マグナム考 (original) (raw)

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プリティに生きろ。

こないだ帰省した時に食べた北極星のプリティプレートのことを思い出しただけで胃が温まる。このような美味しさのことを、なんて呼べばいいのだろう。

関西圏ではよく見かける北極星だけど、入ったことはないから、誰かから聞かれた時に答えられるようお勉強のつもりで入ったら、とんでもなく胃袋を掴まれてしまった。ただの観光向けごはんなどではなかった。

ふわふわのミニオムのなかは、きのこのケチャップライス。きのこで物足りないなんてことはない、完全にきのこにして正解だった。

胃もたれを懸念していたフライも、抜群の美味しさのあまり、胃も負担を忘れる。添えられたプリンも薄くて素朴でいいです(褒めてる)。

ほのかに燻る郷愁は、幼少期のあたたかい思い出のあるページにある、百貨店に入っていたレストランでお子様ランチをよく食べていた思い出からやってきている。

いつか年始の京都で食べた洋食や、神保町や経堂で食べた洋食もいつも美味しくてうれしかったなあ、、日本式の洋食にはいつもいい思い出がまとわりついてるからきっとラッキーアイテム。

『その人の、その時代に必要な愛』というものは存在していると思う。

メモ:

神社やお仏壇のまえで手を合わせるときと、この世に存在しない神さまやご先祖さまからメッセージを受け取るときにアクセスする空間のようなところは結構近い感じがする。

守護霊とかはもっと地上からのアクセスが近い。全然違うけど、前者が東京からヘルシンキくらいの距離感だとしたら、後者は東京から名古屋くらい近くなる。経度・緯度のXとYが、宇宙につながるためにZが出てきて、それにα,βやら何やらと鍵を持ってアクセスしていくとまた謎の軸(パラレル的な何か)が生まれて、を瞬時に行うことでそっちへ繋がる感じ。 ちなみに普通にウヨウヨしてる幽霊にはZ軸使わないで、α,βを開きっぱなしにしてるとアクセスしちゃうので、ちゃんと意識的に締めていないと、入り込まれる。心身弱ってると締め忘れが増えるので要注意。

もちろん守護霊の本体自体は、ヘルシンキの距離感で存在してる。守護のために分身が名古屋までは来てくれていて、そこで会えるみたいな感じ。でも逆に近いと会いにくかったりするから不思議なんだよね。わたしはヘルシンキの方がアクセスしやすい。

忘れないうちに残しておく、今日がおうちで眠る最後の日。

初めて新居に越してきた日、床暖房がある家に感動し、こんな良い家に住んでいいのだろうかと思った記憶がある。

飾りの煙突が可愛い家で、玄関に灯るランプが好きだった。

脱衣所とお風呂の匂いが好きだった。風呂の青いモスクを忘れない。

階段を上るときの光とにおいが好きだった。匂いこそ一番持っていきたいものだから、忘れないようにせめてもの深呼吸をする。(国分寺の時もそれをやったおかげで今でもちゃんと思い出せる。)

ピンクの部屋は最初は好きだったけど、途中で落ち着かなくて嫌になり、最終的には好きになった。

両親と川の字で寝た寝室の空気も好きだった。

居間で弾くピアノが好きだった。カウンターの横に肘をかけて母に話しかけるのが好きだった。

たくさんの思い出を本当にありがとう。

今回の帰省はもっと寂しくてやりきれなくなるかなと思ったけど、意外と耐えられた。大人になって決まっている4月入学3月卒業みたいな儀式がなくなると、突然やってくる人間関係の出会いと別れしかなくなってきて、別れに対する自分の脆弱さにちょっとやられていた。

でもいま、新しい家に出会えることが楽しみという方向にフォーカスできていてとっても成長したなと思う。そして、ここまで成長したことを家自身もよろこんでくれているように感じている。そんなメッセージをおうちから受け取った。これからもたまにこそっと見守ってくれるといいなあ。

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習字の展覧会でこれ書いたとき、全然納得して書けなくてめっちゃ機嫌悪くなりながら、こんなイライラする私のどこが天使なん💢って帰ったの覚えてる。展覧会に行くのも嫌なくらい好きじゃなかったんだけど、時を経てめっちゃいいと思える。今見てもどこが悔しいか覚えてる。けど、それ含めこれめっちゃサイコーだよ。

未だに不器用だし、似たような経験もする。悔しかったり、あなたが感じていた怒りというよりはそれを虚しさとして捉えたり、落ち込んだりもする。

でも、こうして後になって素晴らしかったって思えることって素晴らしいよな。その時にできることをやったらそれは尊いねん。

悔しかった日々も、黒歴史も、消し去りたいことも、その記録は私を彩りひっそりと輝いている。だから今日生きていることが未来を輝かせているなら、生きる希望は確信に変わることができる。

今日は「友だち」にまつわるいい話をふたつ聞いた。

ひとつめ。今日となりでご飯を食べていたそよ風のように穏やかなアルバイトさんが、年に一度シャインマスカットの季節にパフェを一緒に食べる友達がいるそうで、「今日公園であそぼって言ったらいいよって言ってくれる子で、今度一緒に大量の線香花火を一緒にするんだ」って言っていてどえらい光を感じた。

ーふたつめ。仕事で使った道具を片しているとき、「水曜日、相撲観に行くんだ」と上司が突然言う。「すいようび」「すもう」と、すにアクセントが来る言葉が並んでてなんかもう余計キャッチーに感じる。
上司の友人が今年に入って、相撲に目覚めたらしく、すごい熱量に押されて国技館へ足を運ぶことになったそうで、また違う類の光を浴びてウワァとバンパイアのわたしは溶ろけた。

上司は現場で舞う座布団をみるのだろうか。重量あるファブリックが空中にたくさん舞うのは、修学旅行の枕投げか相撲の座布団か、夢の中の雲が全部ワタでできているときぐらいだろう。

ちなみに今日の夢でわたしは砂漠の経由地に居た。夢の中特有の地形や乗り物はとっても面白いのでそれが真、正だったらいいなと密かに願っている。