2024/07/20(土)「日本橋」 (original) (raw)

大学友人Sと葛西の地下鉄博物館で13時待ち合わせだった。外は灼熱地獄であり、出かけることにしたのが悪手に思えた。
地下鉄博物館は東西線の高架下にあった。弁天町にあった交通博物館を思い出した。中には赤い車両と古めかしい黄色の車両があった。赤い車両は地下鉄丸ノ内線300系1号車。戦後最初に作られたもので、側面にラインウェーブという模様が入っていた。黄色の方は、日本初の地下鉄車両1001号車であり、重要文化財だった。側面のリベットが特徴だった。
その他は鉄道系の博物館にありがちな雑多なイメージだった。子供向けから、大人が読んでもわからないものまで、ごちゃごちゃであった。客層は圧倒的に子供中心であり、おっさんには少し場違いな感じだった。
東西線で葛西から日本橋に移動した。重要文化財である日本橋高島屋本館に行くことにした。そもそも私の百貨店のイメージは子供の頃に連れて行ってもらった阪急百貨店と阪神百貨店であり、屋上のプレイランドや最上階の食堂だった。しかし、「大屋さんと僕」を読んでると、お金持ち御用達のイメージへ変わった。そんなところを確認してみたかった。
日本橋高島屋は大阪の百貨店とは雰囲気が異なって、高級感があった。そして、古めかしくて昭和で時間が止まったようでもあった。1階の中央には重厚な大階段があった。今では見かけない作りだった。エレベーターは外扉が昔懐かしい網々で、到着すると「チン」と鳴った。エレベーターにはアテンダントが乗っていて、姿は正装で白手袋、言葉使いは丁寧で、外国人に対しては巻き舌の本格的風な英語で案内していた。
屋上に行くと庭園になっていた。屋上という感じがしなかった。祠があったり、花壇があったりした。隣の新館の方ではバーベキューができるようだった。しかし、茹だるように暑かったので誰がこんなとこでやるのかと思った。
5階貴賓室に行った。貴賓室を見たかったのだが、ここは高島屋史料館TOKYOの一部になっており、新田樹写真展「雪」をやっていた。戦争でサハリンに残された人を撮った写真だった。私はサハリンにひかれるのである。
4階では企画展「ジャッカ・ドフニ 大切なものを収める家ーサハリン少数民族ウイルタと「出会う」」をやっていた。私はジャッカ・ドフニのことをどこかで読んだことがあった。少数民族ウィルタに関する博物館が網走にあったこと、その博物館がなくなってどこかの博物館に寄贈されたことを知っていた。いつか見たいと思ってたが、まさか東京のど真ん中で遭遇するとは夢にも思わなかった。
簡単な展示があった。簡単だったのは展示スペースの関係かもしれない。ウィルタの生活の中心にトナカイがいることはわかった。ただ正直なところ、アイヌとの違いがよくわからなかった。サハリンには他にも少数民族がいる。こうなってくると民族の定義もわからなくなっていた。
次は三越前駅に歩いて移動することにした。途中で滋賀のアンテナショップがあったので、寄り道することにした。建物の外からは何体もの「とびたくん」が確認できた。滋賀は「とびたくん」「ひこにゃん」以外に目新しいものはなかった。焼き鯖寿司があったので買った。
首都高の下に橋が出てきた。日本橋だった。日本橋の欄干には立派な竜のブロンズ像が乗っており、驚いたことに重要文化財だった。渡りきると日本国道路元標がかった。ここは7つの国道の起点だった(国道1号線(旧東海道)、国道4号線(日光街道奥州街道)、国道6号線(水戸街道)、国道14号線(千葉街道)、国道15号線、国道17号線(中山道)、国道20号線(甲州街道))。後で知ることになるが、写真に撮ったのはレプリカで、本物は日本橋の道路のど真ん中に埋められていた。
三越日本橋本店本館。日本初の百貨店であり、ここも重要文化財だった。高島屋と同じような雰囲気だった。
日本銀行本店。ここも重要文化財だった。石組の重厚な作りで、東京駅で知られる辰野金吾の設計だった。
Coredoの近くにある離島百貨店に行った。ここは昨年Aさんに教えてもらった店だった。ここには離島で作った品々が並んでいて、プチ旅行気分が味わえた。しかし、テーマがマニアック過ぎる上に全国の島を扱っているために、関心が分散しがちであった。店内は週末にも関わらず、閑散としており、経営は大丈夫なのだろうかと心配になった。
丸ノ内OAZOまで歩いた。丸善で池谷教授の本を中心に5冊買った。積ん読が溜まっているが、気にしない。
東京駅「名古屋コーチン一鳳」で2000円の特製親子丼。「5 Crossties Coffee グランスタ東京」でダベった。22時前に撤収。
今日は日本橋には新しい発見がたくさんあって新鮮だった。あと地下鉄博物館から身体がダルくてしんどかった。もうあんまり無理はきかないなと思った。