野の学舎 (original) (raw)

以前、山尾三省については、たくさん書いた。屋久島に移住して、屋久島の自然の中で生きて、旅立っていった三省さん、彼は子どもたちに「火を焚きなさい」と呼びかける詩を書いていた。その詩をここに書きたくなった。今の子どもたちに呼びかける。

子どもたちよ、火を焚きなさい。

火を焚きなさい

山に夕闇が迫る

子どもたちよ

ほら もう夜が背中まできている

火を焚きな さい

お前たちの 心残りの遊びをやめて

大昔の心にかえり

火を焚きなさい

風呂場には 充分な薪が用意してある

よく乾いたもの 少しは湿り気のあるもの

太いもの 細いもの

よく選んで 上手に火を焚きなさい

少しくらい煙たくたって 仕方ない

がまんして しっかり火を燃やしなさい

やがて調子が出てくると

ほら お前たちの今の心のようなオレンジ色の炎が

いっしんに燃え立つだろう

そうしたら じっとその火を見つめなさい

いつの間にかーー

背後から 夜がお前をすっぽりつつんでいる

夜がすっぽりお前をつつんだ時こそ

不思議の時

火が 永遠の物語を始める時なのだ

それは

眠る前に母さんが読んでくれた本の中の物語じゃなく

テレビで見れるものでもない

お前たち自身が お前たち自身の裸の眼と耳と心で聴く

お前たち自身の 不思議の物語なんだよ

注意深く ていねいに

火を焚きなさい

火がいっしんに燃え立つように

けれどもあまり ぼうぼう燃えないように

静かな気持ちで 火を焚きなさい

人間は

火を焚く動物だった

だから 火を焚くことができれば それでもう人間なんだ

火を焚きなさい

人間の原初の火を焚きなさい

やがてお前たちが大きくなって 虚栄の市へ出かけて行き

必要なものと 必要でないものとの見分けがつかなくなり

自分の価値を見失ってしまった時

きっとお前たちは 思い出すだろう

すっぽりと夜に包まれて

オレンジ色の神秘の炎を見つめた日々のことを

山に夕闇がせまる

子どもたちよ

もう夜が背中まで来ている

この日はもう充分に遊んだ

遊びをやめて お前たちの火に とりかかりなさい

小屋には薪が充分に用意してある

火を焚きなさい

よく乾いたもの 少し湿り気のあるもの

太いもの 細いもの

よく選んで 上手に組み立て

火を焚きなさい

火がいっしんに燃え立つようになったら

そのオレンジ色の炎の奥の

金色の神殿から聞こえてくる

お前たち自身の 昔と今と未来の不可思議の物語に

耳を傾けなさい

数年前に観たNHKテレビの放送を録画を、再度観た。最初観た時、あまりの感動で胸が震え、映像を保存しておいたものだが、昨日、洋子がその録画を開いたので、またもや画面から離れられなかった。

バルト三国は、ヨーロッパ北部、バルト海に臨んで隣り合う、エストニアラトビアリトアニアの三国。エストニアラトビアは、ロシアに国境を接し、リトアニアベラルーシに接する。ラトビアは、日本の6分の1の小国。

大国に隣り合い、その侵攻の脅威にさらされてきたこの三つの小国は、武器や兵力ではなく、歌と踊り、民の連帯と団結によって大国の脅威と闘って独立を勝ち得た、「歌う民の国、歌の国」なのだ。

感動の映像は、「歌と踊りでつないだ、ラトビア100年の物語」。

何百人か何千人かの民の大合唱、壮大な一糸乱れぬ踊り、それが画面にあふれる。2018年7月、建国100周年を記念し開催された、史上空前規模の「歌と踊りの祭典」を中心に、ラトビアの波乱の歴史を紡ぐ、大河ドキュメンタリーであった。人々は、「歌は先祖の贈り物」として心に刻み、女性は頭に花を飾り、歌い踊り、神に感謝する。

ラトビアでは、5年に1度、「歌と踊りの祭典」(世界無形文化遺産)が開かれる。戦争や大国の支配を経験し、大きな歴史の渦に巻き込まれながらも、人々は、独自の歌と踊りで民族のアイデンティティーを守り抜き、ソ連の侵略から独立を勝ち取った。

ソ連の侵攻を受け、支配下に置かれた時、多くの人が束縛され、家畜列車に乗せられて14000キロ、シベリアに送られ、飢えと重労働を強いられた。ソ連は、ラトビア人の歌と踊りをプロパガンダに利用した。そこでラトビア人は、一つの歌に、ソ連への抵抗の気持ちを含めた。その歌は「風よ、吹け」。

「風よ 吹け。小船を押して、私をクルゼメへ運んでくれ‥‥」

7年半のシベリア抑留を生き抜いた女性の体験が、歌に込められている。

1985年、ゴルバチョフソ連の書記長になると、ソ連兵士の監視の元、歌の祭典が復活した。

大合唱が湧き起る.

「クルゼメよ、神の地よ、自由な民を育ててくれた地よ。

白髪の神々や、自由な民の息子たちは、いずこへ?

やさしき民は奴隷となり、英雄たちは倒れた」

そしてラトビア独立運動が起きたのだった。独立運動は、リトアニアに伝播し、バルト三国に広がって、二百万人の人間の鎖の輪が、バルト三国をつないだのだった。人々は歌った。ソ連のくびきから脱しよう。歌う革命の始まりだった。ソ連は武力で独立を抑えようとした。ラトビアの人々はバリケードを築いて、歌い続けた。

1991年9月、ソ連バルト三国の独立を認め、ソ連は崩壊した。バルト三国は、武器を持たずに独立を達成した。人々は歌った。

「そっと手を置こう、自由なラトビアの旗に、

大きくなれ、自由なラトビアよ、

自由な民の輪のなかで、

昨日も今日も明日も、

私たちは君のもの

愛は炎のよう

この唯一の太陽の世界で

すべて奪えても 愛は奪えない

この永遠の祖国で

木は切られても 愛は消せない‥‥」

このドキュメンタリーの最後、大合唱が湧き起る。

「もし人が、自分のルーツをもっと意識したら、

世界はもっと良くなるだろう。

すべてを奪えても、愛だけは奪えない」

何度見ても感動して胸が震える、この録画は消せない。

第二次世界大戦後、米国とソ連の対立は激化し、ソ連核兵器を開発、世界はきわめて危険な状態になった。

1949年、パリで「世界平和評議会」が立ちあげられ、1950年、ストックホルムで「世界平和委員会」が開かれた。そして次のようなアピールが採択された。

ストックホルム・アピール」は世界中で5億人の署名を集め、世界各地で「平和会議」が開かれた。

1954年、南太平洋ビキニ環礁で、アメリカは核実験を行い、その近くで操業していた日本の漁船第五福竜丸が被曝した。乗組員の久保山愛吉さんはそれによって死亡、日本では大きな問題となった。

1955年、米ソの核戦争という危機的な情況で立ち上がったのが、バートランドラッセルとアインシュタインだった。この二人の学者に世界の学者7人、日本の湯川秀樹も加わり、核戦争を防ぐよう訴え、その動きを受けて、国際科学者会議がカナダのバクウォッシュで開かれ、「科学者の社会的責任」として、核兵器の管理、原子力の利用と危険をテーマとする討議が行われ、「核実験を禁止せよ」という声明を発表した。

アメリカによるビキニ環礁の核実験と被曝をきっかけに原水爆禁止運動が広がり、原水爆禁止日本協議会(日本原水協)が発足する。運動は世界に広がり、広島市で8月6日、第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。参加者は11カ国の五千人。大会では原水爆禁止を求める署名が日本で3千238万、世界で6億7千万集まったと報告された。

一方、国際科学者会議もカナダのバクウォッシュで開かれ、科学者の社会的責任が取り上げられた。そこでのテーマは、「核兵器の管理」、「原子力の利用と危険」だった。声明が発表された。「核実験を禁止せよ」。この会議は、毎年場所を替えて開かれ、軍縮、平和、学者の道義的責任について討議を重ねた。この会の声明は「バクウォッシュ声明」と呼ばれた。

第三回の会議はオーストリアで開かれ、「原子力時代の危険と科学者の役割」がテーマになった。そこでは核戦争だけでなく、すべての戦争の絶滅を訴える「ウィーン声明」が発表された。バクウォッシュ会議はその後も開催され、1976年、京都で開かれた。1977年、ミュンヘンで20周年を迎えた。創始者で会長の、イギリスの物理学者ロートブラットは、1995年、核廃絶をめざすバクウォッシュ会議とともに、ノーベル平和賞を受賞した。

生命科学者の柳澤桂子さんが生存中、朝日新聞に次のような内容の文章(抜粋)を書いておられた。タイトルは、「根深きもの、それが戦争」。書類を整理していたらその新聞の切り抜きが出てきた。こんな内容である。

「20世紀は、殺戮の時代と言われた。確たる根拠もなく、21世紀に入れば、平和が訪れるような気分でいたが、そうではなかった。

21世紀が始まると早々に、また殺戮の時代である。

人間は何故戦争をするのであろうか。戦争にも人間の本能が、かかわっているのだろうか。

人は類人猿の時代から、現在まで、ずっと暴力を振るってきたということは疑いの余地がない。

ムートンらによると、人はどこにいても集団を形成し、集団のメンバー同士は、特別な感情を持ち、外部の人間に対して攻撃的になる。この気質的な固定観念は、『内集団・外集団偏向』と呼ばれる。

このような偏向は、年齢、性など何についても起るが、宗教や民族中心主義という形で起こることが多く、その場合は、固定観念が時に強固になる。いったんこのような偏向に人が陥ると、自分のグループ以外の者は、人間とみなされなくなってしまう。そして罪の意識が起こらない。『内集団・外集団偏向』は、奇怪と言ってもいいほどの残忍さを見せることがある。

人間のこの性向は、戦争の場合、非常に強く現れる。このほかに大きな力を持つものは、人間の持つ誇りである。戦争に勝たなければならない、と思わせる気持ちの大きな部分が、誇りに根ざしている。」

さて、では人間という生き物はそういう生き物だとして、現実の世界で起きている現象は、「困ったもんだ」と傍観していていいのか。人間の作り出す殺りく兵器は、進歩の限りを尽くし、とうとう核兵器が登場する可能性が出てきた。かつて核戦争勃発寸前のキューバ危機があった。米ソの戦争である。それは寸前で回避された。もしあの時、核戦争が勃発していたら、戦争当事国はもちろん亡び、さらに巻き添えで他の国の人間も、自然界も甚大な被害を受けたことだろう。

この戦争状態を、どうおさめるのか、世界は、その時を迎えている。どうすればいいのか

戦争、環境破壊、今も世界は大変動している。地球規模で、人間による破壊が続いている。人間はそれを抑止することができない。

「原爆裁判」の著者、山我浩は、「原爆投下はホロコースト」の章で、次のように書いている。

第二次世界大戦終結後、戦争犯罪を裁くニュールンベルク裁判と、極東国際軍事裁判東京裁判)が開かれた。

その東京裁判で、インドの判事は、

アメリカの原爆の使用は、ホロコーストに匹敵する行為である。」

と論じ、原爆投下こそ無差別的破壊として、ナチスホロコーストに比べられる唯一の行為であるとした。

梅原元大将と東郷元外相の弁護を担当したアメリカのブレイクニー弁護人は、裁判で次のような発言をした。

真珠湾で、日本軍によって撃沈されたアリゾナの艦長の死が、殺人罪になるならば、原爆を投下したエノラ・ゲイ機長も同じ罪状を問われる。原爆投下を計画したカール・スパーツや、アメリカの元首、彼らは殺人罪を意識していたか、してはいまい。それは彼らの戦争が正義で、敵の行為が正義ではないからではない。戦争自体が犯罪ではないからだ。何の罪科で、戦争による犯罪が違法なのか。原爆を投下したものがいる。投下を計画し、実行に移し、これを黙認したものがいる。そのものたちが、被害者を裁いているのだ。ならば、彼らも殺人者ではないのか。」

この発言が始まると、担当者は通訳を停止した。

パール判事は、1952年、広島を訪れ、「世界に告ぐ」と語りかけた。

「原爆が投下された時、どんな言い訳がなされたのか、何のために原爆が投じなければならなかったのか。

いったいあの時、アメリカは原爆を投ずべき何の理由があったのか。日本はすでに降伏する用意ができていた。アメリカからの真実味ある、心からの懺悔を聴いたことがない。白人の軍隊を犠牲にしないために、を言い訳にしているようだが、罪のない老人や子どもや女性、市民を、幾千万人殺してもいいというのだろうか。われわれはこうした手合いと、再び人道や平和について語り合いたくない。」

原子爆弾について、アメリカによる戦争犯罪であるという主張は、ついに認められることはなかった。

1950年、ストックホルムで開かれた世界平和委員会で、原子力兵器の無条件禁止を要求する、「ストックホルム・アピール」が発表された。それは世界で5億人の署名を集め、世界各地で平和会議が開かれた。そこへ起きたのが第五福竜丸事件だった。

日本の漁船、第五福竜丸が、ビキニ環礁で行われた水爆実験による放射能降灰を浴びて、死者を含む被害を受けた。アメリカは太平洋で、その後も核実験を続けていたのだった。

NHKの朝ドラ「虎に翼」の最後が近づいている。今朝の「虎に翼」は緊迫する大法廷だった。

この朝ドラに衝撃を受けてここ数日、

「原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子」(山我 浩著 毎日ワンズ)

を読みつづけ、昨夜読み終えた。自分の知らなかったすごい歴史に驚愕した。

筆者、山我 浩は、この著書の最初に、こんなことを書いている。

「三淵嘉子のあまたの関連本を調べてみると、すっぽり抜け落ちているのが、嘉子が裁判官として、『アメリカの原爆投下は国際法違反である』とする判決を下した経緯である。唯一、この点を深掘りしたのが本書である。

嘉子は、1952年、名古屋地裁に初の女性判事となって赴任する。1956年(昭和31)に裁判官の三淵乾太郎と再婚、三淵姓になり、東京地裁判事に就任した。」

そして1955年、広島と長崎の被爆者の五人が起こした『原爆裁判』を嘉子は担当した。

その判決は、1963年、12月7日。

原子爆弾による爆撃は、無防守都市に対する無差別爆撃として国際法から見ても明らかな違反である。

‥‥国家は自らの権限と、自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んで、甚大な被害を与えた。十分な救済策をとるべきである。』

この書の最後に掲載された判決文全文は、68ページにも及ぶ。

裁判は、世界で初めて、『原爆投下は国際法違反』と明言、日本政府に被爆者への支援策を強く促したのである。この判決の結果、『原爆特別措置法』が制定され、その後『被爆者援護法』も制定された。さらに、世界的には約半世紀遅れたが、『核兵器禁止条約』の成立にもつながった。

「原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子」は、次のような章になっている。

第一章 死の商人と呼ばれた男

第二章 原爆が投下された日

第三章 放射線との闘い

第四章 アメリカはお友達?

第五章 女性弁護士三淵嘉子の誕生

第六章 家庭裁判所の母

第七章 原爆裁判

第八章 三淵嘉子の終わりなき戦い

そして「原爆裁判」判決文 全文。

筆者、山我 浩は、「今、世界は『戦争の時代』に逆戻りしつつある。ウクライナ戦争、イスラエルハマス戦争、台湾有事、北朝鮮の核開発などにより、第三次世界大戦前夜のような危機的な雰囲気になってきている。」と危機感を述べている。

私は思う。これまでの日本の学校教員、特に社会科、歴史科の教員は、この事実をどのように理解し、どのように生徒にそれを教えてきたか。

下江国男君が、今年の5月に、メールをくれていた。それをもう一度開いてみた。その時に、読んでいたはずなのに、えっ、そうだったのかあ、オドロキと、どっと無念さが湧き起った。そうだったのか、元気だったら、今頃は10月のニュージランド17日の旅行に出かける準備の最中だったのだ。まったく突如として、病は襲ってくる。

彼は書いていた。

「最近の天気予報によると大阪より長野や日本海のほうが高温とのこと、日本の気候も色々狂って来ているね。

ずいぶんご無沙汰ですが、お変わりありませんか? 時が過ぎるのがだんだん早くなるように感じます。小生はますます歩くのが億劫になり、散歩もあまりしなくなりました。不健康長寿をこなすために、歌舞伎、文楽、落語など公演があれば出かけるようにして、生活に活気と潤いをつけるようにしています。それに、陶芸、篆刻、社交ダンスは日ごろのリズムを崩さないために続けています。

あれやこれやと手を尽くしているけど衰えを感じますね。

昨年は山岳部の後輩をこき使って、2週間インドネシアのあちこちを旅行。今年は10月にニュージランド17日の旅行を計画、大目標に向けて体調を整え中です。

貴兄のところにも行ってみたいね。

身の回りの仲良しがだんだんかけていく。お身体を大切に。ご健康を祈ります。」

ああ、無念なり。