迂生日記 (original) (raw)

検体検査の結果、ピロリ菌陽性であった。投薬での撲滅を目指すこととなった。

つい先日NHKで取り上げられたばかりだ。

調べたところによると、以前から耳鼻科などで抗生剤を飲んだことがあると、それに耐性のあるピロリ菌が残って繁殖してしまうという。クラリスロマイシンのこと。

ある論文では、耐性のあるピロリ菌の場合、一次除菌の成功率は十何パーセントくらいとかなり低い。しかしながら、LG21のヨーグルトを(以前から)食べるようにした被験者の一次除菌成功率は五十何パーセントにも格段に上がったという。

だから、当てはまる私は、LG21のヨーグルトを買ってきた。結構値段する。1個税込み124円ぐらい。

論文では除菌を始める3週間ほど前から食べていたが、投薬を始める前日から食べることにする。仮に以前から食べたとしたら、出費がとても高くついたので、どちらにせよ投薬期間だけ食べようと思う。

論文は完全に信頼できるわけでは無いが、LG21は少なくとも悪い結果にはならないと思われる。ただし、除去の成否を確認する際には、誤判定しないようにヨーグルトは控えること。つまりは、投薬が終わるまで食べ、その後は食べなければよい。

あと除菌の成功率に関して、代謝も関係するらしい。要するに代謝がいいと、ピロリ菌と闘う何かがすぐに代謝されてしまい効果が薄れるという。体重計によると基礎代謝は高い方だ、しかし、運動を控えるというわけにもいかないと思う。代謝に関しては関せずとする。

以前から吐き気は精神的動揺と連動しているように見られたが、それは身体が間違って作り出した因果かもしれない。胃腸の治療により、問題が解決することを願う。

からだがある日を境にして本来の生きる心地よさをおもい出したようだった。それにたひして、こころの方はまだおう吐の感触を覚えていた。

軽い不安障害とは言えそうだった。或る日常の小さな不安に発火して身体の制御を失するとも思われるおう吐の予感を思わせる。

今までなら身体もともに重く鈍い傷みを背負っていたから心の陰影も分相応だった。しかし今では身体はもはや軽く敏くて生きる喜びを貪欲に求めていく調子であるからおう吐の予感は不釣り合いだった。

はやく気づかせたい。

詩をよみはじめた。

現代詩の多くはたしかに難解でまとまりがない。平気で時代の固有名詞を使うのだって気に食わない。音韻に欠ける。

短歌が丁度良い。短く奥ゆかしいがためには音韻を交えた言葉の力を前面に出す必要があるから。食材の隠された持ち味を活かす職人のように、一つの接続詞や言葉が新鮮な切れ味を見せる。

まともになればブログはおかしなことになる。

他に有用なことができるから。価値的判断ができるから。

物入れに残した図画工作のように、あってもなくても大した違いはない。

故人だって前後不覚、斗酒のうちに詩をはいたのだから。

ブラウザのタブが多すぎる。ブックマークや、後で見るも、多すぎる。

人の求められるきらめきが高すぎる。煌びやかなものの中で、自分が惨めに見える。好きに絵をかいて楽しく過ごしたらそれだけで十分だったはず。少なくとも沖合で寛げればよかったはず。

離れられない。夢を消したくない。心がいっぱいいっぱいだ。

情報が多すぎる。たとえば、ブラウザのタブをずっと残してしまう。情報アンテナをできるだけ広くしてしまう。情報が多すぎる。頭の中の留意事項が氾濫している。本当の意味での余裕がない。

焦っている。焦るなら電車に急いで乗り込んだらいい。昔はよかったと特筆大書しておく。

首筋がすっかり伸び切って干からびた葦のようにくたびれている。

遊びは心の閑居に宿る。遊びが根幹の生命源だったはず。

娯楽が麻薬化しているのではないだろうか。

文明が高度になるにつれて、娯楽ももちろん鮮美になる。美しい娯楽はそれだけで生きる甲斐になる。

たとえば想像してみてほしい。華美な娯楽が失われたら、私達は、今まで通りの高負荷な生活に耐えられるのかどうか。

ある初秋の宵に、僕は娯楽に支えられているのではなく、娯楽に正常な痛みを塗りたくられている感覚に陥った。娯楽から離れて一息つくと、隠されていた身体の病症が浮かび上がってくる。

中毒症状とまではいかなくても、痛みから逃げる手段として、娯楽はやや過剰に感じた。なぜなら、痛みとは本来不調のサインであるから。心理的ストレスが発散できるのなら宜しいが、身体の痛みを無視するとなれば、話は変わってくる。

病院にかかるならよい。しかしながら、子どもたちには、大人たちには、代わりに娯楽に溺れ逃げるという選択があるように思う。

つまりは、病気の兆候を活用できない。小さな不調は静かに生体のバランスを崩してゆく。様々な器官に疾患が生じて、込み入り、混じり、被害状況を瞭然にすることは難しくなる。

……。

図式化すると以下となる。

「娯楽の高度化 ≒ 痛みのごまかしの容易化 → 病症の深刻化・多岐化」

基本的に、人が不機嫌なのは生物学的に説明できる。お腹が空いていれば怒りやすくなるし、別の所で嫌なことがあればひねくれる。

逆に、体中の病原体を根絶するぐらいの健康を得た場合には、過去も綺麗になり、その上社会の中に居場所ができれば、不遇者も更生する。

近代化不幸の一説として挙げてみた。もちろん、理由を一つや二つに断定できるものでない。当然インターネットや政治、その他も関係している。

近年心の病気が注目されている気がする。それも、娯楽というよりネットに落ち込める場所があるがためではないだろうか。言い換えれば、何か身体や心に違和感があったとき、気づくか気づかないかくらいのとき、ネットや娯楽に流されて、そのままグラデーションに病巣をなしてしまうのではないか。

痛みを、色んなものでごまかせてしまう。

酒、色事、ギャンブル、ゲーム、インターネット。

追記される問題点は、病院に症状を伝える困難姓がある。

弓道も茶道も書道も、心を研ぎ澄ますという点で、根本を同じくする。

筆記が即ち、弓道の疑似体験になる。

たとえば、稲川淳二の字を見なさい。

「書」を書くとき、横の線縦の線を整えて書くことはもちろん、ただ横の線を紙面に平行に書くことすら難しい。繊細への憧れは、日常の挙措進退にあった。

レコチョクでも何だかんだ、試聴で満足してしまう人間でした。

収入でも安定すれば、好きにお金を使って、好きの尊ばれる社会構造の維持に寄与したい。

ひなろじというアニメは、音楽少女、アイドル事変、てっぺん!!!!!!!!!!!!!!!、に近いアニメだと思う。

ごちうさにも引けを取らない。

伊藤 賢『TVアニメ『ひなろじ~from Luck & Logic~』ORIGINAL SOUNDTRACK』のアルバムページ|2001086942|レコチョク

ジャケットを見て分かるように、こういう幸せに溢れたアニメ作品が大好きなのだ。

特に、主人公のような性格に、子供からの憧憬がある。

アニメ文化は早く、募金箱を設置してくれないだろうか。グッズなどを手に入れる事なく、感動に資本主義的対価を払いたい。

プラトンは「その国で尊ばれるものが、洗練される」と言った。尊ばれるシステムの直接が、投げ銭的資本主義ではないかと思っている。