センスがいい、と言われたい (original) (raw)

自分の俳句をどういう言葉で褒められるのが嬉しいか。

「巧い」と言われるのは嬉しいけれども、最上級の褒め言葉ではない。「…けれども、技巧が鼻に付く」とか、「…けれども、まとまり過ぎている」「…けれども既視感あり」などと否定的な言葉があとに続きそうだ。

「新しい」と言われたら素直に喜びたいところだが、誰も今までに作ったこともない句であるという保証はない。

多分、言われて一番嬉しい褒め言葉は「センスが良い」だろう。作品が高く評価されただけでなく、それを生み出した僕という人間が丸ごと評価されたような気がするのではないか。残念ながら僕は言われた記憶がないけれど、そう言われるような句が作れるようになりたいと思っている。だから、帯に「これは『センスが良くなる本』です」などと書いてあると、読まずにはいられなくなってしまう。

センスというものは、生まれつきのもので、良くしようとして良くなるものではないのかもしれない。しかし、筆者は断言する。

この本では、センスはどうにもならないものだとは考えません。…人をより自由にしてくれるようなセンスを、楽しみながら育てることが可能である。というのが本書の立場です。

心強いではないか。

僕はこの手の本を読むとき、俳句を読んだり、作ったりしている場面に当てはめて理解しようとすることが多い。筆者は、本書の中で俳句という語を一度も用いていないが、勝手に俳句と結びつけてしまうのだ。本書は芸術を「哲学」する本、故に抽象度が高い語を用いている。だからこそ、あらゆるジャンルの芸術に当てはめることが可能だ。たとえば、第一章「センスとは何か」の中の、

センスの悪さは、不十分な再現性、つまり再現性にとらわれすぎているという見方は、いろんなジャンルで言えると思うんですね。(p.43)

という箇所では、「いろんなジャンル」の中には俳句も入るであろうし、「再現性」という言葉は「写生」に置き換えて良いだろうと考える。

次は、第五章「並べること」の末尾の一節。

何をどう並べてもつながりうるし、すべてはつながり方の設定次第なんだと、気分を最大限に開放してもらいたい。その上で、どのように並べてもいいという最大限の広さから、面白い並びにするために「制約をかけていく」という方向で考えてみましょう。(p.166)

このあたりは、取り合わせの句を作るときのことを思い浮かべながら読むと、わかりやすい。

さらに後半になってキーワードとして頻出する「反復=規則」は俳句における季語の本意、「差異=逸脱」はその季語の本意に囚われない表現、というふうに置き換えることができる。それで、第六章「センスと偶然性」の中の、

面白いリズムとは、ある程度の反復があり、差異が適度なバラツキで起きることである。(p.171)

という、本書の一つの結論ともとれる一文は、センスの良い句というのは、有季定型という枠組みを基本的には尊重しつつ、伝統を突き抜けた新しさの要素も適度に取り込んだ句のことである、というふうにも読める。

しかし、これが本当に結論であったなら、ちょっと常識的に過ぎて、もの足りないだろう。著者は、ここからさらに一歩、二歩と先へ踏み込んでいく。でもそれについては僕はここには書かない方が良さそうだ、というのは、必ずしも十分に理解できているとは言えないから。

さて、この本を読み終えた僕は、センスが良いと褒められるような俳句が作れるようになるだろうか、いや、そんな簡単なものではないことはわかっている。しかし、この本が、僕の中の、音楽や美術や文学をより楽しもうという気持ちを刺激してくれたことは間違いない。

センスの哲学 (文春e-book)