孤独死予備軍ひきこもり日記 (original) (raw)
佐高信という作家がいる。おそらく世間の人の大半は知らないだろう。元々は慶応大学を卒業して、郷里の山形に戻って高校教師をしていたが、再び上京して経済誌の記者になった。業界紙を転々として、次第に名の知れた作家になった。その経歴は佐野眞一などと共通する点が多い。業界紙は出版業界でも三流であり、辛苦を嘗めるためにその苦労が温かい人間味を育むことが非常に多い。佐高信はとにかく毒舌である。しつこいまでに、保守派の論客やインチキ臭い著名人を批判し続けてきた。何年か前に朝まで生テレビに出演したが、往年の勢いはなかった。佐高信が批判した人物は、石原慎太郎、曽野綾子と三浦朱門夫妻、櫻井よしこ、阿川弘之、西部遇、沢木耕太郎、ビートたけしなど挙げれば枚挙に暇がないほどである。沢木耕太郎のことを「遠足作家」とまで貶した。沢木耕太郎の「深夜特急」をここまで酷評する人はおそらくいないだろう。沢木耕太郎の思想がない所が佐高信にとって気に食わないのであろう。ビートたけしである。ビートたけしは自身が佐高信から批判されていることを知っていた。そして頻繁にテレビでも「おいらの悪口を言う経済評論家の佐高という奴」と言ってた。ビートたけしを批判する知識人は皆無に近い。ただ津川雅彦だけがビートたけしを蛇蝎のごとく嫌い、北野映画を酷評した。知識人は北野映画を絶賛する風潮があるだ。ビートたけしは映画を撮る度に映画評論家から絶賛されてきた。「その男凶暴につき」は元々深作欣二監督が撮る予定であった。急遽ビートたけしが撮ることになったのである。撮影現場では揉めたようである。撮影監督との確執。脚本を無視して、野沢尚を激怒させたなど。ビートたけしの事を快く思っていない映画人も実際は数多いのだが、「世界の北野」となったビートたけしに刃向かうことができないのである。佐高信は週刊金曜日という雑誌の編集委員も務めていた。佐高信の文体は硬質で、氏の誠実さが如実に現れている。こういう左翼人が皆無になった。ファッションとしての思想を主張する似非左翼人ばかりになったのが非常に残念だ!
✕を始めたが、全く影響力がない。
LINE追加登録して、条件があえば、セックスしますというアカウントがやたら多い。
加工した画像や顔を隠した画像を掲載しているのだが。
何故こういう馬鹿が増えてききたのだろうか!
引っかかる男もかなりいると私は思う!
毎日新聞の女の編集局長も袴田事件の過去の報道に対して迅速な対応を取った。
この毎日新聞の女の編集局長は、毎日新聞和歌山支局長を歴任している。
毎日新聞和歌山支局では、入社したての女の記者を和歌山県警の1日機動隊に入隊させるほど、ゴマをする。
つまり大手新聞社の人事システムは、警察組織にゴマをすったものが社内で出世していく構造になっているのだ。
袴田事件が無罪になって、謝って済む問題なのか!
彼らは舌の根も乾かないうちに、警察組織の提灯記事を書くだろう!
この欺瞞に私は慚愧に耐え得ない!
ままちゃりおばさんがネット上に本名が晒されて、人権擁護上問題があるとされて、この件について誰も口を挟めなくなった。
どうも最近「言論を封じる風潮」がある。
ままちゃりおばさんの自転車の乗り方は異常である。
自分のした事を反省するどころか、逆切れする有様。
このような狂人の人権を擁護する必要がない。
私の住んでいる田舎も、自転車を運転する狂人、ゴミ、輩、チンピラが異常なまでに増えた。
特に言えるのは、運動神経の悪い人間ほど、ルールを遵守しない危険な運転をする。
警察庁は自転車のルール違反にも罰則を厳罰化した。
しかし形だけである。
ままちゃりおばさんのような手合いがどこにでもいるのが、現代社会である。
人としての最低限度のルールや公共空間でしてはならないことが分からないように、いつから日本人はなってしまったのかと怒りがこみあげて来る。
狂人は自転車に乗るべきではない、自転車は車より凶器だ。
私は暴走自転車にブチキレそうになるが、瞬間的にキレてしまっていることもある。
狂人は自転車に乗るな!
1昨日は、143アクセス数。11時50分段階で73アクセス数がある。
私のようなショボい「はてなブログ」にしては、なかなかのアクセス数である。
しかし誰も評価されない。
この頃しんどい。何故なら、20分の夜のランニングが次の日に響くからだ。
そのうえ、ブログのネタ探しに苦労する。
警察不祥事と冤罪について書けば、アクセス数が減る。
そのためのネタ探しが苦労するのだ。
一生懸命書いて、お知らせにマークがないと、流石の私も腹が立ってくる。
警察不祥事と冤罪は、私の✕でポストすることに決めているが、✕は字数が制限されて書きたい事が書けない。
また✕は知性を劣化させる。
やはり文章は毎日机に座って、パソコンなりノートに書かなければ、いざとなると書けなくなる。
私はその強迫性神経症になっているようだ。
それにしても、2か月に1回更新して、評価されるゴミみたいなブログを見ると、世の中の不条理を感じてならない。
今辞めたらゴミに負けたことになる!
今年で奈良小1女児殺害事件発生から20年が経過した。小林薫死刑囚が遺族に対して最後まで謝罪がなかったことが報道されている。果たして小林薫死刑囚の本音であったであろうかと私は疑問を禁じえない。小林薫の犯行は決して許されざるものではない。メディアは事件発生当時小林薫死刑囚の生育歴や前科を大々的に報道した。特に小林薫が稀にみる凶悪犯であるがごとく世間に印象付けた。しかし小林薫は子供の頃に繊細までにやさしい心を持っていたことを証明する手紙を書いている。家庭環境に恵まれない小林薫死刑囚は家族皆で一緒に暮らせたら良いのにと切に願い、弟の事を気遣う文章を綴っていた。この手紙を読めば、小林薫が生まれついた凶悪犯ではないことは誰の目にも明らかである。この手紙のことについてはメディアは一切言及していない。小林薫死刑囚は父親から虐待を受けた。そして学校ではいじめのターゲットにされ続けた。どこにも彼の居場所など無かったのである。だからと言って、犯罪を犯しても良いとは言えないのは、正論である。ただ小林薫死刑囚の目を見れば、他の事件の凶悪犯とは全く違うと私は思うのである。目がやさしすぎる。たいていの死刑囚の目は、うつろでありどこを見ているか分からない。しかし小林薫死刑囚の目は救いを求めている目である。遺族にとって、最後まで謝罪しなかった小林薫死刑囚は絶対許せない存在であろう。しかし小林薫死刑囚を死刑執行したことは果たして良かった事のだろうか。死刑存置の可否が今問われている。最近もっとも人権派元裁判官と称されている人間は、過去に秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大に死刑を言い渡している。この矛盾を一体どう見るのだろうか。この人権派裁判官は加藤智大の生育歴や犯行に至るまでの動機などについてはあまり詳細な事実認定をしていない。はっきり言って手を抜いたと言っても過言ではない。人権派裁判官といえども過ちを犯すのである。小林薫死刑囚は生まれついての鬼畜ではないことは確かであると私は言いたい。