■ (original) (raw)

原稿が遅々として進まないので、近況でも話そう。

「そんな沢山の薬、一体どうするんスか」

岸副は、私の買い物カゴの中を覗き込みながら訊いてきた。

カゴの中には二種類の色の小箱が無数に詰め込まれているが、効能はどちらも同じだった。違うのは味だけである。言うまでもなく、菓子の類ではない。彼女が“薬”と評したように、第三類医薬品に分類される薬剤だ。

「どうする? これはまた異な事を。飲むのさ、れっきとした薬なのだから」

「……こんなに? 一人で?」

「勿論だとも」

私達は『たちばな歯科クリニック』での処置を終えた後、程近くの場所にあるドラッグストアへ立ち寄った。そこは薬局も併設されており、処方箋を出すにはうってつけだった。歯科医院は取り扱う薬剤の種類が少ない為に院内処方が基本なのだが、医薬分業でも掲げているのか、件のクリニックでは院外処方にこだわっていた。ひょっとしたら崇高な理念に基づいた…… いや、どうだろうな。単純に在庫管理が面倒臭いだけだろう。

そういうわけで岸副と連れ立って薬局に処方箋を出して、それが用意されるまでの間に、私はドラッグストアに陳列されている医薬品を買い漁っていた。

岸副は怪訝な表情で買い物カゴから薬剤をひとつ手に取って、記載されている説明書きを読み込んだ。

「成人は一回一包。最大一日六包まで。服用間隔は二時間以上…… って書いてありますけど?」

「書いてあるね」

「どんだけ飲むんスか」

「特に決めていないが、一日四箱くらい」

「は、箱ぉ? 包じゃなくて? 箱? 四箱? 一箱で十六包だから、六十四包も?」

岸副が目を白黒させている。

「煙草じゃないんスから…… それ、立派なオーバードーズってやつですよ。局長がそれを知らないわけないスよね」

当然、知っている。過去にはそれに悩む患者を診てきたし、オーバードーズがテーマの講演会の壇上に立って啓蒙した経験もある。

「まさか私がそちら側に行ってしまうとはね。分からないものだよ」

本当に分からないものだ。もはや、契機となったのがいつ頃なのかすら覚えていない。気がついたらこうなっていた。唯一の救いは、時と場所を選ぶだけの理性がある事だ。服用するのは決まって夜…… それも寝る直前だけ。満足感を得られるまで飲み続けないと眠る事ができないのだ。睡眠薬で誤魔化せないかと思った時期もあったが、今度は睡眠薬の数が増えるだけだった。

どちらを取るかと考えた時、成分的には漢方薬に近いこの薬剤を飲んだほうがマシだという結論に至った。

「したり顔で何言ってるんスか。戻しますよ」

物思いに耽っている私の横で、岸副は勝手に買い物カゴから薬剤を取り出して棚に戻していく。

「酷い」

「酷くない」

自傷と薬だけが生き甲斐なのに、そのうちの一つを奪うのか」

「……そんなんじゃ、カラダ壊れますよ。局長のインプラントが緩んだ原因、極度の貧血と栄養失調が祟って続発性骨粗鬆症になりかけてるからって話じゃないスか。あそこ、会話が丸聞こえなんで」

先程まで空になっていたはずのスペースは埋まりきって、逆に買い物カゴの中は空となった。

私は、すっかり軽くなったそれに目を落としながら、立花との会話を思い返した。

―――

『締め直すのは容易ですが、いずれ圧力に耐え切れなくなって顎が割れるでしょうね。別のところから骨を持ってきて補強する事は可能です。しかし、今のあなたの身体に丈夫な骨などあるかどうか…… 血管の老朽化も著しい。貧血の度合からしても、手術に耐え得る状態ではない。一度、人間ドッグをと言っても無駄でしょう。あなたには改善する気がない。自分自身の身体が壊れていくのが…… いえ、壊していくのが好きなんだ』

『……君は、人文科学を“文化(アート)を研究する学問だ”と言っていたね。君の中でアートは一体どのように定義されている?』

『僕の話をしている場合ですか』

『私はこう考えている。アートとは人為の所産。即ち、ある行動の結果として生み出し・作り出されたものだ。何かを生み出し・作り上げるには創造と構築が不可欠だが、人間の持つ機能でそれを行う部分として重要な位置を占めるのが脳であり、我々が“心”と呼んで融通し合っているものだよ。それを情報処理装置として、感情、認知、感覚・知覚、発達などを手掛けていく。ここで忘れてはならないのが、認知や感情、感覚・知覚などは独立して機能しているわけではない。それは必ず心を中心に機能しており、飽くまでもその構成要素は心にある。そんな人間が持つ最も身近なアートとは一体何か…… 予測だ。予測は、誰しもが絶対に獲得する経験や学習といったものから生み出し・作り出してしまう、人為の所産に他ならない』

『…………』

『……いえ、あまり』

『元々は医学用語だった“カタルシス”を初めて心理学に適用したのはアリストテレスだとされている。アリストテレスは自著【詩学】において“大衆が悲劇を好むのは、それを観賞する事で自分自身の心にある種の浄化作用(カタルシス)が働くからだ”と述べて以来、演劇は主人公と己を重ね合わせる同一化を重視しつつ、観客の心を浄化させるような…… 解り易く言えば、大きく揺さぶるような展開が好まれるようになった。のちにジークムント・フロイトは、このカタルシスを“代償行為によって得られる満足感”と説明したが、私にとってはどちらもさほど変わらない。何なら二つを合わせて“代償行為によって得られる浄化作用”と言っても差し支えない』

『何を言いたいんです』

『何を……? そうだな。ここで言う“代償行為”は、私における自傷行為オーバードーズに置き換えられるが、それによって得られる“浄化作用”もまた、崩壊という言葉に置き換えられる。従って、自傷行為オーバードーズによって得られる崩壊。それが私にとってのカタルシスになる…… 話を戻そう。先程伝えたように、私の中のアートとは予測であり、ある行動の結果として生み出し・作り出されたものだ。もし精神病を患者自らが生み出し・作り出しているものだとすれば、それもアートと言える。無論、それはサイエンス的な意味ではない。精神病を患うには、それなりの行動や演出…… 要するにアートが必要なのだ。臨床心理士をはじめとするカウンセリングのプロは、そのアートの部分を健全に正す事が仕事と言えるが…… それは一旦横に置いておこう。でだ、君に問いたい。人間が持つ最も身近なアートが予測だと仮定するならば、最も身近な予測は一体何だと考える?』

『分かりませんよ。考えた事もない』

『そんなはずはない。君は必ず考えた事がある。必ず予測した事がある。我々にとって最も身近な予測…… それは、自分自身の死だ。我々人間は常に自分自身の死を予測しながら生きている。だから生きていられるのさ。そして、私は誰よりもそれを予測している。密度・強度が低下しつつある骨。光を受け入れなくなった左目。朽ちていく血管と内臓。度を超えた薬物摂取に、無数の自傷痕。数十年にも渡って繰り返してきた代償行為によって日に日に崩壊していくこの身体こそ“カタルシス”そのものであり、まさしくアートの結晶なのではないか?』

『……そんな非合理的なアートは、僕は認められません』

『そうか。ならばやはり、君の結論が正しいのやもしれない。私は、自分自身の身体を壊していくのが好きなのだろう』

―――

あの時は、忙しいのに長話に付き合わせて悪かったという思いしかなかったが、あれを聞かれていたとなると、些か反応に困る。

「……とりあえず、抜歯されなくて良かったな」

私との会話が筒抜けだったように、岸副と立花の会話も当然筒抜けだった。こちらとしては処置が済んだ時点で帰宅しても構わなかったが、処置室へと向かう岸副に、「診察が終わるまで帰らないでくださいよ」と念を押されたので、そのまま待合室で座り込んでいた。

レントゲン撮影をした後、抜歯する抜歯しないの押し問答が続いて、最終的に立花が折れた。虫歯になっているわけではないし、親知らず全体が埋没しているのなら様子見でも良いとの事で、抗生剤と鎮痛薬を三日分ずつ処方する事になった。

「でも、三日で腫れが引かなかったら抜歯したほうが良いとも言われましたけどね」

「抜く時は教えてくれ。横で見学するから」

「趣味が悪いっスよ」

「誤解だ。私はただ心配で……」

「なんて言いながら、また薬を買おうとしてる! ダメって言ってるじゃないスか!」

バレた。

棚に並んだそれに手を掛けたところを掴まれ、容赦なく捻り上げられる。状況次第では痴漢したようにも映りかねない。

「どうしても駄目か?」

「どーしてもダメですねぇ」

岸副は頑然とした態度を崩さない。正直、意外だった。出会った時から“無軌道で無秩序な人間”という印象であり、それは今もさほど変わらない。要指導医薬品や第一類医薬品なら兎も角、市販薬の過剰摂取を取り締まるような法律はない。遵法精神に基づいた行動でないのなら、一体何故……? 仮にここで買い控えようとも日を改めて大量に購入するだけなのに。

訳も分からず首を傾げていると、岸副はやや長めに切り揃えられた前髪の隙間から覗き込むようにして、こちらを見上げた。

「局長と一緒に悪い事をするだけが唯一の生き甲斐なのに、それを奪うんスか」

その発言は思慮の埒外だった。

「それは、なかなか…… 効果的な殺し文句だね」

たとえ嘘であっても、そこまで言われて買えるほどの度胸はなかった。

不要になった買い物カゴを置台に戻すと、「悪い事って言えば」と岸副が口を開いた。

「局長が調べてほしがってた“ヘレシー”っていうの、どうなったんスか? もう既に一人か二人やっちゃいました?」

「私を何者だと思っている…… むしろ、やられたよ」

と答えて、私はワイシャツの右袖を捲った。創傷も縫合糸も存在しないが、ケロイドとなった前腕の中でも一際目立つ真新しい傷跡がある。その膨れ上がっている瘢痕が傷の深さを物語っていた。

「やられたって」

岸副があからさまに眉根を顰めた。

「じゃあ、そいつを締め上げましょうよ。今からでも」

「それができたら苦労はしないよ。一応、専門家に頼んで探りだけは入れているが、私個人としてはこの件から手を引くつもりだ。事を荒立てなければ娘達に実害はなさそうだし」

その時、岸副は私の右腕を掴んで吼える。

「実害ならあるだろーが! 実際、この傷がそうなんじゃないのかよ! なのに日和見かますって? 冗談じゃないっ! 局長のガキ共なんてどーだっていい!」

「声が大きい」

私達が居るドラッグストア自体は広々としていて、周囲に店員こそ居ないものの、遅めの夕食を買い求める客の姿は多い。騒げば好奇の視線に晒されるのは火を見るより明らかだった。

「岸副の言いたい事は解らないでもない。しかし、相手は巧妙で狡猾だ。君にも情報収集を頼んだが、その成果は?」

「……なんにも、ないっスけど」

「それだけ統率が取れているという事さ。一人を締め上げたところで、リターンよりもリスクのほうが高い」

「その口振り…… これをやったの、局長の知り合いスか。もしかして庇ってる? まさか、八月に入ってからたまに福祉局に顔を出すようになった、生方とかいうガキがこれを?」

「誓って生方君ではない」

「ホントに? でも、知り合いって線は当たってますよね?」

鋭いなあ…… 庇っている事も間違っていない。状況証拠のみで南角礼佳まで辿り着くとは考え難いが、万が一という事もある。釘を刺しておくべきだろう。

「岸副、取引をしよう」

「取引?」

「私は今日、薬剤を買わない。約束する。だから岸副も約束してくれ。君もヘレシーには関わらないと」

「最初に関わるよう仕向けたのは局長じゃないスか」

岸副は不貞腐れた子供のように唇を尖らせる。

「そうだ。責任は私にある。相手の全貌も把握していないうちに、岸副を差し向けた。反省しているよ。詳しくは言えないし、確証もない。だが私だからこそ、この程度の傷で済んだ。君にはまた退屈させてしまうやもしれないが、どうか堪えてほしい」

「……驚きっスね。局長は、もっと血も涙もない人間だって思ってたんスけど、そんなにアタシの身を案じてくれるなんて」

「無遅刻無欠席、且つ、いかなる仕事も卒なく片付けられる岸副を失いたくない。君の損失は福祉局の将来を左右する」

私の言葉に、岸副は溜息を吐いた。やれやれと言わんばかりに首を左右に振って、どこか恨めしそうな視線を向けてくる。

「前半と後半の一部さえなかったら、甘い囁きに聞こえていたかもしれないのに」

「岸副を失いたくない?」

「疑問形も要らないスね」

期待に満ちた表情。先程まで激昂していたのが嘘のように、目を輝かせている。目に入るものすべて噛みついていた狂犬が、今や散歩を待ち侘びる忠犬の如く。

「……もうとっくに薬の用意ができた頃だろう。取りに行くとしよう」

何事もなかったようにドラッグストア内の薬局に足を向けた時、岸副がぼそりと呟いたが、それは都合良く聞き流した。

世の中には知らないほうが良い事も沢山あるのだ。