佐藤いぬこのブログ (original) (raw)
戦争に突入する時代をテーマにしたジン『認識不足時代 ご時勢の急変と獅子文六』を作りました。BOOTHで販売中です。「あんしんBOOTH パック」(ポストに投函・匿名配送)でお送りします。
ビリケン商会(青山)・オヨヨ書林新竪町店(金沢)・DA NOISE BOOKSTOREでもおもとめいただけます。
流行語だった「認識不足」と、獅子文六
昭和の人気作家・獅子文六といえば『コーヒーと恋愛』(昭和37)。テレビ業界が描かれているので「戦後の作家かな?」と思われるかもしれません。しかし『コーヒーと恋愛』は69歳の時の作品なんです。
デビューはもっと前、つまり戦前。
ところが獅子文六がユーモア小説家としてブレイクしたとたん、日本は本格的な戦争モードに突入します。( 朝ドラ「エール」の古関裕而も同様のタイミングでしたよね。ブレイク→戦争→軍歌の覇王)
ジン「認識不足時代 ご時勢の急変と、獅子文六 」(2020年発行)は、かつて流行語だった「認識不足」を軸として、昭和11年〜25年の16作品を並べています。戦争の時代を扱っていますが、お茶の時間にサッと読めるように作りました。フェーズが変化するたびにキラキラしたモダン生活が消えるのを感じてください。
▽ちくま文庫の「断髪女中 獅子文六短編集 モダンガール編」をセレクトされた山崎まどか様のTwitterより。
他にはない視点と探究心、ユーモアがあって私はいぬこさんのブログとZINEの大ファンなのですが、こちらは本当に獅子文六小説ファンは必携、朝ドラ「エール」を見ている人も必読です。お、面白かった〜。しかしキラキラした都市が軍国主義に傾いていく様子、洒落にならない。https://t.co/BfuP12pQfF
— 山崎まどか (@romanticaugogo) 2020年11月16日
▽ビッグイシュー411号「究極の自由メディア『ZINE』」特集に掲載されました。
— 佐藤いぬこ (@inukosato) 2021年7月15日
「認識不足時代 ご時勢の急変と獅子文六」で引用した 参考画像
ジン「認識不足時代」では、参考画像も紹介しています。
▽これは国際連盟脱退で揺れている頃の漫画。かわいい絵ですが、時代の空気が伝わってきます。(昭和8年2月講談社「キング」小野寺秋風)
▽昭和14年「欧州大戦勃発」の漫画タイトル(昭和14年11月新潮社「日の出」)
▽49歳ごろの獅子文六。本名の岩田豊雄で『海軍』を書いている時期です。『海軍』は日米開戦の翌年(昭和17)朝日新聞に連載され、敗戦後「私のことを戦犯だといって、人が後指をさす*1」原因になりました。そんな『海軍』から20年後の昭和37年、『コーヒーと恋愛』の新聞連載がスタートします。
ジン「認識不足時代 ご時勢の急変と、獅子文六 」は、画像が多め・字も大きめ。「獅子文六に興味ないなあ」という方もぜひ!時代が急変している今、何かのヒントになりますように。
▽このジンを作ったきっかけは、2014年のラジオ(宇多丸さん)でした。
以前、「キャラクターデザインの先駆者 土方重巳の世界」に行ったことがあります。昭和の可愛いグッズが大量に展示されていて、高度経済成長の迫力を感じました。
▽「サトウのサトちゃん」も「ブーフーウー」も、土方重巳が作りました
サトちゃんの作者と、溶鉱炉のポスター
さて、その後「サトちゃん」の作者・土方重巳を、意外なところで見かけました。『戦争と宣伝技術者』(1978年/ダヴィッド社)という本に、なんと「大溶鉱炉建設」ポスターの製作者として名前があったのです。
ソ連領に近い清津港に、 日本製鉄は大溶鉱炉建設を昭和16年後半から強行するために、工員を鼓舞する一大ポスター・キャンペーンを展開した。最後の完成期の2ヶ月間に、4枚のポスターを1組として、4期にわたってアタックした。
▽「鉄だ勝利だ 年内完成!」「突貫工事だ!やりぬくぞ」「鉄で勝とう!」
『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(1978/ダヴィッド社)に加筆
映画宣伝のキャリアと、溶鉱炉
- サトちゃん
- 戦時中の溶鉱炉ポスター
この2つはどう考えても正反対、接点が無さそうに思えます。
しかし、(資生堂の美女イラストで知られる)山名文夫の『体験的デザイン史』(1976)という本にも、ふつうに「**溶鉱炉」と「** 土方重巳」の組み合わせが出てくるんですよ。土方重巳はもともと映画のポスターを作っていたので、溶鉱炉ポスターのクオリティがすごかったらしい。
1つの例を挙げると、日本製鉄から頼まれた 溶鉱炉建設促進のためのポスターというのがあった。これは昭和17年中に溶鉱炉を作り上げないと、鉄の生産が予定通りに行かないというきびしい条件があり、労務者たちに「その国家的意義を知らせ、士気を鼓舞する」目的のもので、この場合は、時間的急迫をアピールする必要があり、そのための方法として 各種のポスターを10日ないし、20日おきに発行し、つまり「矢つぎ早や」に訴えて、緊迫感を盛り上げていこうとしたのである。(略)
このようなダイナミックな制作には、映画宣伝にキャリアのある栗田次郎、土方重巳、板橋義夫の存在は貴重であった。この人たちのイラストの確かさはいうまでもないが、レタリングも素晴らしかった。これも映画のタイトルで苦労しているからであろう。その書体の切れ味は、小気味が良いといった洗練があった。(山名文夫『体験的デザイン史』307頁)
昭和の“可愛い”が、「大溶鉱炉の突貫工事」と地続きだったとは!
昭和は「戦中」「戦後」とスパッと区切られているわけではなく、ピタゴラスイッチのようにつながっているのですね。
▽山名文夫と国策宣伝については、こちらをごらんください。
「バスに乗りおくれまい」
せっかくなので『土方重巳 造形の世界』(1978/造形社)も買ってみました。実直な回想がそのまま綴られていて、1978年の本ならではの生々しさを感じます。戦時中の国策宣伝にまつわる文章がこちら。
「報道技術研究会」(※「国家宣伝の高度化と総合化」を目指していたデザイナー・コピーライターなどの制作集団)の設立に参加したのは、丙種産業と格付けられて、国民徴用令というやつで、いつ軍需工場に徴用されるかわからない映画会社に不安と劣等感と焦りを持つようになっていたことと、文化映画のポスターを描いているうちに、スチール写真からではなく、ナマな働く人たちを描きたいと、しきりに思うようになったことからだと思う。
事実「報研」(※「報道技術研究会」のこと)にいる間に、**溶鉱炉**やそこで働く労働者をスケッチに行ったり、鉱山に入ってスケッチをしたりした。
しかし、今になって、なんと理由をつけようとも、いわゆる「バスに乗りおくれまい」という時局便乗の気もあった事は否定できない。(『土方重巳 造形の世界』17頁)
「**溶鉱炉**やそこで働く労働者をスケッチに行ったり」……「溶鉱炉」は、ここにも出てくるのですね。
▽『土方重巳 造形の世界』で、軍用兎のポスター*1が土方重巳の作と知りました。
引用元:昭和館デジタルアーカイブ
以上、「サトウのサトちゃん」と「溶鉱炉」の意外な関係でした。
今回参考にした『土方重巳 造形の世界』(1978)は、可愛いイラストが満載!しかもご本人による丁寧な解説がついているので、戦前・戦中・戦後の流れを感じることができます。おすすめです。
▽土方重巳と同様に、戦中・戦後と活躍したデザイナーとして大橋正がいます。こちらの投稿もぜひあわせてご覧ください。
*1:『土方重巳 造形の世界』ではモノクロの小さいサイズです
日比谷公園の「小音楽堂」を定点観測
昭和のテレビドラマを配信で見ていると、今は存在しない建物が当たりまえのようにうつっていて、びっくりすることがありませんか?
最近、私が気になっているのは日比谷公園の「小音楽堂」*1。昭和3年に建てられた、真っ白い音楽堂です。(1代目の音楽堂は、関東大震災で倒壊。現在は3代目)
▽たとえば、これは人気ドラマ『パパと呼ばないで』(1972-3/昭和47-8年)の第15回。この回の脚本は向田邦子。音楽堂が白く輝いていますね。右から杉田かおる・石立鉄男。
▽これは「雑居時代」(1973-4/昭和48-9年)23話から。右が大原麗子、左は竹下景子。美しい人達をより美しくみせていた小音楽堂。
日比谷公園で海軍葬
この白い「小音楽堂」は、昭和3年から昭和57年(1928-1982)まで*2存在していました。つまり、昭和の【戦前→戦中→戦後】を、じっと見つめてきた…ということになりますよね。
▽絵葉書に描かれた小音楽堂(引用元:都立中央図書館)
ためしに『パパと呼ばないで』から、30年ほどさかのぼってみましょう。『パパと呼ばないで』の30年前は昭和17年(1942)。 なんと日米開戦の翌年です。
昭和17年4月の日比谷公園では海軍葬が行われていました。そう、『パパと呼ばないで』の30年前、日比谷公園にはまったく別の世界が広がっていたのです。
▽小音楽堂は、海軍葬を見ていた。(ほかのページは 国立古文書館のデータアーカイブで読めます)
情報局「写真週報 217号」昭和17年4月22日
(情報局「写真週報 217号」昭和17年4月22日)
「軍神九柱の合同海軍葬」 4月8日 東京日比谷公園
昭和16年12月8日未明、ハワイ真珠湾を強襲し、米太平洋艦隊主力を覆滅して湾内深く沈み、再び還らない純忠無比の軍神九柱の合同海軍葬は、月こそ変われその命日にあたる4月8日、広瀬中佐の海軍葬以来 絶えて久しい森厳の盛儀をもって**日比谷公園葬場**で執り行われた
このように、昭和のテレビドラマはどんなに楽しそうに見えたとしても、戦争からの距離が近いのです。これをいつもアタマの片隅においておきたいと思います。(今年=2024年に当てはめてみてください。30年前は1994年、「古畑任三郎」の放送がはじまった年!)
▽【左】「パパと呼ばないで」と小音楽堂 【右】「軍神九柱の合同海軍葬」と小音楽堂
戦後のモーターショー
そして、敗戦*3。
ちなみに「軍神九柱の海軍葬」からわずか12年後の昭和29年(1954)に第1回「自動車ショウ」が日比谷公園で行われています。昭和の激動ぶりがすごい。
▽小音楽堂は、自動車ショウも見ていた。(左奥に小音楽堂がうつっています)
Webモーターマガジンより引用
この第1回「自動車ショウ」、ずいぶん華やかな印象ですが、やはりそこは敗戦国。東京モーターショーのサイトによれば、この年、出品車両267台のうち乗用車の展示は17台で、主役は建設車両、トラック、バス、三輪車、オートバイだったとか。
▽これはflickrで偶然見つけた第1回「自動車ショウ」(TOKYO MOTOR SHOW 1954)のカラー写真。撮影はアメリカ人か→Japan 1954 | Flickr
▽そして、上の写真と同じ人物が撮影した日比谷公園小音楽堂!「自動車ショウ」と同時期と思われます。
▽これも同じ人による撮影。小音楽堂の中でファッションショー(あるいはミスコン)をしている?小音楽堂のアーチが、サマになっています。
絵になる背景「小音楽堂」
時代は前後しますが、これは戦時中の『婦人画報』で見つけた小音楽堂です。「軍神九柱の合同海軍葬」と同じ年(昭和17)の誌面。この時期のファッションは、戦争中ゆえリメイク中心で地味になりがちでした。その地味さを補ってくれるオシャレな背景が、小音楽堂だったのかもしれません。詳しくはこちらをご覧ください。おリボンと大政翼賛会 - 佐藤いぬこのブログ
▽……と、こんな感じで日比谷公園「小音楽堂」の画像を集めていたところ、ありがたいことに南青山の老舗アンティークトイ店「ビリケン商会」*4の三原ミミ子さまから可愛い写真を見せていただきました!小音楽堂を中心にした構図といい、ミミ子さま(右)のベレー帽の傾き方といい、とてもステキです。(許可をいただいて掲載しています)
以上、日比谷公園の小音楽堂が見つめてきた昭和の光景でした。
今回は昭和を中心に紹介しましたが、私が愛読している『都市と緑』(1973 ・東京都公園協会)という本には、もっともっと昔、明治・大正の公園エピソードが詰まっています。日比谷の野音[やおん]は軍用馬の集散所だった…など。筆者は、明治から昭和にかけて緑化を推進した井下清(東京市の公園課長)。庶民と公園が出会った時代の熱い想いが綴られています。おすすめです。
私のブログには、戦中・戦後の定点観測シリーズがあります。あわせてごらんください。
▽有楽町・日劇の場合
▽銀座・松屋の場合
▽日比谷・宝塚劇場の場合
映画「関心領域」は、褪色したような明るい色彩(と叫び声)が印象的でしたね。
実は「関心領域」に似た明るい色彩が、 戦後間もない日本にもありました。駐留軍の家庭に…。
今回紹介するのは1950年前後の仙台とその周辺を撮影した、ある一家です。(※すべてもとからカラー写真。経年変化で暗くなってしまった写真などは、明るさを調整しています)
▽たとえばコチラ。「関心領域」っぽい色合いですが、看板は日本語。そう、ここは島国。https://www.flickr.com/photos/norb_faye_lang/3863003143
▽キャプションに[Kawauchi tract]とあります。Kawauchiは、現在の東北大学・川内キャンパス該当すると思われる。
▽ここのウチのお父さんお母さんのようです。
▽日本なのだな
▽戦勝国の少女がふつうの服を着ているだけで、輝いてしまうケース
▽海辺の子供たち
▽日本のメイドさんらしき女性と
▽上の写真の建物を引きで見るとこんな感じ。極東の仮住まい。
▽敗戦国の少女がこういう服を手にするのは、まだ先の話です。
▽敗戦国の服装事情はこちら
日本人がカラーで撮らない風景
『関心領域』の一家は 「庭」の中だけで完結していたけれども、このお宅は外の写真を大量に撮っています。
▽日本人がカラーで撮らない風景 1950年仙台
▽前から見たところ。背景の「R.T.O 」の看板は、進駐軍の鉄道輸送事務所(Railway Transportation Office)
https://www.flickr.com/photos/norb_faye_lang/3863739972
▽海水浴の帰りらしい。本国と同じノリで薄着になってる?周囲の日本人はびっくりしたことでしょう。
▽日本のフィフティーズには、土管あり
▽高齢と思われる女性が、キツい労働をしています。うしろの人は裸足。
▽お弁当を食べている女性たち。重労働のあとの休憩でしょうか。敗戦から5年。それぞれ辛い事情がありそうです。https://www.flickr.com/photos/norb_faye_lang/3863012147/
▽可愛い形に見えるけれど、木炭バスhttps://www.flickr.com/photos/norb_faye_lang/3863774902
▽布団がずらり。
▽チョコザップが成立しない時代
▽民家の庭先に「 Camp Younghans」。「 Camp Younghans」は現在の自衛隊・神町(じんまち)駐屯地[山形県]。
▽標識に【仙台・東京・黒磯・宇都宮】。敗戦後は各地に横文字の標識が立てられましたが、(例:銀座の場合)、これは字がふわっとしている。ここの店の人が見よう見まねで作ったものかもしれません。
https://www.flickr.com/photos/norb_faye_lang/3862966979
▽仙台の七夕
▽この撮影者は日本だけでなく、朝鮮戦争がはじまる前のソウルも大量に撮影しています。
以上、「関心領域」みたいな色彩の日本(1950年・仙台)でした。その他、日本の“フィフティーズ”については、こちらもあわせてご覧ください。
▽立川基地の周辺
▽朝霞の周辺
「笑いで健康づくり推進条例」のニュースが流れてきましたね。このニュースで思い出したのが、昭和初期に発行された「笑い」をテーマにした雑誌付録です。
今、私の手もとにあるのは、昭和8年・新潮社の『笑いの日本』と、昭和11年・講談社の『トテモ愉快な絵読本』。どちらも人気マンガ家や著名人をぜいたくに起用しています。
「うっとうしい国難」を笑いとばそう
しかしこれらの雑誌付録は、表紙から連想されるような“古きよき時代のノンビリした笑い”という雰囲気じゃないんですよ。「笑い」の陰に焦りみたいなものがただよっている。
▽表紙は福々しいけれど…
『笑ひの日本』(新潮社「日の出」昭和8年8月号付録)
今回は、昭和8年8月の『笑ひの日本』(新潮社)をメインに紹介しましょう。ちなみにこの年の3月、日本は国際連盟の脱退を通告しています。
▽「笑へ!大いに笑へ!」と、圧の強い前書き。
笑へ!大いに笑へ!今の日本に1番必要なものは、朗らかな笑ひだ。**うっとうしい国難**も、不景気も、健全な笑ひによってのみ、打開されるのだ、一掃されるのだ
『笑ひの日本』(新潮社「日の出」昭和8年8月号付録)
▽【資源の山】=【満洲】があるから、笑えるよね?という理屈。「自力更生のヘコ帯しめて」という響きもなんだかイヤ。
『笑ひの日本』(新潮社「日の出」昭和8年8月号付録)
▽昭和8年『笑ひの日本』には、ヒトラーの焚書ネタもある。くず屋と交渉するヒトラーです。なんとなく戦後の漫画のように見えるけれど、左下に1933年(昭和8)のサイン。
昭和8年8月 新潮社「日の出」付録 「笑ひの日本」
▽昭和11年『トテモ愉快な絵読本』より、戦死した息子に手をあわせる老父。繰り返しますが、冊子のタイトルは『トテモ愉快な絵読本』です。
『トテモ愉快な絵読本』大日本雄弁会講談社「富士」昭和11年新年号月号附録
敗戦と笑い
「うっとうしい国難」は「笑い」のパワーで突破できるはずだったけれど、結局できませんでしたね。
余談ですが、これは敗戦の翌年に出た「初笑い いろはかるた」(アサヒグラフ)です。またしても無理な「笑い」を提案している。原爆カルタで、一体どう笑えと?
『アサヒグラフ』(昭和21・1・5 朝日新聞社)から「初笑い新版いろはかるた」
▽同じく「初笑い いろはかるた」から「良薬は口に苦し B29」。大空襲が「良薬」とは…。
『アサヒグラフ』(昭和21・1・5 朝日新聞社)から「初笑い新版いろはかるた」
▽今回は昭和8年の冊子を主に紹介しましたが、昭和11年の「笑い」はこちらをご覧ください。「笑い」と「死」が混ざってます。焼け野原になるまであと9年。
▽「うっとうしい国難」の時代にデビューしたのが、昭和のユーモア作家・獅子文六です。
1965年(昭和40)の『ミセス』で、不思議な特集を見かけました。ゴージャスな美女たちが、微妙な横座りしているのです。
タイトルは「すわるのが好きなミセス」。、スカートの裾が広めの服を紹介しています。
若いころはすわるのが苦手でしたが、近頃は腰かけるよりすわったほうが楽だし、くつろげるのでどこにもすわりこんでしまうようになりました。そのしぐさ女らしくて、かわいいとかでハズもわたくしのすわり好きをいやがらないのよいことに、家庭は全部すわってらくな形にしてしまいました。
…ちょっと何をいっているのかわからない文です。ひらがなが多すぎるし、「すわる」の定義がナゾ。「若いころはすわるのが苦手でしたが、近頃は腰かけるよりすわったほうが楽」とは一体?
つまり椅子に「腰かける」より、床(?)に「すわる」方が楽ということでしょうか。今の感覚だと、[年齢とともにヒザに問題が出て、イスに腰かけた方が楽]ということになりそうですが。
あと、「ハズ(夫のこと?)も、わたくしのすわり好きをいやがらない」という言いまわしも変な感じです。
『ミセス』 1965年2月号
そのほか、このような文章も。
日当たりのよいテラスでこんな格好していると年寄りみたいだとひやかされますが、夕方までに片見頃を編むつもりなので、腰をすえてしまいました。腰まわりも楽なように、プリーツはウェストから縫いはなします。
「年寄りみたいだとひやかされます」…この横座りは若い子がするものではないという認識なのですね。
しかし、なぜ椅子の上に中途半端にすわる?若くない人がこんな風にすわったら、腰痛になりそうです!
このすわり方は、何らかの折衷案なのでしょうか。
本当は座布団を使ってがっつり正座したいところを、それじゃあんまり「年寄りみたい」なので、椅子の上にチョコンとすわるポーズが採用されたとか?あくまでも雑誌用に盛った写真なので、現実はどうだったのかわからないけれど。
1965年の『ミセス』の読者を仮に40歳とすると、彼女たちは敗戦時に20歳。戦中〜戦後のバタバタの中、読者層がどういう生活を送ってきたのか気になります。
▽左の写真、ソファからずり落ちそう!(モデルは ファッションデザイナーの稲葉賀恵)
『ミセス』読者の親世代?
今回の『ミセス』で思い出したのがこちらの写真です。「昭和七年から九年撮影。百貨店の食堂で」。イスの上で正座する人たち。西暦だと1932〜1934年なので、『ミセス』記事の30年前。ミセス読者の母親世代といえそう。親から娘へ、すわり方がなんとなく受け継がれているのでしょうか。
▽また、これは戦時中(昭和18年・1943)の靖国神社「九段の母」。戦死者の遺族が固そうな場所にギッシリ正座しています。トイレに行きたい人はどうすれば…?などと心配になりますが、もしかすると、逆に椅子に腰かけるほうがキツい世代なのかもしれません。
▽これは1976年の『暮しの手帖』から、明治村を見物しているうちに疲れてしまった男性。きちんとクツを脱いでいます。彼らだって若い頃は、モダン都市で一生懸命、洋風に暮らしていたのかもしれませんね。
以上、謎の多い1965年の『ミセス』記事でした。
戦後はライフスタイルが大きく変わりましたが、「すわる」方法を含めて、いきなり西洋風にはなれませんよね。きっと映画やドラマには描かれることのない、さまざまな折衷案があったことでしょう。今後、何か折衷案を見つけたら取り上げたいと思います。乞うご期待。
マガジンハウスは、アンアンやブルータスでお馴染みの出版社ですが、創業時どんな感じだったかご存知でしょうか。
なんと敗戦の年末には、もう「平凡」の創刊号を出しているのです。紙も何もかも不足している時代に、すばやい動きですね。
▽右上の白っぽい表紙が創刊号です。敗戦直後とは思えない可愛いらしさ。
『大橋正展 暮らしを彩ったグラフィックデザイナーの60年』図録
「平凡」創刊時の可愛い表紙を手がけていたのは、山名文夫と、大橋正です。*1。
雑誌の題字は、山名文夫。資生堂の美女イラストで知られる、あの山名文夫です。
そしてイラストは大橋正。大橋正による広告の例をあげてみましょう。明治チョコレート・1955は凄まじい愛らしさです。
『大橋正展 暮らしを彩ったグラフィックデザイナーの60年』図録
デザイナーと国策宣伝
「平凡」の表紙をかざった山名文夫と大橋正は、“戦後になって、はじめて出会った”というわけではありません。
実は2人とも、敗戦の直前まで国策宣伝のための集団「報道技術研究会」で働いていたのです。(戦争中のデザイナー、コピーライターなどは広告の仕事がなくなったため、こぞって国策宣伝に活路を見出していました)
40代の山名文夫は「報道技術研究会」の委員長。
20代の大橋正は「報道技術研究会」に憧れて入った青年でした。
▽報道技術研究会についてはこちらをご覧ください。
そんな大橋正が戦時中に手がけたポスターがこちら。「平凡」創刊号の可愛いイラストとはすいぶん様子が違いますよね。
『大橋正展 暮らしを彩ったグラフィックデザイナーの60年』図録
特攻隊の展示
大橋正が書いた「憧れの報研」*2という文章には、上司である山名文夫も登場するので、引用してみます。※「報研」は報道技術研究会の略。
また、“神風特攻隊”の写真で構成した移動展の仕事もした。活字を組む段階で、依頼していた有楽町の活版屋が空襲で目茶苦茶になって、活字組ができず山名さんに筆書きでコピーを入れていただいた。
その頃、山名さんといえば、朝出勤すると、どこで手に入れたのか、大きなタバコの葉を小刀でコツコツ丁寧に刻んで、パイプに詰めて嬉しそうに一服されている顔を今でも思い出す。
意外なようですが、大橋正と山名文夫は、戦争末期、神風特攻隊の展示も手がけていたのです。
よく私たちは「季節の変わり目には、ついていけないよ!」などと文句を言っているけれど、【特攻隊の展示】→【「平凡」の創刊】という、時代の急変ぶりときたら!
当時の人たちはよく切り替えられたなあと思います。(もちろん、時代の波に乗れずに病んだ人も大勢いたはずですが。*3)
大政翼賛会からの身分証明書
20代の大橋正には当然「赤紙」がきていました。ところが「国策宣伝の技術者」ということで入隊後すぐに帰されています。
昭和19年4月に私にも赤紙が来る。たしか飯倉の事務所で私の歓送会をしていただいたのを覚えている。その時、新井さんから情報局と大政翼賛会からの身分証明書(私が国家宣伝の技術者であり、国際宣伝に協力しているというようなことが書いてあった) を何かの役に立つかもわからないからと手渡された。何かの役に立つどころか、この2枚の紙切れが私の生死の分かれ目になったのである。」(『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』/「憧れの報研(大橋正)」)95ページ
大橋正入るはずだった部隊は沖縄で全滅したとか。もし入隊したままだったら「平凡」創刊号の表紙は誰かほかの人(戦死を免れた画家)が担当したのでしょうね。
【参考】昭和19〜20年にかけての「報道技術研究会」お仕事一覧。大政翼賛会、陸軍省報道部、川崎製鉄、日本鋼管、大日本飛行協会、情報局、大日本婦人会などの「宣伝物」を作成していました。赤い線は、特攻隊の展示@銀座松屋。
『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(山名文夫・今泉武治・新井静一郎編/1978年/ダヴィッド社に加筆
今回の「平凡」の表紙に限らず、いわゆる[レトロ可愛い]イメージの作り手たちは、戦時中からすでに“活躍”していたケースが多そうです。(たとえば「サトウのサトちゃん」のゾウを作った土方重巳も、戦時中は同じく「報道技術研究会」で国策宣伝にたずさわっていました*4)
そりゃそうですよね。戦争が終わったからといって、[可愛い]を作れる若者がどんどん湧いてくるはずがないのですから。
▽国策宣伝のための集団「報道技術研究会」についてはこちらもご覧ください
開発前の「二子玉川」
「二子玉川」といえば、楽天本社や「蔦屋家電」がある華やいだ場所といったイメージですよね。
しかし先日、1964年の刑事ドラマ*1を見ていて驚きました。殺人現場は二子玉川の河原なのですが、ナレーションは荒涼とした東京の果てであることを強調するし、二子玉川の地元民(役の俳優)達も、刑事の聞き込みに
- 「昔からパッとしない土地」
- 「ふきっさらし」
- 「渋谷や自由が丘まですぐ行けるから、ここは栄えようがない」
などと冷たく答えている。しかも河原で殺された被害者は「川向こうの芸者」(二子新地のミズテン芸者)*2という設定だったりします。
▽刑事たちが聞き込みをする「川向こう」=二子新地の花街
特別機動捜査隊 第118話『ながれ』(1964)
玉川高島屋の開業と、少女たち
ところがこのドラマから数年後、なんと国内初の郊外型ショッピングセンター「玉川髙島屋S・C」が、きらびやかに開業しているのです。
引用元:https://smtrc.jp/town-archives/city/sangenjaya/p09.html
以前「玉川髙島屋S・C」の開業50周年イベント(2019)があったので、私も行ってみたんですよ。開業当時(1969)の昭和デラックスな写真が興味深いイベントでしたが、まさか刑事ドラマで二子玉川が「パッとしない」とか言われている状態から、5年後に髙島屋がオープンしていたとは知らなかった!
▽開業時の写真で気になったのは、妙に本場っぽい女の子達です。
1969年、玉川髙島屋の開業にあたりミニスカートでずらりと並んだ彼女たち。
一体どうやって集めたのでしょう。
私は「周辺の米軍基地由来の学生では?」と想像しています。
「郊外型ショッピングセンター」をアメリカ風に演出するため、彼女達が集められたんじゃないか…と。
▽たとえば、これは1961年の立川基地。極東の島国で、本国を再現しています。[1961 TAB football queen]※「TAB」は「Tachikawa Air Base」(立川基地)の略。
▽1960〜70年代、東京周辺の米軍関連施設。立川、所沢、大和(東大和市)、横田、府中、関東村(調布)、厚木、所沢、ワシントンハイツなど
開高健が東京オリンピック前後を記録した『ずばり東京』というエッセイにも、晴海モーターショー(1963)でアルバイトする「アメリカの女子学生」が出ていましたっけ。
アメリカの女子学生がアルバイトでファッション・ガールとなり、ソバカスだらけの狆(ちん)くしゃ顔でしなをつくって澄ましていた。楽隊が入って、何やらにぎにぎしく、景気をつけている。
「晴海モーターショー」の晴海も二子玉川に負けないくらい、“ふきっさらし”の土地です(私は晴海生まれ)。こうしたイベントを「にぎにぎしく」するためには、戦勝国の女子学生がまとっているオーラが必要だったのかもしれません。
飢えの記憶と1960年代
実は、開高健が書いた晴海モーターショー(1963)も、玉川高島屋のオープン(1969)も、敗戦から四半世紀たっていない。
日本の1960年代は、どんなに豊かそうに見えても、焼け野原からの距離がすごく近いのです。「アメリカの女子学生」に限らず、とにかく飢えの記憶を上書きしてくれる華やかな存在(映画スターや音楽、雑誌、広告、建物)が、重宝される時代だったような気がします。
▽飢えの記憶の例。敗戦の年(1945)の「買出し列車 」です。先頭部分にも乗るんだ…。
図録『影山光洋写真展』2003・立命館大学国際平和ミュージアム
▽飢えの記憶の例その2。雑誌「装苑」1950年4月号よりアメリカン・スクールの服装特集です。憧れぶりが切ない。同じ号に、日本のファッションリーダーの座談会が載っているけれど、話題がファッション以前に“純綿欲しい!”なのもツラい。(「今までとても窮屈で、純綿のものなんかどこを探してもなかった。ヤミで買えばありますが、なかなかそれもできません」)
▽以下参考までに、ネットにあがっていた1960年代末の立川基地周辺を貼りますね。すべてもとからカラーです。flickrで「ヤマトハイスクール1968-69 Yamato Air Station ~ Tachikawa Air Base」というフォルダに入っている写真
[1967Cheerleaders] 後ろに見える「YHS」は「ヤマトハイスクール」思われます。
flickrで「ヤマトハイスクール1968-69 Yamato Air Station ~ Tachikawa Air Base」というフォルダに入っている写真
以上、開発前の二子玉川の紹介でした(いろいろ話が飛んでしまいましたが)。関連ブログもぜひあわせてごらんください。