台湾近代化のポラリス 台湾銀行 (original) (raw)

明治32年((1899年)5月の事であった。

大倉組を退職した賀田金三郎は、台北市書院街一丁目二番戸に賀田組を起業した。間口六間の二階建ての建物で、台湾人仕様の建物であった。後に、洋館に建て替えられた。

事業内容は賀田が台湾に来た時から着眼していた、金融業、製糖業、運送業、物品販売、御用達、そして、当時、大倉組がやっていなかった建築業をまず手掛ける事とした。金三郎が土木請負に手を出さなかったのは、土木は大倉組の事業であるからで、これは、大倉組、すなわち、大倉喜八郎への敬意を表したのもでもあった。

社長には、賀田金三郎、副社長には、賀田富次郎(金三郎の実弟)が就任し、本店・台北、営業所は、台南、台中、基隆、宜蘭に設けた。台北本店の販売主任は藤井小次郎氏、建築主任は山下秀三郎氏、会計主任は篠崎儀三郎氏で、従業員数は15~16名であった。また、台南支店には、綿貫英逸氏、台中支店には門田健吉氏、基隆支店には安藤某氏、宜蘭支店には二宮卯一氏が各主任に着任した。

この日は賀田組設立の報告と挨拶のため、賀田は台湾総督府に出向いていた。向かったのは後藤新平民政長官の執務室である。明治31年6月20日の新官制により民政局長改め民政長官となった後藤は、執務室で賀田が来るのを待ちわびていた。後藤が賀田を待ちわびているのには理由があった。

賀田が執務室に入るや否や「賀田君、待っていたよ。」と言い賀田を執務室中央に置かれたソファーに座るように促した。賀田はまず、賀田組設立の報告を後藤に告げ、今後とも長いお付き合いをと丁寧に頭を下げた。すると後藤は、「賀田君、頭を上げてくれ。今日は、私が君に頭を下げなければならないのだよ。」と言い、席を立った。それまでは賀田の真正面に座っていた後藤だが、席を賀田の横に置いているソファーに席を変えた。丁度、賀田の右斜め前に位置し、最も賀田と近い位置となる。

賀田は少し驚いた様子で「閣下、どうなされたのですか。」と後藤を見た。賀田の大きな目が、より大きく、そして、やや鋭い目になっていた。

後藤は眉間にシワを寄せながら「賀田君も知っての通り、明治30年(1897年)4月1日に「台湾銀行法」が公布された。「台湾銀行法」の制定理由にある設立趣意書には、『台湾銀行は台湾の金融機関として商工業並びに公共事業に資金を融通し台湾の富源を開発し経済上の発達を計り、尚進みて営業の範囲を南清地方南洋諸島に拡張し是等諸国の商業貿易の機関となり金融を調和するを以って目的とす。』とある。

しかし、「台湾銀行法」の制定後、台湾を金本位制にするか銀本位制にするかで大いにもめた。結局、銀を金と計算させて、刻印付き円銀を流通させることで決着したのでが、この議論のために銀行設立自体が大幅に予定より遅れてしまった。「台湾銀行法」が施行されて既に2年も経過してしまった。

今年の3月に、「台湾事業公債法」が制定され、土地調査事業や鉄道建設、港湾設備に必要な費用3,500万を公債で調達し、その公債消化に専売事業収入を充当することが決定され、台湾銀行に公債発行の地位が与えられた。そのため、より設立が急がれているのだが、ここでまた、大きな問題が発生し、もうどうすれば良いか頭を痛めているのだよ。」と後藤は天を仰いだ。

賀田は後藤に対し「閣下、失礼ではございますが、もしかすると、発起人、株主が集まらないのでは・・・?」と部屋の外に聞こえない様に声のトーンを落として尋ねた。後藤は「どうしてわかった?」と驚いた顔で賀田を見た。賀田は「台湾銀行設立に関しては巷では様々な噂が流れております。」と言うと「その様な噂が流れているのかね。」と後藤が尋ねると「はい。決して良い噂とは言えません。実業家達の間では、台湾は統治したばかりの場所で、今後、どうなるかわからない。化外の地と言われている台湾の銀行に投資するものだど誰もいないと言われています。」賀田がここまで話すと後藤の顔はみるみる真っ赤になり、ソファーの袖を力強く握った。

そして後藤は「日本政府は、今年の3月2日に、「台湾銀行補助法」(明治32年法律第35号)を制定し、同銀行資本金500万円のうち100万円を引受け、また創立当初より5年間は政府引受株式に対する配当金は欠損補填準備金に組み入れるべく、政府はその引受株式を売却せず、また政府は金200万円に相当する銀貨無利子にて5年間貸与するものとまで定めたにも関わらず、未だにその様な事を申すものがいるのか。」と唇をかんだ。

賀田は後藤が憤慨していることを感じながら話を続けた。「しかし、閣下。台湾銀行設立はこの台湾を内地よりも栄えた場所にするためにも、必要不可欠なものです。発起人、株主を集める件、この賀田にお任せいただけますでしょうか。」と言った。後藤は正直なところ内心、賀田金三郎ならば何か良き知恵を持っているのではないかと期待していたが、まさか、自分に任せろとまで言い切りとは予想していなかっただけに、驚きを隠せなかった。

執務室を出た賀田は事務所に戻り、東京行きの船を手配し、東京へと向かった。

賀田は最初に大倉喜八郎と面会した。大倉組を退職した賀田であったが、大倉との関係はすこぶる良好で、大倉も賀田の今後の台湾での活躍を信じ、期待もしていた。賀田は台湾銀行の必要性、化外の地であった台湾が、後藤新平によって近代化への道を辿っている事、そして、台湾銀行が出来る事で、台湾経済が一気に勢いづく事などを話し、大倉の説得をした。大倉は「賀田君、君がそこまで言うのならば君を信じて発起人になろう。投資もしよう。」と承諾した。そして、大倉喜八郎の名で紹介状を書いてもらい、賀田は、その後も数多くの財界人の元を訪ね、説得にあたった。

その結果、以下のメンバーが台湾銀行創立委員として明治32年6月30日に内閣総理大臣山縣有明に報告された。

委員長は後藤新平。その他に、内務書記官 森田茂吉、公使館二等書記官 楢原陳政、水野遵、渋沢栄一添田壽一、原六郎、高橋是清大倉喜八郎、柳生一義、安田善次郎、下阪藤太郎、池田謙三、濱岡光哲、西村真太郎、大谷嘉兵衛、木原忠兵衛、松尾寛三、佐藤里治、土岐黄[正確には、亻+黄]。

創立委員に賀田も加わるように後藤は勧めたが賀田は「私は独立したばかりの若輩者でございます。その様な者が名を連ねるなど、滅相もございません。」と固辞した。

そして、賀田の説得により台湾銀行の株主となった主要人物としては、

大倉喜八郎貝塚卯兵衛、賀田金三郎、賀田富次郎、辜顯栄、陳啓、原亮三郎、三十四銀行住友吉左衛門添田壽一、浅野総一郎、田邊貞吉、藤田傳三郎、田中銀之助、田中平八、大谷嘉兵衛、高知銀行、西村真太郎、渋沢栄一 などがいた。

明治32年7月5日に創立総会が東京で開催され、理事候補と監査役が選任され、翌6日に任命があった。

頭取に添田壽一、副頭取に柳生一義、理事として土岐[亻+黄]、川崎寛美、辰野宗義、下阪藤太郎、監査役として大倉喜八郎、大谷嘉兵衛、西村真太郎という面々であった。

ここでも賀田は大株主であるにも関わらず、自分の様なものが出る幕ではないと固辞した。

8月1日より行員採用が開始され、8月16日に、土岐、川崎の両理事は本店準備のため先発隊として台湾へ渡った。また同日、下阪理事は神戸支店開業準備のため神戸へ向かった。添田頭取は8月22日に、柳生副頭取と辰野理事は残務整理をして9月16日に台湾へ向けて出発した。

そして9月26日、台湾銀行本店が営業を開始した。開業式典には児玉源太郎総督、後藤新平民政長官も出席、賀田金三郎も筆頭株主として参加した。

台湾銀行は9月29日より銀行券を発行し、10月1日に日本銀行台北出張所より台湾における国庫事務の引継ぎを完了した。

尚、日本銀行台北出張所に勤務していた助役補1名と書記以下96名を採用し、10月2日より神戸、台南両支店と台中、嘉義、宜蘭、鳳山、新竹、澎湖島、滬尾の7か所の出張所を開業した。
さらに、12月1日に基隆出張所を、翌年の明治33年5月1日には厦門支店を開業。同年9月1日に嘉義及び鳳山出張所を統合し、打狗出張所とした。

明治36年4月10日には香港に支店を、翌年明治37年7月1日には、基隆出張所を基隆支店に格上げし、同日、滬尾出張所を淡水出張所に改名した。その後も、清国福州に出張所を(明治38年7月1日)、大阪にも支店を(明治39年7月1日)開業と、台湾銀行発券銀行であり、外国為替専門銀行で、しかも実業銀行であり、商業銀行として成長を続けた。

台湾銀行は、台湾の産業資金を融資し、その豊富な資源を使って、南中国、南洋との貿易金融をもつかさどっていた。 具体的業務としては

為替手形その他商業手形の割引

為替および荷為替

平常取引する会社および商人のため手形金の取立

確実な担保のある貸付

預り金および当座貸付

金銀貨・貴金属および証券の保護預り

地金銀の売買および貨幣の交換

保付社債にかんする信託業務

他銀行の業務代理

国債・地方債・株式の募集、その払込金の受入またはその元利金もしくは配当金の支払の取扱

国債・地方債・各債券および主務大臣の認可を受けた有価証券の応募引受買入

などであった。 台湾最大の商業銀行であり、大正15年(1926年)度における台湾銀行資本額は、全台湾の銀行の総資本額の45パーセントを占めるまでに成長した。当時の台湾商工銀行、華南銀行、彰化銀行、台湾貯蓄銀行4銀行の資金を支配し、直接間接に糖業、茶葉、樟脳、タバコ、塩業などの産業を支配した。

また、当時、日本の外国為替の取扱高は、第 1位が横浜正金銀行、2 第 2 位が台湾銀行であった。この2行がずば抜けて多かった。台湾銀行横浜正金銀行に次いで、世界で支店が多い銀行であった。

明治33年3月24日、後藤新平大倉喜八郎の強い勧めもあり、賀田金三郎は台湾銀行監査役に就任した。その後、理事、監査役は幾度となく入れ替わりがあったが、賀田は亡くなるまで監査役の任を全うした。それは、賀田が誰よりも後藤新平の志、願いを理解していたからであろう。

台湾銀行の船出を見届けた後藤は、開業式典の後、賀田を執務室に呼び、二人だけで改めて祝杯を挙げた。そして賀田の手を握り「賀田君、君に相談して良かった。やはり君は私が思っていた通り、いや、それ以上の男だった。本当にありがとう。」と言って、そっと涙を拭った。

開業当時の台湾銀行ウィキペディアより)

台湾銀行創立委員(国立国会図書館

【参考文献】

台湾銀行十年志 台湾銀行 国立国会図書館

播磨憲治 台湾の近代化に貢献した人物 賀田金三郎