今週の喝 第992号(2024.05.27~06.02)この世は全て催眠だ(733)〜私の言葉を修正してくれた罰金箱!〜 (original) (raw)

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの?

この世は全て催眠だ(733) 私の言葉を修正してくれた罰金箱!

丁度こんな時、浜村淳さんから毎日放送ラジオの看板番組「ありがとう浜村淳です」からゲストのオファーが来ましたので、とても良いチャンスです。ゲストに呼ばれたにもかかわらず、私は徹底して浜村さんのお喋りやそれにまつわる呼吸やタイミングを観察しました。もちろんベテランと言ってしまえばそれまでですが、面白いことに澱みないお喋り(DJ)のゲストになると、番組後の録音を聞いて驚いたのは、私も「エー、アー、そのー、あのー」など全く言っていないのです。
調子乗りの私ですから、「と言うことは、私にも出来るんだ!」と自信を持つことができましたが、所詮普通の人間です。何かテンションを掛けないと、やはり無駄な言葉が出てしまいます。
そこで、一計を案じサントリー・ウイスキーの角瓶の縦に筋が入っているところにセロテープを貼り、ゆっくりと釘で少しずつ穴を縦に開けてゆき、100円コインが入るようにしました。角瓶は上部の注ぎ口からはコインは入りませんので、多くの人はこのウイスキー貯金箱に何処からお金を入れたのか分かりません。
この貯金箱を目の前に置き、表現の間違い放送禁止用語などを言ってしまったり(特にNHKでは登録商標も×でした)、咬んだり(舌が回りきらない時の業界用語)余分な言葉を発してしまったときなど、この貯金箱に(罰金箱と呼ぶべきですね)最初は10円だったのですが、後に自分に気合いを入れるために100円にして、入れていきました。(今もほぼ7割方貯まっています)
この効果は絶大で、程良い緊張に包まれて2回目の放送から通常のお相手をしてくれた堀内裕子さんと軽快にDJを楽しみました。ほとんど咬むこともなく、余分な言葉も発せずに自分なりに上手くいった時の爽快感は、それは素晴らしい快感でした。
私の番組は、毎回違うゲストをお招きして、その方達の秘話を聞き出すコーナーがあり、まさに“人生色々”を学んだ場所でした。そのゲストの方はいつも、私の罰金箱を不思議そうに眺めて、コインが入らない……何処から入れるかetc.不思議がって下さったのがよき思い出で、今も我が家のどこかにしまってあります。

★★夢の中で応援してくれていた父★★ DJで私のお相手をしてくれていた堀内裕子さんは、とても爽やかな痩せ型の美人で博学ですが、ひけびらかさないとても上品な方でした。彼女はリクエストのレコードを掛けている間中、FUスイッチ(スタジオ内にある副調整室との打ち合わせ用のオンオフスイッチ)が下がっているときには、東京にいる彼の話か、自分の夢や希望を親しげに話してくれたのが印象的でした。その時の嬉しそうに話す姿を見ていて、フッと私の脳裏に彼女のあだ名が浮かんできました。堀内さんは不思議な人で、自分の恋人の話をしているときも、全く嫌味がなく、とても透明感のあるお喋りなのです。その姿は小さな子供が“塗り絵”に色を付けている様な所作・仕草なので「ぬりえちゃん」とし、早速、次の放送日から「堀内さん」から「ぬりえちゃん」に変えて親しく話しかけますと、ラジオですので「どんな雰囲気の方かなぁ?」と質問の葉書がたくさんやって来ました。
因みに私の番組の電波はFM放送です。FMとはフリークェンシー・モジュレーション(Frequency Modulation)の略で、電波は遠くまでは伝わりづらいけれど、雑音の影響を受けにくいのが特徴です。従って音がとても美しいので、クラシック音楽や日本の古典芸能などの放送にはもってこいのサウンドでした。それに比して、AM放送はアンプリチュード・モジュレーション(Amplitude Modulation)で、現在の地上波の一般で、電波の振幅を変化させて情報を伝送する方式です。AMは遠くまで電波が届くことが特徴です。しかし日本では、後数年で姿を消す存在です。
このようにしてスタートした私がDJを努める番組ですが、近年、我が母・洋子から聞いた話をお伝えします。この項でも度々書きましたが、私と我が父の関係は、あまり良いとは言えないものでした。その内実は、私が音楽にのめり込んでいって、父の生業である“畳&インテリア”の仕事には心を向けなかったことにあります。しかし、少しお酒が入ると饒舌(じょうぜつ)になり、色々な話しを惜しみなくしてくれ、その時はとても楽しいひとときでした。そして私には、よく我が学業成績も省みず「お前は将来、弁護士になれ!」と言われたものでした。その真意は、自分が通信兵を志願兵として出征して行く時に、出征の挨拶がしどろもどろだったのを大反省して、お喋りの訓練を徹底してしたそうです。この辺り、親子共々とても良く似ています。
そう言えば、町の役員やPTAの会長に推薦されたとき、流れるように演説していたのを覚えています。母によると、父が“弁護士”と言ったのは、お喋りが主体の仕事と単純に思ったからということです。こんな父ですから、私の番組が初めてオンエアされた日の夜、母の横で寝ていた父が突然大きな声(寝言)で「忠洋、そや、いけいけ。エエこと言いよるetc.」寝ても声援を送ってくれていたそうです。
死後十数年が経って、ふとした切っ掛けから母が父を思い出して教えてくれた逸話に、父の顔が眼前に浮かぶと同時に、心底可愛がってくれていたんだと思い出し、胸がジーンとしました

この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/