山内経之 1339年の戦場からの手紙 その11 (original) (raw)

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【出陣までの出来事】その3

北畠親房常陸上陸〉
ここで少し山内経之が鎌倉滞在している頃の常陸情勢について概観したい。実は常陸ではもう合戦は始まっている。
後醍醐天皇重臣で、南朝の実質ナンバー2である北畠親房常陸に上陸したのは、経之の手紙が書かれた年の前年、暦応元年(1338)のことであった。
親房は奥州勢を再結集するため、当初陸奥国に向かうはずであったが、伊勢を出帆後まもなく海路を航行中に嵐に見舞われ、多くの船が遭難、難破して散り散りになってしまった。親房の船のみがかろうじて常陸国東條庄に漂着し、東条氏の庇護を受けてひとまずは同庄内の神宮寺城にかくまわれた。しかし親房の到着を知った常陸北朝方のひとり佐竹氏は、親房のいる神宮寺城を攻めてこれを落とし、次いで逃亡先の阿波崎城をも陥いれた。命からがら漂着した親房は上陸後もしばらくは気を休める暇もなかった。親房はその後小田治久の居城である小田城に身を寄せ、ここから石川、田村、小山氏ら奥州各地の武士に書状を送って南朝方へ招誘したり、特に親房が期待していた結城親朝には再々にわたって書を与へて、自ら陸奥に赴かんとするを告げ、挙兵するよう協力を求めている。これを機に東国の南朝勢は活性化した。親房の結城親朝への期待、信頼は相当なもので、戦死した北畠顕家の娘を親朝に預けて後見人とするほどであった。
翌暦応2年3月に入ると、親房の配下の一人、春日中将顕国が下野国に発向し矢木岡、益子城を落とすと、その余波で上三河箕輪城も自落させ、4月には宇都宮氏を破る戦果を上げた。北朝方が高師冬を関東に派遣したのはこの春日中将の働きへの対応である。
高師冬は鎌倉到着後の6月、武蔵七党の安保光泰に下総国松岡荘をあてがっている。松岡荘は南朝方の豊田弥次郎入道の所領だが、それをあてがうということは安保光泰にその地を攻め取れと命じていることを意味する。常陸国関郡、下妻荘と隣接する松岡荘は常陸攻略の最前線にふさわしい位置にあり、師冬はここを確保して常陸攻めの足がかりにしようとしたのである。
さらに7月9日には絹川(鬼怒川)をはさんで常陸と境を接する下総国下河辺荘でも合戦が始まっている。このときは常陸勢が先んじて川を越えて攻め寄せてきた。記録に残されたのはこの2つの合戦のみだが、実際にはもっと多くの合戦や小競り合いがあったと思われる。経之が鎌倉で裁判だの用途が足りないなどと右往左往しているころも常陸では戦闘が継続中であった。

〈七郎二郎はぬまとへ行った?〉
「又けふ▢▢▢〇まとへ、七郎二郎め▢▢▢て候也、とてもこのさう(左右)もきゝたく候」(▢▢▢〇や▢▢▢は複数字欠字、具体的な欠字数は不明)。
欠字ばかりで解読がむつかしいが可能な限り意味を推測してみよう。まず七郎二郎というのは経之の従者の一人だろう。経之はその七郎二郎に何かをさせたようだ。そしてその結果を知りたがっている(「さう(左右)」は成り行き、知らせという意味)。
経之は七郎二郎に何をさせたのか、冒頭の「又けふ▢▢▢〇まとへ」の部分の解釈が悩ましい。「また、今日」はわかる。その後の▢▢▢の部分はともかく、〇のところには「ぬ」が入るのではないか。ここに「ぬ」が入るとすると「〇まとへ」は「ぬまとへ」になる。「ぬまと」とはもちろん陸奥国にある経之の所領の一つである。つまりここからどんな結論が導き出されるのかはあくまでこういう憶測が許されるのならばの話だが、経之は七郎二郎を「ぬまと」へ使いとして送り出したのではないか。先に経之は「ぬまと」へ曽我殿と一緒に往くつもりだったが断念した、という話があった。馬を用意できないなど、断念したのは致し方ない理由はあったものの、しかし、だからといってこれからいくさだというのに、しかも金策に四苦八苦している経之が「ぬまと」を放っておくとは思えない。なんとか連絡をとっていくさ用途に充てる金銭や兵糧、いくたりかの兵を期待するのが自然だろう。そのために七郎二郎を「ぬまと」へ派遣したのではないか。繰り返しになるがわたしの勝手な憶測なので話半分に考えておく必要はあるが全くありえない話ではない。