松浦光修先生のコラム (original) (raw)

松浦光修先生のコラム 2024-10-01T00:02:41+09:00 matsuura_mn 松浦先生のコラムブログです Excite Blog みたみわれ 皇室と国民(32) http://matsumitsu.exblog.jp/33930204/ 2024-10-01T00:00:00+09:00 2024-10-01T00:02:41+09:00 2024-03-27T22:55:40+09:00 matsuura_mn みたみわれー皇室と国民ー (『解脱』令和3年8月)

私たちが“日本人は一つの家族、皇室は御本家"と、今でも感じることができるのは、私たち一人ひとりの心のうちに、今も「家」という意識があるからです。もしもそれが消えたら、あるのは「個人」だけになるでしょうから、日本人の一体感も消えていくでしょう。ですから、同じ「姓氏・苗字)」でつながっている「家」という意識は、私たち日本人が、今後も日本人らしく生きる上で、けっして失ってはならないものなのですが、今はその大切さが、わからない人が少なくありません。
近ごろ「夫婦別姓 (別氏)」を進めている人々がいます。マスコミは、それが、さも〝よいこと” のように報道していますが、世の中には、「選択」してよいことと、いけないことがあります。たとえば、子供が生まれたら、名前をつけて役所に届けます。 「届けないという選択」など、してはいけません。しかし、どういう名前にするのか・・・ということは、心をこめて「選択」すべきです。それを取りちがえて、「選択」してはいけないことまで「選択」できるようにしてしまうと、どうなるでしょう。極端なことを言えば、「赤信号」を「私は『進め』と解釈する」などという「選択」まで許されることになります。もしもそうなったら、社会は大混乱におちいるでしょう。
ですから私は、今、一部に言われている「選択的夫婦別姓(別氏)」には、反対です。そのようなことをしたら、子供から見て、父母のどちらかが「別姓(別氏)」になってしまいます。また、「○○家先祖代々之墓」には、夫婦のどちらかが入れません。それは結果的に、わが国に古代からつづいている「家」という意識を壊し、ひいては日本人の一体感を壊すものになるでしょう。「結婚後の通称使用」も容易にできるようになっています。ですから、男女が結婚をする時に話し合って、男女どちらかの姓(氏)を選んで、戸籍上一つの「家族」になるという今の制度の、どこに問題があるのか、私には、まったく理解できません(ちなみに、令和三年六月、最高裁も「夫婦同姓は合憲」という、しごく当然の判断を下しています)。
私は戦後、日本人の心が、どんどん不安定になってきている気がしてならないのですが、その原因は何でしょう?いろいろとあるでしょうが、私は戦後の日本人の心から「家」という意識が薄れていき、それとともに「ご先祖さま」という意識も薄れつつあるということが、その大きな原因の一つではないかと思っています。「ご先祖さま」という意識が、どれほど日本人の「心の安定」に寄与してきたか、はかりしれません。柳田國男はこう書いています。「今ならば、『早く立派な人になれ』とでも言う代わりに、(昔は)『精出して学問をして、御先祖になりなさい』と、少しも不吉な感じはなしに、言って聴かせたものであった」(「先祖の話』)。「ご先祖さまになる児」というのは、昔の日本では「一家を創立」して「新たな初代になる力量を備えている」ような子供・・・、つまり“将来が楽しみな子供〟という意味だったようです。(つづく)

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みたみわれ 皇室と国民(31) http://matsumitsu.exblog.jp/33930195/ 2024-09-06T00:00:00+09:00 2024-09-06T00:01:58+09:00 2024-03-27T22:43:53+09:00 matsuura_mn みたみわれー皇室と国民ー (『解脱』令和3年7月)

皇室だけでなく、わが国の国民のほとんどが、かつては「敬神崇祖」の心をもっていました。たとえば、『古事記』にはこういうお話があります。 天孫降臨のさい、天孫・ニニギの命は、「五伴緒」と呼ばれる五つの部族を統率する族長に、それぞれ職務を分担させて、天上界から地上に降臨されます。この五つの部族の族長が、さまざまな氏族の始祖になるのです。いちばん有名なのは、アメノコヤネの命でしょう。その子孫が中臣氏、そのあと藤原氏にかわります。佐藤、加藤、後藤、斎藤など、今の日本には、「藤」のつく苗字の人が少なくありませんが、それらの苗字は、ほとんどが藤原氏に由来するものです。ということは・・・、その苗字の人々の「ルーツ」は、天孫降臨の時、ニニギの命のお供をして、地上に降りてきた神さま・・・と解釈してもよいでしょう。残る三柱の神々についても、『古事記』には、フトタマの命は忌部氏の先祖・・・、アメノウズメの命は猿女君の先祖・・・、タマノヤの命は玉祖連の先祖などと書いてあります。ただし、残るイシゴリドメの命を先祖とする一族については、何も書いてありません。
ともあれ、このように天孫・ニニギの命につき従って、地上界に降臨した神々の子孫は、「人の世」になっても、それぞれの始祖を見らって、御歴代の天皇に誇りをもってお仕えしています。そのような“先祖意識〟があるからこそ、いくら藤原氏が権力をもっても、"自分が天皇にとってかわろう〟などとは夢にも思わなかったのです。そんなことをしたら、"先祖を裏切る"ことになります。 「崇祖」 の心がある昔の人々にとって、それだけは、絶対にできないことでした。『古事記』というと、ともすれば私たちは、その"お話〟にばかり注目してしまいがちです。しかし、そこには、たくさんの氏族の「ルーツの神」が書いてある・・・いうところも重要なのです。古代の人々は、"自分たちは何者か"と考えるさい、かならず「先祖」を意識していました。ですから、古代の人々にとって、『古事記』に書かれている神々の物語は、"自分たちの存在の源流〟を教えてくれる大切なもの、でもあったわけです。
苗字のお話をしたついでに、「源氏」や「平氏」のお話もしておきましょう。 そもそも「源氏」も「平家」も、皇室から分かれた家系です。有名なところでは、第五十代・桓武天皇からはじまる桓武平氏や第五十六代・清和天皇からはじまる清和源氏があります。桓武平氏から分かれた一族としては、三浦、杉原、和田などがあります。清和源氏から分かれた一族としては、山田、小島、村上、武田などがあります。苗字や家系について、詳しく知りたい方は、太田亮『姓氏家系大辞典』という大部の本がありますので、それをご覧ください。もっとも六千数百ページのむずかしい本ですから、読むのはたいへんですが・・・。
ともあれ、こうして見てくると、要するに“日本人は、すべて神々の子孫"ということもできるでしょう。そして、〝皇室とは、日本のすべての家族の御本家〟ということも、できるのではないでしょうか。
(つづく)

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みたみわれ 皇室と国民(30) http://matsumitsu.exblog.jp/33930126/ 2024-08-15T12:00:00+09:00 2024-08-15T12:01:23+09:00 2024-03-27T21:37:26+09:00 matsuura_mn みたみわれー皇室と国民ー (『解脱』令和3年6月)

〝敬神崇祖であり、崇祖は敬神である"ということを、御歴代の天皇陛下は、わが国で、もっとも"体感”していらっしゃるのでは・・・、というお話をしましたが、それは、天皇陛下にかぎったことではないでしょう。 かつては、ほとんどの国民が、そのように体感していたはずですし、今もそういう人は少なくないと思います。ただし、「敬神」 とか 「崇祖」というと、「何かむずかしいこと」のように思われる方もいらっしゃるかもしれません。ですから私は、それらの心を、わかりやすい言葉におきかえてみたい、と思います。
「敬神」を言いかえると、「お天とうさまが見ている!」という思いになるでしょう。それは、まちがいなく「敬神」の心の一端です。 日本人の高い道徳性の基盤も、そこにあるのではないでしょうか。昔の日本人は、幼いころから父母や祖父母、あるいは近所の大人たちから、その言葉を繰り返し言われて育ったものです。
また、「崇祖」を言いかえると、「(このことについて)今は亡き親は何と言うだろう?」という思いになるでしょう。人というのは、中高年になると、かつて親しかった人々が、櫛の歯が欠けるようにこの世を去っていきます。何かを相談しようにも、いちばん相談したい人が、もうこの世にはいない、ということがふつうになるのです。そのような時、人は、しばしば〝今は亡き人々の目〟を意識するものですが、それは、まちがいなく「崇祖」の心の一端です。
日本人なら、今でもそれらの心が、どこかに残っているはずですが、そもそも、それらの心の源流"は、どこにあるのでしょう?
たぶんそれは、悠久の昔から、わが国の人々の心のなかに、生きつづけてきたものではないでしょうか。その証拠もあります。昭和五十三年に埼玉県の稲荷山から出土した鉄剣に刻み込まれている文章です。そこには、鉄剣を製作された年も明記されています。西暦で言うと、四七一年です。製作した人の名前も明記されています。第二十一代の雄略天皇に仕えた「オワケノ臣」です。
その「オワケノ臣」は誰の子孫なのでしょう?そのことについて鉄剣に系図が書かれているので、よくわかるのですが、先祖をたどると「オホヒコ」という人物にたどりつきます。その「オホヒコ」から八代あとが「オワケノ臣」というわけです。先祖代々の名前が明記されていて、すでにそのころに「先祖意識」が確立していたことがわかりますし、その代々の名前を見ていると、すでにそのころから、わが国には「男系継承」の意識があったこともわかります。

それでは、その初代の「オホヒコ」とは、誰なのでしょう。 現在、「オホヒコ」は、第八代の孝元天皇の皇子「大彦命」ではないかと言われています。第八代の孝元天皇の御在位は、三世紀ごろと言われていますから、日本人の「崇祖」の心は、少なくとも千八百年ほど昔には、すでに確立していたわけです。
(つづく)

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みたみわれ 皇室と国民(29) http://matsumitsu.exblog.jp/33912018/ 2024-07-07T07:07:00+09:00 2024-07-07T07:07:05+09:00 2024-03-21T21:36:15+09:00 matsuura_mn みたみわれー皇室と国民ー

今は、そもそも「神武天皇」というお名前を、ほとんどの日本人が知りません。戦前は、日本人で知らない人などいなかったのですが、戦後になると、公の場で、そのお名前は、ほとんど聞かれなくなりました。毎年二月に建国記念の日が来ても、メディアで、そのお名前は、けっして語られませんし、小学校から高校までの学校の教科書にも書かれていません。ですから、「初代の天皇陛下は、なんというお方?」と聞いても、もう親、子、孫の三世代が、みんな「?」という時代になってしまったのです。
GHQが、銃口をつきつけるようにして日本に押しつけた「日本国憲法」にさえ、その第一条に「天皇は日本国の象徴」と明記されています。それにもかかわらず、その「天皇」についての正しい知識を、今の日本人は、ほとんどがもっていません。今時は「保守」と思われていた政治家が、いきなり「左派」の政治家と同じようなことを言い出して、びっくりする時がありますが、考えてみれば、今は、ほぼすべての日本人が「戦後教育」を受けているわけですから、政治家も、その例外ではないのでしょう。皇室のことも、日本の正しい歴史や伝統についても、そもそも〝教えられていない”のですから、そのような世の中になってしまったのも、残念ながら、ある意味〝当然〟かもしれません。
神武天皇は、九州から「東征」されて、現在の奈良県で初代天皇として即位された方ですが、そこにいたるまでは、さまざまな戦いを経なければなりませんでした。戦いの途中、神武天皇のお兄さまが戦死される、という悲劇も起こっています。しかし、そのような激しい戦いのなかでも、神武天皇は、神さまのお告げにしたがい、天の神々・地の神々の祭りをつづけられました。そして、初代天皇として即位されたあと、"天下を平定できたのも神々のおかげです" ということで、「大孝」の心を申しあげるため、鳥見山でお祭りを行われたのです。
それが宮中祭祀のはじまり・・・といわれています。その時、神武天皇は「大孝」とおっしゃっているわけですが、それは、どういう意味なのでしょう? 『礼記』という漢籍には、「小孝、中孝にまさる孝行が大孝」とありますが、神武天皇は、御先祖の天の神々をお祭りすることを「大孝」と考えられていたのです。
「大孝」は、訓で読めば、どうなるのでしょう?幕末のころは「おやにしたがうまこと」と読んでいたようです。しかし、そのころ活躍した大国隆正という学者は、「とほつおやに、したがふまこと」と読むべきである、と主張しています。「孝行」というと、一般的には両親を大切にすることですが、皇室の場合は父の父の・・・と、どんどんさかのぼっていけば神武天皇になり、その神武天皇も、父の父の・・・とさかのぼっていけば天の神々になります。つまり御歴代の天皇陛下とは、〝敬神は崇祖であり、崇祖は敬神である"ということを、わが国で、もっとも〝体感”していらっしゃる方々でもあるのです。
(つづく)

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みたみわれ 皇室と国民(28) http://matsumitsu.exblog.jp/33912004/ 2024-06-02T06:02:00+09:00 2024-06-02T06:02:12+09:00 2024-03-21T21🔞49+09:00 matsuura_mn みたみわれー皇室と国民ー

天皇陛下がお祭りされる「遠つ祖」は、それでも特別に大切な「祖」といえば、おそらく「神の代」にあってはアマテラス大神であり、「人の代」にあっては神武天皇でしょう。それでは、アマテラス大神、神武天皇などの「祖」は、一方的に〝祭られるだけ〟のご存在なのでしょうか。そうではありません。わが国においては、アマテラス大神も神武天皇も、そして、そのほかの多くの”祭られる祖たち"も、たしかに〝祭られるご存在〟ではありますが、それと同時に、おんみずから”祭るご存在〟でもあったのです。そこに、わが国ならではの〝信仰のかたち"があります。
たとえば、アマテラス大神は、高天の原で、新穀を神々にお供えして、おんみずからもお召し上がりになる、というお祭りをされています。そして、それと同時に興味深いのは、アマテラス大神が、機織りというお仕事もされていることです。いわばアマテラス大神は、おんみずから「祭祀」と「勤労」にいそしまれていたのです。
一神教の「最高神」が、「カミ」をお祭りしたり、働いたりするか…と考えると、そのことの重要性がご理解いただけるでしょう。
もっと興味深いことがあります。 アマテラス大神の父母であるイザナギの命、イザナミの命がご結婚されたあと、よい子が生まれない・・・ということに悩まれて、「アマツカミ」のもとに相談にいかれた・・・ということです。「アマツカミ」というのは、「天上界にいらっしゃるカミ」という一般的な言い方ですから、具体的にどういう「カミ」に相談されたのかは、わかりません。
しかも、相談を受けた「アマツカミ」は、自分では答えを出さず、"占い"をされているのです。その“占い"の背後には、どういうカミの力がはたらいていたのでしょうか? 『古事記』を、いくら読んでも、そのことは、とうとうわからずじまいです。

アマテラス大神が神々をお祭りし、その父母の神々も天上界の「アマツカミ」に相談し、そv>の相談を受けた「アマツカミ」も、何らかのカミのご意志を〝占い”でお知りになり・・・ということで、よく考えてみると、わが国の神代の物語のなかには、〝われこそは万能の絶対者である。われのみを崇めよ" などという「カミ」など、どこにもいないことに気づきます。どこまでいっても、神々を“お祭りする神々〟が、いらっしゃるだけです。そして、神々を“お祭りする神々"が、やがては〝祭られる神々"になっていきます。“お祭りすること"が永遠に連鎖して、そして今にいたっているわけで、私はそこに、わが国の信仰の、まことに奥深い、すばらしい美点の一つがあるような気がしてなりません。
アマテラス大神のお孫さまであるニニギの命が、天孫降臨されたあと、その子のホヲリの命の御代となり、つづいてホヲリの命の子のウガヤフキアヘズの命の御代となり、つづいて、ウガヤフキアヘズの命の子の神武天皇の御代となります。つまり、アマテラス大神のお孫さまの曾孫さまが、初代天皇である神武天皇なのですが、その神武天皇も、また祭り、祭られる"ご存在なのです。
(つづく)

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みたみわれ 皇室と国民(27) http://matsumitsu.exblog.jp/33911984/ 2024-05-05T05:05:00+09:00 2024-05-05T05:05:25+09:00 2024-03-21T20:56:06+09:00 matsuura_mn みたみわれー皇室と国民ー (『解脱』令和3年3月)

昭和天皇は奈良県で、御先祖の天皇方を偲ぶ御製を、いくつも詠んでいらっしゃいますが、そのようなお心は上皇陛下も同じです。平成三年、上皇陛下が京都での「植樹祭」の時におっしゃったことを上皇后陛下は、こう詠まれています。「父祖の地と君がのらしし京の地にしだれ桜の幼木を植う」。

奈良も京都も、歴代の陛下にとっては、なつかしい「父祖の地」なのです。
御歴代の陛下の神々を敬し、先祖を崇ぶお心は、お心だけにとどまるものではなく、行いと一体のものです。平成二年、上皇陛下は皇位継承の一連の儀式のなかで、ある意味、もっとも重要な大嘗祭に臨まれますが、その御心境を、こうお詠みになっています。

「父君の にひなめのまつり しのびつつ 我がおほにへの祭り 行ふ」。
歌意は、こうです。「私は御父上・昭和天皇の新嘗祭での所作を偲びながら、今、大嘗祭を行っています」。
上皇陛下は、大嘗祭だけではなく、宮中の祭祀を行われるさいは、関係する資料、さらには学術的な研究書までお調べになり、その祭りの由来や御作法を熱心に御研究され、その上で祭祀に臨まれています。この御製から拝察されるのは、何よりも大切な宮中祭祀を、"自分も御歴代の所作と、寸分の違いもなく行わなければならない"という陛下の気迫です。私たち一般の国民の多くは、それほどの気迫をもって神仏に祈るということは、あまりないでしょう。しかし、陛下が担われている宮中祭祀とは、それほど厳粛なものなのです。
宮中祭祀の日が来るたび、宮中三殿に向かわれる上皇陛下を、お近くで見送りつづけられたのが、上皇后陛下です。その御心中は、どのようなものであったでしょうか。上皇后陛下は、平成二年、こういう御歌をお詠みになっています。
「神まつる 昔の手振り 守らむと旬祭に立たす 君をかしこむ」。
「旬祭」は、毎月、一日、十一日、二十一日に行われる祭祀で、歌意は、こうなります。「神々をお祭りしてこられた御歴代の所作を、今も、そしてこれからも守ろうとされて、陛下は、旬祭に向かわれます。その御姿は、まことに畏れ多いものです」。
日々、もっとも身近に接していらっしゃる上皇后陛下から見ても、祭祀に向かわれる陛下の御姿は、 「畏れ多い」ものなのです。
おそらく上皇后陛下は、宮中祭祀に向かわれる陛下の御姿の向こうに、いつも宮中の神々の御存在を感じていらっしゃったのではないでしょうか。
ここにあげた御製や御歌から想起されるのは、明治天皇の御製です。 明治四十三年、「皇室祭祀令」という宮中祭祀の法律が定められますが、 その時、明治天皇は、こうお詠みになっています。
「我が国は神のすゑなり 神まつる 昔の手ぶり わするなよゆめ」
歌意はこうです。「わが国は神々の子孫の国なのですから、神々をお祭りする大切な所作を、今後もけっして、忘れてはなりません」。先の御歌で上皇后陛下は「昔の手ぶり」という明治天皇のお言葉をお使いになっていますが、そこには深い意味があるはずです。
(つづく)

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みたみわれ 皇室と国民(26) http://matsumitsu.exblog.jp/33911965/ 2024-04-29T00:00:00+09:00 2024-04-29T00:01:57+09:00 2024-03-21T20:36:37+09:00 matsuura_mn みたみわれー皇室と国民ー (『解脱』令和3年2月)

人々の悲しみや苦しみに寄り添いつづけながら、一方で、そのような人々とともに溺れる"という「失敗」をしないためには、「信仰」が必要になる、というお話をしました。そのお手本が、おそらく天皇陛下でしょう。
それでは、天皇陛下の「信仰」とは、どのようなものなのでしょうか。神武天皇以来、天皇の御本務が「祈り」であるということは、すでにお話ししましたし、その「祈り」が、「世の平らぎ」を祈るもの・・・ということも、すでにお話ししました(この連載の⑦を参照)。それでは御歴代の陛下は、いったい”何に向かっ"そのような「祈り」をささげてこられたのでしょうか?
天皇陛下の主な「祈り」の場所は、皇居のなかにある宮中三殿です。賢所・皇霊殿・神殿の三つの御殿をいいますが、賢所ではアマテラス大神を、皇霊殿では歴代天皇・皇后・皇族の方々の御霊を、神殿では八百万の神々をお祭りしています。ですから天皇陛下は、そういう神々や御霊に対して「祈り」をささげていらっしゃるのですが、よく考えてみると、アマテラス大神の御子孫である初代・神武天皇の、その男系の御子孫が御歴代の天皇陛下なのですから、じつは「賢所」と「皇霊殿」は〝ひとつづきのもの〟といえます。さらにいえば、「神代の物語」では、イザナギの命、イザナミの命から、わが国の山川草木やさまざまな神々がお生まれになったわけですから、じつは「神殿」も「賢所」や「皇霊殿」と〝ひとつづきのもの"といってよいでしょう。
古来、わが国の人々の信仰を一言であらわしたものとして、「敬神崇祖」という言葉があります。「神々を敬し、先祖を崇ぶ」ということです。 「神」というと、現代の私たちは、どうしても近代の欧米思想の影響で、何となく”自分と切り離された存在"と思いこんでいますが、古来の日本人の感覚からすると、それはかり“外国風"の考え方です。日本人にとって「神々」とは、自分の父母からさかのぼっていく「先祖」と〝ひとつづきのもの"なのです。現に天皇陛下は宮中三殿で、神々と御先祖の御霊という”ひとつづきのもの"に向かって、日々、祈りをささげていらっしゃいます。
その“ひとつづきのもの"の入り口にあるのが、たぶん「崇祖」です。ですから、御歴代の天皇陛下は、「崇祖」ということには、とくに御心を注がれてきました。ここではその一例として、昭和天皇の御製を拝読しましょう。昭和五十四年、御年七十九歳の時、「甘樫の丘にて」という詞書のある、こういう御製があります。

「丘に立ち 歌をききつつ 遠つおやの しろしめしたる 世をししのびぬ」。
奈良県の甘橿の丘で、古代の御歴代の御代を想起されているのです。昭和六十年、御年八十五歳の時にも、こういう御製を詠まれています。
「遠つおやの しろしめしたる 大和路の 歴史をしのび けふも旅ゆく」。「遠つ祖」を偲ぶ御心が、天皇陛下の「信仰」の基層にあります。そしてそのような心は、すべての日本人の「信仰」の基層にも、あるのではないでしょうか。
(つづく)

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みたみわれ 皇室と国民(26) http://matsumitsu.exblog.jp/33461878/ 2024-03-03T03:03:00+09:00 2024-03-03T03:03:38+09:00 2023-09-28T00:11:21+09:00 matsuura_mn みたみわれー皇室と国民ー (『解脱』令和3年2月)

人々の悲しみや苦しみに寄り添いつづけながら、一方で、そのような人々とともに溺れる"という「失敗」をしないためには、「信仰」が必要になる、というお話をしました。そのお手本が、おそらく天皇陛下でしょう。それでは、天皇陛下の「信仰」とは、どのようなものなのでしょうか。神武天皇以来、天皇の御本務が「祈り」であるということは、すでにお話ししましたし、その「祈り」が、「世の平らぎ」を祈るもの・・・ということも、すでにお話ししました(この連載の⑦を参照)。それでは御歴代の陛下は、いったい”何に向かっ"そのような「祈り」をささげてこられたのでしょうか?
天皇陛下の主な「祈り」の場所は、皇居のなかにある宮中三殿です。賢所・皇霊殿・神殿の三つの御殿をいいますが、賢所ではアマテラス大神を、皇霊殿では歴代天皇・皇后・皇族の方々の御霊を、神殿では八百万の神々をお祭りしています。ですから天皇陛下は、そういう神々や御霊に対して「祈り」をささげていらっしゃるのですが、よく考えてみると、アマテラス大神の御子孫である初代・神武天皇の、その男系の御子孫が御歴代の天皇陛下なのですから、じつは「賢所」と「皇霊殿」は〝ひとつづきのもの〟といえます。さらにいえば、「神代の物語」では、イザナギの命、イザナミの命から、わが国の山川草木やさまざまな神々がお生まれになったわけですから、じつは「神殿」も「賢所」や「皇霊殿」と〝ひとつづきのもの"といってよいでしょう。
古来、わが国の人々の信仰を一言であらわし
たものとして、「敬神崇祖」という言葉があります。「神々を敬し、先祖を崇ぶ」ということです。 「神」というと、現代の私たちは、どうしても近代の欧米思想の影響で、何となく”自分と切り離された存在"と思いこんでいますが、古来の日本人の感覚からすると、それはかり“外国風"の考え方です。日本人にとって「神々」とは、自分の父母からさかのぼっていく「先祖」と〝ひとつづきのもの"なのです。現に天皇陛下は宮中三殿で、神々と御先祖の御霊という”ひとつづきのもの"に向かって、日々、祈りをささげていらっしゃいます。
その“ひとつづきのもの"の入り口にあるのが、たぶん「崇祖」です。ですから、御歴代の天皇陛下は、「崇祖」ということには、とくに御心を注がれてきました。ここではその一例として、昭和天皇の御製を拝読しましょう。昭和五十四年、御年七十九歳の時、「甘樫の丘にて」という詞書のある、こういう御製があります。

「丘に立ち 歌をききつつ 遠つおやの しろしめしたる 世をししのびぬ」。

奈良県の甘橿の丘で、古代の御歴代の御代を想起されているのです。昭和六十年、御年八十五歳の時にも、こういう御製を詠まれています。

「遠つおやの しろしめしたる 大和路の 歴史をしのび けふも旅ゆく」。
「遠つ祖」を偲ぶ御心が、天皇陛下の「信仰」の基層にあります。そしてそのような心は、すべての日本人の「信仰」の基層にも、あるのではないでしょうか。
(つづく)

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みたみわれ 皇室と国民(25) http://matsumitsu.exblog.jp/33461869/ 2024-02-23T02:23:00+09:00 2024-02-23T02:23:04+09:00 2023-09-27T23:51:10+09:00 matsuura_mn みたみわれー皇室と国民ー (『解脱』令和3年1月)

皇室とは“仁の結晶”というお話をしました。
古今東西、「仁」の心をもっていた君主は、もちろん外国にもいるでしょうが、それは稀有なことです。それに比べてわが国では「仁」の心をおもちでなかった天皇の方が、むしろ稀有でしょう。皇統は、いく千年にもわたり男系で継承されてきた・・・というだけではなく、いつの時代にも "仁の結晶"のような、お心の高さをもつ天皇がいらっしゃいました。その事実は、もはや「奇跡」という言葉だけでは表現しきれません。私などは「奇跡」という言葉を数十回も掛け算して、それでも足りないくらいのことではないか、と思っています。
それでは、なぜわが国のみが、そのような歴史を、長く紡いでくることができたのでしょうか? そのことについて、これまでいろいろな学者が知恵を絞って、さまざまな説明を試みてきました。しかし私から見ると、それらはどれも、あまりうまくいっているようには思えません。その理由は、合理主義的な思想に覆われた近代の社会においては、たぶん「知識」があればあるほど、"ある視野の角"が、かえって拡大するせいではないか・・・と、私は思っています。
そもそも「仁」とは、「人の不幸を、切にあわれみ、深く痛む心」です。人はできるかぎり、そのような「仁」の心を発しながら、すべての人に接したいものですが、そのさい、まったく〝無防備”で、さまざまな人に接するのは、ある意味〝危険なこと" でしょう。なぜなら、他者の悲しみや苦しみを、ともにしようとしている人が、いつしか他者の悲しみや苦しみに飲み込まれてしまう"ということが、時におきてしまうからです。 それは溺れる人を救おうとして、海に入った人が、ともに溺れてしまうことに似ています。
かつて詩人の谷川俊太郎さんは、臨床心理学者の河合隼雄さんに、こう問いかけています。 「一人の人間が自分の容量の限界を意識したら、ある程度、相手を非人間的に扱わないと、自分が破滅するという状況がある」のではないか?と。それに対して河合さんは、「精神病のこととか精神病院のこと」を具体例としてあげつつ、こう答えています。「実際に見ると精神科医も冷たいし、看護婦も冷たい。けれどもそれは、そこに生き長らえるための一つの知恵として長い経験の中から出てきたものなんですね。だから自分が生き生きとしつつ、なお不治の病いの人間と接していくなんていうことはものすごく大変なことでして、そういう覚悟を持たずにやった人は全部失敗していると思います」 (河合隼雄・谷川俊太郎『魂にメスはいらない』)
そのような「失敗」をせず、それでも「仁」の心を発しつづけるためには、さて・・・どうすればいいのでしょう? とてもむずかしい問題ですが、私はその問題を解く鍵は、「信仰」にあるのではないか・・・と、思っています。先に私がいった”ある視野の死角"とは「信仰」です。「信仰」を視野に入れないまま、いくら「知識」を積んでも、皇室の本質は、たぶんわからないでしょう。
(つづく)

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みたみわれ 皇室と国民(24) http://matsumitsu.exblog.jp/33461862/ 2024-01-01T00:00:00+09:00 2024-01-01T00:32:57+09:00 2023-09-27T23:37:55+09:00 matsuura_mn みたみわれー皇室と国民ー (『解脱』令和2年12月)

災害や疫病や戦乱などは、いうまでもなく〝ない方がよいにきまっているもの"です。 平和な日々のなかでさえ、「家内安全」を保つのは大変なことなのに、もしも国を、災害や疫病や戦乱などの悲劇が襲えば、日々の暮らしは、まるで台風に襲われた一ひらの木の葉のように、飛び散ってしまうことでしょう。
そのような時、多くの場合は、誰を恨むわけにもいきません。それでも、きっとほとんどの人々は、その悲しみや苦しみを "誰かにわかってもらいたい”と思うはずです。
もちろん、具体的な支援は必要です。けれども、悲しみ、苦しむ人々には、それだけではなく、心からわかってくれる人"が必要なのです。
国民の苦しみを心からわかること"...それが古代の東洋で、聖人と呼ばれた皇帝たちの、きわめて大切な資質でした。シナの古代に、堯と舜と禹という三人の伝説上の皇帝がいますが、それらの皇帝について、『孟子』という本には、こう書かれています。

「洪水を治めた聖人である禹という帝王は、もし、天下で一人でも溺れる人がいたら、まるで自分が溺れさせたかのように責任を感じ、聖人である帝王・堯と舜に仕えた名臣・稷は、天下で飢えている者がいれば、まるで自
分が飢えさせたかのように責任を感じていた」(「離婁」下)。 また『孟子』には、「殷」の時代の名臣・伊尹について、こう書かれています。

「伊尹という人は、世の中のすべての人々>・・・、それが、たとえ名もなき人々であろうと、とにかく人という人は、すべて堯や舜の
時代のような愛ある政治の恩恵に浴する資格がある・・・と考えていました。もしも恵に漏れている人が、 この世に一人でもいれば、伊尹は、その人を、まるで自分が手で押して溝のなかに突き落としたかのような・・・、そのような罪悪感を覚える人でした」(「万章」上・下)

つまり、「禹」も「稷」も「伊尹」も、民の
心が、“わかる"人であり、そうであるからこそ、〝民の不幸は、自分の不幸〟と思えたのです。『孟子』には「側隠の心」という有名な言葉もあります。これは、「人の不幸を、切にあわれみ深く痛む心」ですが、つまりその三人は「側隠の心」をもっていたわけです。「側隠の心」こそ、じつは儒教で「聖人」と称えられている孔子が、もっとも大切にした”人の心のかたち”に直結するものでした。それは、「仁」です。今の言葉でいえば、「愛」ということになるでしょう。

ここで、御歴代の天皇陛下、あるいは皇族方の御名に、必ずといってよいほど「仁」という文字が入っている、ということにお気づきの方もいらっしゃるはずです。
たとえば、明治天皇は「睦仁」、大正天皇は「嘉仁」、昭和天皇は「裕仁」、上皇陛下は「明仁」、今上陛下は「徳仁」ですが、考えてみれば、まさに皇室とは、"仁の結晶”ともいうべき御存在なのかもしれません。
(つづく)

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みたみわれ 皇室と国民(23) http://matsumitsu.exblog.jp/33437267/ 2023-12-23T00:00:00+09:00 2023-12-23T00:07:29+09:00 2023-09-19T00:04:21+09:00 matsuura_mn みたみわれー皇室と国民ー (『解脱』令和2年11月)

今上陛下は百二十六代の方ですから、その前には百二十五方の天皇がいらっしゃいます。
しかし、そのなかで後奈良天皇は、今、さほど有名なお方ではありません。ちなみに、現在の中学や高校の歴史教科書を調べてみると、すべての教科書に、なんと一度もそのお名前はあらわれていないのです。 もちろん本誌の読者の方は、この連載で私が少し触れていますので、ご記憶の方もいらっしゃるでしうが、要するに後奈良天皇の御存在は、戦後の歴史教育では一貫して「無視」されてきたといえます。
しかし、上皇陛下や今上陛下が繰り返し言及されている・・・ということは、そのお名前そのものに、何か深いメッセージが秘められている、と考えた方がいいはずです。そのメッセージを読み解く"鍵"は、上皇陛下が大東亜戦争の戦闘終結の月である昭和二十年八月、御年十一歳の時にお書きになった作文にあるような気がします。その作文は、この連載⑩でも引用しましたが、そこには、「今は日本のどん底です」という一文がありました。そのお言葉と、「後奈良天皇」という御名前と、そして、この連載⑧⑨で書いた「『占領」という暴風雨」 の三点を、あわせて考えてみると、私には、そこから上皇陛下や今上陛下の、こういうメッセージが聞こえてくるような気がします。"「戦後」というこの時代は、皇室にと
しかし、戦国時代にあっても、自分のことは
後にして、まずは国民の平安を祈るという御歴代の方々に一貫している精神を、後奈良天皇は、毅然とおしめしになられました。ですから私も、その精神を、正しく受け継いでいくつもりです。

いつの世も、災害や疫病などによる悲しみや苦しみは、絶えることがありません。かつては国土が戦火によって灰燼に帰したこともあります。しかし、国民に悲しみや苦しみが襲うたび、いつの世の天皇陛下も、いわば「やむにやまれぬ」といったごようすで、お言葉を発され、また無言で、ありがたい行いをなされてきました。五百年の歳月を経ても、後奈良天皇の大御心と、上皇陛下・今上陛下の大御心は、何も変わることはないのです。
東日本大震災の時の上皇、皇后両陛下の御精励については、この連載 ⑰〜⑲でも触れましたし、そのお力は「神仏の力」に由来するのではないか、ということも、すでにお話ししました。そのように、尊い「無償の愛」を、力のかぎり国民に注がれつつ、しかし両陛下は、けっして自らの言行に「満足」されたことはないでしょう。
なぜなら後奈良天皇は「宸翰般若心経」の「奥書」に「私は〝民の父母"である天皇という立場にあるにもかかわらず、徳によって民をつつみ込み、幸せにすることができていません」
とお書きになっているからです。「徳、覆うこと能わず」と・・・、いつの世も天皇陛下は、みずからの「不徳」を責めていらっしゃいます。そのような君主が、古今東西・・・・、わが国の天皇のほか、いったいどこにいるでしょうか。
(つづく)

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みたみわれ 皇室と国民(22) http://matsumitsu.exblog.jp/33426151/ 2023-11-03T11:03:00+09:00 2023-12-04T17:24:22+09:00 2023-09-14T00:11:58+09:00 matsuura_mn みたみわれー皇室と国民ー (『解脱』令和2年10月)

平成二十九年二月、今上陛下は、お誕生日の記者会見で記者から「天皇の在り方」について質問されたさい、前年(平成二十八年)の八月、愛知県西尾市の岩瀬文庫で、後奈良天皇の「宸翰般若心経」をご覧になったことについて、お話しになっています。

ちなみに、「宸翰」というのは、天皇がお書きになった文書という意味で、ですから、「宸翰般若心経」とは、つまり「天皇の直筆の般若心経」という意味になります。

その記者の質問に対して、陛下は、まず上皇陛下が平成二十八年八月に発せられた「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」のなかの、こういうお言葉を引用されました。それは、「天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えてきました」というものです。
そして、その思いを自分も受け継ぎたい・・・とされつつ、じつは歴代天皇も、その思いは同じであった・・とおっしゃっています。あと歴代天皇のお名前を、具体的に次々とあげていかれるなかで、後奈良天皇と岩瀬文庫の「宸翰般若心経」についても、詳しく語っていらっしゃいます。

これは大切なお言葉ですので、少し長い引用になりますが、ここにあげておきます。

「昨年(平成二十八年)の八月、私は、愛知県西尾市の岩瀬文庫を訪れた折に、戦国時代の十六世紀のことですが、洪水など天候不順による飢饉や疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が、苦しむ人々のために、諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰般若心経のうちの一巻を拝見する機会に恵まれました。
紺色の紙に金泥で書かれた後奈良天皇の般若心経は、岩瀬文庫以外にも、幾つか残っていますが、そのうちの一つの奥書には、「私は民の父母として、徳を行き渡らせることができず、心を痛めている』旨の天皇の思いが記されておりました。
災害や疫病の流行に対して、般若心経を書写して奉納された例は、平安時代に疫病の流行があった折の嵯峨天皇を始め、鎌倉時代の後嵯峨天皇、伏見天皇、南北朝時代の北朝の後光厳天皇、室町時代の後花園天皇、後土御門天皇、後柏原天皇、そして、今お話しした後奈良天皇などが挙げられます。
私自身、こうした先人のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下が、まさになさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむ、ということを続けていきたいと思います」。

質問した記者は、たぶん”目新しい天皇の質問しい在り方”を、何かお話しいただいて、それを記事にしたかったのでしょうが、そのような〝引っかけ質問〟に乗せられる陛下ではありません。
陛下は歴代天皇の大御心を、上皇陛下が受け継がれ、そしてそれを自分も受け継いでいきたい…・と、キッパリ宣言されているわけで、畏れながら、まことに"おみごと"と申し上げるほかありません。
(つづく)

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みたみわれ 皇室と国民(21) http://matsumitsu.exblog.jp/33426101/ 2023-10-10T01:10:00+09:00 2023-12-04T17:22:39+09:00 2023-09-13T23:54:01+09:00 matsuura_mn みたみわれー皇室と国民ー (『解脱』令和2年9月)

後奈良天皇の御代から、およそ四百数十年ほどのちの昭和六十一年五月、現在の上皇陛下が、まだ皇太子でいらっしゃったころ、後奈良天皇について語られたことがあります。
『読売新聞』から質問を受け、文書でご回答になったのですが、そのご回答文のなかで、上皇陛下は、後奈良天皇が、写経の末尾にお書きになったお言葉について、こう触れられています。

「天皇は、政治を動かす立場にはなく、伝統的に国民と苦楽をともにするという精神的立場に立っています。このことは、疫病の流行や飢饉にあたって、民生の安定を祈念する嵯峨天皇以来の天皇の写経の精神や、また『咲、民の父母と為りて、徳覆うこと能はず。甚だ自ら痛む』という後奈良天皇の写経の奥書などによっても表されていると思います」。

つまり、苦難のなかにあっても、常に民の平安を祈りつづけられた後奈良天皇は上皇陛下の〝お手本〟であったのでしょう。上皇陛下が、そうご回答になってから、三十年ほどのち…・、平成二十八年八月七日のことです。
今上陛下(当時は皇太子殿下)は、愛知県の西尾市にある岩瀬文庫に立ち寄られ、後奈良天皇の「宸翰般若心経」をご覧になっています。陛下をご案内した学芸員の青木眞美さんによると、陛下は、若い青木さんの説明を熱心に聞いてくださり、青木さんが説明をしている間、ずっとガラスケースに顔をお近づけになって、うなずきながらお聞きになっていたそうです。 そして、「たいへん美しいものですね」と、おっしゃったといいます。
その翌日(八月八日)、心ある全国の国民に衝撃が走りました。
上皇陛下(当時は天皇陛下)が、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉」を発せられたからです。
「身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、むずかしくなるのではないか」とのお言葉をうかがい、胸に万感の思いが迫った国民は、少なくなかったでしょう。私もその放送を、食い入るように見たものです。
その日から、近代日本史上、はじめてとなる「譲位」への動きがはじまります。翌・平成二十九年二月、今上陛下は、お誕生日の記者会見に臨まれました。
そして、前年の八月七日・八日のことをふりかえられて、「はからずも、二日つづけて、天皇陛下のお気持ちに触れることができたことに深い感慨を覚えます」とおっしゃっています。
とても興味深いお言葉で、今上陛下からすれば、四百数十年の隔たりなど何ということもなく、 後奈良天皇も上皇陛下も、同じ「天皇陛下」…、 つまり歴代天皇は時空を超えて、〝一つの御存在"ということなのでしょう。
かつて私は、長く宮中で内掌典を勤められた髙谷朝子様とお話したことがあります。
そのあと私は、「どうやら宮中と私たち外の世界とでは、〝時間の感覚〟が、ずいぶんちがうらしい」という不思議な感じを受けたものですが、陛下のそのお言葉を拝読して、私はその時の記憶が、ふと・・・よみがえりました。 (つづく)

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みたみわれ 皇室と国民(20) http://matsumitsu.exblog.jp/33071960/ 2023-09-09T09:09:00+09:00 2023-12-04T17:20:19+09:00 2023-05-13T15:30:04+09:00 matsuura_mn みたみわれー皇室と国民ー (『解脱』令和2年8月)

天皇陛下、皇后陛下は、国民の「お父さん」
「お母さん」のようなもの…というのは、何も私が勝手に言っていることではありません。
昔から、天皇おんみずからが、そうお考えだったのです。

たとえば、後奈良天皇(一四九六〜一五五七)がそうです。
後奈良天皇の御代は、いわゆる戦国時代で、皇室が、もっとも衰えた時代といわれています。 後奈良天皇は践祚(せんそ/天皇の位を継がれること)されたものの、即位の礼ができず、ようやくできたのが、なんと践祚から十年後というありさまでした。
"天皇が天皇になるための儀礼〟は、践祚と即位礼のほかに、もう一つ重要なものがあります。
大嘗祭です。
これは古来、「神代の風儀をうつす」もの(一条兼良)として、皇位継承儀礼のなかでは、ある意味、もっとも重視されてきたものですが、 後奈良天皇は、とうとう大嘗祭を行うことができないまま、崩御されます。さぞやご無念であったことでしょう。

皇居では毎年、新嘗祭が行われています。新嘗祭は、秋の収穫を神々に感謝するお祭りで、数ある皇室祭祀のなかでも、もっとも重要なお祭りです。
新しい天皇が即位されて最初の新嘗祭は、特に大規模に行われるのですが、それが大嘗祭です。
今上陛下の大嘗祭が、令和元年十一月十四日から十五日にかけて行われたことは、まだ記憶に新しいところでしょう。

ところが、歴史上には、大嘗祭を行えないまま、御位を退かれた天皇も、少なくありません。
後奈良天皇の三百年ほど前の、第八十五代の仲恭天皇(一二一八〜三四)もそうでした。
四歳で即位され、 在位わずか七十五日で譲位されています。
南北朝時代の歴史書『帝王編年記』には、仲恭天皇が大嘗祭を行われていないことを理由に、「世に半帝と称す」…つまり、「世間では半分の天皇と呼ばれている」と書かれていますが、大嘗祭とは、天皇にとって、それほど重要な儀式なのです。

しかし、戦国時代になると皇室が経済的に衰え、大嘗祭を行うことができないまま、次の方に皇位継承される…・という事態が常態化します。 結果的に、第百四代の後柏原天皇(一四六四)から九代、なんと二百二十年もの間、大嘗祭は行われていないのです。

しかし、そのような厳しい時代にあっても、後奈良天皇は、国民の平安を祈りつづけられます。 天文八(一五三九)年、洪水と凶作が起こり、翌年には飢饉が起こり、その上、疫病が流行しました。後奈良天皇は天文九年、疫病の流行が終息することを願って「般若心経」を書写され、それを醍醐寺に奉納されます。

写経の末尾に書かれているお言葉は、こうです。

「私は“民の父母”である天皇という立場にあるにもかかわらず、徳によって民をつつみ込み、幸せにすることができていません。そのことについて、自分で、しきりに自分のことを責めています」。

厳しい時代のなか、後奈良天皇は、ご自身が救われることよりも、まずは民が救われることを願われているのです。
これこそ、まさに「民の父母」のお姿でしょう。(つづく)

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みたみわれ 皇室と国民(19) http://matsumitsu.exblog.jp/33071881/ 2023-08-15T08:15:00+09:00 2023-12-04T17:17:59+09:00 2023-05-13T15:07:30+09:00 matsuura_mn みたみわれー皇室と国民ー

東日本大震災のころの、上皇陛下、上皇后陛下をつき動かしていたものとは、いったい何でしょう? それは、たぶん「祈り」から発する、かぎりなく清らかな“力”…、言い換えれば〝無私の力”ではないでしょうか。

そもそも人は、肉体をもって生きている以上、完全に私を「無」にすることは不可能ですが、 それでも”無私に近づくこと"なら、 じゅうぶん可能なはずです。
そうであれば、私たちに常に問われているのは、“自分は今、どれだけ無私に近づいているのか?" ということかもしれません。

私は、その事情について、よくコップの水にたとえて話しています。「私」というコップがあるとして、そのなかに満々と「私心」が満ちていたら、そのコップに、もう他のものは注ぎこめず、いくら注いでも、注いだものは外にあふれ出るだけでしょう。

けれども、「私」というコップのなかの「私心」が、少なければ少ないほど、コップのなかには、“別のもの”が注ぎ込まれるはずです。
心から神仏を尊んでいる人には、そこに「神仏の力」が注ぎ込まれるのではないでしょうか。

人が人から受ける“感じ”は、それこそ千差万別ですが、その〝ちがい”を生んでいる理由は何でしょう?
私はその一つに、その人のなかの「神仏の力」の比率が、高い人と低い人の”ちがい”ではないか、と思っています。

「神仏の力」は、この世では「無償の愛」としてあらわれます。
「愛」にもいろいろな「愛」があり、「執着」に近い愛もありますが、「無償の愛」はそれとはちがい、この世でもっとも尊い愛です。
古代ギリシャでは「アガペー」と呼ばれていました。

それは、「見返りをもとめない愛」…「与えるのみの愛」です。それは、ちょうど太陽が、天地の万物に注ぐ光のような愛…と、考えればいいでしょう。太陽は日々、何の見返りも求めることなく、 光を一方的に注いで天地の万物を育んでくれますが、「無償の愛」は、それとよく似ています。

人間の世界で、もっとも「無償の愛」をあらわしているのが、父母が子に注ぐ愛でしょう。
悲しいことに戦後は、「男女平等」が、いつのまにか男女の特性を否定することと誤解されるようになり、ひいては母性や父性まで軽視されるようになりつつあります。

現在、子供たちが虐待される痛ましい事件が後を絶ちませんが、たぶんその理由の一つは、そのような誤解にあるのではないでしょうか。
しかし今も、ふつうのお父さんやお母さんは、わが子に「無償の愛」を注いでやみません。

「わがままな子」でも「どうしようもない子」でも、それは同じです。それどころか、そういう子供であるなら、なおさら愛してやまない…・というところに、父母という存在の、そもそもの尊さがあります。

そのことについて吉田松陰は、こう詠んでいます。

「親思ふ こころにまさる 親ごころ」。

とくに母性は、かぎりなく尊いものです。 観音さまにも、マリアさまにも赤子を抱いていらっしゃる御像がありますが、それは、そのようなお姿が人間の世界で、「神仏の力」を、もっとも具体的にあらわしている…からではないでしょうか。(つづく)

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