鬱と霊性 〜資本主義の中のスピリチュアリティ〜 (original) (raw)

裏の世界

私は霊的な存在を大いに信じる。私は、自らの身体が質量をもった単なる物体であるとは思わない。私の身体には魂が宿っている。故郷の山や海には、祖霊や小さな魂の存在を感じる。しかし同時に、そうした霊的な存在や、見えざる領域に対して、我々の社会が持っている言葉はまったく不十分だと感じる。不十分というより、不全、不能と言った方がよいのかもしれない。我々の社会は、霊的なものと共生する方法を完全に見失っている。

我々の霊性不能を象徴するような現象に、地震予知、民間療法、反ワクチン思想などといったエセ科学陰謀論が、予想外に多くの人の心に入り込んでいるということがある。ここで私が問題にしたいのは、陰謀論にのめり込む人々の「無知」や「愚かさ」ではない。むしろ、それらがデタラメだとわかっている、圧倒的多数の「まともな」人々が抱える不能である。

我々は、偽の科学者やスピリチュアルの親玉みたいな者たちのまとう胡散臭さに、十分敏感である。また、何月何日に大地震が起こるとか、窒素で癌が治るとか、ワクチンが人体にICチップを埋め込んでいるとか、そういった言説がまったくのウソであることも知っている。にも関わらず、身近な人がそうした陰謀論にのめり込んでしまっている時、どのようにして彼の人と話し合い、どのようにしてその緊張を解きほぐすべきか、ということを我々はほとんど知らない。

陰謀論とは

そもそも、陰謀論とは何なのか。我々は全くと言っていいほどそれらを語る言葉を持たない。「デタラメだ!」とか「非科学的だ!」と叫ぶことはできる。でも、そのあとは?

我々は彼の人に対して一方的に投げつける悪態こそ持ってはいても、話し合うための言葉を持っていない。この不能にどう向き合えばいいのか。

私たちは、科学的な世界観にあまりに浸りすぎたせいで、「科学的でないもの」に対する免疫が落ちてしまったのだ!陰謀論の流行について、このように語る声もある。しかし、反ワクチンや民間療法、地震予知などの言説が「非科学的」であるとは、本当だろうか。これらのエセ科学陰謀論は、実はある意味で極めて「科学的」な原理によって動かされているとは言えまいか。

ここで、「科学的」という言葉の意味に関して、もう少し細かく述べておきたい。ここで言う「科学」とは、科学そのものというよりも、我々が科学を信じ、発展させ、そして依存する上で前提となっている神話のことである。つまり、「科学は万能である」という神話だ。科学は日々、世界の公理を発見し、現時点では不可能といえども、そのことによっていずれは世界のすべてを語り得る。あるいは、科学は世界を日々改良していくことができ、科学によって生じた問題もまた、科学によって解決できる。そうした神話こそが、科学を権威付け、前進させている原理である。

エセ科学陰謀論の根底には、こうした神話のネガが潜んでいる。まだ理論化されていないだけで、未来について知る方法や、未来を知る存在が、何かしら在るはずだ。どんな手段を用いても治癒不能な病など、あるはずがない。こんなにも多くの人々を巻き込んだ不条理に、理由がないはずがない。何か一つの思惑や、はっきりとした要因によって説明できるはずだ。こうした、人間の万能への盲目的な確信こそが、陰謀論を動かしていると私は考える。わからないものや、どうにもならないものは、究極的にはないという前提。人間が万能を手にすることができるという先駆的な盲信。これらはむしろ、科学が我々に植え付けた幻であり、その意味でエセ科学は、科学と同じ欲望を分かち合う兄弟なのである。

このように考えてみると、我々は、あまりに深く科学に浸りすぎたせいで、科学に「できること」と「できないこと」の区別ができなくなっていると言うべきなのかもしれない。あるいは、「できないこと」がある、ということ自体を忘れていると言ってもよいだろう。いずれにせよ、科学は本来、客観性と現実性を重視する思想を持っているにも関わらず、現実にはそのような逆説が成り立っている。その理由とは何なのか。

都市生活者の夜

我々の生活において、科学はもはや思想ではない。むしろ、「科学的な思考」というものが科学自体から漂白され、「科学的な技術」や「科学的な欲望」のみが生活の中に抽象されているのが現状と言える。現代社会で「科学」という言葉が用いられる時、それはそのまま「科学技術」のことを指す場合も多い。とにかく、都市生活においては、科学から思想が抜き取られ、純粋に利便性のみをもたらすものとしての技術や、自然に対して支配的な態度をとる欲望ばかりが享受されている。

新自由主義的な社会には、巧妙に逃げ道が用意されており、その逃げ道こそが袋小路なのである。都市には、社会生活に疲れ果てた人間のため(誰もが疲れ果てている)、欲望という世界が口を開けている。都市は、欲望をかき立てるイメージと、欲望を暴力的に吐き出させるメッセージに溢れている。都市を歩く人間は、嗅覚の刺激に最適化された香料の人工的な甘さを嗅ぎ、細かな光の破片を閉じ込めたシロップを粘膜のように纏う果実を目にする。油と人工調味料にまみれた欲望を胃袋に落とし込むと同時に、「運動しろ、走れ、痩せろ!」というメッセージを受け取る。現代における欲望の世界とは、「喰らえ」「吐き出せ」という矛盾するメッセージ(まさに過食嘔吐のイメージと合致する)に同時に晒される場所を意味する。

現代の都市空間の最大のいびつさは、欲望や感情を抑圧し、理性的に振る舞う「労働」の場と、意のままに喰らい、吐き出す「欲望」の場が、同じ場所にあるというもう一つの矛盾にある。男性の欲望の暴力性に晒される女性の恐怖を描いたポランスキーの映画『反撥』、主人公のカレンは美容サロンで働いていた。サロンにおいて、女性たちは美を欲望する主体としてもてなされるが、サロンを一歩出ると、男たちの無遠慮な欲望の視線に襲われる孤独な客体となってしまう。その二重性に気づいた途端、母系的な楽園のようにも思えるサロンが、女の工場としての顔を見せ始める。女性や立場の弱い労働者など、社会の周縁に追いやられている人々ほど、都市の様々な二重性と、そこから生まれる歪みに縛られ、苦しめられている。

労働者たちの身体は、ふたつに引き裂かれている。我々の身体には、「理性」という無機質な領域のほかには、「欲望」や「感情」と名のつく陳腐で貧しい土地が残されているのみである。「感情」や「欲望」といった言葉は、「理性」によって切断された身体のもう半分を指し示すためのものに過ぎず、明確な対義語関係にすらない。よって、それらを解放することがオルタナティブな生き方であるとする言説も、まったくのデタラメである。我々は、身体の半分を労働に、もう半分を消費によって搾り取られているに過ぎない。

鬱と霊性

惨憺たる有様である。我々の身体は、貧しい荒れ野だ。そして、資本主義という名の大型トラクターが、その荒れ野をズタズタに引き回し、堆肥と化学肥料を撒き散らし、土壌に含まれる栄養分を根こそぎ搾り取っていく。そうして人々は、連作障害を起こしてバタバタ倒れていく。誰もが知っているように、その先に待っているのは鬱である。

鬱というのは、どういう病気か。私は医学の専門家ではないので、経験から端的に述べることしかできないが、それは「なにもできない」病気である。起き上がることもできなければ、眠ることもできない。当然、風呂には入れないし、食べることもできない。まともに社会生活を送ることは不可能になる。奇しくも、私は鬱になってはじめて、「できない」ということを知るのである。

ここでひとつ言っておきたいことがある。「鬱は人体の『エラー』だ」という言い方を当然のようにする者がいるが、私はそれは間違いだと思う。これまでの論を振り返ると、鬱はエラーではなく、「そういうプログラム」であると言えるだろう。鬱は「機能停止」という機能であり、身体が壊れかけている時の保護機能の一種である。身体や心が壊れているのに、それでも動き続けるならば、それこそエラーと言うべきだろう。

少し話が逸れたが、鬱になっては我々はなんにもできやしない。布団の上で横になっているだけで一日がなにもできずに終わっていくのである。

「あなたは社会の『歯車』だ」

我々が社会で生きていく中で、呪いのように言い聞かされてきたメッセージである。「歯車」というのは定義上、動き続けることではじめて「歯車」でありうる。その意味で、この言葉は「動き続けろ」という呪いを我々にかけている。しかし、私は動かない。鬱になってはまともに動けません。ずーっと、地蔵のように固まって動かなくなって五年が過ぎた。心の中には、もう何も無い。身体もボロボロ、あちこちで機能不全を起こしている。しかし今、少しまた何かが動き始めた。人によっては、数十年、数百年後かもしれない。いずれにせよ、私は動き出した。新しいプログラムが起動し始めたらしい。

五年前に止まった歯車が、いま動き出すというのは、何を意味するのか。動き続けることに意味がある歯車。それは時計に似ている。時計は正確に時を刻み続けてはじめて「時計」として意味を持つことができる。逆に言えば、一度止まった時計が、しばらくしてまた動き出したとするならば、もはやそれは「時計」とは別の何かである。それは、正しい時間を示す、という当初の役割は当然果たさない。しかし、それでも動いている。確かにそこにある。我々はそれをなんと呼びうるだろう。

私は、それこそを「霊性」と呼ぼうと思う。五年が過ぎ、あのトラクターは遥か遠くに走り去ってしまった。私の身体は、まるで耕作放棄地のように、種々の雑草が自由に根を絡ませて生えている。ほとんど何も無いが、それで穏やかな荒れ野である。

俺は毎日歩き続けて、ある時、日差しが余りにも眩しいとかそういった理由で立ち止まり、そのままぐったりと頭を垂れて、地蔵のように動かなくなった。

300年後、そこには踊りがあった。