社は鉄路以外に活路を見出そうとした。彼らは技術者や建築家が採用するように、平炉生産に切り替えた。1879年にはすでにほんの僅かとはいえ、ネブラスカ州プラッツマウスの鉄道橋に平炉鋼を使用するよう指定していた(この橋は錬鉄も使用されていた)。」(20頁)

「偶然、ホームインシュランスビルは、鋼製梁を持った最初の米国の建物となった。それが工事中のころ、鉄路での鋼材需要が落ち込み、ゆえにカーネギー鉄鋼社はそれまで建物に鉄製梁材を供給してきていたが、契約を満たすのに鉄製梁の代わりに鋼製梁を供給することを提案し、ジェニーはそれに応じた。ゆえにこの建物の低層部は錬鉄梁で出来ている一方、高層部は鋼製梁でできているのである。このことは鉄材と鋼材が簡単に交換され得たことを示している。ある断面では鋼製梁の方が鉄製梁より強いにもかかわらず、両者は同じ形をしていた」(21頁)

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ヴィクスバーグ包囲戦についての書のレヴュー。

冒頭にジョン・キーガンの名前が出てくる。本稿によれば、1976年の書でキーガンは「戦争」の様相を一発で変えた。「戦争」は陣取り合戦ではなく、いわば生存と恐怖に折り合いをつける人間行為であるという様相である。

本書では、ヴィクスバーグの戦いでの、北軍、南軍、市民らの視点を、書簡、日記、回想等から組みなおそうとするもののようである。戦争史も美術史も基本は同じである。

ジェニーは南北戦争中、少なくとも3つの要塞戦に参加している。ヴィクスバーグはその一つである。

塹壕堀、要塞構築、その他の工兵作業が詳述されている。南側要塞から北側ヒル要塞まで、南軍サミュエル・Hロケット将軍が工兵責任者として現れる。北軍側では、ウェストポインターフレデリック・E.プライム少佐、サイラス・B.カムストック少佐、ジェームズ・H.ウィルソン中佐が、ヴォーバン型包囲線の包囲戦の指揮者として登場。グラント軍のウェストポインターの工兵将校不足を著者はしばしば指摘する。これが著者によれば第13軍の攻撃速度を遅くした。著者は一方で民間から工兵に転じた技術者の活躍を指摘する。アンドリュー・ヒッケンルーパー少佐(ルイジアナ3軍の保塁の掘崩)、スチュワート・トレシリアン少佐(木製砲の制作)。グラントの報告では当初工兵将校が不足していたが、実戦での活動は目覚しかったという。著者は強調しないが、ウェストポインターでない工兵将校、西方軍のジョシア・ビッセル大佐の工兵隊、ウイリアム・コサック少佐、ウィリアム・ル・バロン・ジェニー少佐、ウィリアム・C.ヤング少佐、ハーマン・クロスターマン少佐の活躍が注目される」。

本書ではジェニーの具体的活動は詳述されていなさそう。

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第二章「学校に戻る」を読む

1902年にカーンはメイソンとの協働を解消し独立する。最も大きなクライアントはパッカード社。

ローランドは1910年にメイソンとカーンの推薦状をもってハーヴァードに「特別学生」として入学する。逆算すると32歳。最も大きな動機は建築史だったようだ。

ここでハーバート・ラングフォード・ウォレンの影響を最も受けたようだ。ウォレンは1893年にハーヴァードに着任するまでリチャードソン事務所に5年勤務し、自身の事務所を1885年に開設。『古典主義建築の基礎』と『ウィトルウィウス建築十書解説』を著している。ウォレンの考えでは建築は長く伝統的な原理と今日的な技術の統合から結果するというもの。

ウォレンの指定書のなかで、ローランドはヴィオレに影響され、それは二つの点においてであったという。

ひとつは建築史の統合的知。そしてもうひとつが幾何学の重要性。とりわけエジプト時代から続く等辺三角形の重要性である。

ヴィオレの『建築講話』から引用が続く。正確には、幾何学と比例の重要性ということか。

事務所に戻ってからのミシガン大学ヒル講堂では、さっそくこの幾何学と比例の原理が設計に用いられている。

ヴィオレからショワジーを経てル・コルビュジエの指標線へといたるラインと同じである。

カーンの建築は構法だけでなく、幾何学と比例に基づいている、それもヴィオレ経由の。

あらためてヴィオレ『建築講話』の重要性。

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アルバート・カーンのチーフデザイナーだったワート・ローランドについての評伝。序章と第一章「ディーンに働く」。

メモ

自動車産業の劇的発展により、デトロイトの人口は1900年の約30万人から1930年には160万人へと爆発した」p3

「1900年から1930年までのあいだのミシガンの眼を見張る経済成長は州の銀行資源を逼迫させたが、これら産業の成長はローランドに僥倖を与えた」p4

「ローランドは1901年にデトロイトにやってきた」p11

「ホテル・ポンチャトレインとタラ・ホテルは革命的建築技術、鉄筋コンクリートの見本である。19世紀後半エレベータの発明は高層建物の実現を可能にしたが、当時の建設法は高層構造物に適していなかった」p12

p14、工事中のヴィントンビルの写真1917. Cyclopedia of Architecture, Carpentry, and Building, American Technical Society, volume4)

1880年代に耐力壁に勝る鋼と鉄の剛接合内臓フレームが可能になったが、すぐさま鉄は熱に弱く、崩壊にいたることが明らかになった。耐火被覆のテラコッタで全てを覆うことはコストのかかるプロセスである。

1890年頃回転炉の導入がポルトランドセメントのコストを劇的に下げ、コストのかかる鋼の代わりにコンクリートの大量使用を刺激した」p15

「これらシステムは概して成功したが少し外れた設計を行うと劇的な失敗を招いた。ジャクソンの4階建オツエゴ・ホテルは1902年建設中に崩壊、一人が死亡、二人が重傷を負った。1904年にはバトルクリークで竣工間近のブースバッソビルで五階床が崩落し下部の床ともども崩壊させる事故が起きた。

メーソンとカーンはこの技術が持つ莫大な潜在力を認識しており、1902年に竣工したパームズアパートメントの床にこれを使用し、1903年ミシガン大学工学部棟にも用いた。カーンはしかし、「あまり分からないシステム」を用いるリスクに気付いており、コンクリートの建物を扱う会社は米国に数社しかなく、パームズアパートの床を施工したのはコンクリートの舗道を施工する会社だった。

木や鉄の小梁は最大耐力を超えて荷重がかかるとその中心が曲がったりひび割れたりするが、コンクリートは予期しない形で粉砕される。内部に鋼の補強材を入れれば強くなり得るが、その体系的方法はまだ発見されておらず、この素材の最大耐力を正確さをもって計算することは困難だった」p16

木や鋼の梁とコンクリートの崩壊モードは異なっており、これを木や鋼の梁の崩壊モードに近づけ、計算可能な方法がカーンシステムにおいて模索されたと見るべきか。

アルバート・カーンの兄弟モリツは説明する。「梁の耐力を計算するにあたり」「均一な荷重では曲げモーメントは中央で最大となり、ここを梁が崩壊する点であると仮定する。実際の崩壊試験では他の点で崩壊することを見出した。当初の仮定は誤りであり、その後の計算はすべて無駄に帰した」p16、ここでの引用はMoritz Kahn, “A Reinforced Concrete System with Rigid Shears,” Concrete and Constructional Engineering 1, no.1(March 1906):69

「この問題はもう一人の兄弟ジュリウスによって解決される」「カーンシステムは」「コンクリート部材に45度に設置された鋼部材により、その結果、鋼が引張材として、コンクリートが圧縮材として、一体的にトラスとして機能するものである」p16.

コンクリート部材の崩壊過程は、木材や鋼の崩壊過程と異なっており、それゆえコンクリート部材をトラスとして計算可能なものとするため、45度の鋼材バーをコンクリートに仕込むシステムがカーンシステムと言える。ここでもジェニーと同じく、橋梁工学への還元が隠然とある。

「鉄筋コンクリート構造の好ましい方法としてカーンシステムはますます採用されていった。その結果、鉄筋コンクリートは伝統的耐力壁や耐火被覆が必要な鋼構造にとって代わっていった。このことが最もはっきりしてたのはデトロイトにおいてだった。1906年の『セメント時代(Cement Age)』はこう記す。「鉄筋コンクリート構造はデトロイトに莫大なセメント需要をもたらし、ミシガンの多くの工場はこの能力を最大限に発揮し、それでも注文を捌き切れないほどだった」→Cement Age

Moritz Kahn, Concrete and Constructional Engineering 1906

RC造普及は火災時の死亡率の低さで、それはホテルから始まっていること。

「ホテル広告の主要な点は「耐火」を謳ったこと。ホテル火災はよく起こり、旅行者にとって重要な点であった。都市のホテルの大火災は死傷者が多く、小さなホテルの火災も犠牲者を加えた。ミシガン州では1903年メノミエのトラヴェラーズ・ホームの火災では、一人が死亡、三人が火傷を追った。翌年のランシングのブライアン・ホテルは「火口のように燃え」、少なくとも四人が死亡し、さらに四人が火傷または重傷を追った。さらに翌年、ビッグラピッズのパシフィックホテルは「更地になるまで燃え」、その結果死者一名を出した。鉄筋コンクリート構造は真に「耐火」でなくとも、石やレンガや木や鉄より耐火性がある。この理由だけでも鉄筋コンクリート造は一般的となり、ホテルや学校や劇場や工場や公共建築の選択の方法となった」p19

デトロイト火災については、Detroit Free Press, December29,1905 Detroit Free Pressは要チェック。

火災死亡率については1905年には10万人につき8.3人が2005年には1.1人となるという統計上の資料を用いて説得。p423

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全体は11章構成。

メモ

最初の評伝、グラント・ヒルデブラント、『産業デザイン、アルバート・カーンの建築』(1974)

ヒルデブラントはカーン事務所勤務経験あり。

フェデリコ・ブッチの2002年の書。

リー・スミス『現代を造る、アメリカの産業、芸術、デザイン』(1993)

事務所設立は1896年、カーンにとってもデトロイトにとっても転機、ジンジャーエール工場。

ネトルトン・カーン・トロブリッジ事務所。

1897年にトロブリッジがコーネル建築学科設立のため抜ける。

トロブリッジ+リビングストンのあのトロブリッジか?

その三年後にネトルトンは結核で死亡。p25.

デトロイト・ニュース・トリビューン』p27

デトロイト周辺ではカーン兄弟が鉄筋コンクリートを発明したよく聞くが、それは違う。 それは1848年に遡り、1855年パリ万博で展示した漕船の実験をフランス人ジョセフ-ルイス・ランボは始める。フランスは実際この分野で主要な役割を果たす。1924年アメリカ・コンクリート協会について言えば、19世紀フランス人技師達、モニエ、コイニョ、コンシデレ、エヌビクのパレードにカーンは挨拶したにすぎない」p29

「ジュリウス・カーンが加わるのは1902年、ミシガン大学から土木学学位を授位されチーフエンジニアとして採用される。この野心的青年は既存コンクリート技術に批判的だった。というのもそれらは最悪の場合、壊滅的結果をもたらすからである」

「彼が作った最初のバーは、フレデリック通りの住宅地下においてである」 p31.

1909年『コンクリート鋼構法』

p36、バンハム『コンクリートアトランティス』でのパッカード10への言及について、+ル・コルビュジエの言及について。

p39、バンハム批判、バンハムがパッカード10について見落としているのは、ネイティヴ・ソイルにおける最初のサインである。

p39、カーンがパッカードの仕事を始めたのは1903年。この年にライトはシカゴにE-Zポリッシュ工場を造る。

p40、フォードもカーンも未来の工場について理想的ヴィジョンを持っていた。光に満ちた空間。フォードの原理は生産性の最大化、そこで人間と機械が近く近接する明るいオープンフロア、カーンは、構造体がその使用者に及ぼす影響の人間的な配慮、という相違。

p40、1922年の『My Life and work』でフォードは、清潔で明るく、換気のよい工場。→要チェック。

p50、ハイランドパーク工場開場(1910)についての記述。

p51、グロピウス、ヴェルクブント関連、1913年

p51、デトロイト・フリープレス

p51、フォード社技師エドワード・グレイの苦情

p64、カーン→サリヴァンへのオマージュについて

p82、ミシガン・アーキテクト+エンジニア

p82、 Jonathan Glancey, Twentieth-Century: The Structure Shaped the Century

p83、スチールフレーム+ガラスの工場は1920年代を通してフォードの工場のテンプレとなる。

p113、Sonia Melnikova-Raich, Industrial Archeology,

p114、ソ連との契約は1929年5月、スターリングラード、ハリコフ、チェリャビンスクの3つのトラクター工場。1930年代後半には三つも戦時生産体制に移行。

p116、カーンとフォード以外にも、GEやインターナショナル・ハーヴェスターがクレムリンと協働。

p118-119、スターリングラードチェリャビンスクの工場についての記述。

p129、リヴェラによる壁画。

p133、カーンによるヨーロピアン・モダニズム批判について

p147、ニューディールとの関連、ヒルデブラント

p157、グロピウス、ル・コルビュジエとの関連

p158、ジョン・ドス・パソスル・コルビュジエへの言及

p162、デイヴィッド・ガートマンのミースについての記述の引用。鋼フレームを露出しながら、接合部分は隠した。

p163、カーンとボザール。シカゴのバーナムやNYのMMWのボザール・リヴァイヴァルにを評価していた。

P177,カーンはポール・フィリップ・クレをデトロイト芸術大学に推薦。

P178、カーンの死にソ連からの電報、ヴィクトール・ヴェスニンによる。*

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メモ

ピカソは一九三三年のカーンワイラーとの対談のなかで、シュルレアリスムという言葉をアポリネールが一九一七年に発したときには、自身もまた「現実よりも現実的ななにか」を構想していたと回想している。この言葉が端的に示しているのは、現実との照合性を持たない自律した作品そのものを、ひとつの現実として認めようとする姿勢である。ただしそれは、絵画作品を色塗られた平面という物質として見るということではない」、

「だがピカソにとって、芸術とはやはり、素材や物質に完全に還元されてしまうものではなく、ひとつの虚構として機能する必要があった。「現実よりも現実的ななにか」という彼自身の言明の意味するものは、何も意味しない線や平面を装飾的にならべた抽象的な模様ではない。それは、例えば『聖マルトル』に挿入されたピカソの挿絵のように、幾何学的な構築という、人間の知性により科学の道具として培われてきた視覚言語を用いながら、ひとびとが慣習的に持つ現実のイメージとはかけ離れた、別の現実の描写法の可能性を提示する。

それは虚構世界としての芸術をとおして「見る」ことを学び、「知る」ということにほかならない。」

「ここで重要なのは、「真実」とはなにか、芸術家が「求めていたもの」とはなにかということではない。」、「問題となるのはむしろ、ピカソが「真実」を伝えようとして用いる「嘘」という手段が、どのようなものかといことである。「嘘」としての芸術の最たる例は、もちろん、彼のキュビスム的な実験の結果生まれた作品である。」

ピカソが鑑賞者に期待してるのは、芸術作品が「嘘」であることを認識しながらも、それをとおして真実ないし現実について考察することである」

p164-166

「作品を現実の模写と捉えるのではなく、現実と並行しながら自律した存在と捉えるこの見解は、キュビスムにおける「概念のレアリスム」と関連しているだけでなく、来るべきシュルレアリスムの誕生をも予感させるものである」

p167

「リン・ガムウェルが指摘するとおり、第一次世界大戦からキュビスム理論にたびたび登場する「分析」や「総合」という語は、当時キュビスムの芸術家達やその周辺の文学者たちにより読まれていた哲学者イマヌエル・カントの『純粋理性批判』に由来する。ただしキュビスム批評が引用するカントの思想の解釈には誤謬が含まれていることがポール・クラウザーにより指摘されており、こうした語が厳密な意味でカント哲学にしたがうものではなかった点にも注意が必要である。

実際、「分析的キュビスム」と「総合的キュビスム」を定義する際のこれらの語は、カントの理性批判とほぼ無関係であると言ってよい。分析的キュビスムのあとに続くキュビスムの発展の一段階として総合的キュビスムが定義されたのは、アルフレッド・H・バー・Jrにより一九三六年にニューヨーク近代美術館で行われた前述の展覧会『キュビスムと抽象芸術』においてであった。」

p169

「これに対しピカソとブラックは、一九一一年頃から一九一二年にかけて、平面構成と立体表現のあいだのあらたな往還を開始し、総合的キュビスムを開始した。きっかけは、新聞紙や壁紙、段ボール紙という、平面的でありながら固有の厚みを持った素材の併用であった。これらの平面をカンヴァスの上に重ねることで、分析的キュビスムにおける幾何学的な平面の重なりを三次元的に再現することが可能になったのである。その最たる例は、カンヴァスに新聞紙やカードを貼り付けるパピエ・コレである。それは、三次元的な物質の重なりを二次元的な絵画空間に導入することにより、絵画作品とも立体作品ともとれるような新しい美術の概念を提示するものであった。」

p170

「一九一○年から一四年にかけてのキュビスム批評では、キュビスム絵画における多視点的要素は、セザンヌと関連づけられてはいない。むしろそうしたキュビスム絵画の特徴はアンリ・ベルクソンの思想と関連づけられる傾向にあった。」

p176

キュビスムは慣習的な絵画実践そのものもまた、実験の材料にして疑問に付し、再考察の対象とした。そのことによってキュビスムの芸術家達は、イメージを認識し構築するプロセスそのものに作品としてのかたちを与え、さらにはそうしたかたちが現実を新たに理解するための発見的なモデルとしての無限の可能性を有していることを示そうとしたのである」。

こうしたなかで生み出された「概念のレアリスム」という言葉は、対照認識のメカニズムのなかに、眼による受動的な知覚以上のもの、すなわち知識や思考能力による解釈や構築のプロセスがあることを示すものであった。」

p522

「そこで明らかになったことは、ロザリンド・クラウスが一九七九年の『オクトーバー』誌に掲載した論文「グリッド」のなかで提起した仮設に密接に関連する結果となったことに、触れないわけにはいかない。この論文は短いものではあるが核心をついており、キュビスム作品の記号論的な読みを展開するクラウスのその後の思考的発展を予見させるものである。クラウスはそこで、マレーヴィチモンドリアンの作品に描かれた格子のうちに「地図」としての性質があったことを指摘している。ただしこの格子は「地図」でありながらも、現実空間の事物の位置空間の投影ではなく、したがって「絵画表面の上に、部屋や風景や人物のグループを描出する」ことはない。この「地図」は、「絵画化されたイメージとそれが指し示す現実世界が相互に関係していた」ルネサンス期の透視遠近法とは本質的に異なる、「絵画それ自体の表面」を示すダイアグラムなのである。だが一方では、マレーヴィチモンドリアンが絵画に描いた格子が、単なる画布や絵の具の顔料以上のもの、「存在や心や精神」を意味するものであり続けたように、この「地図」は抽象絵画においてすら象徴的な意味を付与され得たのだとクラウスは指摘する。したがってクラウスのグリッド論は、たったひとつの線や色にも避け難く意味を付与してしまう人間の無意識の衝動を言いあてるものであると考えられるのだ。

本書で立証したように、ダイアグラムとしてのキュビスム作品、すなわち「地図」そのものとしての作品は、まさに現実の似姿ではない、幾何学的な構成を描いただけの平面それ自体を見せながらも、同時に現実の対象から出発しながら、なんらかの方法で避け難く現実を指示してしまう性質を持っていた。さらにそこから一歩進んで本書で示したのは、キュビスムが単に無意識的にそうした実験を行っていたわけではなく、むしろ本能的な認知メカニズムについての考察に意識的にとり組んでいた点である。」p524

「あるかたちに意味を付与したり剥奪したりする造形的・理論的実験は、キュビスムの芸術家にさまざまな表現の可能性を与えた。なかにはピカソのように古い価値観を覆そうとする芸術家もいれば、グレーズやメッアンジェのように部分的にではあれ慣習的な文化を映し出すイメージを描いた芸術家もいた。換言すれば、かたちから意味を剥奪する行為だけでなく、かたちに意味を与え直すこともまた、彼らの試みの重要な一部分をなし得たのである。こうしたなかで、彼らの認識メカニズムへの問いは、どのような意味や意義をかたちのなかに選択的に与えていくのかという問い、すなわち価値システムへの問いに結びつくことになる。」

「そもそも、キュビスムに特定の「宣言」が存在しなかったことが示すように、キュビスムの芸術家たちは、様式やイデオロギー以上にむしろ現実や伝統を絶え間なく問い直すものを共有していた」、

「つまるところキュビスム運動とは、共通の理念で固く結ばれた流派というよりも、ゆるやかに集まった若い芸術家たちによる相互的な対話のなかで徐徐にかたちづくられていったいくつかのコミュニティーの総体さったのである。」

p526

ニコライ・コンドラチェフの波から話を始め、産業革命以降を四つのコンドラチェフ波との関連でまず読み解く。技術革新と言われるものはこの波と関連していると見られる(シュンペーターの波動論)。1873年恐慌、1929年恐慌など。1929-1873=56年 1885-50=1835年→1837年恐慌、これが第二波の始まり。1873-1929年が第三波、第四波は2008年のリーマンショックまで(1987年のブラックマンデーでは駄目なのか)。第三波の技術革新の象徴はトランジスタという。第二波の象徴は石油エンジンか?

続いて労働価値説と限界効用価値説の再検討。労働価値説の大雑把な再評価。

資本主義登場の引金となったカタストロフはペストの流行だったとされ、21世紀においてポスト資本主義への引金となるカタストロフは、気候変動、少子高齢化、金融システム崩壊である、という見取図。

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文献

Terry Smith, Making the Modern Industry, art and design in America, Chicago, The University of Chicago press, 1993

Jordy Wiliom H. American Buildings and their architects.Vol.5, Yhe impact of European Modernism in the Mid-Twentieth Century, Oxford University Press, 1972

メモ

「この研究の目的は二つ。この影響を明確にすることと再評価である」1頁

スターリンの言明→My life and works中にある。

リー・スミスの評価。

「技術的、経済的適性、自然な構成、構造の明快さと素材の使用法。これがカーンの建築が欧州のモダニズトに与えたもの。。」→13頁

カーンの建築が登場するのは

1913、ヴェルクブントのヤールブッフ

1923、建築を目指して

1923、アドルフ・ベーネ、ズヴェックバウ

1926、モイセイ・ギンスブルク、ファクツーラ

1926、メンデルゾーン、アメリ

1929、モホリ=ナジ、建築素材

「1937年シカゴ到着以降、1939年のジョージ・ネルソンのモノグラフを通してミースはカーンを知る」13頁

→クラウンホール、インディアナポリスのキャンターレストラン、キューババカルディオフィス、

→1922年のグロピウスの写真

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文献

Albert Kahn, “Our Travelling Scholar,”The American Architect and Building News XXXIII:812(18July 1891),pp39-41; for a selection of Kahn`s travel sketches,

http://exchange .umma.umich.edu/resources/24727

Thomas Crow, Modernism and Mass Culture in Visual Arts, Art in Common Culture (New Heven, 1996)

Giovannni Arrighi, The Long twentieth Century,…

メモ

「建築はとりわけ20世紀では長いこと空間デザインと同一視されてきた。あるプログラムのために空間を計画することは、利便性が最重要であるとカーンは主張し、設計はつねに内部から外部へと投影されると言う」

「しかしカーンの内部空間は大きすぎるように見えるとしばしば批判されてきた。空間的に充分に分節されておらず、また適切にプログラムされていないとも」、ここからMMWの図書室との対比。この批判はどこで?

75頁

「他のヴァイマールの文化理論家同様、アメリカニズムは文化的スペクトラムに新たな可能性をもたらすと理解していた。カーンの建物をこのレンズを通して見ると、特定しすぎず、設計しすぎないことの価値を示唆する。室空間を概念的に放っておき、建築家ではなくそこでの行為者に放っておくということである」→Ricardo Agarez

「パッカードは1903年に始まり、フォード・ハイランドパークは1908年、この中間にパースアロー工場(1906年)」

「組立線が労働力を空間に組織する。カーンは自動車製造のこの概念を具体化した」37頁。

「カーンの兄弟であるモーリツ・カーンはこの考えを『The Design and Construction おf Industrial Buildings(1917)』で規則化した」37頁

「「だがカーンの工場を髣髴させる欧州のモダニストの建物、構法論理と建物皮膜の関係はしばしばデトロイトで適用されたものから反転される。カーンは根底的に変化する建築に伝統的な被覆を被せた。カーンに影響された欧州の建築家は、この急進的建築のイメージを非・求心的建築に被せた」引用源消滅。これらの建築家にとって機能に関連した核となる組織原理は、二次的なものにすぎない」→バンハム『第一機械原理』 42頁。

「チャールズ・シーラーのエレガントなリヴァー・ルージュ工場群のイメージは、フォードによってそのネガティヴなイメージを払拭するために依頼されたもの」、「ミースによるテクノ・サブライムのはるか前に」75頁。

「カーンが参加したのは米国資本主義の市場が確固としたとき」75頁。

ジョヴァンニ・アリギによる商品経済と金融経済の言説、降車が前者を決定付け出す、75頁。

「1902年から1945年の一群の作品はある疑問を提起する。資本主義下の建築は商業行為以外の何物でもないのか、抵抗の方法は最も急進的なイメージに包まれ得ることなのか、建築家は政治的であるために政治を「所有」する必要があるのか、建築家