再会と、濃いめの話④ (original) (raw)

今日は夕方から帰ってきている友人とご飯へ。

近況報告と、ボーリングと、スタバ。

相変わらず、自分のボーリングの下手さ加減に驚かされる。なんやあれ。

コツン、みたいな。あとガタンみたいな音もよく鳴るよね。なんやそれ。

なんだか、高校から仲良くしていて、頻繁に会う友人たちは、結果的に卒業後には戻ってくるようで。

地元であったり、同じ県内にいたりして、会える距離にいるのは嬉しいこと。

その関係性を大事にしたい。

さて、濃いめの対談の振り返り④

「一人も見捨てない」とは。についての話があった。

「一人も見捨てない」〇〇が後ろにつくのではないか?という話が。

確かに、先生や実践している時の「一人も見捨てない」というのは、一種の縛りでもあると思っていて。

その文言があるから、関わる必然性が生まれる。

最近よく聞く、自由進度学習。

『学び合い』はほぼ同じ、というようにも著書にも書かれていたが。

私は、自由進度学習は「筒」。自由進度学習における『学び合い』は「底板」の役割をしていると思っている。

天井を引き上げることによって、子供達の学びのスピード、自由度は格段と上がるが、やはり協力が生まれにくい。

まして、自分だけ進んでいることが評価されるようになれば、そこにのみ集中してできない子達がついていけないだけの学習になる。

そこを、保証するのが底の役割をはたす『学び合い」。もっと言えば、「誰一人も見捨てない」という文言なのだと思う。

学級では、「誰一人も見捨てない」を語る時に、おそらく続く言葉は誰一人も見捨てない「学級」や「集団」という言葉。そこが省略されているのではないか。

そこを拡大解釈し、学級を離れると、誰一人も見捨てない「学年」「学校」「地域」そして「社会」が続く言葉になるはず。

「学校」であれば、それは管理職が掲げる目標、ミッションであって。

「地域」は、誰が掲げるんだろう、市長や知事か。

「社会」は。

そうやって、結局繋がっていて。

少しずつ、「誰一人も見捨てない」〇〇の、〇〇の部分に入る枠組みが大きくなっていって欲しいと思う。

でも、枠が広がれば広がるほど、その枠を作り出す人間が多くなる。必要になるパワーも。

だから、結局誰一人も見捨てない「学校」は、学校の先生方が。

誰一人も見捨てない「地域」は住人たちが。

全員とは言わずとも、まずはイノベーター、アーリーアダプタの層が気づいて、薄い枠組みを形成する必要がある。

その一端として、地域に根付いた『学び合い』の会がゆっくり誕生しているのが面白い。

もっと、そういった会が先生だけでなく、企業や地域の方とも関連づけれていったら。

学校よりも大きい枠の「誰一人も見捨てない」ができるようになるのになぁと思う。