Dr.FeelGoodの小部屋 (original) (raw)
「洗面器 冷水入れて 玉冷やす」
昨今の暑い夏、なにげなく、つくったものである。
こどものころ、街かどには風呂屋(銭湯)がどこにでもあり、社交場的な存在であった。
ある日、湯船の段になったところに爺さんが座っていた。
若干、前のめりになり、うつむき加減に下をながめ、視線の先には洗面器。
水面下に金玉をつけていた。
不思議な光景であったため、長く記憶され、その後それが「金冷法」というものであることを理解した。
爺さんは爺さんなりに精力をキープしたかったのか。。。
最近の知見によると、残念ながら
この方法により、男性ホルモンであるテストステロンは増えないという。
爺さんは無駄なことをやっていたのかというと、そうとも言い切れなさそうである。
そもそも金玉というのは、陰嚢という袋の中におさめられ、わざわざ外部に造設されている。
体温より、やや低い温度に設定される。
暑いと、陰嚢挙筋が弛緩し、陰嚢の表面積は増え、熱を放散させている。
精子にとって高温は致命的な打撃をあたえる。
正常な精子の発達をするには、32-35℃がよいと書いてある。
実際、自験になるが、玉袋を放射式温度計で測ってみると、体温より低い。
日本古来のふんどしで、かつ、着物というスタイルは、放熱効果が高く、ある意味、精子にとって理想的ではある。
ズボンというのは、本来、蒙古あたりの騎馬民族から出ている。
馬に乗りやすいからである。
この爺さんが、少子化に体を張って挑む必要性はあまりなかったと思うが、子孫を残したい若い男性は考慮すべき点であるかもしれない。。。
風呂で高温になった精巣を冷やすという行為は、ある意味、精子の正常発育にとって理にかなったものであると結論付けた。
(自分は、不妊治療の専門家ではありませんので、専門家にご相談ください。浅薄な知識で書いています。)
朝、仕事部屋で、ふと口ずさんでいた。
なつかしい曲で、ノスタルジック、かつゆったりとした気分にしてくれる。
1970年かあ。。
このころ、すそが、ラッパのジーパンをみんなはいていたなあ。。
作曲はベンチャーズ。
外国人は、よく日本と中国を混同して音楽の解釈しているものだが、この曲はまずまず日本を表しているようでしょうか。。。
以下、
参照 ウィキペディア
「京都慕情」 | |
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ザ・ベンチャーズ の シングル | |
初出アルバム『ゴールデン・ポップス』 | |
A面 | 京都慕情 |
B面 | 別れた人と |
リリース | 1970年11月25日 |
規格 | シングルレコード |
ジャンル | インストゥルメンタル |
レーベル | 東芝音楽工業(LIBERTY) |
作曲 | ザ・ベンチャーズ |
チャート最高順位 | |
48位(オリコン) | |
ザ・ベンチャーズ シングル 年表 | |
カーン・カントリー・ライン(1970年) 京都慕情(1970年) うわさの男(1970年) | |
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ザ・ベンチャーズが日本で発売したシングル。1970年11月25日発売。A面曲・B面曲共に同年2月発売のLP『ゴールデン・ポップス』からのシングルカット。
ザ・ベンチャーズのインストゥルメンタル曲で、「京都の恋」に続いてザ・ベンチャーズの「京都シリーズ」第2弾として発表された。原題は「Reflections in A Palace Lake」。
近年のザ・ベンチャーズのコンサートで「雨の御堂筋」と2曲メドレーで演奏されることがある。
- 京都慕情 (REFLECTIONS IN A PALACE LAKE)
- 別れた人と (WAKARETA HITO TO)
「京都慕情」 | |
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渚ゆう子 の シングル | |
A面 | 京都慕情 |
B面 | 女の指輪 |
リリース | 1970年12月1日 |
規格 | シングルレコード |
ジャンル | 歌謡曲 |
レーベル | 東芝音楽工業 |
作詞・作曲 | 作詞: 林春生(M-1)作詞: 橋本淳(M-2)作曲: ザ・ベンチャーズ(M-1)作曲: 筒美京平(M-2) |
チャート最高順位 | |
週間2位(オリコン) 1971年度年間15位(オリコン) | |
渚ゆう子 シングル 年表 | |
京都の恋(1970年) 京都慕情(1970年) さいはて慕情(1971年) | |
テンプレートを表示 |
1970年12月1日に渚ゆう子がカバーし、シングルとして発売した。発売元は東芝音楽工業。
オリコンのシングルチャートで8週連続1位を獲得した前作「京都の恋」に続いてザ・ベンチャーズが楽曲を提供している。外国人による作曲ながら、和風情緒溢れる雰囲気で大ヒットとなった。
「京都慕情」で第22回NHK紅白歌合戦に初出場。舞妓の姿で歌唱した。「夏の紅白」ともいわれる『第36回思い出のメロディー』(2004年)に出演し、本楽曲を披露した。
先週から、「坂の上の雲」が再放送された。
原作は司馬遼太郎氏。
40代、渾身の作といっていいだろう。
へとへとになったという。
日本人の義務として書いたといわれていた。
(自分は、人生に一度はよんでもいい、日本男児必読の書ではないかと思っているのだが。。。)
また、戦争の作品を、
「戦術ではなく、戦略から書いたらどうなるか」ということがも語られていた。
また、
「弱者が強者に勝つには?その過程を書いた。」とも言えそうである。
(この作品について話しだしたら、一本のワインを前において、一晩語りたいくらいになるのだが。。。文章力がなく、かけない。)
さてさて
まず、人物設定が絶妙である。
四国、伊予松山に生まれた3人の男にフォーカスされる。
薩長とはちがう、負け組の旧士族の出である。
二人の兄弟は軍人の世界へ、もう一人は俳句の世界へ。
ただ、根っこは同じである。
司馬遼太郎氏は、一人の人物に光を当てることによって、もう一人の人物が浮かび上がってくるというような書き方をよくするのだが、三者がらみの絶妙感がある。
その時代背景もいい。
明治、国民国家成立。
江戸時代には、国家、日本という概念はない。
日本という国家がないわけだから、日本人という意識もない。
皆が国民になりたいというつよい願望。
そして、その国民というものを初めて体験した、その昂揚(こうよう)感。
「まことに小さな国が開化期をむかえようとしている。。。」から始まる、
冒頭の渡辺謙のナレーションは圧巻。
この時代を、実に端的にわかりやすく、司馬遼太郎は述べている。
以下
一部引用
「(中略)
社会のどういう階層のどういう家の子でも、
ある一定の資格を取るために必要な記憶力と根気さえあれば、
博士にも、官吏にも、軍人にも、教師にもなりえた。
この時代の明るさは、こういう楽天主義(オプティミズム)から来ている。
(以下略)」
右肩上がり、明治時代。
坂の上に浮かぶ、一朶(いちだ)の雲をめざして、がむしゃらに、のぼってゆく。
さて
当時の大国ロシアに戦いを挑むということは、
相撲とりに、小学生が、突っ込んでいった感じにちかい。
ただ、将来への国防戦であった。
(この戦は勝ったというか、あるいは痛み分けというか、
ただ、負けはしなかった。おそらく負けていれば、日本人の名前は、改名させられ、ロシア名になっていただろう。○○スキーとかに。)
しかしながら、
翻って、
そこには、「戦術」をはるかにこえた、より大きな、「戦略」という思考方法が、
明治の日本人には備わっていたと考えざるをえない。
司馬遼太郎氏が書きたかった主題ではないのだろうか。。。
残念なことだが、
その後、次第にその思考法は、日本の社会から遠ざかってゆき、先の大戦へとつながってゆくことになった。
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以下 ウィキペディア
『**坂の上の雲**』(さかのうえのくも)は、司馬遼太郎の歴史小説。明治維新を成功させて近代国家として歩み出し、日露戦争勝利に至るまでの勃興期の明治日本を描く。
『産経新聞』夕刊に、1968年(昭和43年)4月22日から1972年(昭和47年)8月4日まで1296回にわたり連載された[1]。
おそらく、「せごどん」のファンは世の中にはおおいと想像する。
自分もその一人である。
なぜかよくわからないが、やはりいいのである。
いろいろな歴史小説家が書いており、かつ、多くの方が読まれていると思う。
しかしながら、芥川龍之介が書いた「西郷隆盛」を知らない人は意外と多いのではないかと。。。
面白いので、ぜひ一読をおすすめする。
ラジオ番組で「月のさばく」がかかっていた。
少々調べてみると、今まで意識しなかった、自分の知らないことが書いてあった。
この「さばく」の漢字表記は、「砂漠」ではなく、「沙漠」というのが正しいという。
「沙」というのは、すなはまのことで、海岸を想起するもので、よりみずみずしいものを表している。
作詞の加藤まさを氏は、海岸の風景をイメージしているということになる。
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以下、
参照
月の沙漠(つきのさばく)は、日本の画家、詩人である加藤まさをの作品の1つ。作曲家の佐々木すぐるによって曲を付けられ、童謡として有名になった。「朧(おぼろ)にけぶる月の夜」の「沙漠」を、「駱駝」(らくだ)に乗った「王子様」と「お姫様」が旅していく情景を描写した作品である。
大正から昭和初期に叙情的な挿絵画家として人気を博した加藤まさをが、大日本雄弁会講談社(現講談社)発行の雑誌『少女倶楽部』(しょうじょくらぶ)1923年(大正12年)3月号に発表した、詩と挿画からなる作品である。
これに、当時まだ若手の作曲家であった佐々木すぐるが曲を付けたことで、童謡としての「月の沙漠」が生まれた。童謡の普及活動もしていた佐々木すぐるは、自ら主催する普及のための講習会で同曲を用いた。また佐々木は教育現場での音楽指導用の教本として『青い鳥楽譜』と呼ばれる楽譜集を出版しており、童謡としての「月の沙漠」もその中に収められている。
上記の経緯から、当初は児童の音楽教育の中で使われていたが、1927年にラジオ放送されたことから評判となり、1932年に柳井はるみの歌唱で録音、レコード化され、より一般に知られるようになった。
その後も童謡として長く歌い継がれ、世代を超えて支持される歌の一つとなっている[注釈 1][注釈 2][注釈 3]。
2006年(平成18年)に文化庁と日本PTA全国協議会が「日本の歌百選」に選定した[3]。
加藤は1965年(昭和40年)、朝日新聞記者本多勝一のインタビューに答えて、作詩の経緯について、「動機って、ただ少女倶楽部から『何でもいいから』と注文されただけですよ。ぼくは沙漠どころか、外国へはどこも出たことはないけれど、沙漠にはなんとなくあこがれがありましてね。沙漠の歌でもって気になったんです」と語っている。念頭に置かれていたのはアラビアの情景だったという。ただし、初出時に加藤自身が描いた挿画では、ラクダはアラビアのヒトコブラクダではなく、中央アジアのフタコブラクダになっていた[4]。後年に加藤が描いた絵では、ヒトコブラクダに修正されている[5]。
この詩は異国を連想させる内容からか、また現在では「沙漠」という表記が一般的ではないこと[注釈 4]からか、しばしば「砂漠」と誤記されるが[注釈 5]、題名、詩文中ともに一貫して「沙」の字が用いられている。この字が用いられる理由として
- 「沙」には「すなはま」の意味がある。
- 学生時代に結核を患った加藤が、保養のために訪れた御宿海岸(千葉県)の風景から発想した。
- 海岸の風景がモチーフになっており、海岸の砂はみずみずしいことから、「砂漠」ではなく「沙漠」としている。
というものが良く知られている[8]。
「月の沙漠」のモチーフとなった砂浜については、以下の2説がある[9]。
加藤は1923年(大正12年)に関東大震災が起こるまでの数年間、毎年夏、結核の療養のために御宿海岸を訪れていた[10]。
加藤の出生地である西益津村(現・藤枝市)に近く、加藤が少年時代によく遊んでいたといわれる[11](藤枝市自体は海に面していない)。加藤まさをの長男で写真家の嶺夫は、「生まれ故郷は静岡県の藤枝市。海にも近く、よく浜辺に行って泳いだそうです。その記憶がヒントになった、と親類に話しており、私もそう信じているんです」と証言している[12]。
このほか鳥取砂丘や、伊豆大島の三原山なども候補に挙げられたことがあるという[13]。
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黒沢明の「生きる」のリメイク作品である。
原作のイメージをつぶしたくないので、なるべく見ないようにしていたが、先日見てしまった。
見てよかったと思う。
戦後8年ほどたったころの英国ロンドンを舞台にしている。
内容は大きくゆがめられることなく許容されるものであり、スジ自体は同じものである。
お国柄を反映させ、英国人の思考も感じられ、なかなかうまく作ってあると思った。
(もともとの映画がいいからなあ。)
原作での志村喬がラストシーンで歌う「ゴンドラの唄」は、スコットランド民謡の「The Rowan Tree 、ナナカマドの木」という歌が使われていた。
参照
『生きる LIVING』(いきる リビング、原題:_Living_)は、2022年のイギリスのドラマ映画。1952年の黒澤明の日本映画『生きる』のリメイク作品で、オリヴァー・ハーマナス(英語版)が監督、カズオ・イシグロが脚本を務めた。1953年のロンドンを舞台に、ビル・ナイが演じる官僚のウィリアムズが余命半年を宣告され、自分自身の人生を見つめ直す姿を描いている。
2022年1月21日に開催されたサンダンス映画祭(英語版)でプレミア上映され[2]、11月4日からイギリスで公開された[3]。
歌にはいろいろあるが、だめなおじさんを主題にした歌はかなりある。
そういうものに魅かれだしたのは、かなり前からである。
聞いていると、こころが安らいでくる。
心理的な変化としては、以下である。
だめなおじさんを歌った曲を聞いていると、どうも俺の方がまだましだと、思い始める。
相対的な、優位性を自分に感じ始める。
何度も聞いているうちに、俺はまだまともな人間なんだと、勝手に思い込むにいたる。
翻って、科学ですら絶対的なものではなく、相対的なものであると、偉い先生が言っているわけであるから、そうにちがいない。それでいいのだ。
さて、
サンフランシスコベイブルース。
エリック・クラプトンが、生ギターでのアルバム・アンプラグドでも弾き、注目度はたかいが、オリジナルはジェシーフラーである。
こちらははるかにいい感じにしあがっている。
というか、このおじさんそのもののいきざまではなかったのか。。。
このジェシーフラーは、旅芸人風の一人芸(ワンマンバンドスタイル)で、ギターを弾きながら、バズーをふき、歌い、足ではバスドラを踏むという芸達者な人である。
こういう曲はおそらく実体験がなければかけないだろう。
高田渡の武蔵野タンポポ団の日本語歌詞とかも、聞いてみてもいいかもしれない。
いずれにせよ、ジェシーフラーとこの曲の主人公には心底感謝する。
参照
サンフランシスコ・ベイ・ブルース (曲)
「**サンフランシスコ・ベイ・ブルース**」("San Francisco Bay Blues")はアメリカのフォークソングで、一般的にもっとも有名なジェシー・フラーの作品と見做されている[1]。フラーが1954年に初めてこの曲を録音したのは World Song と呼ばれる小さなレーベル向けだった(発売は1955年)[2]。この曲は、ランブリン・ジャック・エリオット、ボブ・ディラン、ジム・クウェスキンらによるクラブでの演奏で1960年代前半に広く人気のある曲となった。カバー演奏の録音は、ブルース・バンド(英語版)、ポール・ジョーンズ、ジム・クロウチ、ウィーヴァーズ、サミー・ウォーカー(英語版)、ブラザース・フォア、ダッパー・ダン、ポール・クレイトン(英語版)、リッチー・ヘブンス、エリック・クラプトン、フラットランダーズ(英語版)、ポール・マッカートニー、ホット・ツナ(英語版)、ジャニス・ジョプリン、ジョン・レノン、ピーター・ポール&マリー、マンゴ・ジェリー(英語版)、グレン・ヤーブロー(英語版)、ジョージ・エリアス、フィービ・スノウ、ウェイヴ・ピクチャーズ(英語版)、ハリファックス・スリー(英語版)、エヴァ・キャシディなど数多くのアーティストによって行われている。カズーのソロをフィーチャーした「ワン・マン・バンド」スタイルの解釈は、フラー自身によって1962年のコンサートで録音された。この演奏はスミソニアン・フォークウェイズ(英語版)のコンピレーション Friends of Old Time Music に収録されている[1]。
トピック・レコードは1959年に Working on the Railroad と呼ばれる10インチのヴァイナルLPでオリジナルのジェシー・フラーのバージョンを発売したが、これはトピック・レコードの70周年ボックスセット Three Score and Ten の1枚目のCDの6曲目に収められている。
この曲は、オリジナルのディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーの「サンシャイン・プラザ」で演奏された数多くのカリフォルニア関連の曲の一つだった[3]。