マッシモのフォーカシングな日々 (original) (raw)

先日テレビで「芸能人格付けチェック」を見ました。

その中で、「弦楽七重奏」の聴き比べと「ロックバンド」の聴き比べの二つを見ていて思うことがありました。そしてそこからまた自分について考えることがありました。

「芸能人格付けチェック」の番組内の内容は、下記のとおりで、

https://www.asahi.co.jp/kakuzuke/ からの抜粋です。

「弦楽七重奏」
世界的に認められる一流プロが最高級の楽器で奏でる七重奏と、アマチュアの大学生の七重奏を聴き比べる。
楽器編成はヴァイオリン4本、ヴィオラ2本、チェロ1本とピアノ。一流のプロのために用意されたヴァイオリンのうち1本は格付けではおなじみの『ストラディヴァリウス』。今回は1732年に制作された『レッド・ダイヤモンド』。プロが使う楽器の総額は20億円。不正解のアマチュア東京藝術大学桐朋学園大学など名門で腕を磨いている大学生が普段学校で使用している楽器で演奏する。

「ロックバンド」
女性ハードロックバンド「SHOW-YA」の演奏と、小学生ガールズバンドの演奏を聴き比べる。
正解を演奏するのは、女性ハードロックバンドのパイオニアで2021年には世界進出をはたしたレジェンド「SHOW-YA」。不正解のロックバンドは全国から楽器自慢の女の子を集めた平均年齢10歳の小学生ガールズバンド。SHOW-YAのボーカル寺田恵子が大ヒット曲「限界LOVERS」をプロ、小学生バンドの両方で歌う。

ここまで、ABC TVのホームページから抜粋

この二つの聴き比べで、「弦楽七重奏」では正解者が1人、「ロックバンド」では正解者なしという結果になりました。

ロックバンドで全員がはずした時には、司会者がはずした芸能人全員に向かって「プロのミュージシャンのSHOW-YAに謝りなさい」とジョークを飛ばしていました。

番組的にははずすのはダメでしょうが・・・自分がいいと思った方が正しいでいいのではと思いました。

基本的に音楽はあくまで個人の感性で味わうものだと思うからです。自分がいいと思うほうが正しいと思います。

ただ、クラシックやSHOW-YAのロックについて、もともとを知っている人はきっと間違わないのだとは思います。

何の予備知識のない人が聴いてどう感じるかは本当に個人の感性なので、正解も不正解もないのだと思います。

実際、弦楽七重奏で学生が奏でる演奏はいい感じだなと思いました(プロが使用している合計20億円の楽器というハンディがあっても)。

小学生が演奏するロックは生き生きして若さ弾けるとても素晴らしい演奏でした。

なので、自分がどちらがいいと思うかという判断基準でものを見れば、正解も不正解もないのだと思いました。

翻って、音楽ではなく、自分の普段の生活での判断基準を振り返ってみますと・・・

いや~、いかに他人基準で生活しているか思い知らされました。

「あの人は、これをどう思うだろうか?」など自分の判断基準を無視して他人基準を勝手に思い描いて判断しています。

さらに、自分が勝手に思った他人軸を基準に行動してしまっています。

自信がないから?自己肯定感が低いから?波風を立てたくないから?自分を守りたいから?それが相手のためだと思うから?

どれもそうなのかもしれません。

もう少し、自分軸をしっかり持ってもいいのでは?と考えさせられました。

私はクラシックに明るくないので「クラシックの何たるか」を知りませんし、またSHOW-YAをきちんと聴いたことがなく、それらの本質を理解できていないので、ただTVから流れる演奏を聴いて個人的にどう感じるかという感覚で聴いていました。

クラシックについては、正直わかりませんでした。

TVを通してだからだと思いますが、プロが使っている楽器の合計20億円という凄さがあまりわかりませんでした。

日差しはすっかり秋色に変わりました。

いつの間にか暑くて寝苦しい夜から解放されていました。

みなさまいかがお過ごしでしょうか。

おかげさまで体調も少しずつ回復に向かっています。一時は手術も覚悟しましたが今のところなんとかなりそうでホッとしています。

出来る範囲でやりたいことを少しずつやってみようと、最近ショートショートストーリーを書き始めました。

400字詰め原稿用紙で10枚くらいの短い小説ですが、差し当たってある文学賞に応募してみようと思い立ちました。

ストーリーの構成を考えたり、捻りを考えたりするのが思いのほか楽しく没頭できます。

応募期限までにストーリーが書き上げられるように机に向かう時間が多くなりました。

まだ体力が追い付かないのでいつも途中でダウンしてしまうのですが、ちょっとの時間でも集中できます。

期限がなかったらきっとこんなに集中して完成に向かって努力することはなかったと思います。

きちんとした目標を持つことの大切さを今更ながら感じました。

蛇足ながら、出来は別としてなんとか期限内に書き上げられそうです。

目標を持つことの大切さ、今更ながら気づきました。

これから、いろんな目標を立ててみようと思いました。

9月に入って日差しは強いものの秋らしい涼しい風を感じるようになりました。

蝉の鳴き声もほとんど聞かれなくなり、替わってコオロギの鳴き声が響きわたるようになりました。

昨日(9月6日)NHK総合テレビで、時をかけるテレビ「われらの再出発~失業サラリーマンたちの6か月」を見ました。

この番組を見て、時代や環境の違いを超えて「仕事」について考えさせられました。

番組の内容については、以下NKHのホームページから引用

「1996年東京都立亀戸技術専門校(当時)のビル管理科に入学した中高年の16人は、いずれもバブル経済崩壊後の不況下、リストラや倒産などで職を失ったサラリーマンたち。それぞれ培ってきた仕事へのプライドもあれば、家族の事情もある男たちだ。入学当初は会話もなかったが、やがてクラスメートとして勉強を教えあうなど友情が芽生えていく。冬の時代を懸命に生きる人たちの、入学から卒業、再就職までの日々を見つめた。

1997年放送の職業訓練校のドキュメンタリー。山田洋次監督はこの番組を見て『学校Ⅲ』を製作したと言う。」

(ここまでNHKのホームページから引用)

家族を養うため、社会の一員として働きたいため、これまでの職歴とは全く関係もなく、自分の生きがいや興味とも全く関係のないビル管理の仕事に就くために「必死」に勉強し、就職試験を勝ち抜こうと立ち向かう姿を見て考えさせられました。

番組を見ていて最初は、時代や環境が今とは違うから自分とは関係ない話だと思いました。

しかし、見ていくうちに、時代や環境は違えど今の自分の生き方、仕事との向き合い方がいかに甘いかを突き付けられ、それをかわそうと言い訳をしている自分に気づかされたのです。

言い訳ができないほど番組の中の中高年が「生きるための仕事」に立ち向かう気迫と迫力が圧倒的だったのです。

番組に登場したある人は、定年前にリストラされ、新しい就職口を見つけるため技術専門校のビル管理科で学んでいました。

定年ほどの歳になってから、これまでと全く関係のないボイラー管理のための計算式や構造や操作を覚えなければならないことの大変さ。

学校では休み時間も勉強し、学校が終わってからも自宅で遅くまで毎日勉強するハードな日々。

息子さんが「今までこんなに必死に勉強する姿を見たことがなかった」と驚くほどの奮闘ぶりでした。

それほど必死に努力しているのにもかかわらず、思うように成績が伸びず、これでは合格は難しいと告げる教官に涙ながらに悔しさを話す姿。

それでも、仕事を得るためにはどうしても乗り越えなければならない。

涙の後、諦めることなくさらに努力する姿。

それでも不合格。私なら立ち直れないだろう。

しかし、彼は自分のため、家族のためにも諦めることが許されない。

家族の支え、学校の仲間と教官の協力によってさらに勉強を続け、再挑戦で合格を勝ち取る。合格通知を見た時の喜ぶ姿。

その後、何倍もの就職試験に勝ち就職が決まり喜ぶ姿。

「輝く姿」とはこのことをいうのだと思いました。

振り返っての自分。

やりたいことをできる環境にありながら何もやっていない自分。

ぬるま湯に浸かったままでいる甘さを突き付けられた番組でした。

パートタイマーでたいした収入もなく不足分を貯金を切り崩して生活している自分。

3年ほど前に自分の魂が消耗し続けて無くなってしまいそうだとサラリーマン生活を辞めた自分。

これからは自分がやりたいことで人の役に立つことを仕事にするのだ、と意気込みながら結局何も前進していない自分。

(すみません、まだ具体的にどのようなことなのか書くことができません。書けないこと自体、先延ばしして消極的になっている証拠です)

貯金が無くなる前にまでに何とかしなければならないのに、切迫感がないというか、いつも言い訳をしてダラダラと先延ばしにしている自分。

この番組で甘さを突き付けられて何もしないわけにはいかない・・・

体調不良と付き合いながら、できる範囲でいいから前に進まなければと思った時間でした。

ご無沙汰しております。

皆様いかがお過ごしでしょうか。

地震や台風と自然の脅威が襲う日本列島。科学が発達した今でも自然の前に人間は全くなすすべがないことを思い知らされています。

私事ですが、しばらく体調不良が続きブログの更新が滞ってしまっていました。

体も思うようにならないことを思い知らされています。

まだ体調不良は続いていますが、出来る範囲でブログは更新していこうと思っています。

更新の間隔が長くなってしまうかもしれませんが、どうか長い目で見ていただければありがたいです。

最近、医者や薬に頼るだけでなく、自分で体のためにできることをやってみようと思うようになりました。

まずは免疫力を高めるために昔ヨガを習ったときのイメージリラックス法を思い出してやってみました。

仰向けに寝て、目をつぶって足先から頭まで順番に力を抜いていくというイメージリラックス法です。

やってみると、いろんな部分に力が入っていることに気づきました。

一番驚いたのが、顔の筋肉に力がはいっていることでした。

顔の筋肉ってこんなに緊張しているものなんだと。

なんでこんなに緊張しているんだろうと考えてみると、これまで長年にわたって仕事で仮面をかぶって仕事をしていたことに行き当たりました。

「自分の心と切り離された表情」で仕事をしていたからではないか?

あえて言えば仕事用の「仮面」を自分の顔で作っていたということ。

そして、その仮面がとれないまま固まってしまったのが今の自分の顔なんだということに気づいたのでした。

社会で生活するうえで、人はいろんな場面でその場にあわせて仮面を架け替えるものだという心理学者もいます。

確かに、社会で素の自分でいられる場面はそうそうないのかもしれません。

ただ、私の場合、仕事用に作った仮面がそのまま固まったままになっていたことに非常に驚きました。

無意識にそうしていたのでしょうが、そのことを今回のイメージリラックス法で気づけたことはこれからの自分の変化のために大切な気づきを得たと感じました。

猛暑が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

私は昨日危うく熱中症になるところでした。

気持ちと体は別なんだということを思い知らされました。

皆さんもどうかお気を付けください。

そんな暑い日が続いているのに、今日は立秋なんですね。

ただ、夜もエアコン無しでは寝られないのですが、数日前からすでに夜にコオロギが鳴くようになりました。

夏真っ盛りと体は感じていますが、コオロギの鳴き声から秋の気配を感じさせてもらっています。

今朝、久しぶりに自転車で郊外まで出かけて田んぼの道を走りました。

猛暑の中、あたり一面すでに花が実を結んで青々とした稲が首をたれていました。

走りながら、もの凄~く甘く香ばしい稲の香り(新米を炊いた時と比較にならないほど甘く香ばしい新鮮な香り!)に包まれて幸せな気分になりました。

その香りを胸いっぱいに吸うと、体の細胞がバチバチと目覚め、頭の中がリフレッシュされていくのがわかりました。いや、何より「生きている」実感を強く感じることができました。

最近、あれこれ悩んだり考えすぎることが多く頭がオーバーヒート気味でした。

そんなときこそ、自然の中で「素の人間」に戻ってみることが大切だと体が教えてくれました。

先日、早朝に夢を見ました。

いつもは、夢を見てもよく覚えていないのですが、今回は起きる直前だったためか意外にはっきりと内容を覚えていました。

その夢から大切なことに気づかされました。

以下夢の内容です。本題に入るまで少々前置きが長くなることをご容赦ください。

夢の中で、私は自分と同い年くらいの白髪混じりの男性(全く面識がない)と話をしていました。男性は何故かずっと私に背中を向けたままでした。

私は、斜め後ろから見える彼のこめかみの白髪交じりの髪がなぜか気になっていました。

彼に語るときは、その白髪に向かって語り掛けていました。もしかしたら、彼の生きてきた年月の証の白髪に共感するものがあったからかもしれません。

その男性は、ずっとお笑い芸人として生きてきたとのことでした。

ただ、これまで一度もヒットをしたことがなく全く名前も知られませんでした。

テレビに出演をしたことはほとんどなく、ほかの芸人と一緒に演芸場や地方の公演で生計を立てているとのことでした。生活費が足りないことが多くアルバイトもしていたとのことでした。そうして、ずっと好きなお笑いを続けて家族を養ってきたとのことでした。

そのことを語る彼は、「俺にはお笑いが生きがいなんだ」というような気負いがなく、「やりたいことをひたむきにずっとやりつづけてきただけ」と非常に淡々とした表現でした。

私は彼に、経済的な問題や、自信を失ったり、これでいいのかと悩んだり、人間関係など、多くの壁があったと思うのに、やりたいことをずっと続けてきたこと自体素晴らしいことだと伝えました。

それに対して彼は何も答えず、表情一つ変えませんでした(後ろ姿なのでわかりませんが、体が微動だにしなかったのでそう感じました)。

彼の背中が、「はあ?あなたは何を言っているのか?」と語っているようでした。

私は、思わず彼に、「自分はこれまで自分が思うような仕事ができなかった。でも、これからは自分の気持ちに正直に生きられるような仕事をするのだ。あなたの生き方を見習います」と伝えました。

それに対しても彼は何も答えず、むしろ完全に無視されたような雰囲気でした。

彼はすこし間をおいてから、「君は、君の名前にどんな意味が込めれれているかを知っているか?」と聞いてきました。

私が不思議そうな顔をしていると、「君が生まれたとき、君の両親は、君がどんな人間になってほしいか、その思いを名前に込めているのではないか?あなたは両親の思いをわかって生きてきたのか?」と早口で問いかけてきました。

その言葉にはっとさせられました。

確かに、これまで名前に込められた両親の思いを考えて生きてきませんでした。

小学校の授業で自分の名前がどういう思いでつけられたのかを調べる時間があり、その時に初めて、母親から名前に込めた思いを聞かされたのでした。

その時は子供で、「へえ~」と何も理解できず生返事だけしました。

その時以来、考えてみれば自分の名前の意味を思ったことが一度もありませんでした。

自分の思いだけで生きてきました。

小学校の時に聞いた母親からの言葉の重みが、大人になった今(成人ならまだしも、こんな還暦のおやじの今)、深く深く胸に突き刺さりました。

そして、本当の意味で目を覚まさせられました。

自分だけで生きているのではないことを。

親から命を受け継いでいるんですよね。その親が次の時代に生きる子に託す希望や理想をもある意味引き継いでいるんだと思います。

もちろん意味に縛られては本末転倒かもしれませんが、少なくともその意味を胸に生きることが大切なんだな~と思った次第です。

いろんな経緯と思いがありつけられた名前なので、ここでは深くは書けませんが、「自分のためではなく、人のため、世のため、正義のため、ひたすらまっすぐに」という思いを胸に、あらためてこれからの生き方を考え直そうと思いました。

かなりの猛暑が続いていますが、皆様お元気にお過ごしでしょうか?

私はすでにバテバテです。

先日NHK総合テレビで「清里に来た男」というドキュメンタリー番組を見ました。

東京から来たデザイナーが、清里に移住して街づくりをデザインしようと地元に入り取り組んでいくようすを映していました。

1980年代に「高原の原宿」といわれて賑わった清里

ブームが去った今は観光客もまばらで、当時流行ったメルヘンチックなたくさんの色とりどりの多くの建物が、廃墟のまま空しく並んでいました。

その風景を、移住してきた50歳代後半のデザイナーは、「とても面白くて可能性がある街」とみました。

それに対して地元に暮らすある人は、「時代が過ぎ去り、もうこの街は終わったと感じている」とみていました。

番組の視点はそこではなかったのですが、私は、何故かこの二人の真逆の視点が強烈に印象に残りました。

同じものをみているのに、一方は「これからの可能性」を感じ、他方は「終わった」と感じている。

どうとらえるかによって、真逆の結果になるんですね。

もちろん、デザイナーは、自分の確固たる感性と、デザイナーとしての経験知から社会の流れを敏感に感じ取っていることもあるのでしょう。

一方、地元の人は、過去の賑わいがどんどん寂れていく様子を目の当たりにしていたので、将来をどうしてもネガティブに捉えざるを得ないところもあるのでしょう。

番組を見ていて、自分の場合はどう判断するだろう思いました。同時に、いつも自分はものごとをどういうふうに判断しているかをも考えさせられました。

自分の場合、どうしてもネガティブな判断になってしまうと思いました。

そして、判断はいつもネガティブに考える方向にあると。

それは根がネガティブだからだと思いました。

今回この番組でこのやりとりを見ていて、自分のネガティブな視点がこれからの可能性を潰しているのではないかと思いました。

ネガティブになる慎重さももちろん時には必要かもしれません。

でも、どういう視点や感性を持っていれば、自分にとってもまわりにとっても可能性が拓けるようになるのか、考えるきっかけを与えてもらえました。