台湾近代化のポラリス 台湾協賛会の設立と第五回内国勧業博覧会を振り返って (original) (raw)

第五回内国勧業博覧会への台湾としての参加が決まり、台湾総督府、台湾協会はその成功を目指して日々、努力を重ねていた。しかし、後藤新平が最も頭を痛めていたのが肝心の台湾漢人達の無関心さであった。

その様な状況の中、賀田金三郎が中心となり、1902(明治35 )年10 月 に内台人有志によって設立され、台湾協会大阪支部の補助も受け「台湾協賛会」を設立した。

台湾協賛会は、「第五回勧業博覧会は、新領土の真相をあまねく中外に紹介すべき絶好の機会なり。しかし、本島風気未だ開かず、産業未だ進まず、一般島民未だ博覧会の何物たるかを知らざる者が多し」とし、この問題を解決すべく、出品支援や経費補助、観覧者の勧誘や宿泊、見学施設の斡旋、渡航費、観覧費、宿泊費の勇退割引、台湾語案内所の作成と配布、さらには娯楽施設の設置までをも事業内容に盛り込んだ。

この台湾協賛会の理事が、賀田金三郎、新井泰治、陳瑞星であった。評議員として日本人25名、台湾人20名も加入していた。

「何とか無事に博覧会が終わったな。」と言い、ソファーに腰を掛けた後藤新平民政長官。その向かいには、賀田金三郎が座っていた。

「閣下、世間では博覧会について色々と論じる者がいるようですが、私は、今回の博覧会参加は成功であったと思っております。」と賀田が言うと、「賀田君、世間の評価はなかなか厳しいものがあるのは私も知っている。

漢族人口が約270万人。その内の約500人が博覧会を観覧した。さらに、台湾の学生団体が643人観覧した。この数字を多いとみるか、少ないとみるかは意見が分かれるところだろう。

私としては、第五回勧業博での台湾人観覧客への台湾協会の手厚い接客待遇が、日台間の偏見を和らげ、それが後に台湾漢族の内地留学を後押ししたと考えている。総督府や台湾協会としては、内地観光事業を基本的に「成功」と捉えている。

特に、台湾の学生団体の観覧。これは非常に大きな意味を持つ。実際、台湾協会からは、この博覧会が台湾漢族に「師弟教育の緊要」を理解させたと述べており、現在台湾人の内地留学に対する問い合わせが多数にのぼっていると報告が入っている。

しかしながら、動員数500 人という結果を「失敗」と捉える評価も存在する。

『僅々五百人の観覧者ありたりとて何の益する所かある』という厳しい批判もある。この新聞を見たかね。」と後藤は賀田に、明治36年3月15日付の台湾日日新報を見せた。そこには、「今回の博覧会で『最も遺憾とする所』として、台湾漢族が博覧会に「冷淡」であること、博覧会見学に出かけようとする人が極めて少なかった。」と書かれてあった。

後藤は「確かに、台湾漢族の博覧会に対する関心度は低かったかもしれない。

明治35 年6 月10 日付の台湾日日新報でも、『本日締切りの出品販売申込に対して、台湾漢族で申請したのはいまだ台湾茶商公会だけである』などと書かれてしまったからね。

ただ、台湾漢族の観覧者約500 名のほとんどが、中流以上の名望資産を有する者であったことは、今後、必ず大きな成果を生み出すと私は確証している。

私は博覧会開幕後に台湾日日新報の取材に対して、台湾館出展事業よりも内地観光事業を重視すると答えた。その理由として挙げたのが、今回台湾が出品した目的は、そもそも日本の出品物に勝つことではなく、逆に徹底的に打ちのめされることで、台湾の農工業者をさらなる発展に導く「最初の動機」を与えることにあった。

この事は、明治36 年3 月1 日付の『台湾日日新報』でも、報じられており、

『この観点から、博覧会見学は「本島人民の頭脳を啓発する」うえで「殊に捷径有効」と評価し、「本島人民を鼓舞誘導して参観の途に上らしむことを強制するも誰か其」の非を咎めん』と書かれてある。」と後藤が言うと賀田は、「台湾漢族に後れを自覚させ、殖産興業に奮起させるという大きな目的が閣下にはおありだったと認識しております。協賛会に対しても、割引券を「好餌」に会員募集を行なっているなどと言われ、汽船・鉄道会社は大層迷惑だろうと鄭楡されたこともございます。しかしながら、汽車券1246 枚、汽船券2368 枚は決して無駄であったとは思っておりません。必ずしや、今回の様々な対策は後に花咲くことになると信じております。」と大きな目をさらに大きくしながら賀田は自信満々に後藤に対して返答した。

実際、第五回勧業博から2 年後の1905 (明治38 )年5月、台中・台南地方の視察のため来台した台湾協会幹事の門田正経は、第五回勧業博における内地観光の体験が台湾漢族による事業の勃興を促がしていると報告し、同協会の事業範囲を台湾だけではなく他の植民地にも拡大すべきだと提唱した118)。その後、1906 (明治39 )年末の臨時総会において、台湾協会は翌年から「東洋協会」と改称し、その事業範囲を「東洋」、つまり「台湾韓国及満洲」にまで拡大することを決定した。

何事も初めての挑戦、前例のない挑戦というものは、「成功」「失敗」という二者択一で答えが出るものではない。

後藤新平も賀田金三郎もその事はよくわかっており、如何に未来へ繋がるかと言う視点で考えていたのである。ある意味、凡人よりも常も先を見て物事を進めていく非凡さが二人にはあったと言えるのではないだろうか。

後藤新平

賀田金三郎

【参考文献】

台日報 『総選挙と博覧会』明治36 年3 月1 日

台湾日日新報 『更に本嶋人の博覧会観覧を奨励すべし』明治36 年3 月15 日

台日報 『有耶無耶』明治36 年4 月26 日

台日報 『本島人の博覧会観』明治36 年4 月30日

台日報 『第五回博覧会準備』明治36 年2 月16 日

台日報 『博覧会出品費』明治35 年3 月16 日

台日報 『博覧会出品準備と街庄長召集』明治35 年4 月9 日

台日報 『博覧会販売店と本島人』明治35 年6 月10日

協会報 『台湾女子教育の趨勢』60 号

大阪市商工課 『第五回内国勧業博覧会報告書』1904年

後藤新平 『東洋協会の過去と将来』 東洋時報103号 1907年

協会報 『第五次総会』58 号:46 頁

協会報 『本会第七次総会』81号

協会報 『第八次総会』93 号

台日報 『更に本嶋人の博覧会観覧を奨励すべし』明治36 年3 月15 日

台日報 『協賛会割引券の発行高』明治36 年2 月22日

台日報 『台北通信(2 月22 日)』明治36 年2 月22日

協会報 『台湾支部総会に於ける門田』80 号、100号