村上一品洞 (original) (raw)

彼岸花の名の通り、例年9月後半に咲く曼珠沙華ですが、今年は長引く猛暑で開花が遅れ、10月に入ってから盛りを迎えています。二十数年前、知る人ぞ知る穴場の観光地だった巾着田は、今やすっかり人気スポットと化し、駐車場もずいぶん広くなりました。この時期、毎年「曼珠沙華祭り」が開催されていますが、しかし最終日(10月2日)になってようやく満開というのは初めてです。地球環境は相当深刻なところまで来ているかもしれません。最早関東では、5月から10月まで、一年の半分が夏になってしまった感じです。狂った季節の中で、鮮血が飛び散った様に赤い曼珠沙華は、今年も妖しく美しく群生していました。もうしばらくは見頃です。

2024年 16cm×22.5cm 紙、鉛筆、水彩

関越道の三芳PA周辺に富(とめ)という地域があります。元々は江戸時代、川越藩主だった柳沢吉保(徳川綱吉の側用人)が、落ち葉を堆肥として活用する農法により開墾を勧めた新田です。今も川越芋の産地として有名で、関越道の西側を並行するけやき並木通りは通称「いも街道」と呼ばれています。道の両側に芋農家が軒を連ねていて、娘が小学生の頃に何度か芋掘りに来た、懐かしい場所でもありました。

いも街道の中程に茅葺の建物がありました。江戸時代後期に寺子屋として使われていたという古民家は、今も囲炉裏に火が入り、中まで公開されています。スケッチしながら、茅葺き屋根の所々に何か白くて丸いものがあるのが気になっていたのですが、近づいて見るとアワビの殻でした。水の中にいるもので火除けのまじないかな?とも考えましたが、他にも色々説があるようで、真相はわかりません。

さて、どうして藪から棒にこんな古民家の絵を出したかと言うと、実は最近、この辺りに出掛けることが増えました。というのも、「夏のアートキャンプ」展を終わって、家に入りきらない作品を保管するため、とうとうこの近所に倉庫を借りたのです。東京とは一味違う自然や、人の大らかさがあり、ちょっと気に入りました。これから倉庫で作品の整理を進めながら、この地域の魅力もたくさん見つけていきたいと思います。

2024年 26cm×36cm 一版多色刷木版画

高校生の頃、住んでいた恵比寿の集合住宅に小型の猛禽が飛来しました。ベランダで洗濯物を取り込んでいた妹が「鷹がいる!」と大騒ぎしながら室内に駆け込んできたのです。1970年代後半の東京ど真ん中にまさかと思いながら出てみると、薄暗い隣家との境の衝立の上に、立派な鉤形の嘴の鳥が留っていました。これは何としても捕まえて飼わねばと思い、洗濯籠を持って近づき、バッと被せて生け獲りました。

色々な図鑑で調べてみると、鳩よりちょっと大きなこの鳥は、小型のハヤブサの仲間で、コチョウゲンボウの雌と判明しました。昨今、鷹やハヤブサが森を追われて都会に棲み着くというニュースを観るようになりました。私自身も武蔵野市内で、結構な大きさの鷹が、狩った鳩を掴んで飛び去るのを目撃したことがあります。でも、今から半世紀近く前は、都会でハヤブサなんて考えられませんでした。尤も我々の目に触れなかっただけで、近くには代々木公園や明治神宮の森がありましたから、野生の猛禽が棲息していても不思議ではありません。恐らくその一羽がはぐれて飛んできたということだったのでしょう。

瞳がまん丸で愛嬌ある顔をしていたので幼鳥かと思いきや、立派な成鳥で、足の指が何本か千切れてその跡が固まっていたことからも、歴戦を経たもう老齢に近い個体だった様です。それまで彼女がどんな風に生きてきたのかはわかりませんが、或いは自分の衰えを悟り、終の棲家を求めてここに辿り着いたのかもしれません。そう言えば捕まえた時、抵抗らしい抵抗もせず、ベランダにベニヤと金網の小屋を作ってやると、直ぐに馴染んでそこで淡々と暮らし始めました。毎日鶏や牛の挽肉を美味そうに食べ、時々肩に乗せて散歩に連れ出しても逃げようとはしませんでした。

ただ一度、外でカラスに出くわした時にはパニックになり、泡を食って建物の4階まで飛んで逃げました。もしかするとカラスに対しては、嫌な思い出かトラウマみたいなものを抱えていたのかもしれません。逃したかと思いましたが、4階まで迎えに行くとすっかり落ち着いて、「私としたことが取り乱してしまって。」と言い訳する様な顔で、一緒に家に帰りました。

小屋の中を掃除する時にちょっとした指示をしたり、話しかけたりすると、こっちを向いて首を傾げ、ほとんど顔が逆さまになるまで捻って何か考えています。本当に警戒しているときは背中の毛を立てて、「キ、キ、キ、キ、キッ!」と甲高い声で鳴きます。嘴の先が細くどんどん伸びていって、どうなっちゃうのかな?と思っていると、ある朝カッターの刃の様に先が落ちて、綺麗な形に戻っていたこともありました。猛禽と一緒の生活は新鮮で、毎日飽きる事がありませんでした。

45年以上昔の話ですからとっくに時効だと思いますが、農林大臣の許可なく猛禽類は飼えないことを後で知りました。もちろん当時は知る由もありません。私達一家が暮らしていたのは国家公務員住宅で、そこには農林省や警察庁のお偉方もいましたから、言わば私は交番前の花壇で大麻を栽培していた様なものです。当然の如く、住民の誰からもクレームはなく、私は一人で得意になって鷹匠気分を味わっていましたが、今考えると、ご近所は皆「しょーもない村上のバカ息子が」と思っていたに違いありません。

8か月一緒に暮らして、すっかり家族の一員になったと思っていたある朝、一人で勝手に名前をつけていた母が「ピピが死んでる!」と、私を起こしに来ました。前の晩はちょっと強い風雨がベランダの小屋を揺らしていましたが、中に雨を避けられるスペースも作ってあったので、カバーは掛けていませんでした。ただその頃、コチョウゲンボウは夜になっても屋根の下の寝床に入らず、小屋の一番上でずっと外を見て過ごすことが多くなっていたので、私としてはちょっと後悔が残りました。或いは自分の死期を悟っていたのかもしれません。猛禽らしい気位を感じる最期ではありました。

さて、背景こそ違いますが、私の右肩に乗るコチョウゲンボウはこの絵の通りの姿でした。指の欠けた足でバランスを取りながら、時には片脚を上げたりして。落ちそうになると両足の爪を私の肩に食い込ませるのが結構痛いのです。何かを訴えようとしていたのか、時には私の右耳を嘴で軽く齧ることもありました。だんだん秋に向かっていくこの頃、相棒だったコチョウゲンボウと早逝の友人が重なって思い出される時期になりました。

2024年 22cm×22cm×厚さ4cm 桂材、アクリル彩色、ワックス仕上げ、アルバム台紙

「夏のアートキャンプ」展にも出品した木彫アルバムです。自作の水彩画の中から海の絵と空の絵ばかり写真にして閉じ、作品マケットなどと共に展示してみました。

表紙のモチーフにした舞楽面はどちらも源実朝遺愛の品で、実朝の死後、北条政子が瀬戸神社に寄進したと伝わっています。右側の赤い抜頭面(ばとうめん)は、裏の銘文により、運慶作と認められており、数年前に金沢文庫で実物を観た時、その凄まじい立体感(奥行)に驚いた覚えがあります。横顔がほぼ半円で、鼻の高さは10センチぐらいありました。

左は陵王面です。古代中国の美青年の王が、戦場で味方を鼓舞する為に敢えて着けた獰猛な面と言われています。歯を剥き出した異形の頭上に龍が跨って威嚇するデザインとなっています。反り返った足の形の特徴などから、こちらも慶派の工房で作られたものと推測されます。もしかすると運慶本人の作である可能性も否定できません。

この面とかなり近い(同作者か同工房作と考えられます。)ものがもう一つ、源氏縁の鶴岡八幡宮にあります。これらの舞楽面がどういう経緯で、一体誰によって造られ、奉納されたのか興味は尽きません。

この夏休み丸々開催した「夏のアートキャンプ」展が9月1日(日)で終わりました。休館日を除く36日間で一万人を越える来場者があったそうです。今年は酷暑と台風、おまけにオリンピックという悪条件が重なったにも関わらず、たくさんの方にお運びいただき、ありがたいことでした。

作品撤去・搬出と今週は重労働が続き、さすがにヘロヘロです。一つずつがそんなに重くないとは言え、作品の大きさとその数に我ながら辟易しています。新しく借りた倉庫にはエアコンもなく、文字通り汗と埃に塗れた片付けはなかなか捗りません。しかし、まあとにかく、美術館での作業は、滞りなく無事に終えることができました。これも全て、ボランティアで搬出入とも手伝ってくれた教え子の大学生4人をはじめ、色々な人たちのサポートのお陰です。お世話になった皆さん、本当にありがとうございました。近いうちに、約束通り、晩飯ぐらいご馳走させてもらいます。