映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」に救われた話 (original) (raw)

珍しく映画の感想などをつづってみようと思います。

現在公開中の映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」を見てきました。わたしは比較的劇場に足を運ぶタイプの映画好き中年でして、大した興味を持てない作品でもひとまず劇場で観ておこうかな、というマインドを持っています。つい先日も思い付きで、仕事の帰りにレイトショーを見る気分になったので、「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」を鑑賞するに至りました。

本作は前作「ジョーカー」の直径続編でして、前作を観ていない観客はまったく相手にしていないような作品です。続編だけど単体でも楽しめるというキャッチを、プロモーションでは使いがちですよね。でも本作はまったくそういう類ではありませんでした。

前作が世界的な大ヒットを記録した後の、同監督による続編ですから、世間の期待はさぞ大きかったのだろうと思います。

わたしは前作も劇場で鑑賞していましたが、これも気まぐれに観たの過ぎず、今回とてまたもや単なる気まぐれの鑑賞でした。しかし観終わった後は、劇場に来て良かったと心底思う事になりました。

ところで今回の続編、世界的に不評を買っているのだそうですね。鑑賞後に知人からそのように知らされました。

思ってたのと違う、という事らしいです。

ヒット作続編ともなれば、ファンも大勢醸造した事でしょうし、彼らの期待は膨らむ一方で、しかし彼らの好みが必ずしも同じ方向とは限らない事を思えば、仕方のない事。ところがこの不評は単なる不評ではなく、怒りさえ伴う苛烈なアンチテーゼとして蔓延しているのだそうです。

まあわかりますよ、言いたい事は。

前作の語り口は見事でしたしルサンチマン的欲求の充足が心地よかったので、続編でも同様の甘い蜜に溢れていると思い込んだのでしょうね。

しかしこれがまた全然違った味付け、というか料理自体が違ったんですよね。大好きなラーメン屋に入ったらクレープが出てきた、みたいな。

本作の大筋を乱暴に表現するなら、「みんなが憧れ痛快に感じたジョーカーは、そもそも存在していなかったのだ」という感じですか。前作で見る事が出来たジョーカーは偶然人々の期待が像を結んだに過ぎない幻だったのだと、製作者本人が種明かししてしまった格好です。

駄目人間は何をやっても駄目人間。

虚像にすがってたまたま発生してしまった人々の期待に応える事はついに叶わず、迂闊にも望んでしまった夢の生活はやはり残酷に失われる、という物語です。

なんとも救いのない話で、そんな気持ちにさせられるとは微塵も思っていなかった残策ファンは、さぞ落胆された事でしょうね。

しかしわたしは、この続編が大層気に入りました。

本当の弱者という立場を経験した事がある人にとっては、ホッとするような救いがあったんじゃないかなと思うんですよね。

駄目人間が奇跡的な事件を経てヒーローに生まれ変わっていく物語を何度も見せられてウンザリしながら、でも現実にそんな事は起きないしそんな期待を持つことは馬鹿げていると分かっているのに、世界はそれでも頑張れと無神経にキラキラした言葉で励ましてくる。

その息苦しさを言葉にして発するのは、後ろ向き、ネガティブという理解をされて、表立って共感を得る事は極めて稀、でも自分にウソをつくのが下手な人々は、言葉を飲み込んだままポジティブなふりをして生きていかなくてはならない。

そういう事を感じている人にとって、現実はこういうものだよね、残酷だけどこういう理解で合ってるよね、と寄り添ってくれた気がするような作品だったんじゃないでしょうか。

少なくともわたしはそう感じて、救われた気分になりました。

アーサーが物語終盤、陪審員の前で「自分はジョーカーではない、ただのさみしがり屋の人間だ」と告白するシーンで、わたしはなんだかスッキリしました。そう、そういうのが聴きたいんだ、と。

物語のまとめ方としては、非常に救いのない話です。でもわたしは救われた気分になっちゃったんですね。

とまあ、同じ作品でも観る人の境遇や経験によって、全然違ったものに感じられる事があるんだよという話でした。